天を仰げば青い空

朝比奈明日未

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本編

1−6

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「あ、おはようございます、和田さん」
「あらあら、今日も早いわね、小日向くん。おはよう」
 恰幅は良いが凪が来てから一時間ほどで来てくれる古株の和田さん。この人が掃除はしてやるから仕事をしてなさい、と言ってくれているので凪は有り難く、でもちょっとばかり申し訳なく思いながら仕事をさせてもらっている。和田さん曰く「アタシにできることじゃないから、こっちは任せなさい。ね!」だそうだ。事務員だけは何故か全員仲がいいので、凪は事務だけするのであればこの会社に何の文句もない。
 和田がふと大きいスケジュール把握用のホワイトボードを見て凪の方へと振り向く。
「小日向くん、小日向くん。今日、貴方先方へ行く日じゃないの?」
 高速で凪が顔を上げ、信じられないとばかりに目を丸くした。ガタンッといっそ椅子を倒しそうな勢いで立ち上がりホワイトボードの前に立つ。
 そしてそのまま崩れ落ちた。それはそれは綺麗に。文字通り崩れ落ちたのである。
「う、うそだろ…誰か嘘だと言ってくれ…」
「残念ながら本当ねぇ」


「あああああやっちまったぁぁぁぁ!!!!!」


 凪の地獄へ堕ちる声が、二人しかいない早朝のフロアに響き渡った。
 和田にぽんぽんと背中を叩いてあやされ、なんとかメンタルを取り戻すこと三十分。
 探してみれば資料が置かれているのを見て死んだ魚の目になりながら、急遽今日の分の進捗の報告書を作り始めるハメになった凪の顔には虚無以外の情報がないほどだったという。
 そんな虚無に襲われながらも考えることは昨日の自分の態度、そして今日の午後に冷たい態度を取られたりしたらどうしようという酷く自分勝手な不安。
 何分、凪は今まで恋愛ごとを経験したことが余りない。叶わぬ恋ばかりしてきたこともあるが、叶った恋が碌でもなかったことも理由に入っている。
 そもそも凪の恋愛対象は昔から同性のみだった。
 叶う恋など基本的に無に等しく、叶ったと思えば何かと利用されるばかりで最終的に「気持ち悪い」などと言われて捨てられるのだ。金だけの存在や金の掛からない手頃な『穴』になったりするのは良くあることだった。まぁ、それだって最後は「気持ち悪い」とか都合のいい貶され方をして振られるのだが。
 だから今、顔も良くて、高身長で、仕事の事とは言えいつも優しく業務を担当してくれる陽に恋をしていても、それはもう見ているだけの目の保養にするしか無いし、ノンケ相手なんて怖すぎて動けない。しかも相手は取引先なのだから。
 それでもつい、ちょっとだけ、もしかしたらと夢を見ている部分はあるが、別に凪だって傷つきたいわけじゃない。
 でも片思いをするくらいは誰だってタダだ。何より片思いの時が一番楽しいと言うし。気付かれなければ、迷惑をかけなければ、結論として無いのと同じだ、この気持ちなんぞ。
 それでいいと思って業務に取り組んでいたのに、昨日の自分は何をやらかしているのだろうか、と頭を抱える。無神経なわけでもなく善意の言葉だっただろうに、彼の気持ちに対して覚えたのは怒りでしか無かっただなんて。自分のこういう卑屈になってしまうのは昔からの悪い癖だと自認しているだろうに。何もそこで短気な性格まで出すことは無かっただろう。
「部長、報告ですが俺一人とか言いませんよね…?」
 全員が揃い業務が始まるとすぐに営業へと走り部長へと詰め寄る。あの字は間違いなく部長であり、そして自分には何も言わずに勝手に書いたのは目に見えていた。時々この人はこういうことをする。こっちが別に何も言われてないし、とボードを見ないのをいいことに、こうやって月曜日とかにいきなり仕事をぶっ込んで来るのである。
