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良薬は口に苦し
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*********【キウス・セデック】
雪が降りやんだ中庭で、やっとフェーリ様と少し打ち解けてきたところ、大事な話があると険しい表情のセルンさんに声をかけられた。
そのままフェーリ様をフィンにまかせて急いで向かうと、突然。
「……コンラッド家からの辞退で婚約解消、ですか?」
死刑宣告のごとく言いわたされた言葉に、思わず棒立ちになった。
文武2大派閥の和解の証。
私とフェーリ様の婚姻は、王国内でギクシャクする派閥争いに終止符を打つための措置であり、国全体の安定がかかっている。
これは王国4家の団結を象徴するためだけではなく、暴れる下級貴族たちを制圧するための手段でもあるのだ。
もちろん、王国の問題の根底には、4家の間の不和がある。
とはいえ、国の政治を荒らす大きな要因は、下級貴族たちの暴走にあるのだ。
内政が混沌としていてもなお、王国の経済状態が豊かでいられるのは、すべて文家のおかげ。
実は王国が独立してから、あるだけの資金を運用に充てようと、コンラッド家は軍隊をもたなくなった。
それで資金繰りに余裕ができ、次第にコンラッド家の販売網が整備されていったのだ。
この戦略をまなび、文家派閥の貴族たちは次々と軍隊を解体しはじめた。
とはいえ、コンラッド家が財金の守備を案ずることなく商売に専念できるのは、すべてジュリアス軍の守護があるからだ。
しかし、それにも限度があり、最終的に守られるのは上級貴族のみとなった。
そうして文家の中堅貴族たちは武家の軍を雇うようになり、両派閥の間に交流が増えはじめた。
それによって王国の経済が回るのだが、次第に深刻な問題を引き起こすようになったのだ。
文家が金を支払い、武家が兵士を提供する。
一見、対等の関係にみえるが、裏をかえせば、文家は武家の暴力に抵抗できない上、その保護なしでは商売すらできないことを意味する。
そうしていつからか両派閥の力関係が微妙に変わりはじめ、武家が文家を見くだすようになり、脅迫じみた行動をおこなうようになったのだ。
とくに下級貴族たちの間でそれが盛んに行われ、王国の基盤をゆるがす事態となった。
このまま武家貴族をのさばらせておくと、いずれ文家はほろびて、経済が困窮する。
そうなれば、武家も軍隊の育成に専念できなくなり、他国の進軍に対抗できなくなってしまう。
そうして弱小化した文家の立場を挽回するために、コンラッド家の当主になって早々、セデック家と友好的な関係をむすぼうと、ドナルド様は動きはじめたのだ。
それは金銭面の投資だけではない。
コンラッド家が陰で糸をひいてくれたから、セデック家が順当に勢力を拡大することができた。
いくらタレント持ちと囁かれても、アンジェロさんが在籍している間、私が彼をしのいで団長になることは困難。
それでも私が16歳で騎士団長になれたのは、ほかでもなくドナルド様の働きによるものだ。
多年苦労してやっと結実させたこの婚約をドナルド様が破棄するのか。……信じられない。
「……どういうことですか?」
半分耳をうたがいながら説明を待っていると、目の前に立っているドナルド様が柔らかい口調でなだめるように言った。
「急な話で驚かせてしまったんだね、キウス君。せっかくヒューズ卿に無理いって君とフェーリを婚約させたのに、婚姻まで結べないのは本当に残念だがね」
「うむ。我輩も惜しく思うが、これはジュリアス家のためだ。仕方ないのさ!」
「……ジュリアス家のため?」
と隣の父のほうを向くと、そこには陽気な笑顔があった。
「ああ、そういえば我輩がお前に言い忘れてたな! 実はな、条約の改正で、ジュリアス家とプロテモロコ王家の政略結婚の約束も取り消しになった。それでコンラッド家はジュリアス家の血統の清めを優先することになって、この婚約を辞退したのさ!」
血統の清め……。
部屋の奥へ視線を走らせると、テーブルの端に鎮座しているニロ王子と目があった。
その背後にはセルンさんとアンジェロさんが立っている。
金髪に銀の瞳。
ジュリアス家なりに血統の護持を試みてきたそうだが、ニロ王子の代でとうとう完全に混濁してしまった。
王子は優秀でかなり慕われているが、それでも混血度のたかい彼によろこんで娘を差しだす上級武家はいない。
少なくとも、セデックとガールドの本家からは論外だろう。
それでフェーリ様が選ばれたのか……。
なるほど、と理解した瞬間、不服とやりきれない気持ちが湧きおこりかけて、ふと動揺する。
ん、なに驚いているのだ、私は……?
たしかに解消されない婚約だと確信してきたが、これも所詮は貴族同士の縁談。条件があえば、いつ解消されてもおかしくない。常識の範疇内だ。
……意外に感じることなどなにもない。
この場に私がよばれたのは、決定した事項を聞かせるためであり、意見や意向を示すためではない。
ならば、父に返す答えはひとつのみ。
「…………っ」
ん……?
分かりましたって、なん百回も言ってきた言葉なのに、なぜかすぐに出てこない。
何かおかしい……っ
ふと胸に焦りがもちあがって、無理してなんとか硬い唇をこじあけた。
「……イヤだ」
自分のものとは思えないくらい、弱々しい声がこぼれでた。
え? ……いやって、なんだ……?
