異性装がまあまあ普通の世界。

ちくわ

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碧葉の場合

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 渋谷の駅ビルは、駅ビルの増築に伴って、日々刻々と導線を書き換えられている。ホームに降りたった五月雨碧葉さみだれあおばは、その迷路に囚われまいと真っ先に地上を目指す。
 田園都市線の改札を迂回して小洒落た雑貨店を横目に階段を上る。そこには見慣れた道玄坂の入り口がみえるが、彼は踵を返してセンター街の方へと歩き出した。
 制服のスカートが揺れ、彼の白い太ももがちらりちらりと見え隠れする。ブレザーの内側に着込んだカーディガンを萌え袖にして、背中の黒いバックパックの肩紐を掴んでいる。どう見ても活動的な女子高生だ。
 彼はどんどんと進んでいき、人の少ない通りを選んで、東急ハンズの裏手に出る。身長160そこそこの伸びやかな肢体は、誰にも怪しまれることなく、あくまで自然にシティスケープに溶け込み、やや大股で歩んでいく。
 このあたりは、かつてマニアックなCDショップが並んでいたが、今はその多くが撤退し、飲食店になっている区画。けれど、ほんの数店舗だけCDやヴァイナルを扱う店がある。
 そんな店のひとつに彼は入っていき、レジの男と何度か言葉をかわす。
「ちっす店長。今から入れるっすけど」
 ここが彼のバイト先なのだ。
「たすかるわー。17時からつけていいから、閉店まで頼むね」
 この店の閉店まであと3時間ほど。彼はバックパックをおろし、パックの紅茶を取り出して机の上におき、ペリペリと注ぎ口を小さく開けてから、ストローを突き刺す。
 無表情で歩いていたのが嘘のように、彼の顔に優しい表情が戻り、店内のBGMをエレクトロニカから、キックの効いたハードコアテクノに変えた。
 店内には翠葉が置かせてもらっているPCDJのコントローラと、店長が回すときにつかうCDJなどが置いてある。レジは狭いが配置は工夫されているので、操作に不便はない。それどころか、つなぎの練習をすることも許されていた。
「アオさぁ。もう成人じゃんかさ。だから、平日少し回してみないか?」
「制服がタバコ臭くなるからだめですよ」
「俺らが高校の頃はさー」
「今どきタバコ吸うのは、工事のおっちゃんとクラブの客くらいです」
「やれやれだなー。何が楽しくてクラブに来るんだか」
「そりゃでかい音でしょ。キックが体を突き抜けるとき、音を喰ってるなって思いません?」
「フロアにいるやつぁそうかもしんねーけどさー。他にも楽しいことあるんだよDJって」
「そんなもんなんですかねー。まあ、俺はでっかいスピーカーの前でビリビリしてるくらいしかできないっす。早く回せるようになりたいとは思うけど、客を沸かすとかまだ全然」
「はじめる前からびびんなよ。大丈夫だって、俺でもできるんだから」
 店長の俺でもできるのレベルは、翠葉にとっては人間離れしたテクニックに思えるのだが、この先の話をしても、やってりゃ覚えるさとしか言わないのも知っている。
 けれど、店長が先程までエレクトロニカをつないでいたのはなぜか? と翠葉の考えは進む。店長は以前、エレクトロニカのつなぎがむずいと言っていた。だからそれを練習していたのだと翠葉は解釈する。そうなると、次の翠葉の目標は、繋げられる曲を増やすことになる。どの曲とどの曲がつなげるか、その知識とつなぎのテクニック、これらの基本ができていなければ、フロアの空気を読んで、沸かせることはできないだろう。
 店長ですら基本の練習は欠かさない。つまり、知識と練習を積まなればいけないのだと。

