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池魚籠鳥
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*******【フェーリ・コンラッド】
晩餐会で陽気なセルンの姿をみて、大満足した私は暖かいテントの中ですやすやと眠っていた。
まどろむ意識の中、ふと話し声が聞こえて目を覚ましたのだ。
状況はよく分からないけれど、外にはセルン、フィンとキウスがいたらしい。
どうやらキウスとフィンが口論になったようで、セルンが2人を止めに行ってくれたのだ。
お互いに強制された婚約だが、キウスは私をよく気づかってくれるいい人だ。心配してくれたフィンにもそう説明したけれど、うまく伝わらなかったのかな?
いつも顔のまわりに愛らしい花を咲かせる優しいキウスだが、いざ怒ると一気に険しい雰囲気になるので、それがとても怖い。
フィンが失礼なこと言ってキウスを怒らせたのでは、と不安だ。
セルンからもらった短剣をにぎり、しばらくソワソワと歩きまわっていれば、1人で戻ってきたキウスに声をかけられた。
まだ夜明け前だが、私をつれて行きたい場所があるという。
キウスの口調はいつもと同じだったけど、何げなく怒りのようなものを感じとったので、慌てて自分の身だしなみを整えて外に出た。
そのままキウスの真っ黒な馬に乗せられて、白い雪の上を走りだしたのだ。
最初は自分で馬に乗れると言ったけれど、ドレスが不便だと断られた。
仕方ないとはいえ、横座りで、後ろからキウスに抱きしめられるこの体勢は少し恥ずかしい。
私が落ちたら大変だからとキウスは言ったけれど、それでもここまでしっかりと抱きつかなくてもいい気がする……。
手綱をにぎるキウスはいつもどおり茫然とどこかを見ている。
その表情は平然としているが、長年一緒にいるからちがいが分かるのだ。
何があったのか教えてくれないけれど、キウスがひどく不機嫌そうだ。
セルンとフィンは大丈夫なのって、とても聞ける雰囲気ではないね……。
そうして1時間ほどたっただろうか。
粉雪をける蹄の音に耳をすませながら、無言で夜の景色を眺めていれば、上からキウスの声が降ってきた。
「……寒くないですか?」
「うん、私は大丈夫。キウス様はどう?」
そう聞きかえせば、キウスはほんの少し口角をあげて、「暖かいですよ」と私の頭の上に顎をのせて言った。
ある程度落ち着きを取り戻したようだね。
よかったと思ったところ、馬がゆったりと止まったのだ。
前を向けば、そこには青黒い夜の色をうつす湖があった。
水面に浮かぶ雪は羽毛のようにフワリと揺れてから、スッと暗い底へと溶けこんでいった。
「……きれい」
眼前の風景に気を取られているうちに、キウスが自分の外套を私にかけてくれたのだ。
「手を見せてください」
そう言われ手を差しだすと、キウスはグローブを外してから私の両手を包みこんだ。
そしてそれを自分の口元に引きよせると、ハァ、と暖かい息を吹きかけてくれた。そのくすぐったい感触に思わず息をのんだ。
「手が冷たいですね。本当に寒くないですか?」
「……う、うん。大丈夫。ありがとう」
ぎこちなく礼をいうと、キウスが「いいえ」と顔をほころばせた。
キウスは私とちがって、貴族に政略結婚はつきものだと認識している。
そしてこの世界ではこれが常識だと、あまり屋敷の外にでない私でも分かることだ。
そのしきたりに従ってキウスは私を婚約者として接してくれる。
当然恋人のような触れあいは必要なの分かっているけれど、それでもここまで無理することなのかな……。
そう困惑していると、キウスは胸をかたむけて私の顔を覗きこんできた。
「どうしました?」
人の気づかいを断るのは失礼だ。
分かっているけれど、やはりこういうことは好きな人とするべきだと思う。
「……あのね、キウス様。婚約しているからだと思うけれど、それでもその、無理してまで優しくしなくてもいいよ……?」
おずおずそう切りだすと、
「婚約しているから無理している? ……なぜそう思うのですか?」
とキウスはよく分からない様子をみせた。
その反応に私もつい小首をかしげて。
「お互い親に決められた婚約者で、恋人ではない……から?」
そう不思議がると、キウスが困ったような笑みを浮かべた。
「貴族に自由恋愛などありませんから、みんなそうではないですか? それに婚約者は恋人以上の関係ですから、このくらいは普通ですよ」
「た、確かにそうだけど……。宴会とかだとほかの人の目があるから、触れあうのは仕方ないかも知れないけれど。なんだろう、2人の時まで演じなくてもいいんじゃないかな、なんて……」
「……演じる?」
とキウスは真顔になった。
