治療と称していただきます

茜菫

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第一部

また、治療と称していただきます(5)

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「なんだって?」

 低く響く、怒りを含んだ魔女の声に、エレノーラはびくりと体を震わせる。昔、エレノーラが逃げ出そうとした時にこの声音を聞いたことがあった。失敗し、ひどい目にあったことは忘れられない。

「僕の、妻を離せ」

 レイモンドも負けず劣らず怒りを含んだ声音で返し、魔女をにらみつけた。こんな状況でも、レイモンドが言う「僕の妻」という響きにエレノーラはよろこびを感じる。魔女への恐怖のみに支配されていた心は、レイモンドの存在によって、ほんのわずかだがほかのことを感じる余裕ができた。

「エレノーラ」

 だが、その余裕もすぐになくなる。名を呼ばれたのと同時に、エレノーラは後ろからぐっと顎をつかまれる。再び恐怖が体を占め、小さくうめいた。

「おまえは、俺のものだよ、なあ?」

 ゆっくりと、何度も聞いたことのある言葉が吐き出される。それに逆らわず、うなずき、ただ従うしか昔のエレノーラにはできなかった。

「っ、違うわ、私はレイモンドの妻なの」

 しかし、いまは違う。一人だったあの頃とは違い、いまのエレノーラにはよすががある。レイモンドの存在が心の支えになり、国に保護されているエレノーラはこの国を頼ることもできる。

 エレノーラの言葉に魔女はなにかを言うわけでもなく、深くため息をついた。不気味に感じるが、顔を固定され後ろ手に両手をつかまれて身動きが取れないため、その表情をうかがうことはできない。レイモンドは魔女を、ただにらみつけていた。

「本当に、嫌になるな」

 魔女はそう言いながら、親指でエレノーラの唇をなでた。不快感に顔を顰めるが、魔女はエレノーラの様子などまったく気にせずに続ける。

「レイモンド、か。おまえは、本っ当に俺の邪魔ばかりするな」

「なに?」

「あともう少しで、すべてを得られそうだったのに」

 執拗に唇をなでるのは、エレノーラがそこを許さなかったことを根に持っているからかもしれない。

「そんなこと、絶対にさせるか!」

「おいおい、騎士さま。前のお上品なしゃべり方はどうしたんだ?」

「うるさいっ! 僕は、何度でもおまえの邪魔をしてやる!」

「そうかそうか、なら、まずはおまえを始末しよう。なに、時間はある。また一から教えこめばいいだけだ、なあ? エレノーラ」

 顔を上に向かされ、魔女がエレノーラの顔をのぞき込む。拒絶の意をこめてにらみつけ親指をかむと、魔女は目を細めて笑った。

 エレノーラは両手首を握る手が離され、背を軽く押されてレイモンドの元へと解放される。たたらを踏みながらレイモンドの後ろに逃げこみ、背に隠れたところで魔女は声を上げて笑った。

「……どういうつもりだ」

「さあ、守ってみせろよ。なあ、騎士さま?」

 なにかを守りながら戦うことは難しい。レイモンドは享楽の魔女を打ち破ったが、それは彼が自由に戦える環境があったからだ。ここは狭い洞窟内、足でまといが一人、不利が過ぎた。

「レイモンド、逃げましょう」

「けど……」

「あれは幻よ。倒したって何度でも湧いて出てくるわ」

 不利な状況の上に、そもそも、あちらは生きていない存在だ。エレノーラがこの場にいる限り、幻は貯蔵された魔力を利用し何度でも現れるだろう。

「賢明な判断だが、可能だと思うのか?」

 逃走の隙を魔女が与えてくれるかどうか。得られたとしても、天井の穴は人が通れる大きさではなく、高さも手が届かない。池の中には水が流れるくらいしかできない隙間しかなく、この洞窟の出入口は入ってきた扉一つ。そこからは狭い階段が続き、最後は梯子で上らないといけなかった。