なにを言っているのだ、私は……っ
自分の意思とまったく裏腹の言葉に唖然としていれば、バン、と背中に衝撃が走った。
「おッ、いまイヤって言ったか、キウス! 聞いたか、ドナルド卿。うちのキウスは婚約解消がイヤだそうだ。アハハハッ。こりゃ珍しい!」
バンバンと私を叩きながら、父は面白げに白い歯をこぼした。
するとそれにつづくように、ドナルド様も柔らかく微笑んだのだ。
「これはこれは、律儀なことだね、キウス君。ヒューズ卿がすんなりと婚約辞退を承諾したのでね、君まで『はい』としか言わないなら、フェーリも悲しむだろう」
「やっ、こりゃ失敬した! フェーリ君は立派で可愛い子だからな、我輩とて勿体なく思っているのさ。時間はかかると思うが、2家の子孫が再びあるべき姿を取りもどしたら、今度こそコンラッド家とセデック家の融合を実現させようじゃないか!」
「これはこれは。意外とちかい将来になるかもしれませんね?」
私を間にはさんでそう言うと、2人は勿体ぶって笑いあった。
少数回とはいえ、伝統をやぶったコンラッド本家のなかには異なる血脈が流れている。
それで血統至上主義の父を説得するために、ドナルド様がわざわざ同じ本家のものと結婚して、フェーリ様の血の純度を訴えたのは有名な話。
私とフェーリ様の間で穢れなき子どもが産まれてこなければ、側室を認めるという条件で話がまとまったのだ。
いろいろ手を回してくれた義理で父はコンラッド家との縁談に応じた。
だがその必要がなくなったから、喜んでいるのだろう。
前世、私の両親は治療費を稼ぐのに必死で、病室のほうに顔をだすことはあまりなかった。
独りぼっちの入院生活はとてつもなく退屈で、ツライものだった。
酸素吸入で乾燥する鼻腔の不快感。慣れない注射にあざだらけの腕。
そのすべてが嫌で嫌でしょうがなかった。
病気なんて治らなくてもいいから、一緒につれて帰って! と泣きじゃくったのは1度や2度ではない。
その都度、両親の返事は決まっていた。
わがまま言わないで、もう少しの辛抱だよ、と。
それから困ったように笑うその笑顔はどんな苦い薬よりも大嫌いだった。
あの真っ白で窮屈な部屋に何年も閉じこめられ、言われたとおり辛抱の毎日をおくったが、結局全部ムダな努力になった。
そうして私は貴族として生まれかわり、せまい病室から貴族社会という眼にみえない檻のなかに入れられた。
貴族として親に盲従するのは社会の秩序。
あいかわらず自由に動けず退屈な人生だが、さいわいにも身体の苦痛は伴わない。
それに私の第2の親は、前生のと真逆で、つねに私の傍にいてくれる。
父は義理人情にあつい人で、暑苦しいところもある。だが、私にとってそれもありがたい温かみのひとつだ。
堅実で幸せな家庭。
この新しい生活を守るために、私はセデック家の理想な息子になると決めた。
貴族の子どもらしく、規則どおり無言でいわれたとおりに行動する。
そうしたほうが誰にも責められず、無駄に苦労することもないからだ。
とくに貴族同士の婚姻は家の存続にかかわる事柄。反発して父の面目をつぶすのは浅はかな行為。
前世とちがって、いまの私はもう幼稚な子どもではない。
だから、このくらいの常識はわかる。
一方のフェーリ様はまだまだ幼く、この透明な檻の全貌がみえていない。
籠のなかにいる愛らしい小鳥のようで、大人しくて純白なのに、その碧眼はいつも強い意志をたたえている。
それを喩えるなら、閉じ合わせた指の隙間からこぼれ出る蛍火のような、淡くて尊い光。
そんな輝きを帯びるフェーリ様が結婚相手なら、多少は人生が窮屈でなくなると思った。
この婚姻は確実なものだと過信していたから、油断してムダに想いをそそいでしまった。だが、それも時間がたてば忘れることだろう。
ここは無意味に拒むよりも、諦めてうなずいたほうが無難…っ
『せっかく病気と縁のない、たくましい身体に恵まれているのだから、これからはもう少し自分らしく生きて、人生を楽しもうよ、ね?』
フェーリ様の言葉が頭をもたげて、はっと息をのんだ。
……そうだ。
そうだったんだ。
私の身体に纏わりつく鬱陶しい点滴の蔦は遥かまえに解けて消えていた。
その代わり社会制度の縛りはあるが、それを多少強引にひっぱがしても、私は死ぬことはない。
セデック家の当主という宿命から逃れることはできないとしても、このまま黙りこんだら、せっかくの人生がまた台無しになってしまう…っ
食いしめていた唇を必死に動かして、のどの奥から声を絞りだした。
「……イヤ、です。フェーリ様との婚約は、解消、しない」
息がつまりそうになりながらそう言いきった途端、バンバンとふたたび背中に衝撃が伝わった。
「ああ、フェーリ君が可愛いからな、そりゃ解消したくないだろうさ! アハハハッ、そうだな、わかった。フェーリ君に劣らないとっておきの可愛い嫁を我輩が努力して探そう。それまでは、って、……キウス?」
「……ちがう。顔、じゃない。私は、フェーリ様がいいです」
父の手をつかみハッキリとそう言えば、周囲が水を打ったように静まりかえった。
「……本気で言っているのか、キウス?」
肩すかしをくらった様子の父に意固地な態度でうなずくと、はじめて困ったような顔をされた。
ぐっと下がってから微かに上がったその口角には、なぜか喜びのような色があった。
「うむ、そうか。……いやはや、セデック家とコンラッド家はいずれ融合すると思ったが、まさかこんなにも近い将来になるとはな! アハハハッ」
ボリボリと自分の頭をかいて、父は諦めたように息をついた。
馬鹿なことをいうな、と私を怒らないのか……?
「どうだ、ドナルド卿。この通り、うちのキウスはフェーリ君がいいそうだ。急いでジュリアス家の血をもどしたい気持ちもわかる。だが、まずは一旦待ってもらい、より純度の高い2人の子どもと結ばせたほうが、3家のためにもなるだろう?」
「……3家のため? おや、これはこれは。セデック家からすれば随分と度量の大きい提案ですね。たしかにこちらのほうが利益は──」
「否、だめだ。断る」
とドナルド様が皆までいう前に、王子の凛とした声が四壁にひびいた。
そうして全員の視線を集めたそのまじめな顔には、珍しく焦燥の色をちらつかせていた。それをみて、すかさずドナルド様が口をひらく。
「次世代のセデック本家とジュリアス家の縁談話ですよ、ニロ様。考えもせずお断りするとは、これはそれなりの理由がありそうですね」
にこやかな笑顔でそう聞かれ、ニロ王子は深々と息をすってから、落ちつきを取り戻した様子で椅子から身をおこした。
「吝いことをいうようだが、ジュリアス家は王国のために己を犠牲にしてきた。他の3家よりは希薄になったとはいえ、余のなかに旧帝国の血が循環していることは判然たる事実。血統の再統合は、時間をかければいずれ実現できるもの。さりながら、余とフェーリの契りは、諸侯のなかで殊に曖昧であるジュリアス家の尊厳の確保に必需だ。条約から解放された今がよい折、一刻も猶予できない」
平常どおり淡々とした口調だが、断固とした熱がこもっている。
「ジュリアス家の尊厳の確保、ですか……。うん、これはこれは。私の予想以上にジュリアス家は切羽つまっているようですね」