「フェーリ様は婚約しているから無理しているのですか? 私が遠征に出る時、心配してくれたのは演技だったのですか?」
そう訊かれ、焦って「ちがう……!」と何度も首をふった。
「キウス様は強いと聞くけれど、危ないところへ行くのはやはり心配だよ……! キウス様はいつも私によくしてくれる、その気持ちはもちろん本物だとわかっているよ……。演じるってそういう意味で言ったんじゃないけど、言葉がよくなかったね。ごめんなさい……」
そう謝ると、キウスは「いいえ」と優しく微笑んだ。
「フェーリ様の気持ちも本物だと、私はちゃんと分かっていますよ。婚約しているから気軽に触れているのは本当ですが、無理しているわけではないので心配しないでください」
「……うん、わかった。ありがとう」
なんだか申し訳なくなって、湖のほうに視線をそらせば、再びキウスが口を開いた。
「本当に分かっていますか? 勝手に決められた婚約者だが、私はフェーリ様だから優しくしているのですよ?」
「……私、だから?」
キウスを見あげれば、彼は握っていた私の両手を柔らかくなでながら、「そうですよ」とうなずいた。
「テーブルにあったフェーリ様の絵本。あれは私にとって特別な意味を持っていますから、いつもそばに置いてあるのですよ」
「……そうなの?」
「はい。誰かに絵本を読み聞かせてもらったのは初めてでしたから、すごく嬉しかったです。とても苦しそうでしたが、私のお願いを聞いてフェーリ様が最後まで読み聞かせてくれました。そんなフェーリ様だから、私は優しくしているのです」
とキウスはニコニコと顔のまわりに花らしきものを咲かせた。
絵本の読み聞かせ。
たしかにあれは、婚約したてのできごとだった気がする。
当初は交流を深めるために、遠征中を除いて、キウスは最低でも月に一度は会いにきてくれた。
しかし当時の私たちはお互いをよく知らなかったし、共通の話題もなかったからかなり気まずかったのだ。
結局無言のまま私は本を読みはじめて、キウスは紅茶を飲みながら一日を過ごした。
そうしてある日、ふと天井を見つめるキウスの姿が目に入ったのだ。
なにを見ているのと訊けば、壁にある花柄が動物のように見えるとキウスが答えた。
ぼんやりしたその笑顔はどこか孤独で、とてつもなく寂しそうだった。
一日中座っているからつまらなかったのだろう。
それで暇つぶしに本を読むかとキウスに尋ねてみると、しばらく悩んでから絵本を読み聞かせて欲しいと言ったのだ。
テントにあった絵本は、その時のものだ。
そうか、その絵本に特別な意味、か……。
あれはまだちゃんと喋れない時だったから、1時間もかけて読んだのを覚えている。
キウスが辛抱よく聞いてくれたから声をだして読みきれたのだけれど、まさかここまで喜んでくれたなんて……。
無理した甲斐があったわ。
ふふっと笑う私の髪の毛をそっとすくいあげながら、キウスが言葉を紡ぎだした。
「お互いに縛りつけられたものですが、相手がフェーリ様でよかったと私は心底思っていますよ? おなじ檻でも、フェーリ様がいるから窮屈でなくなります。どちらかというと、私はこの運命の巡りあわせを感謝しているのです」
と私の髪に唇をかさねて、キウスがふわっと口元をゆるめた。
縛りつけ……か。
条約の制約で王国の経済が低迷して、文武の対立が年々激しくなるばかり。
私とキウスの婚約はこの不和を緩和するためだと、婚約したあとドナルド社長が教えてくれた。
だから条約が改正されなければ、この婚約は解消できない。
それで、同じことを聞かされただろうニロは休む間もなく、がんばってくれたのだ。
そんなニロの力になるために、私も政治に参加したいと社長に願いでた……のだが、毎回のれんに腕押しだった。
何年も社長に断られて落ち込む私を、キウスがずっと慰めてくれたのだ。
そうして14才になりコンラッド家の事業を任されてから、私は目がまわるほど忙しくなった。そんな私を配慮してキウスは用事がある時以外、屋敷にこなくなったのだ。
婚約者の私がニロと親密にしていても文句一つ口にしない。
普段からふわふわして掴めない人だが、キウスはよく気が利く心の広い人だ。
政略結婚は貴族の義務と見きっているようだけれど、それでも悲しすぎるよ……。
「……あのね、キウス様。これから私との婚約が解消できたら、心ならず結婚するのではなく、できれば素敵な人を見つけて幸せになって欲しい」
誠意をこめてそう伝えると、私の黒髪をなでていたキウスの手がピタリと止まった。
「……婚約、解消?」
「うん。実はね、まだ根拠はないけれど、条約はもうすぐ改正されると聞いた。そうなれば──」
「──あり得ないですよ」
「……え?」
「条約が改正されても、私たちの婚約は解消されません」
そう断言したキウスの瞳は夜空よりも暗く、くすんでみえた。
あれ、もしかしてキウスはドナルド社長から聞かされてないのかな?
