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葵のこと③

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 夕立は収まったが、厚い雲は空を覆ったまま夜を迎えた。
 私は葵の家から早々に引き上げようと思ったのだったが、先ほどの寂しそうな葵の様子をみていたら、帰るに帰れなくなってしまった。

 「そうだ……葵。花火をしよう。」
 「花火??」

 私はおもむろにした提案に、珍しく驚いた表情を見せる葵。
 自分はよく突拍子もない提案をするくせに、いざ他人が提案を行うと躊躇するなんて、順応性のない奴だ。
 私は心の中で軽く文句を言った。

 「葵は花火が嫌いか?」
 「…嫌いじゃないけど。」
 「けど?」
 「最近は余りやらない。」
 「最近はってことは、昔はやっていたのか?」

 葵はしばらく考えた後、観念したようにバケツに水を汲み始めた。

 「母さんが生きていた頃は…。」

 ふてくされたように葵は言った。

 「準備は出来たけど、肝心の花火がないよ、ナツコさん。」
 「そうか。んじゃ、買って来よう。」
 「えぇ!?提案したんだから、てっきり持っているんと思ったよ!」
 「だって思いつきなんだから仕方ないだろ?」
 「……じゃ、ちょっと走って買ってくるよ。」
 「一緒に行くよ。坂の下の商店だろ?」
 「この時間だと閉まっちゃうから走って買ってくる。ナツコさんは留守番してて。」
 「了解。あ、ついでに冷たい飲み物でも買ってきて貰えると嬉しいんだが。」

 むーといいつつ、半ば諦めたように葵は財布を掴むと眉間に皺をよせたまま、駆け出していった。
 ガラガラと玄関が閉まる音を最後に、屋敷は一切の音が絶えたように感じた。
 一人取り残されたような感覚の中、一瞬の寂しさが伴うのは、数日間葵と行動を共にしていたからだろうか?

 この静寂の中、私はずっと一人で過ごしてきた。
 煩わしい世間のことから乖離された世界の中で、まどろんでいた。
 それは切なくもあり、また心地よくもあった。

 だが、今ではこの静寂が不安に感じられる。
 この夏が終わるとき、葵は帰らなくてはならない。
 葵がこの片田舎の祖父の家にいるのも、夏休みの間だけだ。
 そして父親や進路という問題から逃げられるのも、今だけのこと。

 いつかは彼はそれらの問題と向き合い、戦い、解決しなくてはならないのだ。
 その時、私はまたこの静寂に包まれるようになるだろう。
 その時、私はまた一人になる。
 この夏が終わるとき、私はどんな思いをするのだろう。

 しばらく物思いに耽っていると、また勢いよく玄関の扉が開いた。
 そして嵐の如くにバタバタと廊下を駆けて、葵が縁側までやって来る。

 「ナツコさん、買ってきたよ。」

 庭を見ていた私は、背後から声をかける葵を向きやろうと後ろを向いた。
 瞬間、私の視界が真っ白になり、体に電流が走ったような感覚に襲われた。
 不意を突かれた私は、小さく叫び声を挙げ、そのまま目を覆って倒れこんでしまった。

 「ナツコさん!!」

 慌てたらしい葵の声が遠くに聞こえるが、体が思うように動かず私は何も答えられなかった。

 『女が!!誰か救急車を!!』

 『遠子さーん!!しっかりなさって!!』

 『誰か、誰か、誰か!!』

 『何があった!』

 『急げ!間に合わないぞ!』

 多くの声が私の頭に幻影のように響く。
 この部屋には葵しか居ないはずなのに、私にはいくつもの声が反芻して聞こえ、私はたまらず耳を塞いだ。
 その時、しっかりとした声が私の意識を引き戻した。

 「ナツコさん!!」
 「……あお、い……。」
 「ごめん、こんなに驚くと思わなくて。大丈夫だった?頭とか打ってない?」

 真っ暗闇でもはっきりと分かるほどに葵の顔が近くにある。
 どうやら私は葵に抱き起こされた形になっているらしい。

 「大丈夫だ……。驚かせて悪かったな。」

 まだちかちかする目を押さえながら、私は体制を建て直し、葵に言った。
 ふと葵の足元を見ると懐中電灯が転げ落ちている。
 それでさっき、視界が白くなったことを私は了解した。

 田舎では街灯が少ないため、夜になると真っ暗になってしまう。
 葵は買い物に行く時に持って行った懐中電灯を持ったまま、部屋に入ってきたのだろう。
 そして、暗闇に佇んでいた私の顔をいたずらに照らしたのだ。

 目が光に慣れていない私は、驚いて倒れてしまった…という結構恥ずかしい顛末だ。
 それにしても、と私はふと思った。
 先ほど聞いた声は何だったのだろうか?
 それは、やはり……。

 「なぁ…さっきの話だけど。やっぱり居るかもしれない。」
 「ん?」
 「幽霊だよ。なんか、変な声を聞いた。」
 「……ナツコさん。仕返しに怖がらせようとしてもダメだよ。」

 疑わしそうに私を見る葵を見て、ここ数日で葵の可愛げがなくなったものだと、心の中で私は思った。
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