 幻覚魔法の効果範囲がどこまでかはわからないが、少なくとも小屋を出るまでは考えておくべきだろう。となれば、逃走自体も難しい。

「レイモンド、さっきの石を渡して」

「……ああ」

 レイモンドは剣を握る手とは逆の手を後ろにまわし、回収した魔法の石をエレノーラに手渡す。この魔法の元になっている石を無効化、または破壊できないかと石を手に取り、魔法の解析を試みた。しかしあまりにも複雑で、とても短時間で無効化できるものではない。

 ここを終の住処としようとしただけあって、エレノーラの人生を費やしても解析できるかどうかというほどの魔法が組み込まれている。破壊しようにも幾重に保護の魔法がかけられており、砕くことも溶かすこともできそうにない。

 これくらいのことをしていなければ、簡単にエレノーラを解放などしなかっただろう無力化することも、破壊することもできないと踏んでいたのだ。

 魔法に関しては天才的、ほかの追随を許さない享楽の魔女。その元にいたエレノーラも多少は知識を増やしたが、それでもあの男の足元にも及ばなかった。

「エレノーラ、もう打つ手なしか?」

「……っ」

 エレノーラは悔しさに唇を引き結び、うつむいてほかになにかないかと考えをめぐらせる。

「エレノーラだけでも、逃げられるか」

レイモンドが魔女をにらみつけたまま、聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で問いかけた。エレノーラは顔を上げ、状況を分析する。扉へは走れば数秒でたどりつけるだろう。その間、レイモンドが魔女を押さえ込んでくれれば十分に可能だ。

(レイモンドをここに残して逃げるなんてことは……したくない)

 だが、なんの打開案もなくそれを言葉にはできなかった。ここにいる限り、エレノーラはレイモンドの足でまといにしかならない。それならいっそ、この場を離れる方がいくらか役に立つ。そう考えたところでエレノーラはあることに気づいた。

(そうよ。壊せないなら、ここから離せばいい)

 石はここにある魔力を吸い上げて、魔法を発動している。なら、魔力の元から離せば幻は消えるはずだ。レイモンドのためにも、石をもってこの場から離れるべきだ。

 肯定の意を込めて、エレノーラはレイモンドの服を軽くつかんだ。レイモンドが小さくうなずいたのが後ろから見てもわかり、手を離す。同時にレイモンドは地を蹴り、恐ろしい速さで魔女に斬りかかった。

 魔女が魔法で手に結界を生み出し、それを難なく受け止める。レイモンドは下がらずそのまま力を加え、魔女の行動が制されたのを確認し、エレノーラは全力で走り出した。

「へえ」

 魔女の余裕そうな声が聞こえるが、気にしてはいられなかった。エレノーラは全力で走り、扉に手が届こうとした、その時――

「なっ」

「きゃっ!?」

 エレノーラの目の前に満面の笑みで両手を広げている魔女が現れ、止まることもできずにその胸に飛び込むことになった。

「いやあ、熱烈だな、エレノーラ!」

「ひっ」

「おいおい、忘れていないか? 俺は幻なんだってこと」

 後ろを振り返れば、レイモンドの近くにいるはずの幻は姿を消していた。

(その幻が、どうして私を受け止められるのよ……!)

 魔法の影響を受けていないものからすれば、エレノーラが勝手に止まったように見えるのだろう。本当に、たちが悪い魔法だ。

「離して!」

 エレノーラは思い切り胸を押すと、簡単に離され、勢いのまま尻もちをつく。尻をさすりながら起き上がりつつ、魔女をにらみつけた。

「言う通りにしただけだろ」

 レイモンドの元に逃げるエレノーラを止めることもなく、余裕そうな笑みを浮かべているのが憎らしい。

「さあ、次はどうする? もっと楽しませてくれよ。俺は楽しいことが大好きなんだ」

 まるで転移したかのように幻は位置を変えられる。これでは、エレノーラがあの男を出し抜いて扉を突破することも難しい。

「エレノーラも騎士さまも、いい顔してきたな」

 楽しげに笑う魔女の顔を、思い切り引っ叩いてやりたかった。
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