「あのね──」
「──あり得ないことはあり得ないです」
私を遮ってそういうと、キウスは呆れたように「……ふぅ」と小さくため息をついた。
「もしかしたらと思いましたが、やはり変なことを聞かされて無駄に希望を持ってしまったようですね」
「……むだ?」
「はい。考えるだけムダ、ですよ。なにがあっても私たちの婚約は解消されないし、できない。しかしそうですね。これは眼にみえない鎖ですから、実感しにくいのは本当です」
そう呟くと、キウスは私の両手を握りこんできた。
痛みはないけれど、こころもち力をこめたらしく、圧迫感はあった。
「ほら、手を抜けだしてみてください」
軽く私の手を揺らして、キウスが言った。
よく分からないまま手を動かそうとしたが、厚い掌の中でしっかりと固定されて、ピクリとも動かなかった。
身動きのとれないその感覚に、思わず胸の奥がザワザワと揺れはじめたのだ。
「キウス、さま……?」
頼りなく感じてキウスを仰ぎみると、そこには柔らかい笑みがあった。
「この通り、コンラッド家に産まれた時点でフェーリ様はかごの鳥です。いくら羽ばたいても外には出られません。これで分かりましたか?」
その声はひんやりと冷たく、心を凍らせるような絶望感を漂わせていた。
ちがう、そんなことない……! と込みあげてきた声は喉の奥で圧しつぶされて、私はただただ凝然とキウスの顔を見あげることしかできなかった。
「誤解されたら困りますので、はっきりと伝えておきましょう。これは逃れられない定めですが、私は強く生きていこうとするフェーリ様の姿が好きです。狭い檻のなかでも、フェーリ様が自由でいられるように努力します」
ゆっくりと私の手を解放しながらキウスが言った。
そして私の肩からずり落ちた上着を優しくかけ直してから、キウスがずしっと私の頭の上に顎をのせてきたのだ。
「無意味なあがきは返って自分を傷つけてしまいますから、もうやめてくださいね」
耳元にひびいた声色から感傷の名残りらしきものを感じとった。
すごく、悲しそうな声だ……。
意地悪で私を脅しているのではなく、キウスは本気で解消できないと確信しているのね。
好きな人と結ばれたいのは無駄な足掻き……か。
そういえば、キウスはこの世界に生まれ育った人で、貴族の決まりごとを完全に受けいれて馴染んでいる。
その価値観のちがいに気づかないまま適当なことを言ってしまった。
もうこれ以上なにも言えないわ……。
できるだけ気持ちを落ち着かせてから、声を発した。
「雪、中々降りやまないね……」
「……そう、ですね」
とキウスは私の身体を引きよせた。
私はかごの鳥……か。
仮にキウスの言うとおり婚約の解消は無理だとしても、私は絶対にあきらめない。
ニロと必ず結ばれる。
そう約束したんだ……っ
冷やかなしじまに包まれながら、雪のなかに埋もれていく石に視線を落とした。そうしてキウスの腕の中で、まだ顫えている自分の両手を堅く握りあわせたのだ。
晩餐会で陽気なセルンの姿をみて、大満足した私は暖かいテントの中ですやすやと眠っていた。
まどろむ意識の中、ふと話し声が聞こえて目を覚ましたのだ。
状況はよく分からないけれど、外にはセルン、フィンとキウスがいたらしい。
どうやらキウスとフィンが口論になったようで、セルンが2人を止めに行ってくれたのだ。
お互いに強制された婚約だが、キウスは私をよく気づかってくれるいい人だ。心配してくれたフィンにもそう説明したけれど、うまく伝わらなかったのかな?