 悪戯と言うにはあまりにも悪質だが、先方にだけはきちんと前もって言っているので責めることもできなければ自分が行くしか無いのも決定事項だ。
 だが、置かれていた資料から抜粋して書類を作っていた時に気がついたが、どちらにしろ今後は作業をする人間が直接行くしかないと思われる。これ以上は本人達の領域で、営業などが関わる話ではなさそうだった。
 だからだったのだろうか?と思って聞きにきたのである。
「うん、小日向くんだけだよ。私が行く必要は全く無いしね」
「いや俺が行く必要も特に無いですよね、これ。最悪メールで送って後は部署任せの方がいいやつじゃないんですか」
「それでも良いっちゃ良いんだけどね。でもどうせなら最後になるしきちんと書類渡して、次のやつらに楽させてやろうかなって思ってね。これ以降は行くとしたってうちの部署から出さなきゃだし」
 そう、そもそも最初の時から凪が行く必要など無いのである。それなのにこうやってこき使われるのだから溜まったものじゃない。そして、別にさっさと手元から離れてくれるから良いと言えばそれまでだが、早朝の業務もこれからの徒労の結果も何もかもが自分のものには一切ならないのだ。
「はぁ…貸しですからね、部長。俺に行かせるんですから」
「馬鹿言わないでくれよ。お使いくらい雑用がやってくれたって良いだろう?」
「生憎ですが、事務は雑用係じゃありません。事務作業を熟すのが仕事です」
 ふざけるなとばかりに目は笑っていないが、それはそれは愛嬌のあるにーっこりとした笑顔で返事をして踵を返す。
 本当に、こういう所が玉に瑕だし古い気質過ぎて嫌になる。
 金に関してだけは厳しいから良いのだが、またこの営業のナンバー2も面倒なのだが、もう考えるのも嫌なので今は放棄する。
 さて、今後の引き継ぎも兼ねているような言い方をされたのでそのように作り直し、作業の部署に今後誰が行くのか確認もして書類へと追加していく。これだけのことをしておかないとまた後で嫌味を言われると思ったら完璧に仕上げないと気が済まない。
 これが余計に部長に“好かれる“原因になっていることなど、今の凪には関係なかった。
「さてと…和田さん、吉田さん、俺ちょっと早く出て向こうの近くで飯食って行こうと思うんですけど、良いっすかね」
「構わないよ。ただですら小日向くん忙しいんだから」
「そうですよ!出来るところは間に合えばですけど、やっておきますし」
「あはは、ありがとう、吉田さん。でも吉田さんにもかなり任せちゃってるし、俺がやるよ。帰るの多分夕方になると思いますんで」
 十三時に会社へ訪問して、それから説明して向こうの話を聞いて、忘れない内に粗方まとめておきたいし一旦適当な店でメモし直すか…それから帰ってきて…やっぱり夕方だな。早くても十五時、遅くて十六時半かもしれない。
 ぐるぐると頭の中で今後の予定を考え、うんうんと頷く。多分こんな感じのタイムテーブルになるはずだ。
 向こうの近くに何の飯屋あったっけなぁ、と考えながら「じゃあ、お願いします」とだけ言って席へ戻ると鞄へとあれこれを詰める。入れる前にもう一度書類内容を確認して、パソコンはしっかりとロックして。
「それじゃあ、行ってくるんで。何も無いとは思うんですけど、何かあったら連絡ください」
「はいはい、行ってらっしゃいね」
「向こうの方によろしくどうぞー」

 今回が仕事で会うのは最後かもしれないな、と蒸し暑い中外へ出る。クールビズよろしく半袖にノーネクタイで出て来たのはいいが、いかんせん日差しがきつい。まだ真夏では無いと言うのにと空を見上げれば、早めに明けた梅雨の後の雲一つ無い青空が目に入ってきた。
 道理で暑いはずだ…、でもこの青いいな…。
 夏が近い濃いブルーの空は、昨日のことへの罪悪感で冷えた心も温めてくれそうだ。

 ―――あの綺麗な顔で不機嫌な表情とか綺麗過ぎて大丈夫だろうか。いや優しくされても大丈夫だろうか、と思うから結果が変わらないな…。
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