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事前準備に抜かりはありません!②

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二人きりの執務室。

なんとなく雰囲気もいつもと違う。そしてクローディスの雰囲気も。

少し悲し気で、それでいてどこか諦めた様子のクローディスにアドリアーヌは尋ねた。

「何かあったんですか?」
「いや、何もない。何も変わらない。俺には何も求められていないことが分かった。父王に認められない。こんな努力をしても、無駄だということもな」

ため息交じりにいうクローディスだったが、はっとしたように我に返った。

「あぁ……ははは。お前に言っても仕方ないな。忘れてくれ……」

誤魔化そうとするクローディスにアドリアーヌは言葉を紡いでいた。

クローディスに何があったかは分からないが、なんとなくクローディスが思っていることが伝わってきた。

「あのね、クローディス殿下。私は努力は必ず報われるなんて言葉は嘘だと思ってる」

その言葉が意外だったのか、クローディスは少し驚きの表情をして言った。

「お前がか?これだけ努力して我武者羅にやっているお前でも思うのか?」
「もちろんですよ。これまでだっていっぱい努力してもどうしようもないこともたくさんありました」

アドリアーヌの前世ではひたすらに努力した。

上司に認められるように資格の勉強、気合を入れた企画書の作成、部下のフォローもたくさんした。

だけど報われなかった。

女という理由で、若いという理由で。

現世でもそうだ。

王太子妃になるべく、血のにじむような努力をしたのだ。

それでも結局は王太子妃にはなれなかったどころか、婚約破棄に国外追放の目に遭っている。

「だけどね、私は努力したことについて胸を張っていい事実だと思ってます。評価がされないこともあるけど評価なんて他人がすること。その評価を押し付けることなんてできないし、評価軸なんて人それぞれ。付き合ってられないわ」

他人は他人だ。

他の誰が何と言おうと、自分は努力したと思えるならそれでいいとアドリアーヌは思っている。

それよりも手を抜いて、逃げて、何も変わらないことに絶望するよりも、目の前にあることや自分ができることを精いっぱいやった方がきっといい。

例えその結果虚しさしか残らないとしても……諦めたらきっとそこで終わりだから。

「だけど、それに向かってやったことは誇ればいい。無駄かもしれないけど、きっとそれはあなたの力になる。何年後かにそれが芽吹くかもしれない。だからその……貴方は……自分が頑張っていることを誇ってもいいわ。誰でもないあなた自身がそれを分かってるでしょ?」

その時、クローディスの表情を見て、アドリアーヌはどきりとした。

いつも憮然とした表情を浮かべているクローディスとは違う、素直な微笑みがそこにはあった。

泣きそうな、悲しそうな、それでいてどこか嬉しそうな、そんな感情が含みながらもすがすがしさを感じさせる笑顔だった。

「……頬に」

じっとクローディスを見つめていたアドリアーヌだったが、不意にクローディスもアドリアーヌの瞳を捉える。

そしてそっとアドリアーヌの頬に優しく触れた。

「インク……付いてる……」
「あ!えええ!本当に」
「あぁ、こんな時間まで根詰めてやるからだ。挙句の果てによだれたらしてインクまで頬に付けて、女としての自覚ないのか?」
「ええええ!」

思わず口元をぬぐってしまったが特に何かがつくわけではない。

「ついてないですよね……」
「ははは!さて、お前もそれ食べたら帰れ。どうせムルム伯爵の件、大詰めになってきたから詰め込もうとしたんだろう?大丈夫だ。俺たちもいる」

〝俺たち〟という言葉。

アドリアーヌは今まで一人でやってきた。OLのときにも助けてくれるような同僚もいなかったし(むしろ同僚はライバルだった)、転生しこの世界に来てからも一人で自立するように教えられてきた。