いつも顔のまわりに愛らしい花を咲かせる優しいキウスだが、いざ怒ると一気に険しい雰囲気になるので、それがとても怖い。
フィンが失礼なこと言ってキウスを怒らせたのでは、と不安だ。
セルンからもらった短剣をにぎり、しばらくソワソワと歩きまわっていれば、1人で戻ってきたキウスに声をかけられた。
まだ夜明け前だが、私をつれて行きたい場所があるという。
キウスの口調はいつもと同じだったけど、何げなく怒りのようなものを感じとったので、慌てて自分の身だしなみを整えて外に出た。
そのままキウスの真っ黒な馬に乗せられて、白い雪の上を走りだしたのだ。
最初は自分で馬に乗れると言ったけれど、ドレスが不便だと断られた。
仕方ないとはいえ、横座りで、後ろからキウスに抱きしめられるこの体勢は少し恥ずかしい。
私が落ちたら大変だからとキウスは言ったけれど、それでもここまでしっかりと抱きつかなくてもいい気がする……。
手綱をにぎるキウスはいつもどおり茫然とどこかを見ている。
その表情は平然としているが、長年一緒にいるからちがいが分かるのだ。
何があったのか教えてくれないけれど、キウスがひどく不機嫌そうだ。
セルンとフィンは大丈夫なのって、とても聞ける雰囲気ではないね……。
そうして1時間ほどたっただろうか。
粉雪をける蹄の音に耳をすませながら、無言で夜の景色を眺めていれば、上からキウスの声が降ってきた。
「……寒くないですか?」
「うん、私は大丈夫。キウス様はどう?」
そう聞きかえせば、キウスはほんの少し口角をあげて、「暖かいですよ」と私の頭の上に顎をのせて言った。
ある程度落ち着きを取り戻したようだね。
よかったと思ったところ、馬がゆったりと止まったのだ。
前を向けば、そこには青黒い夜の色をうつす湖があった。
水面に浮かぶ雪は羽毛のようにフワリと揺れてから、スッと暗い底へと溶けこんでいった。
「……きれい」
眼前の風景に気を取られているうちに、キウスが自分の外套を私にかけてくれたのだ。
「手を見せてください」
そう言われ手を差しだすと、キウスはグローブを外してから私の両手を包みこんだ。
そしてそれを自分の口元に引きよせると、ハァ、と暖かい息を吹きかけてくれた。そのくすぐったい感触に思わず息をのんだ。
「手が冷たいですね。本当に寒くないですか?」
「……う、うん。大丈夫。ありがとう」
ぎこちなく礼をいうと、キウスが「いいえ」と顔をほころばせた。
キウスは私とちがって、貴族に政略結婚はつきものだと認識している。
そしてこの世界ではこれが常識だと、あまり屋敷の外にでない私でも分かることだ。
そのしきたりに従ってキウスは私を婚約者として接してくれる。
当然恋人のような触れあいは必要なの分かっているけれど、それでもここまで無理することなのかな……。
そう困惑していると、キウスは胸をかたむけて私の顔を覗きこんできた。
「どうしました?」
人の気づかいを断るのは失礼だ。
分かっているけれど、やはりこういうことは好きな人とするべきだと思う。
「……あのね、キウス様。婚約しているからだと思うけれど、それでもその、無理してまで優しくしなくてもいいよ……?」
おずおずそう切りだすと、
「婚約しているから無理している? ……なぜそう思うのですか?」
とキウスはよく分からない様子をみせた。
その反応に私もつい小首をかしげて。
「お互い親に決められた婚約者で、恋人ではない……から?」
そう不思議がると、キウスが困ったような笑みを浮かべた。
「貴族に自由恋愛などありませんから、みんなそうではないですか? それに婚約者は恋人以上の関係ですから、このくらいは普通ですよ」
「た、確かにそうだけど……。宴会とかだとほかの人の目があるから、触れあうのは仕方ないかも知れないけれど。なんだろう、2人の時まで演じなくてもいいんじゃないかな、なんて……」
「……演じる?」
とキウスは真顔になった。
「フェーリ様は婚約しているから無理しているのですか? 私が遠征に出る時、心配してくれたのは演技だったのですか?」
そう訊かれ、焦って「ちがう……!」と何度も首をふった。
「キウス様は強いと聞くけれど、危ないところへ行くのはやはり心配だよ……! キウス様はいつも私によくしてくれる、その気持ちはもちろん本物だとわかっているよ……。演じるってそういう意味で言ったんじゃないけど、言葉がよくなかったね。ごめんなさい……」
