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エピソード2:父親を待つ男の場合
向き合う①
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「だけどまぁ。親父と離れてみて、やっぱり勇気出して色々ぶつかってみようかと思ったんですよ」
「それで待ち合わせを」
「はい」
「なるほど」
とは言うものの、会社を辞めて転職したことを言うのはやはり緊張する。
俺はそれをなんとか押し流すように目の前の温くなったビールを呷った。
この年になってまで親父が怒鳴るのが怖いなど、大の大人としては情けない限りではあるが、やはり三つ子の魂百までというか、怒鳴られるのは嫌だし、失望して男泣きする姿も見たくはない。
カランカラン
ドアベルの音でそちらを振り向けば、そこから入って来たのは一人の初老の男性だ。
淡いレモンイエローのYシャツに、麻でできた薄ベージュのジャケットを羽織っている。
背筋をピンと伸ばして颯爽と歩いて来た。
彼の性格を表しているように年よりもピシっとした印象を与える。
「親父…」
「久しぶりだな」
親父はゆっくりと俺の隣に座った。
そのタイミングでマスターが親父に声を掛けてきた。
「何がよろしいですか?コーヒーでもお酒でも、貴方の望むものをご提供できますよ」
「じゃあ…」
親父が頼んだのは、コンビニでも買える銘柄の日本酒だった。
ワンカップで売っているのをよく目にする。
「かしこまりました」
マスターはゆっくりと頷き、すぐに親父の前にガラスで作られた徳利とお猪口を置いた。
中に入っている冷酒が更に冷えて見え、美味しそうに見える。
さすが洒落たカフェバーだ。
「またその安酒かよ。折角なんだからいい酒頼めよ」
「これでいい」
親父はそれだけ言って徳利に手を伸ばそうとしたので、俺はその前にお猪口に日本酒を注いでやった。
「すまん」
「乾杯」
「乾杯」
俺は半分以下になってしまったグラスをお猪口に当てた。
そして親父はぐいっと一気に日本酒を呷り、ふうと息を付いた。
「こうやって飲むのは久しぶりだな」
「そうだね。最後に飲んだのは親父が病気になる前だし」
最後に酒を飲んだのは仕事を辞めたいといって激怒された時だ。
あの後、親父は病気に倒れ、結局一緒に酒が飲めなくなってしまった。
今度は親父が自分でお猪口に酒を注いだのを見ながら、俺はどう切り出そうかとタイミングを見計らっていた。
「どうぞ」
ことりと俺の前にマスターが新しいビールを置いた。
今度は冷えているビールを口に含み、ごくりと飲み下す。
息を一つ整えるように吐いて、俺はビールグラスを睨むように見て言った。
「親父、話があって今日ここに来たんだ」
「なんだ?」
「実は…俺、会社辞めたんだ」
しばしの沈黙。
隣に座る親父の顔は見れない。
たぶん親父も俺を見ていない。
俺はそのまま話を続けた。
「親父には悪いと思っている。大学を出してもらって、折角一流企業に就職できたのに、勝手に辞めて。失望してるのも分かってる。だけど、俺、親父が病気になって思たんだよ。たった一度の人生、嫌いなことを我慢して生きていて本当にいいのかって」
確かに生涯、一つの銀行で会社員を全うした親父は尊敬できる存在だ。
組織の中で活躍し、昇進し、部下をまとめ…、それがどれほど大変なことなのか、自分が社会に出て身に染みて分かった。
だが、親父は退職して間もなく、病気になって体の自由が利かなくなった。
ベッドに寝たきりになり、食べたいものを食べても嘔吐してしまっていた。
体は衰え、老後に行きたいと言っていた場所に行くことも、ゴルフ三昧の毎日を送りたいと言っていた夢も、叶わなくなってしまった。
その姿を見て、俺は思った。