甘えるということが分からないのだ。

だがクローディスは"俺たち"といった。ムルム伯爵の件は、自分一人ではどうしようもなかったこともあり、その言葉はアドリアーヌに取ってとても心強い言葉だった。

「お前はなんでも一人でやりすぎるからな。俺たちがいることも忘れるな」
「……うん……ありがとうございます」

少しくすぐったいような想いがアドリアーヌの胸によぎった。

大丈夫一人じゃない。

だからこそ、この計画を成功させる。そうアドリアーヌは決意を新たにして、テーブルに置かれたサンドイッチを頬張るのだった。


※   ※   ※


それから一か月後。

いよいよセギュール子爵との直接対決となった。

「ふん、小娘、この間は大口叩いておきながらやっぱりこのざまか。」
「……まずはご着席ください」

今日はセギュール子爵との契約日だった。

こうしてムルム伯爵家の応接間に面子が集まる。

まずはセギュール子爵。

いつものように薄い髪の毛を右から左へと何とか流してポマードを付けている。

太って脂ぎった体臭とポマードの臭いに少し吐きそうだ。

「今日の立ち合いは私が引き受ける」

そう言ったのはリオネルだ。

証人としてこの契約を見届ける役になったのだ。

「伯爵はまだ体調不良のため起き上がることができません。代理として私、アドリアーヌ・ミスカルドが全ての権限を譲渡されましたので契約をさせていただきます」
「小娘に代理を頼むなど……馬鹿な伯爵だな」

ふんと鼻を鳴らしながら、セギュール子爵はアドリアーヌを見下した。

「では、さっそく契約を行いましょう。まずはそちらの条件の提示をお願いします」
「こちらの要望はただ一つ、借金の返済だ」

どんと叩きつけられた借金の金額は確かに伯爵の財産の殆どに匹敵するほどのものだった。

「残念ながら当伯爵家にはこれを全て返済することは不可能です」
「ほらみろ。そうに決まっている。だからこちらとしては伯爵の爵位の譲渡も借金の一部返済として認めると言っているじゃないか」

「まずは爵位について。こちらについてはすぐには対応が難しいでしょう。ご存じだとは思いますが爵位の譲渡については法務院での手続きが必要です。ただこちらに署名をしますので本日はこれで収めてください」
「しかない。サインしよう」

こうしてまずは爵位の譲渡について契約を交わした。

「それと……ミッドフォード男爵の借金についてもこちらで肩代わりします。」
「は……はぁ⁉何を言っているんだ?お前に払えるわけないだろう⁉」
「もう一度言います。ミッドフォード男爵の借金を肩代わりするので、今後は男爵家については手を出さないでいただきたい」
「うぬぬぬ……ま、まぁ借金さえ払ってもらえれば……」
「では、こちらの書面にサインを」

男爵家の借金を帳消しにする旨の契約書に子爵はサインをした。

これでアイリスが子爵に狙われることはもうない。

「それにしても……こんなに借金を抱えて……どうするのか?」
「全財産をお渡しする所存です。これがこちらの提示する条件です」

そこには伯爵領の九割を譲渡すること、そしてこの屋敷も譲渡することを明記してあった。

「こ……こんなに⁉いや……うん……当然もらえるのであれば……こちらは異存ない」
「本来ならば100%の譲渡を考えたのですが、それでは路頭に迷ってしまいます。伯爵となるような方でしたらそのくらいの譲歩いただくくらいの器であるかと思いまして」

「ふん。まぁ、私は寛大だからな。一割くらいくれてやる」
「ではサインを」

子爵は緩みそうな顔を必死にこらえるようにしながらサインをした。

「ただこの屋敷からはさっさと出て言ってもらうぞ」
「承知しております。リオネル様、別宅への間借り、よろしくお願いいたします」
「承知した」

子爵の言葉を受けて、以前依頼していた通りリオネルの別宅へ居を移すことを再度依頼する。

リオネルは心得たとばかりに神妙な顔のまま頷いた。

「だが、まだ借金返済の金額には足りないな。男爵への借金を考えると……これだけ足りないなぁ」

子爵はざっとその場で計算すると紙にそれを書いて提出した。

「申し訳ありませんが、もう一度借金の総額について細かい内容を拝見させてもらえませんか?」
「あぁ、ほら。これがその内訳だ」

提示された内容を見てアドリアーヌは頷きながらそれを確認した。

大丈夫、借金の内容は吹っかけられている部分もあるが、総額的には想定内だ。

「再度聞きますが、この金額をお返しすればいいのですね」
「もちろんだ。ほら、これがその書類だ。返済してくれればいい。そのサインもしてやろう」
「それは良かったです。これ以上取られては困りますからね」
「私がいかさまでもしているというのか⁉失礼な。だから小娘は困る」
「それは失礼しました。それでこちらの資料をご覧ください」