そう謝ると、キウスは「いいえ」と優しく微笑んだ。
「フェーリ様の気持ちも本物だと、私はちゃんと分かっていますよ。婚約しているから気軽に触れているのは本当ですが、無理しているわけではないので心配しないでください」
「……うん、わかった。ありがとう」
なんだか申し訳なくなって、湖のほうに視線をそらせば、再びキウスが口を開いた。
「本当に分かっていますか? 勝手に決められた婚約者だが、私はフェーリ様だから優しくしているのですよ?」
「……私、だから?」
キウスを見あげれば、彼は握っていた私の両手を柔らかくなでながら、「そうですよ」とうなずいた。
「テーブルにあったフェーリ様の絵本。あれは私にとって特別な意味を持っていますから、いつもそばに置いてあるのですよ」
「……そうなの?」
「はい。誰かに絵本を読み聞かせてもらったのは初めてでしたから、すごく嬉しかったです。とても苦しそうでしたが、私のお願いを聞いてフェーリ様が最後まで読み聞かせてくれました。そんなフェーリ様だから、私は優しくしているのです」
とキウスはニコニコと顔のまわりに花らしきものを咲かせた。
絵本の読み聞かせ。
たしかにあれは、婚約したてのできごとだった気がする。
当初は交流を深めるために、遠征中を除いて、キウスは最低でも月に一度は会いにきてくれた。
しかし当時の私たちはお互いをよく知らなかったし、共通の話題もなかったからかなり気まずかったのだ。
結局無言のまま私は本を読みはじめて、キウスは紅茶を飲みながら一日を過ごした。
そうしてある日、ふと天井を見つめるキウスの姿が目に入ったのだ。
なにを見ているのと訊けば、壁にある花柄が動物のように見えるとキウスが答えた。
ぼんやりしたその笑顔はどこか孤独で、とてつもなく寂しそうだった。
一日中座っているからつまらなかったのだろう。
それで暇つぶしに本を読むかとキウスに尋ねてみると、しばらく悩んでから絵本を読み聞かせて欲しいと言ったのだ。
テントにあった絵本は、その時のものだ。
そうか、その絵本に特別な意味、か……。
あれはまだちゃんと喋れない時だったから、1時間もかけて読んだのを覚えている。
キウスが辛抱よく聞いてくれたから声をだして読みきれたのだけれど、まさかここまで喜んでくれたなんて……。
無理した甲斐があったわ。
ふふっと笑う私の髪の毛をそっとすくいあげながら、キウスが言葉を紡ぎだした。
「お互いに縛りつけられたものですが、相手がフェーリ様でよかったと私は心底思っていますよ? おなじ檻でも、フェーリ様がいるから窮屈でなくなります。どちらかというと、私はこの運命の巡りあわせを感謝しているのです」
と私の髪に唇をかさねて、キウスがふわっと口元をゆるめた。
縛りつけ……か。
条約の制約で王国の経済が低迷して、文武の対立が年々激しくなるばかり。
私とキウスの婚約はこの不和を緩和するためだと、婚約したあとドナルド社長が教えてくれた。
だから条約が改正されなければ、この婚約は解消できない。
それで、同じことを聞かされただろうニロは休む間もなく、がんばってくれたのだ。
そんなニロの力になるために、私も政治に参加したいと社長に願いでた……のだが、毎回のれんに腕押しだった。
何年も社長に断られて落ち込む私を、キウスがずっと慰めてくれたのだ。
そうして14才になりコンラッド家の事業を任されてから、私は目がまわるほど忙しくなった。そんな私を配慮してキウスは用事がある時以外、屋敷にこなくなったのだ。
婚約者の私がニロと親密にしていても文句一つ口にしない。
普段からふわふわして掴めない人だが、キウスはよく気が利く心の広い人だ。
政略結婚は貴族の義務と見きっているようだけれど、それでも悲しすぎるよ……。
「……あのね、キウス様。これから私との婚約が解消できたら、心ならず結婚するのではなく、できれば素敵な人を見つけて幸せになって欲しい」
誠意をこめてそう伝えると、私の黒髪をなでていたキウスの手がピタリと止まった。
「……婚約、解消?」
「うん。実はね、まだ根拠はないけれど、条約はもうすぐ改正されると聞いた。そうなれば──」
「──あり得ないですよ」
「……え?」
「条約が改正されても、私たちの婚約は解消されません」
そう断言したキウスの瞳は夜空よりも暗く、くすんでみえた。
あれ、もしかしてキウスはドナルド社長から聞かされてないのかな?