聞きなれた穏やかな声でそう言うと、ドナルド様は口元を隠して小さく笑った。
そして、すぐさま父のほうを向き、残念そうな表情を浮かべてみせた。
「ヒューズ卿。ジュリアス家とコンラッド家は、王国の独立以降も手をあわせてきた仲です。私としても勿体ないことですがね、ただ、どうやら断るしかないようです」
「……うむ、そうか」
と何かを察した素ぶりで、父はニロ王子に目をやった。
「……ニロ様。本当に、どうしても、うちのキウスにフェーリ君を譲れないんですか?」
「ふむ。すまないが、ヒューズ卿。これにはジュリアス家の尊厳がかかっている。キウスの存じつきで軽々しく譲歩できない」
「……私の、思いつき?」
跳ねかえすように王子の言葉を繰りかえした瞬間、ふつふつ滾る激情が私を内側から硬直させた。
生まれた特殊な境遇で、ニロ王子は幼なじみのフェーリ様にしか心を開かない。
8年まえの求婚の儀に立ちあって、私とフェーリ様はいずれ結婚する仲だと王子は分かっている。それでも、彼はひたすらフェーリ様に愛情をそそいだ。
若気の熱で無意味な恋をしている。
いまのうちに夢を見させようと、王子の非常識な行動に目をつむってきた。
それなのに、いま都合よく私からフェーリ様を横取りしようというのか。
なにがジュリアス家の尊厳がかかっている、だ。
こんなつまらない言い訳でみなが納得すると思っているのか。
不愉快だ…っ
「……思いつきで私の婚約者に手を出してきたのはニロ王子、あなたのほうではないですか?」
やり場のない気持ちを拳に託して、トン、と細長いテーブルを叩けば、すさまじい音をたてて木片が飛びちった。
じりじりと眉間に力がこもり、向い側に立つニロ王子をみれば、かすめる程度の驚きの色は瞬く間にきえて、きりりと普段より真剣そうな表情のみが残った。
「……キウス。其方と余は長年剣を交えてきたもの同士。ふだん言葉を交わすほど親しい間柄ではないにせよ、誠実に其方と向きあうのが礼儀。しからば、単刀直入に言わせてもらおう」
そう言って一直線に砕け落ちたテーブルの残骸を踏んですすみ、王子が私の目の前にやってきた。
「よいか、キウス。其方が長年におよぶ余の言動を堪忍できたのは、気立ての良さからではなく、傲慢さゆえのものだ。二者を勘違いするな」
「……私の、傲慢?」
「ふむ。内情はともあれ、いまの其方はフェーリに焦がれて婚約の解消を拒んでいるわけではない。其方は長らく彼女を弱小生物とみて、寵をあたえた。だが、それは愛ではなく、ただの驕りだ。もとよりフェーリは其方の掌中の小鳥ではない。強情を張って閉じこめようとするな」
不屈の意志を凝縮して、硬い結晶のように冷たく光るその銀の眼をみて、ぷつりと周囲の音が途絶えた。
すぅ、と頭が冴えてきて、先ほどまで体中の血を沸騰させていた憤りが凍った湖のように、しぃんと鎮まった。
「──やめろ、キウス!」
気づけば手が王子の胸ぐらをつかんでいた。
虚弱な抵抗を苦もなく粉砕して、グイッと揺すぶる。
セルンさんの青ざめた表情。息苦しげにゆがむニロ王子の顔。
精神と肉体のズレた律動の残響が奇妙な不協和音になって、耳の奥の深い底にひいていた。
フェーリ様は私の婚約者。
それを知ったうえで、王子は無遠慮に彼女に触れてきた。
それなのに、傲慢なのは私のほうだというのか。
……理屈にあわない。
「──やめろって、キウス、おいっ!」
王子の顔めがけて振りあげた私の腕を両手で抱きとめて、セルンさんが叫ぶ。
反射的にそれを振りはらうと、今度は背後から父の腕がまわり、私を羽交い締めにした。
前方から私の手首をつかみ、王子を引きぬこうとするアンジェロさんの姿が過去の映像のように、音声もなく視界にあらわれた。
驚愕のあらわな黒眼で私を見つめ、その唇は忙しく開いたり閉じたりをくり返している。
横からセルンさんに肩を揺さぶられ、熱っぽいかけ合いを耳の向こうに感じた。
理不尽なのはニロ王子なのに、なぜみなが彼を庇うのだ。
……理解できない。
目の前の光景を不思議に思いながら、王子の体を引きずり上げて、ずい、と床に投げつける。
徒労にちかい外界の束縛を振りほどき、すばやく起きあがろうとする王子よりも速く、その下腹部に私の蹴りがはいった。
壁に激突して、一発。二発。三発。
倒れたまま背中をまるめて、王子は無抵抗に耐えた。
下唇に歯を立てて、うめき声を噛み殺す。
そこから鮮紅色の液体がじくじく湧きでて、白い歯との間に小さな水玉をつくった。
絶えず激しくぶつけてくる鋭利な眼光は、変わらず強靭な意志をたたえ、白銀の粒子をまき散らす。
これだ。この輝きがすべての元凶。
武骨な覇気と野心に満ちて、私の心地いい空気を汚染する。
ああ、そうか。
……これが私の領域に侵入した、ウイルス、ってやつだ。
自然とその首筋に手が伸びたところ、突然足をすくわれ、横から体当たりをくらった。
ぐらりと天井がみえて、頭部に衝撃が走る。
それと同時に、ぐっと両肩を押えられ、地面に組み敷かれた。
……2人の連携技、か。
必死な表情のアンジェロさんとセルンさんをみてそう悟り、再び起きあがろうとした時、セルンさんの口の動きに眼をうばわれた。
じょうが、れて。
おじょうが、われて……。
……おじょう?
セルンさんの、お嬢──
「──てしまう! 聞こえるか、キウス、お前がニロをやったら、お嬢が壊れてしまう!」
ふいとセルンさんの荒れくるった声が耳に刺さった。
……フェーリ様が、……こわれる?
心の芯から跳ねかえってくるように、はじけて砕ける氷の澄みきった音が体中にこだまする。
結霜して凪いでいた湖面にさざなみがたち、恐怖に似た不安の感情が胸にうずまいた。
「……フェーリ、さま……」
「ああ、そうだ、お嬢だ、キウス! 冷静になって考えるんだ、お嬢はニロを愛してる。お前も知ってんだろう? お嬢が大事なら、これ以上ニロに手を出すな、なあ? まだ聞こえてるか、おいっ、キウス!」
フェーリ様が、ニロ王子を、……愛する。
かけ寄ったドナルド様と父に手をふり、苦い表情で王子が立ちあがった。
壁に手をかけて頼りなく踏みこたえ、私を見おろす。
鋭い非難と、どこか憐れみを帯びたその眼差しは、静かな嵐のように、私の胸をさらに大きく波だたせた。
「……正気に、かえったなら、……はぁっ。……よく、聞きたまえ、キウス」
腹部に手をあて、細かく切れた息を整えながら、王子が言葉をつむいだ。
「……過去の、んんっ。……残滓、にほだされ、己がつくった堅城のなかに引きこもろうと、くっ。……はぁ。……それは、其方自身の勝手で、かまわない。……ふぅ。……されど。おのれの居心地よさのために、……んっ、……横柄に、他人を中へ引きずりこもうと、するな。はぁ、……かまえて、無道な、行為だ…っ」
凛然とした叱責の声は、ぼんやりしていた意識の最下層まで浸透して、ゆさゆさと私をおこした。
「もう一度、いうが、……はっ、……フェーリは、其方のふところに、放りこまれた、くっ。……か弱いひな、ではない。おのれの、思い込みで、んっ、……縛りつけて、手懐けようとするなっ」
……しばる?
