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本章『ロドンのキセキ・瑠璃のケエス・芽吹篇』新版※再校正版です。物語の内容や文面は旧版と変わりません。
第四話『 Stir 』 下
しおりを挟む「わ……、ど、どうしたの。何か嫌な事でもあった?」
「いえ何も。ただ花厳さん、死ぬほどいいタイミングだったなって思っただけです」
桔流と花厳はその日、店から少し離れた駐車場で待ち合わせていた。
無事に落ち合いそんなやりとりを交わした後、状況がのみこめていない花厳に促され、桔流は失礼します、ととりあえず助手席に乗りこむ。
そして花厳が車を発進させてから、“何がいいタイミングだったのか”を花厳に説明した。
「はははっ、ごめんごめん。それは悪い事をしたね」
「別にいいんですけどね……っ」
と、まだ口をとがらせるように不服そうな表情をしている桔流に、花厳はまたおかしそうに笑う。
そんな花厳にさらに眉間にシワを寄せた桔流が、今日は豆類づくしのメニューにしますんで、と告げると豆類が天敵である花厳はえぇっと声をあげる。
「ご、ごめん。それは勘弁して……良いワインを用意してあるからさ、機嫌直して、ね?」
と、マンションの駐車場内に車を停め首を傾げるようにして微笑んでくる花厳に、クッソ可愛いなそれ、という感想を述べた桔流はその笑顔に完全に毒気を抜かれたのだった。
その晩は結局法雨にイイ感じになっている事を悟られたという事と、思った以上に用意されていたワインが口に合った桔流は、ヤケ酒のような部分もありやや早いペースでワインを楽しんだ。
そのせいかその晩の桔流はいつもより深く酔っていた。
「桔流君、もう結構酔ってるでしょう。大丈夫? ワインそんなに弱かったっけ」
桔流が花厳の前でふらつくほどに酔ったのはこれが初めてだった。
それもあって花厳がやや心配して声をかけると、ゆるゆると頭を横に振りつつ桔流が答える。
「いえ……よわくはないんですけど……ちょっと……はやかったかも……」
呂律の回らない舌で一生懸命に言葉を紡ぐ桔流はそれだけ言うと、ふうと息を吐いてソファにもたれる。
「確かに今日、凄くハイペースだったもんね。美味しかったのなら良かったけど」
「ん……すごいおいしかったです……でも……」
「ん?」
「たぶんこんなよったのは……きが、ぬけたせい……かな……」
「桔流君、今日何か緊張してたの?」
「ん……じゃなくて、かざりさんといる、と……きがぬける……から」
ふらりふらりとしつつそう言った桔流を花厳はしばし無言で見つめる。
「……そっか。あぁ、水持ってくるよ」
「はい……」
こくん、と頷いた桔流に微笑み、花厳はキッチンに向かう。
そして冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぎつつ、花厳は先ほどの桔流の言葉を反芻する。
(気が抜けるから、か……。それ、どういう意味なんだろうね、桔流君)
花厳は心の中で訊くに訊けない疑問をこぼしつつ、グラスを桔流の元へと持っていく。
「気持ち悪くない? 大丈夫?」
「はい……だいじょぶです。どっちかっていうと、きもちいかんじです……」
「……そうか。それなら安心だ」
桔流がいつもより随分と無防備なので、彼から返ってくる言葉を良いように曲解してしまいそうになる脳を窘めながら、花厳はあくまで平静を保つ。
そして純粋な気遣いから花厳は特に意識もせず桔流に言った。
「桔流君。横になった方が楽だったら、ベッド使ってくれてもいいからね」
そう言われた桔流は、ふふっと笑いほぼ閉じかけていた瞳をやや開き直し、隣に寄り添う花厳を見上げた。
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「ん?」
「かざりさん、それ……なんか、やらしい意味……はいってますか?」
ベッドの件に関しては、花厳の純粋な気遣いがあってのことだったのだが、その手前でよこしまな思考をしてしまっていたせいで必要もないのに花厳はギクリとする。
「まさか……」
花厳が苦笑しつつそう言うと桔流はふぅん、と呟きまた正面を向き目を伏せる。
「なぁんだ……」
ただからかわれただけだと思っていた花厳は、含みのある反応をする桔流に心を揺すられる。
その何かしらの意図を含んだ呟きを、花厳はあえて拾い上げた。
「……残念そうだね」
「………………」
「そういう意味だった方が良かった?」
「……どうでしょう……自分でもよく、わからないですけど……ただ」
「ただ?」
「……どっちでも……いいかなって、思いました……」
その桔流の返答に更に心を煽られた花厳は、必死で本能に抗いながら桔流の心を伺うように言う。
「桔流君、それ。この状況で言われると、誘い文句みたいに聞こえるけど……」
「……どうでしょうね……それも、どっちでもいい、です……」
きっとこの今の状況が、桔流以外の相手とのものであれば花厳は迷いながらも相手の肌に手を伸ばしていただろう。
だがこの状況が桔流とのものである以上、花厳は今目の前にあるこの1本のラインを勢いで越えるわけにはいかなかった。
今の花厳にとって桔流はもう“手放したくない相手”になっていた。
だからこそ、こんなところでただ欲にかられて現れただけの選択肢に身を任せる訳にはいかなかった。
(急ぐ必要はない。この一線を越えればきっと、彼はまた違う方向に行ってしまう。今の彼にこれは必要ないんだ……)
花厳は、アルコールと本能的な欲求で脳が麻痺するのをなんとか防ぎ、それとなく話題を切り替える。
「そっか。でも安心して。俺は別にそういう意図があって言ったわけじゃないから。とりあえず桔流君は一度休んだ方がいいよ。それと、美人さんなんだから、簡単にそんな可愛い誘い文句なんて言ったら危ないよ」
