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蟻の思い

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*********【セルン・ガールド】

 ふと意識を取り戻した刹那、囁き声が耳に飛び込んだ。

「──まのスープを食べれば、セルンさんの体はすぐに元通りになりますよ!」

「ありがとうございます、イグ様」

「また先日のように倒れてしまいますから、聖女様もちゃんと召し上がらないといけませんよ?」

「……はい。すみませんでした」

「あっ! い、いいえ。慣れない暑さで疲れも溜まっていましたから、あれは仕方なかったことですよ」

「はい……」

「うっ、えーっと……。そ、そろそろ目覚めるとジョセフ様が仰っておられましたので、きっと大丈夫ですよ! では、何かあれば遠慮なく声をかけてくださいね」

 扉を閉める音がしたのち、風にのって温かく香ばしい匂いが流れてきた。

 力を入れて瞼を開けると、目の端で人影がみえた。ベッドサイドのテーブルに何かを置いている。

「……ぉじょ?」

 喉が乾き切って声がかすれてしまった。
 
「セルン……!」

 ぼんやりした視界にお嬢の不安げな顔が入ってきた。

「──くっ」

 半身を起こせば、脇腹に鋭い痛みが走った。

「大丈夫? 傷口を縫合ほうごうしたばかりだから、あまり動かないでね」

 ……傷? 

 違和感を覚えたところに手を当てると、服の下に布のようなものが巻かれていた。

 そういえば……

「にぃ……、んんっ。ニロは?」

「ニロは大丈夫。事後の処理で忙しくて会えなかったけれど……はい、お水。一口だけだよ」

 沈着な声でそう答えてくれたお嬢の手は細かく震えていた。
 騒ぎの中、突然血だらけのオレを見たから無理もないか。

「ありがとう、お嬢。……ほら、座って」

 首を縦にふると、お嬢は大人しく椅子に腰をかけた。
 
 ここは……城の中、か。
 しばらく周囲を眺めているうちに、だんだんと頭がハッキリしてきた。

「熱は出るとジョセフ様が言ったけれど、気分はどう?」

「今のところは平気……あ! そういえば。あの時、象が急に暴走したが、お嬢は怪我してなかったかい?」

「うん、大丈夫。私は全然大丈夫だから、心配しないで」

「そうか……」

 最近お嬢の豊かな表情を見られるようになって満悦している。だが、この無理して作った笑顔は少し苦手だな。

「なあ、お嬢」

 オレが手を差し出すと、すぐにお嬢が手を重ねてくれた。

「笑顔というのは無理して作るもんじゃないんだよ? 笑いたい時だけ笑って。他人に見せる顔もあると思うが、せめてオレの前では飾らないで欲しいな……」

 オレがそう言うと、お嬢は困ったようにその細い眉を下げた。

「表情がね、勝手に動いちゃうの……。こういう時って、セルンにどんな顔を見せればいいのか、よく分からない」

「表情、か……。うーん、でもな? 悲しい顔でも、笑い顔でも、無表情でも。お嬢の表情なら全部好きだから、ありのままオレに見せてくれるかい?」

「! ……セルンっ」

 噛みしめるようにオレの名を口にすると、お嬢はこくこくと頷いた。そしてその顔から力がぬけていくように、口角が下がっていった。

「あの日。セルンが動かなくなったのをみて、心臓が止まるんじゃないかってくらい、怖かった」

 心細そうな声でお嬢が呟き、その青い瞳は少しずつ潤みを帯びてきた。

「いままで、扉を開けたら必ずそこにセルンがいた。毎日私を待って、朝の挨拶をしてくれる。そんな日々が当たり前すぎて、贅沢だと全然分かっていなかったの……」

 ぎゅっとオレの手を握りながらお嬢は俯いた。

「このままセルンがいなくなったらどうしようって、私、怖くて……。セルンがいなくなるのイヤだって、不安で、なのに何も役に立てなくて……っ」

 嗚咽まじりのその声に、胸の奥がじんと痛んだ。

「なに言ってるんだい?」

 震えるその小さな肩に手をかけて、優しくなでた。

「オレの心臓はお嬢のものだよ。お嬢の許可なしに死ぬことはないから、安心して。ね?」

 オレの言葉に反応して、顔をあげてきたお嬢の目は一瞬だけ悲しそうに揺れた。

「……ちがう。そうじゃないの、セルン……」

「ん?」

「ずっと傍にいて欲しいけれど、こんな風にセルンを束縛したいんじゃないの。セルンは自分の人生がある。私の近くにいなくても、セルンが幸せでいてくれるなら十分だよ」

 まばたきと共にポロポロと露の玉をこぼしながら、お嬢は力強く声を発した。

「誓いの儀で、セルンが私に心臓を捧げてくれたように、私はセルンを心に刻んだ。これから二人が離れ離れになっても、心はつながっている。私はそれでいいの。だから許可とか、そんな悲しいこと言わないで……っ」