いや。ちがう。
私はフェーリ様を大切に、……して、……いるのか?
否定しきれない批判を突きつけられ、深い水の底から無数の水泡が浮かんでくるように、悔しさとやるせなさが一気にこみあげてくる。
ほぉ、と深い息をこぼして、ニロ王子は姿勢をたてなおした。
「ああ、大事なっ、んっ、……くぅ。……ああ、はっ、……案ずるな、ヒューズ卿。今般の錯乱は、余の不手際もあるゆえ、不問としよう」
不安げな父にそう告げると、王子はまた私のほうへ銀の視線を落とした。
「……キウス、そっ、……はぁ。……其方が、ドナルド卿の決定に、んっ、……不満が、あるなら、……フェーリ本人に、決めてもらおう。……ふぅ。ただし、力づくで、奪うものなら、んっ、……地獄の、果てまで、其方を、追いつめてもっ、はぁっ、……かならず、取りもどす。くっ。……それだけは、肝に、銘じておけ!」
弱々しくも、強気でそう威嚇した王子の顔を呆然と眺めていれば、頭上にアンジェロさんの声がふれた。
「……不甲斐ない師匠の言葉だが、聞いてくれるか、キウス? お前がフェーリ嬢を想う気持ちはよく分かった。しかし、愛は双方で育むものだ。ここは殿下の提案どおり、フェーリ嬢の意思を尊重しよう。そのほうがお前自身のためにもなる。それでも無茶なことをするなら、私が全力でお前を止める。いいか?」
「ああ。勢いででもお嬢を泣かすようなことをするなら、オレはお前を許さない」
稀にしかみせないセルンさんの真剣な表情。
肯定するように首をふるドナルド様に、あっけに取られて当惑する父の顔。
それをみて、気づいた。
この場で話が通じず、ぐずついているのはニロ王子ではなく、私のほう……。
拳をにぎり、溢れんばかりの不満を抑えこんだ。
「……わかり、ました」
諦めてそうつぶやくと、部屋中に安堵の空気がうまれ、みな全員静かにホッと息を吐いたのがわかる。
ゆっくりと身を起こすと、にわかに寒々とした感情がひろがり、不規則な波のように私の躰を寄せてきた。
その時、コンコンと扉を叩かれて、ドナルド様の配下の声が聞こえた。
どうやら貴族夫人たちがフェーリ様をもてなすふりして、強い酒を勧めたそうだ。
フィンが代わりに何杯か飲んだが、途中からフェーリ様が無理して自分で飲みはじめたという。
フィンの立場を配慮しての行為だろう。
いつもそうだ。
私が一瞬でも目をはなせば、外部の脅威がフェーリ様をさいなむ……。
急いでその場へむかうと、フェーリ様はすでにクラクラしていた。
肩を抱きよせると、フェーリ様が少しばかり抵抗して、頭をもたげる。
しかし、私の顔を確認すると、安心したように重たそうな瞼を閉じて、そのまま私に体重をあずけたのだ。
その手はまだワイングラスをしっかりと握っている。
それを取りあげて飲み干すと、体中に焼けつくような熱さが走った。
……普段酒を飲まない人に、これは強すぎる。
ふいにグラスを握りつぶすと、サッとセルンさんとドナルド様が入ってきた。
2人が貴婦人たちの相手をしている間、フェーリ様を抱きあげて城の外へ足を運ぶ。
フェーリ様が泊まる邸宅にもどるためだ。
廊下で王子と視線が交差したが、会場のなかで唯一フェーリ様に触れられるのは、まだ婚約者の私だけ。
馬車に乗りこんで、ガタンと動きはじめると、腕の中にぐったりするフェーリ様の顔をながめた。
両肩をすべるぬれ羽色の髪。
顔へ乱れたそれをかき分けたら、ふんわりと長い睫毛は微動して、上気した頬の上に細い影を落とす。
いつの間にかすっかり大人の女性だ。
婚約した当初、まだ可憐な蕾だったフェーリ様は、いまや満開に咲きほこる花。
あと数日でフェーリ様は16歳になる。
本来では誕生日のあとに結婚する予定だった。
しかし、それも予定で終わる。
ほてって薄赤らんだその白い首筋に触れると、フェーリ様がくすぐったそうに私の胸に顔をすり寄せて、すぅ、と愛らしい寝息をたてた。
温かいふくらみを感じたその箇所だけ、長い針で刺されたように、しびれて感覚を失った。
なにが不満ならフェーリ様に決めてもらおう、だ。
私か、ニロ王子か。
フェーリ様の出す答えはとうに決まっている。
口先だけで、フェーリ様を手放せないのは私ではなく、王子のほうだ。
フェーリ様は私の婚約者なのに…っ
『フェーリは其方のふところに放りこまれたか弱いひなではない』
……ちがうっ。
か弱い雛だと、私はそんな風にフェーリ様を……
私は……
『強情を張って閉じこめようとするな』
王子に言われた言葉が耳のうちに延々とひびき、逃げるように硬く眼を閉じた。
……ちがう。
フェーリ様を閉じこめようとしていない。
むしろ私は彼女にできるかぎりの自由を与えようとした。
私はフェーリ様を愛しているから……。
『それは愛ではなく、ただの驕りだ』
ちがう、違うちがう、……ちがうんだ!
これは愛だ。
愛には色んな形がある。
私は私なりにちゃんとフェーリ様を愛している。
大事にしている……。
『……例えあなたが思っているように、フェーリ様があなたを愛していても、彼女は私と結婚するしかないんだ』
フィンに放った自分の言葉が頭をよぎり、ぴくりと手が震えた。
いずれフェーリ様は私のものになる。
だから王子が彼女に触れても、そして彼女が誰を見つめていても、別に関係ないと思った。
それが王子の言った、私の傲慢……っ
じぃと唇を噛んだら、口腔いっぱいに血のにおいがひろがった。
口惜しげにフェーリ様の体を抱きすくめると、んっ、と糸のような細い声がのぼった。
とっさに包む手をゆるめたところ、頭のなかで何かが弾けて、ひらめく。
……まだ手遅れではない、と。
フェーリ様は私のことを知りたいと言ってくれた。
今まで意味がないとあまり努力してこなかった。
しかし予想とちがって、フェーリ様はまったく私に興味がないわけではなかったのだ。
なら、ここで自分のものにして、あとで愛を育めば解決できるんじゃないか……?