 よく磨かれた自動ドアが軽やかに開いた。見慣れない客。グレーのフーディーにショートパンツ、コンバースのハイカット。爪はビタミンカラーに塗っているが、顔は幼い。肩口に掛かりそうなボブの内側をブルーに染めて、外側はミルクティーみたいな色。そして、オレンジ色のニット帽をかぶっていた。
 オレンジの帽子が、大して広くない店内をゆっくりとあるきまわり、品物を眺めているようすがわかる。CDの棚。ハードコアテクノにぶち当たると、歩みがさらに遅くなる。試聴機の操作も手慣れており、おすすめ盤を流しながら、他のCDも見ているようだ。 
 薬指だけをオレンジに塗った右手の人差指には、アーマーリングが光り、シルバーの淡い反射が意思の強さを感じさせる。他の爪は明るい緑で塗られているが、左の人差し指はオレンジに彩られていた。
 店長が翠葉のことを背中からつつく。程々のところで声をかけに行け、という合図だ。翠葉がよく聞くジャンルなので、話が合うと思ったのだろうか。翠葉はしばらく様子を見ていたが、彼女が試聴機のヘッドフォンを置くタイミングで、近づいていった。
「ハードコア、お好きなんですか?」
 声が少し震えた。
「そうですねー。割と聞きます。クラブにはあまり行かないんですけどね」
 ニコニコした表情から、滑舌の良い言葉が返ってくる。
「君、男の子なんだね。あ、ごめん。ちょっとびっくりしたってくらいで、そのカッコ似合ってると思うし、ちゃんと今風のメイクしてるし、いいとおもうよ?」
 あー、またこの話すんのか、翠葉は少しだけ顔面をこわばらせる。この店はゆるいので店長は何も言わないが、居酒屋のバイトなら、怒られているかもしれない。
「ははは、よく突っ込まれます。俺もー。俺って言っていいのかな? とかあるんですけど、このカッコじゃないと落ち着かなくてですね」
 彼女はいーよいーよと手をバタバタさせながらジェスチャーで落ち着くよう促す。いちばん焦っているのは、どこから見ても彼女自身ではあるが、ひとまず害意はないことだけ伝えようとしてくれている。翠葉はそう捉えて、少しだけいい人だなと思った。
「あのさー。君の回してた曲気に入っちゃってさ、2曲くらい前のやつかな? あーこのコンピは買うんだけど、売ってる盤に入ってたら買って行きたくて……」
 翠葉は頭が真っ白になっていた。そうか、こういうオーダーもあり得るのか……。自分の回していたCDから曲やCDを買う人がいる。そんなこと、全く意識していなかった彼は、びっくりしたのだ。
 翠葉の記憶によると、CD自体はこの店で買ったものでおそらく間違いない。しかし、いつ買ったかまでは思い出せないし、品切れている可能性もある。だから慎重に対応することにした。
「ちょっと確認しますね」
 と、慌ててレジに戻り、セトリを確認する。見慣れたはずの曲の並びから、客の気に入ったという曲を選択して、頭から流す。
「んーー、これかな~。あ、そうそうこの曲。これとその後つないでた曲はおんなじ盤に入ってる?」

 のっそりと現れた店長がレジの横を抜けて、値下げコーナーにあった紙ジャケを2枚掴んで帰ってくる。
「すいません、古めの商品なんで値下げしてたんですよ。今聞いてもいいっすよね。TB-303のメカ臭えキックが、可愛いっておもえるんすよ。
 あー、アオ、念の為曲名確認してからお渡しして、値引きだからパッケ開けてもいいぞ」
「あなたアオっていうの? 私もアオイだよ。今日はオレンジ色だけど」
「わあ、店長ありがとうございます。アオイさん、曲名は画面のとおりなので間違いないと思うのですが、念の為聞いていかれますか?」
「大丈夫だよ、アオさん。店長さんの言ってたキックの音、私も好きだから大丈夫でしょ」
「俺もここで買ったCDのはずだとは思ってたので、大丈夫だと思います。お会計してしまっていいですか?」
「オッケーだよアオさん。また買い物に来るね。こういう音、売ってるとこ少なくなっちゃったからさ」
「ありがとうございます。お会計6,930円です」
 そのまま会計を終えたアオイは、嬉しそうに店を出ていった。俺が店番しているときに来てくれるだろうか? そんな考えが、碧葉の頭をよぎった。
「上出来じゃねーの? アオ。おめえのDJで不良在庫が2枚も売れてんだ。俺は感謝しないといけねえなー」
「やめてくださいよ店長。俺が好きなアーティストを不良在庫扱いしないでください」
「しょーがねーだろー。仕入れたもんは金払ってんだし、早くその場所をあけてくんなきゃ、次の仕入れを品出しできねえ。アオは自分の好きな板を布教できたと思っとけばいい」
「うー、理屈はわかりますけどー」
 レジは打てるし、自分から見ても曲の知識が増えてきた。まあデキるやつだよなアオは。と、店長はひとりごちる。
 バイトにしたら上出来で、ちょっと風変わりで真面目で可愛いやつ。話せば分かるし、聞いてやれば意見も言ってくれる。そんな彼が受験でバイトに来れなくなる日も、そろそろ近づいてきた。
「夏かねぇ」
 店長がつぶやいたのを、ミルクティーを飲んでいた碧葉が拾う。
「まだ春っすよ。これから、ジメッとした梅雨が来て、なつが……」
「いつから受験勉強するか決めんのは俺の仕事じゃねーぞ、アオ。いい大学入ったら、みっちり練習付きやってやる」
「うーっす」
なんだよ新成人やる気あんのか。店長と翠葉の小声のやり取りは、もう少し続きそうだ。
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