そうして出したのは借金に見合う財産の内訳だった。

「当家で出せるものはこれだけです」
「はぁ?何を言っているんだ?全然借金が返せていないじゃないか」
「はい……ただ……あと出せるとしたら株だけです」
「株?」

「当家はこの間設立された株式会社の大株主です。つまりあの会社は当家のもの。だからそれを譲ることくらいしか残っておりません」
「ふふふ……そ、そうだな……。もしなんならそれを譲ってもらっても……悪くないが。だが……会社程度では……」

その表情から子爵がアドリアーヌが設立した株式会社という"餌"に食らいついたことを確信した。

だから畳みかける。

「こちらが当家の所有している株式会社……あぁ子爵は当家の会社をご存じですか?」
「もちろんだ」
「その売り上げと現時点での資産評価額です」

そうしてアドリアーヌが提示した資産評価額は売り上げと工場などの評価額の合計だった。

これを譲渡となれば子爵の要求する金額を遙かに上回る。

「な……こんなに」
「はい、おかげさまで当家の株式会社の成長率は目を見張るものだと自負しております。今後この販路、工場を含む生産ライン、売り上げのすべてを譲渡します」

「全て……」
「ええ。いかがでしょうか?」
「おほん、仕方がない。これで手打ちにしよう」
「ありがとうございます。今後に関してはこの会社には一切関与しません。それで合意でもよろしいでしょうか?」

「もちろんだ!今後は手出し無用。後で返して欲しいといっても聞かないからな!」
「分かりました。そこも契約書に織り込みましょう」
「ほら、サインをしろ」

子爵は待ちきれないようにしてサインを促す。

アドリアーヌは少しため息をついて渋々といった態でサインをしようとペンを握った。

が、念のために確認をする。

「サインをします。が、もう一度聞きます。これでムルム伯爵家とは縁がなくなったと、何があっても当家はもう関係ないということでいいですね」
「あぁ、さっさとしろ」

そうしてアドリアーヌがサインをすると、子爵はそれをもぎ取る様にして契約書を掴むと、そそくさとサインをした。

その契約書をリオネルが確認し、最後に見届け人のサインをすることになった。

「これで、契約は終わりです。」
「あぁ、この屋敷も一週間後には出て行ってくれ」
「分かりました」

こうしてセギュール子爵との交渉は滞りなく終わった。

その一週間後、ムルム伯爵達は住み慣れた屋敷を離れリオネルの別宅へ引っ越すことになった。

「クリストファー様、さぁ行きますよ」

エントランスで立ち止まるクリストファーの表情は曇ったままだ。

財産をすべて取られ爵位も奪われた可哀そうな少年。それがクリストファーだった。

「僕……アドリアーヌを信じていたのに……」
「すみません、クリストファー様。すこし辛抱してください」
「…………」
そんなクリストファーを子爵が追いたてるようにエントランスに入ってきた。
「ふん……なかなかいい屋敷だ」

値踏みするその顔をクリストファーはぎっと睨みつけたまま、悔しそうな表情でエントランスを出ていく。その背中を追う様にアドリアーヌも歩き始めた。

「やはり、小娘が相手だと楽なものだ。こんなに簡単に大儲けできるなんてな。本当私はついている!これで伯爵家は私のものだ!」

あまりに興奮して大きく叫ぶ子爵の言葉を、アドリアーヌは後ろに聞きながらほくそ笑んだ。

まだ……勝負は終わっていない。

これからが本当の勝負だと気を引き締めながら……。
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