少し強引でも、私の好きなことをしていいと、フェーリ様が言った。
……そうだ。
やっと、フェーリ様と心が通った。
少し強引だが、フェーリ様なら分かってくれる……。
無意識のうちに、フェーリ様の肩を抱く手に力がこもり、2人の距離が縮む。
気が遠くなるような、半ば夢うつつのうちに、馬車内に濡れた唇の音がひびく。
酒がまわったのか、身体をむさぼる熱とともに、じわじわと口の中にひどく苦い味がひろがって、舌に染みた。
前世で大嫌いだった薬の味とよく似ている。
耐えられず顔をひくと、閉じあわせていた濃い睫毛を半分ひらいて、フェーリ様がぽぅっと私をみた。
意識があったのか……とうろたえた時、その暖かく艶めく唇がゆっくりと動き、かすれた囁き声が洩れた。
「……ニロ?」
と惚けた様子でフェーリ様はそれは幸せそうな笑みを浮かべて、ふふっ、と笑った。
ばっと顔をそらして、フェーリ様から離れた。
……なにを、しているんだ。私は……。
『……おのれの居心地よさのために、横柄に他人を中へ引きずりこもうとするな。かまえて無道な行為だ』
脳裏に王子の声が騒音のようにとどろいた。
……そうだ。
フェーリ様は私のものではなく、たまたま私の檻のなかに迷い込んだ小鳥。
このまま握って離さないと、きっと死んでしまう……っ
屈辱と、後悔と、抑えがたい怒りにふるえて、喉をつまらせていた時。
『……私を無力な小鳥みたいに言うの、本当にやめて欲しい』
フェーリ様のむくれた顔が瞼に浮かび、ぱっと目をあけた。
そう、だった……。
フェーリ様はカゴのなかの小鳥ではない。
そもそも、籠も、檻も、最初から存在しなかったんだ。
私とフェーリ様を縛りつける運命の透明な鎖などなかった。
貴族社会を言い訳にして、自分を殻に閉じこめて、囚われていたのは私だけだったんだ……。
そう理解したとたん、脣の裂けたところがじりじり痛みだした。
私は痛みが大嫌いだったから、生まれ変わってから感じたことがなく、よかったと思った。
それなのに、急にどうしたんだろう。
イヤだな……。
なんだか、今日は気持ち悪い日だ……。
肩の力をぬくと、ぽたぽたと熱い水滴がしたたり、私の頬を焦げつかせながら、穏やかに眠るフェーリ様の顔をしっとりと濡らした。
【※挿絵ははや様に描いていただきました】
雪が降りやんだ中庭で、やっとフェーリ様と少し打ち解けてきたところ、大事な話があると険しい表情のセルンさんに声をかけられた。
そのままフェーリ様をフィンにまかせて急いで向かうと、突然。
「……コンラッド家からの辞退で婚約解消、ですか?」
死刑宣告のごとく言いわたされた言葉に、思わず棒立ちになった。
文武2大派閥の和解の証。
私とフェーリ様の婚姻は、王国内でギクシャクする派閥争いに終止符を打つための措置であり、国全体の安定がかかっている。
これは王国4家の団結を象徴するためだけではなく、暴れる下級貴族たちを制圧するための手段でもあるのだ。
もちろん、王国の問題の根底には、4家の間の不和がある。
とはいえ、国の政治を荒らす大きな要因は、下級貴族たちの暴走にあるのだ。
内政が混沌としていてもなお、王国の経済状態が豊かでいられるのは、すべて文家のおかげ。
実は王国が独立してから、あるだけの資金を運用に充てようと、コンラッド家は軍隊をもたなくなった。
それで資金繰りに余裕ができ、次第にコンラッド家の販売網が整備されていったのだ。
この戦略をまなび、文家派閥の貴族たちは次々と軍隊を解体しはじめた。
とはいえ、コンラッド家が財金の守備を案ずることなく商売に専念できるのは、すべてジュリアス軍の守護があるからだ。
しかし、それにも限度があり、最終的に守られるのは上級貴族のみとなった。
そうして文家の中堅貴族たちは武家の軍を雇うようになり、両派閥の間に交流が増えはじめた。
それによって王国の経済が回るのだが、次第に深刻な問題を引き起こすようになったのだ。
文家が金を支払い、武家が兵士を提供する。
一見、対等の関係にみえるが、裏をかえせば、文家は武家の暴力に抵抗できない上、その保護なしでは商売すらできないことを意味する。
そうしていつからか両派閥の力関係が微妙に変わりはじめ、武家が文家を見くだすようになり、脅迫じみた行動をおこなうようになったのだ。
とくに下級貴族たちの間でそれが盛んに行われ、王国の基盤をゆるがす事態となった。
このまま武家貴族をのさばらせておくと、いずれ文家はほろびて、経済が困窮する。
そうなれば、武家も軍隊の育成に専念できなくなり、他国の進軍に対抗できなくなってしまう。
そうして弱小化した文家の立場を挽回するために、コンラッド家の当主になって早々、セデック家と友好的な関係をむすぼうと、ドナルド様は動きはじめたのだ。
それは金銭面の投資だけではない。
コンラッド家が陰で糸をひいてくれたから、セデック家が順当に勢力を拡大することができた。
いくらタレント持ちと囁かれても、アンジェロさんが在籍している間、私が彼をしのいで団長になることは困難。
それでも私が16歳で騎士団長になれたのは、ほかでもなくドナルド様の働きによるものだ。
多年苦労してやっと結実させたこの婚約をドナルド様が破棄するのか。……信じられない。
「……どういうことですか?」
半分耳をうたがいながら説明を待っていると、目の前に立っているドナルド様が柔らかい口調でなだめるように言った。
「急な話で驚かせてしまったんだね、キウス君。せっかくヒューズ卿に無理いって君とフェーリを婚約させたのに、婚姻まで結べないのは本当に残念だがね」
「うむ。我輩も惜しく思うが、これはジュリアス家のためだ。仕方ないのさ!」
「……ジュリアス家のため?」
と隣の父のほうを向くと、そこには陽気な笑顔があった。
「ああ、そういえば我輩がお前に言い忘れてたな! 実はな、条約の改正で、ジュリアス家とプロテモロコ王家の政略結婚の約束も取り消しになった。それでコンラッド家はジュリアス家の血統の清めを優先することになって、この婚約を辞退したのさ!」
血統の清め……。
部屋の奥へ視線を走らせると、テーブルの端に鎮座しているニロ王子と目があった。
その背後にはセルンさんとアンジェロさんが立っている。
金髪に銀の瞳。
ジュリアス家なりに血統の護持を試みてきたそうだが、ニロ王子の代でとうとう完全に混濁してしまった。
王子は優秀でかなり慕われているが、それでも混血度のたかい彼によろこんで娘を差しだす上級武家はいない。
少なくとも、セデックとガールドの本家からは論外だろう。
それでフェーリ様が選ばれたのか……。
なるほど、と理解した瞬間、不服とやりきれない気持ちが湧きおこりかけて、ふと動揺する。
ん、なに驚いているのだ、私は……?