精神を病み、体調を崩して、好きでもない仕事を続けてあと数十年過ごし、その先に何があるのかと。
一度の人生、嫌なことをして終わっていいのかと。
「それで待ち合わせを」
「はい」
「なるほど」
とは言うものの、会社を辞めて転職したことを言うのはやはり緊張する。
俺はそれをなんとか押し流すように目の前の温くなったビールを呷った。
この年になってまで親父が怒鳴るのが怖いなど、大の大人としては情けない限りではあるが、やはり三つ子の魂百までというか、怒鳴られるのは嫌だし、失望して男泣きする姿も見たくはない。
カランカラン
ドアベルの音でそちらを振り向けば、そこから入って来たのは一人の初老の男性だ。
淡いレモンイエローのYシャツに、麻でできた薄ベージュのジャケットを羽織っている。
背筋をピンと伸ばして颯爽と歩いて来た。
彼の性格を表しているように年よりもピシっとした印象を与える。
「親父…」
「久しぶりだな」
親父はゆっくりと俺の隣に座った。
そのタイミングでマスターが親父に声を掛けてきた。
「何がよろしいですか?コーヒーでもお酒でも、貴方の望むものをご提供できますよ」
「じゃあ…」
親父が頼んだのは、コンビニでも買える銘柄の日本酒だった。
ワンカップで売っているのをよく目にする。
「かしこまりました」
マスターはゆっくりと頷き、すぐに親父の前にガラスで作られた徳利とお猪口を置いた。
中に入っている冷酒が更に冷えて見え、美味しそうに見える。
さすが洒落たカフェバーだ。
「またその安酒かよ。折角なんだからいい酒頼めよ」
「これでいい」
親父はそれだけ言って徳利に手を伸ばそうとしたので、俺はその前にお猪口に日本酒を注いでやった。
「すまん」
「乾杯」
「乾杯」
俺は半分以下になってしまったグラスをお猪口に当てた。
そして親父はぐいっと一気に日本酒を呷り、ふうと息を付いた。
「こうやって飲むのは久しぶりだな」
「そうだね。最後に飲んだのは親父が病気になる前だし」
最後に酒を飲んだのは仕事を辞めたいといって激怒された時だ。
あの後、親父は病気に倒れ、結局一緒に酒が飲めなくなってしまった。
今度は親父が自分でお猪口に酒を注いだのを見ながら、俺はどう切り出そうかとタイミングを見計らっていた。
「どうぞ」
ことりと俺の前にマスターが新しいビールを置いた。
今度は冷えているビールを口に含み、ごくりと飲み下す。
息を一つ整えるように吐いて、俺はビールグラスを睨むように見て言った。
「親父、話があって今日ここに来たんだ」
「なんだ?」
「実は…俺、会社辞めたんだ」
しばしの沈黙。
隣に座る親父の顔は見れない。
たぶん親父も俺を見ていない。
俺はそのまま話を続けた。
「親父には悪いと思っている。大学を出してもらって、折角一流企業に就職できたのに、勝手に辞めて。失望してるのも分かってる。だけど、俺、親父が病気になって思たんだよ。たった一度の人生、嫌いなことを我慢して生きていて本当にいいのかって」
確かに生涯、一つの銀行で会社員を全うした親父は尊敬できる存在だ。
組織の中で活躍し、昇進し、部下をまとめ…、それがどれほど大変なことなのか、自分が社会に出て身に染みて分かった。
だが、親父は退職して間もなく、病気になって体の自由が利かなくなった。
ベッドに寝たきりになり、食べたいものを食べても嘔吐してしまっていた。
体は衰え、老後に行きたいと言っていた場所に行くことも、ゴルフ三昧の毎日を送りたいと言っていた夢も、叶わなくなってしまった。
その姿を見て、俺は思った。
精神を病み、体調を崩して、好きでもない仕事を続けてあと数十年過ごし、その先に何があるのかと。
一度の人生、嫌なことをして終わっていいのかと。
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