「あのね──」
「──あり得ないことはあり得ないです」
私を遮ってそういうと、キウスは呆れたように「……ふぅ」と小さくため息をついた。
「もしかしたらと思いましたが、やはり変なことを聞かされて無駄に希望を持ってしまったようですね」
「……むだ?」
「はい。考えるだけムダ、ですよ。なにがあっても私たちの婚約は解消されないし、できない。しかしそうですね。これは眼にみえない鎖ですから、実感しにくいのは本当です」
そう呟くと、キウスは私の両手を握りこんできた。
痛みはないけれど、こころもち力をこめたらしく、圧迫感はあった。
「ほら、手を抜けだしてみてください」
軽く私の手を揺らして、キウスが言った。
よく分からないまま手を動かそうとしたが、厚い掌の中でしっかりと固定されて、ピクリとも動かなかった。
身動きのとれないその感覚に、思わず胸の奥がザワザワと揺れはじめたのだ。
「キウス、さま……?」
頼りなく感じてキウスを仰ぎみると、そこには柔らかい笑みがあった。
「この通り、コンラッド家に産まれた時点でフェーリ様はかごの鳥です。いくら羽ばたいても外には出られません。これで分かりましたか?」
その声はひんやりと冷たく、心を凍らせるような絶望感を漂わせていた。
ちがう、そんなことない……! と込みあげてきた声は喉の奥で圧しつぶされて、私はただただ凝然とキウスの顔を見あげることしかできなかった。
「誤解されたら困りますので、はっきりと伝えておきましょう。これは逃れられない定めですが、私は強く生きていこうとするフェーリ様の姿が好きです。狭い檻のなかでも、フェーリ様が自由でいられるように努力します」
ゆっくりと私の手を解放しながらキウスが言った。
そして私の肩からずり落ちた上着を優しくかけ直してから、キウスがずしっと私の頭の上に顎をのせてきたのだ。
「無意味なあがきは返って自分を傷つけてしまいますから、もうやめてくださいね」
耳元にひびいた声色から感傷の名残りらしきものを感じとった。
すごく、悲しそうな声だ……。
意地悪で私を脅しているのではなく、キウスは本気で解消できないと確信しているのね。
好きな人と結ばれたいのは無駄な足掻き……か。
そういえば、キウスはこの世界に生まれ育った人で、貴族の決まりごとを完全に受けいれて馴染んでいる。
その価値観のちがいに気づかないまま適当なことを言ってしまった。
もうこれ以上なにも言えないわ……。
できるだけ気持ちを落ち着かせてから、声を発した。
「雪、中々降りやまないね……」
「……そう、ですね」
とキウスは私の身体を引きよせた。
私はかごの鳥……か。
仮にキウスの言うとおり婚約の解消は無理だとしても、私は絶対にあきらめない。
ニロと必ず結ばれる。
そう約束したんだ……っ
冷やかなしじまに包まれながら、雪のなかに埋もれていく石に視線を落とした。そうしてキウスの腕の中で、まだ顫えている自分の両手を堅く握りあわせたのだ。
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