たしかに解消されない婚約だと確信してきたが、これも所詮は貴族同士の縁談。条件があえば、いつ解消されてもおかしくない。常識の範疇内だ。
……意外に感じることなどなにもない。
この場に私がよばれたのは、決定した事項を聞かせるためであり、意見や意向を示すためではない。
ならば、父に返す答えはひとつのみ。
「…………っ」
ん……?
分かりましたって、なん百回も言ってきた言葉なのに、なぜかすぐに出てこない。
何かおかしい……っ
ふと胸に焦りがもちあがって、無理してなんとか硬い唇をこじあけた。
「……イヤだ」
自分のものとは思えないくらい、弱々しい声がこぼれでた。
え? ……いやって、なんだ……?
なにを言っているのだ、私は……っ
自分の意思とまったく裏腹の言葉に唖然としていれば、バン、と背中に衝撃が走った。
「おッ、いまイヤって言ったか、キウス! 聞いたか、ドナルド卿。うちのキウスは婚約解消がイヤだそうだ。アハハハッ。こりゃ珍しい!」
バンバンと私を叩きながら、父は面白げに白い歯をこぼした。
するとそれにつづくように、ドナルド様も柔らかく微笑んだのだ。
「これはこれは、律儀なことだね、キウス君。ヒューズ卿がすんなりと婚約辞退を承諾したのでね、君まで『はい』としか言わないなら、フェーリも悲しむだろう」
「やっ、こりゃ失敬した! フェーリ君は立派で可愛い子だからな、我輩とて勿体なく思っているのさ。時間はかかると思うが、2家の子孫が再びあるべき姿を取りもどしたら、今度こそコンラッド家とセデック家の融合を実現させようじゃないか!」
「これはこれは。意外とちかい将来になるかもしれませんね?」
私を間にはさんでそう言うと、2人は勿体ぶって笑いあった。
少数回とはいえ、伝統をやぶったコンラッド本家のなかには異なる血脈が流れている。
それで血統至上主義の父を説得するために、ドナルド様がわざわざ同じ本家のものと結婚して、フェーリ様の血の純度を訴えたのは有名な話。
私とフェーリ様の間で穢れなき子どもが産まれてこなければ、側室を認めるという条件で話がまとまったのだ。
いろいろ手を回してくれた義理で父はコンラッド家との縁談に応じた。
だがその必要がなくなったから、喜んでいるのだろう。
前世、私の両親は治療費を稼ぐのに必死で、病室のほうに顔をだすことはあまりなかった。
独りぼっちの入院生活はとてつもなく退屈で、ツライものだった。
酸素吸入で乾燥する鼻腔の不快感。慣れない注射にあざだらけの腕。
そのすべてが嫌で嫌でしょうがなかった。
病気なんて治らなくてもいいから、一緒につれて帰って! と泣きじゃくったのは1度や2度ではない。
その都度、両親の返事は決まっていた。
わがまま言わないで、もう少しの辛抱だよ、と。
それから困ったように笑うその笑顔はどんな苦い薬よりも大嫌いだった。
あの真っ白で窮屈な部屋に何年も閉じこめられ、言われたとおり辛抱の毎日をおくったが、結局全部ムダな努力になった。
そうして私は貴族として生まれかわり、せまい病室から貴族社会という眼にみえない檻のなかに入れられた。
貴族として親に盲従するのは社会の秩序。
あいかわらず自由に動けず退屈な人生だが、さいわいにも身体の苦痛は伴わない。
それに私の第2の親は、前生のと真逆で、つねに私の傍にいてくれる。
父は義理人情にあつい人で、暑苦しいところもある。だが、私にとってそれもありがたい温かみのひとつだ。
堅実で幸せな家庭。
この新しい生活を守るために、私はセデック家の理想な息子になると決めた。
貴族の子どもらしく、規則どおり無言でいわれたとおりに行動する。
そうしたほうが誰にも責められず、無駄に苦労することもないからだ。
とくに貴族同士の婚姻は家の存続にかかわる事柄。反発して父の面目をつぶすのは浅はかな行為。
前世とちがって、いまの私はもう幼稚な子どもではない。
だから、このくらいの常識はわかる。
一方のフェーリ様はまだまだ幼く、この透明な檻の全貌がみえていない。
籠のなかにいる愛らしい小鳥のようで、大人しくて純白なのに、その碧眼はいつも強い意志をたたえている。
それを喩えるなら、閉じ合わせた指の隙間からこぼれ出る蛍火のような、淡くて尊い光。
そんな輝きを帯びるフェーリ様が結婚相手なら、多少は人生が窮屈でなくなると思った。
この婚姻は確実なものだと過信していたから、油断してムダに想いをそそいでしまった。だが、それも時間がたてば忘れることだろう。
ここは無意味に拒むよりも、諦めてうなずいたほうが無難…っ
『せっかく病気と縁のない、たくましい身体に恵まれているのだから、これからはもう少し自分らしく生きて、人生を楽しもうよ、ね?』
フェーリ様の言葉が頭をもたげて、はっと息をのんだ。
……そうだ。
そうだったんだ。
私の身体に纏わりつく鬱陶しい点滴の蔦は遥かまえに解けて消えていた。
その代わり社会制度の縛りはあるが、それを多少強引にひっぱがしても、私は死ぬことはない。
セデック家の当主という宿命から逃れることはできないとしても、このまま黙りこんだら、せっかくの人生がまた台無しになってしまう…っ
食いしめていた唇を必死に動かして、のどの奥から声を絞りだした。
「……イヤ、です。フェーリ様との婚約は、解消、しない」
息がつまりそうになりながらそう言いきった途端、バンバンとふたたび背中に衝撃が伝わった。
「ああ、フェーリ君が可愛いからな、そりゃ解消したくないだろうさ! アハハハッ、そうだな、わかった。フェーリ君に劣らないとっておきの可愛い嫁を我輩が努力して探そう。それまでは、って、……キウス?」
「……ちがう。顔、じゃない。私は、フェーリ様がいいです」
父の手をつかみハッキリとそう言えば、周囲が水を打ったように静まりかえった。
「……本気で言っているのか、キウス?」
肩すかしをくらった様子の父に意固地な態度でうなずくと、はじめて困ったような顔をされた。
ぐっと下がってから微かに上がったその口角には、なぜか喜びのような色があった。
「うむ、そうか。……いやはや、セデック家とコンラッド家はいずれ融合すると思ったが、まさかこんなにも近い将来になるとはな! アハハハッ」
ボリボリと自分の頭をかいて、父は諦めたように息をついた。
馬鹿なことをいうな、と私を怒らないのか……?