自分に暗示をかけるようにそう言い、花厳はベッドに横になる事を選択した桔流に肩を貸す。
今までで一番近い距離で桔流の存在を感じ、初めて彼の体温を肌で感じる中、押し潰した欲望がまたせりあがって来るのと戦いながら、花厳はなんとか桔流を寝室まで連れてゆく。
「ありがとうございます……でも、この服でベッド使って大丈夫ですか?」
水分をとったり会話をする中でやや酔いがマシになってきたのか、桔流の口調はゆるりとしていながらもいつもの調子に戻りつつあった。
「あぁ、大丈夫だよ。そういうのは気にしないから。桔流君さえ問題なければそのまま休んで」
花厳はそう答えながら桔流をゆっくりとベッドに横たえる。
ありがとうございます、と今一度礼を言った桔流に、どういたしまして、と微笑み、彼を押し倒したような姿勢からベッドに手を突いて身を起こそうとするが、花厳は桔流に覆いかぶさるような体勢のまま動きを止めた。
「桔流君?」
止めたというよりは、身を起こそうとする動作を“止められた”といった方が正しいかもしれない。
手を突いた状態で身を起こそうとしていた花厳の首には今、肩を貸していた時に預けられていた桔流の右腕と、さらにベッドに投げ出されていたはずの左腕が回されていた。
状況が呑みこめず、花厳はそのまま桔流に今一度尋ねる。
「……どうしたの?」
「花厳さん。そういうトコで押さないから逃がしちゃうんですよ」
「え?」
「そうやって、自分の気持ちを誤魔化して。相手はきっとこうだろうって自分の気持ちは後回しにして、相手には何も伝えずただ身を引いて我慢する。でも、それじゃあ相手の気持ちも分からないし相手だって花厳さんの気持ち、わからないままなんですよ」
「………………」
突然紡がれ出した桔流の言葉を必死で理解しようとする花厳は、ただ桔流の瞳を見つめ返す。
「相手はもしかしたら、花厳さんと同じような気持ちでいるかもしれないのに……何も言わないからお互いにずっと気遣ってる事にも気付かず、相手も花厳さんも隠しっぱなし。だから最後まで、お互いにお互いを知らないままで終わりになっちゃうんです」
「………………」
「花厳さん。それとも俺も、このまま逃げ切ってしまった方が良いですか?」
まっすぐ見返してくる桔流にそう言われ、花厳の心臓は一度大きく鼓動する。
もう少し身を寄せれば距離などなくなる。
そんな距離を保ちながら、花厳は桔流の言葉をゆっくりと咀嚼する。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君は、それで後悔しないのか。俺が今君をどうしたいかなんて分かってるんだろう」
「……どうでしょうね」
ゆったりと呼吸をしながら桔流はただそう答えた。
それに少し眉間にしわを寄せ、花厳は言葉を返す。
「分からないなら――」
「先の事なんて誰も分かりません」
花厳の言葉を遮るように桔流は言った。
「だから先の事なんて知らないです。だって、後悔をするもしないも実際に選択してみないと結果は分からないじゃないですか」
「………………」
「したら後悔するか、しなかったら後悔するか。選択する前に結果が分かってるなら花厳さんだって今、こうして俺といないはずです。俺の事だって好きにならなかったはず。きっと出会ってもいなかったでしょうね」
「………………」
「花厳さんは、ひとつ前の大切な選択肢で、しなくて後悔したのか、して後悔したのかはわからないですけど、するかしないかなら花厳さんの目の前にある選択肢はいつだってたった二つですよ。今だってそうです」
「今……?」
花厳は無意識にそう尋ねた。
桔流はそれに頷いて続ける。
「そう。今、花厳さんの目の前にあるのは俺を“逃がすか”、“逃がさないか”の二つだけです。俺の前にはさっき、花厳さんにこの選択肢を“与えるか”、“与えないか”がありました。それで俺は“与える”を選んだ。だから今度は花厳さんの番ですよ……あ、ついでに言っておくと、この選択肢は時間制限つきなので」
「えっ、時間制限?」
「はい。俺、今のうちに目を覚まさせてくれないと……マジでこのまま寝ます」
突然の可愛らしい理由に、花厳は思わず小さく笑う。
桔流は意外と頑張って眠気と戦ってくれていたのかと思い、それに愛おしいような気持ちを抱きつつ花厳は言った。
「ごめん。うん、早く選ぶよ」
ひとつ呼吸をして改めて桔流を見つめ、花厳は続ける。
「じゃあ、嫌だと思ったらちゃんと言ってね。やめるから」
そう言って花厳は桔流の頬を優しく撫でる。
「それ、よく言われますけど、途中でやめられたタチってみた事ないです」
「ははは、そりゃあ君みたいな美人相手に気持ちを抑えるのはひと苦労だろうからね。でも、やめるよ。好きな人を傷つけるなんてしたくないから」
「ふふ、そうですね、花厳さんならやめてくれそうです。でも――」
「?」
「――やめないでいいですから」
やや目を見開くようにしてから、眉間にやや皺をよせるようにして花厳は笑う。
「また、すごい誘い文句だね」
「だって花厳さん。これくらい言わないと、キスから先に進んでくれなさそうですし」
「はは、まいったな……」
そう呟いた花厳は、桔流がまた何かを言おうとしていた言葉を遮りその言葉を飲み込ませるように唇を重ねた。
その口づけで息を吹き込まれたかのように桔流が息を吸う。
これまでにない、最も近い距離で呼吸をし、相手の呼吸を感じる。
それだけで脳は痺れ始め、お互いの熱で溶け出す。
そんな熱がしっかりと混ざり合うまで、その感覚は彼らの本能を刺激する。
掻き立てる。
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