「どうだ、ドナルド卿。この通り、うちのキウスはフェーリ君がいいそうだ。急いでジュリアス家の血をもどしたい気持ちもわかる。だが、まずは一旦待ってもらい、より純度の高い2人の子どもと結ばせたほうが、3家のためにもなるだろう?」
「……3家のため? おや、これはこれは。セデック家からすれば随分と度量の大きい提案ですね。たしかにこちらのほうが利益は──」
「否、だめだ。断る」
とドナルド様が皆までいう前に、王子の凛とした声が四壁にひびいた。
そうして全員の視線を集めたそのまじめな顔には、珍しく焦燥の色をちらつかせていた。それをみて、すかさずドナルド様が口をひらく。
「次世代のセデック本家とジュリアス家の縁談話ですよ、ニロ様。考えもせずお断りするとは、これはそれなりの理由がありそうですね」
にこやかな笑顔でそう聞かれ、ニロ王子は深々と息をすってから、落ちつきを取り戻した様子で椅子から身をおこした。
「吝いことをいうようだが、ジュリアス家は王国のために己を犠牲にしてきた。他の3家よりは希薄になったとはいえ、余のなかに旧帝国の血が循環していることは判然たる事実。血統の再統合は、時間をかければいずれ実現できるもの。さりながら、余とフェーリの契りは、諸侯のなかで殊に曖昧であるジュリアス家の尊厳の確保に必需だ。条約から解放された今がよい折、一刻も猶予できない」
平常どおり淡々とした口調だが、断固とした熱がこもっている。
「ジュリアス家の尊厳の確保、ですか……。うん、これはこれは。私の予想以上にジュリアス家は切羽つまっているようですね」
聞きなれた穏やかな声でそう言うと、ドナルド様は口元を隠して小さく笑った。
そして、すぐさま父のほうを向き、残念そうな表情を浮かべてみせた。
「ヒューズ卿。ジュリアス家とコンラッド家は、王国の独立以降も手をあわせてきた仲です。私としても勿体ないことですがね、ただ、どうやら断るしかないようです」
「……うむ、そうか」
と何かを察した素ぶりで、父はニロ王子に目をやった。
「……ニロ様。本当に、どうしても、うちのキウスにフェーリ君を譲れないんですか?」
「ふむ。すまないが、ヒューズ卿。これにはジュリアス家の尊厳がかかっている。キウスの存じつきで軽々しく譲歩できない」
「……私の、思いつき?」
跳ねかえすように王子の言葉を繰りかえした瞬間、ふつふつ滾る激情が私を内側から硬直させた。
生まれた特殊な境遇で、ニロ王子は幼なじみのフェーリ様にしか心を開かない。
8年まえの求婚の儀に立ちあって、私とフェーリ様はいずれ結婚する仲だと王子は分かっている。それでも、彼はひたすらフェーリ様に愛情をそそいだ。
若気の熱で無意味な恋をしている。
いまのうちに夢を見させようと、王子の非常識な行動に目をつむってきた。
それなのに、いま都合よく私からフェーリ様を横取りしようというのか。
なにがジュリアス家の尊厳がかかっている、だ。
こんなつまらない言い訳でみなが納得すると思っているのか。
不愉快だ…っ
「……思いつきで私の婚約者に手を出してきたのはニロ王子、あなたのほうではないですか?」
やり場のない気持ちを拳に託して、トン、と細長いテーブルを叩けば、すさまじい音をたてて木片が飛びちった。
じりじりと眉間に力がこもり、向い側に立つニロ王子をみれば、かすめる程度の驚きの色は瞬く間にきえて、きりりと普段より真剣そうな表情のみが残った。
「……キウス。其方と余は長年剣を交えてきたもの同士。ふだん言葉を交わすほど親しい間柄ではないにせよ、誠実に其方と向きあうのが礼儀。しからば、単刀直入に言わせてもらおう」
そう言って一直線に砕け落ちたテーブルの残骸を踏んですすみ、王子が私の目の前にやってきた。
「よいか、キウス。其方が長年におよぶ余の言動を堪忍できたのは、気立ての良さからではなく、傲慢さゆえのものだ。二者を勘違いするな」
「……私の、傲慢?」
「ふむ。内情はともあれ、いまの其方はフェーリに焦がれて婚約の解消を拒んでいるわけではない。其方は長らく彼女を弱小生物とみて、寵をあたえた。だが、それは愛ではなく、ただの驕りだ。もとよりフェーリは其方の掌中の小鳥ではない。強情を張って閉じこめようとするな」
不屈の意志を凝縮して、硬い結晶のように冷たく光るその銀の眼をみて、ぷつりと周囲の音が途絶えた。
すぅ、と頭が冴えてきて、先ほどまで体中の血を沸騰させていた憤りが凍った湖のように、しぃんと鎮まった。
「──やめろ、キウス!」
気づけば手が王子の胸ぐらをつかんでいた。
虚弱な抵抗を苦もなく粉砕して、グイッと揺すぶる。
セルンさんの青ざめた表情。息苦しげにゆがむニロ王子の顔。
精神と肉体のズレた律動の残響が奇妙な不協和音になって、耳の奥の深い底にひいていた。
フェーリ様は私の婚約者。
それを知ったうえで、王子は無遠慮に彼女に触れてきた。
それなのに、傲慢なのは私のほうだというのか。
……理屈にあわない。
「──やめろって、キウス、おいっ!」
王子の顔めがけて振りあげた私の腕を両手で抱きとめて、セルンさんが叫ぶ。
反射的にそれを振りはらうと、今度は背後から父の腕がまわり、私を羽交い締めにした。
前方から私の手首をつかみ、王子を引きぬこうとするアンジェロさんの姿が過去の映像のように、音声もなく視界にあらわれた。
驚愕のあらわな黒眼で私を見つめ、その唇は忙しく開いたり閉じたりをくり返している。
横からセルンさんに肩を揺さぶられ、熱っぽいかけ合いを耳の向こうに感じた。
理不尽なのはニロ王子なのに、なぜみなが彼を庇うのだ。
……理解できない。
目の前の光景を不思議に思いながら、王子の体を引きずり上げて、ずい、と床に投げつける。
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壁に激突して、一発。二発。三発。
倒れたまま背中をまるめて、王子は無抵抗に耐えた。
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これだ。この輝きがすべての元凶。
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ああ、そうか。
……これが私の領域に侵入した、ウイルス、ってやつだ。
自然とその首筋に手が伸びたところ、突然足をすくわれ、横から体当たりをくらった。
ぐらりと天井がみえて、頭部に衝撃が走る。
それと同時に、ぐっと両肩を押えられ、地面に組み敷かれた。
……2人の連携技、か。
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じょうが、れて。
おじょうが、われて……。
……おじょう?
セルンさんの、お嬢──
「──てしまう! 聞こえるか、キウス、お前がニロをやったら、お嬢が壊れてしまう!」
ふいとセルンさんの荒れくるった声が耳に刺さった。
……フェーリ様が、……こわれる?
心の芯から跳ねかえってくるように、はじけて砕ける氷の澄みきった音が体中にこだまする。
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「……フェーリ、さま……」
「ああ、そうだ、お嬢だ、キウス! 冷静になって考えるんだ、お嬢はニロを愛してる。お前も知ってんだろう? お嬢が大事なら、これ以上ニロに手を出すな、なあ? まだ聞こえてるか、おいっ、キウス!」
フェーリ様が、ニロ王子を、……愛する。
かけ寄ったドナルド様と父に手をふり、苦い表情で王子が立ちあがった。
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凛然とした叱責の声は、ぼんやりしていた意識の最下層まで浸透して、ゆさゆさと私をおこした。
「もう一度、いうが、……はっ、……フェーリは、其方のふところに、放りこまれた、くっ。……か弱いひな、ではない。おのれの、思い込みで、んっ、……縛りつけて、手懐けようとするなっ」
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いや。ちがう。
私はフェーリ様を大切に、……して、……いるのか?
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急いでその場へむかうと、フェーリ様はすでにクラクラしていた。
肩を抱きよせると、フェーリ様が少しばかり抵抗して、頭をもたげる。
しかし、私の顔を確認すると、安心したように重たそうな瞼を閉じて、そのまま私に体重をあずけたのだ。
その手はまだワイングラスをしっかりと握っている。
それを取りあげて飲み干すと、体中に焼けつくような熱さが走った。
……普段酒を飲まない人に、これは強すぎる。
ふいにグラスを握りつぶすと、サッとセルンさんとドナルド様が入ってきた。
2人が貴婦人たちの相手をしている間、フェーリ様を抱きあげて城の外へ足を運ぶ。
フェーリ様が泊まる邸宅にもどるためだ。
廊下で王子と視線が交差したが、会場のなかで唯一フェーリ様に触れられるのは、まだ婚約者の私だけ。
馬車に乗りこんで、ガタンと動きはじめると、腕の中にぐったりするフェーリ様の顔をながめた。
両肩をすべるぬれ羽色の髪。
顔へ乱れたそれをかき分けたら、ふんわりと長い睫毛は微動して、上気した頬の上に細い影を落とす。
いつの間にかすっかり大人の女性だ。
婚約した当初、まだ可憐な蕾だったフェーリ様は、いまや満開に咲きほこる花。
あと数日でフェーリ様は16歳になる。
本来では誕生日のあとに結婚する予定だった。
しかし、それも予定で終わる。
ほてって薄赤らんだその白い首筋に触れると、フェーリ様がくすぐったそうに私の胸に顔をすり寄せて、すぅ、と愛らしい寝息をたてた。
温かいふくらみを感じたその箇所だけ、長い針で刺されたように、しびれて感覚を失った。
なにが不満ならフェーリ様に決めてもらおう、だ。
私か、ニロ王子か。
フェーリ様の出す答えはとうに決まっている。
口先だけで、フェーリ様を手放せないのは私ではなく、王子のほうだ。
フェーリ様は私の婚約者なのに…っ
『フェーリは其方のふところに放りこまれたか弱いひなではない』
……ちがうっ。
か弱い雛だと、私はそんな風にフェーリ様を……
私は……
『強情を張って閉じこめようとするな』
王子に言われた言葉が耳のうちに延々とひびき、逃げるように硬く眼を閉じた。
……ちがう。
フェーリ様を閉じこめようとしていない。
むしろ私は彼女にできるかぎりの自由を与えようとした。
私はフェーリ様を愛しているから……。
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これは愛だ。
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私は私なりにちゃんとフェーリ様を愛している。
大事にしている……。
『……例えあなたが思っているように、フェーリ様があなたを愛していても、彼女は私と結婚するしかないんだ』
フィンに放った自分の言葉が頭をよぎり、ぴくりと手が震えた。
いずれフェーリ様は私のものになる。
だから王子が彼女に触れても、そして彼女が誰を見つめていても、別に関係ないと思った。
それが王子の言った、私の傲慢……っ
じぃと唇を噛んだら、口腔いっぱいに血のにおいがひろがった。
口惜しげにフェーリ様の体を抱きすくめると、んっ、と糸のような細い声がのぼった。
とっさに包む手をゆるめたところ、頭のなかで何かが弾けて、ひらめく。
……まだ手遅れではない、と。
フェーリ様は私のことを知りたいと言ってくれた。
今まで意味がないとあまり努力してこなかった。
しかし予想とちがって、フェーリ様はまったく私に興味がないわけではなかったのだ。
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……そうだ。
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『……おのれの居心地よさのために、横柄に他人を中へ引きずりこもうとするな。かまえて無道な行為だ』
脳裏に王子の声が騒音のようにとどろいた。
……そうだ。
フェーリ様は私のものではなく、たまたま私の檻のなかに迷い込んだ小鳥。
このまま握って離さないと、きっと死んでしまう……っ
屈辱と、後悔と、抑えがたい怒りにふるえて、喉をつまらせていた時。
『……私を無力な小鳥みたいに言うの、本当にやめて欲しい』
フェーリ様のむくれた顔が瞼に浮かび、ぱっと目をあけた。
そう、だった……。
フェーリ様はカゴのなかの小鳥ではない。
そもそも、籠も、檻も、最初から存在しなかったんだ。
私とフェーリ様を縛りつける運命の透明な鎖などなかった。
貴族社会を言い訳にして、自分を殻に閉じこめて、囚われていたのは私だけだったんだ……。
そう理解したとたん、脣の裂けたところがじりじり痛みだした。
私は痛みが大嫌いだったから、生まれ変わってから感じたことがなく、よかったと思った。
それなのに、急にどうしたんだろう。
イヤだな……。
なんだか、今日は気持ち悪い日だ……。
肩の力をぬくと、ぽたぽたと熱い水滴がしたたり、私の頬を焦げつかせながら、穏やかに眠るフェーリ様の顔をしっとりと濡らした。
【※挿絵ははや様に描いていただきました】
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