「お嬢……。ああ、悪い。わかった、もう言わないよ」

 指でお嬢の濡れた頬をぬぐいながら、心がしーんと冷える寂しさにおそわれた。





 離れ離れ……か。
 やはり、あの夜聞いてしまったお嬢の言葉は本気……。

 身体の芯まで凍りつきそうな冷たさの中に、嫉妬の炎がごうごうと燃えあがってくるのを感じた。

 お嬢に気づかれないよう、微笑むふりしてじぃと唇をかんだ。

 お嬢を幸せにできるのはオレ、じゃない。
 最初から分かっていたことだ。今さら、なに悔しがってんだよ、オレは……。

「痛いの、セルン?」

「ん?」

「顔がつらそうだよ。ちょっと待ってね、誰かをよんでくる」

「──いや、いい」

 握りあっていた手に力を入れて、お嬢を止めた。







 いつか手放さなくてはならない日が来る。
 分かっている、わかっているのだが、その日がくるまでこの手を放すなんて、オレにはできない。

「お嬢はさ。オレを束縛したくないって言ったが、オレはお嬢を束縛する気満々なんだよ?」

「……え?」

「だってほら、オレは王子でも、剣の鬼才でもないからさ。必死の思いですがりつかなければ、お嬢に見捨てられてしまうだろ?」

「そ、そんな……! セルンを見捨てるなんてしないよ、絶対」

 首を横にふり、お嬢は真顔でオレをみた。

「絶対に?」

「うん」

「じゃあ、そう誓ってくれる?」

「……そうちかう?」

「ああ。これから何があっても、オレを見捨てない。どこへ行っても必ずオレを連れていってくれるって、誓ってくれるかい?」

 真剣な口調でそう訊くと、迷うことなくお嬢が頷いてくれた。

「セルンが私の傍に居たいと望むかぎり、私は絶対にセルンを見捨てない。ここで神に誓うよ」

 そう言ってくれたお嬢の手を自分の唇に引き寄せて、ちゅっとキスをした。

「これで決まりだよ。今後、たとえ世界の最果てへ行っても、必ずオレを連れて行かないとダメ。いい?」

 即位式の前夜。ニロとの会話をオレに聞かれたことを察したのか、お嬢の体がピクリと小さく跳ねた。そしてオレをちらりとみてから、やり場に困ったように目を泳がせた。

「オレはな、お嬢がオレの作ったご飯を食べて、美味しいと褒めてくれるだけで心が満たされる。お嬢の傍にいられるだけでオレは幸せだから、これからもずっと傍にいさせて?」

「セルン……っ」

 ぽっとお嬢の顔がバラ色になった。
 縫いたばかりのところが痛むが、それに耐えながらお嬢の耳に顔を近寄せた。

「……イヤ?」

 熱い息を吹きかけるようにそう囁くと、お嬢はさらに顔を真っ赤に染めながら、ぶんぶんと首をふった。

「いや、じゃない……っ。私も、ずっと傍にいて欲しい。セルンの料理を一生食べられるなら、私も幸せだよ……!」

 お嬢の必死な声。ああ、かわいいな……。

 無表情の時と変わらない可愛らしい反応。だが、こうして恥ずかしそうな表情と声が加わると、いっそう愛らしくみえて、胸がじわじわと温かくなった。

「ありがとう、お嬢」

 いま、この瞬間。お嬢の瞳にはニロでもキウスでもなく、オレしか映っていない。

 儚いかもしれないが、お嬢を独り占めできるこの時間があれば充分幸せだ。

 そうしてお嬢としばらく見つめあっていると、

「あっ、そうだ、スープ……!」

 はっとした様子でお嬢が隣のテーブルに手を伸ばした。

「ん? な、なんだ、これは……っ」

 雑に切られた肉と野菜のかたまり。
 明らかに料理人がつくったものではないそれを見て思わず声をあげた。するとお嬢が身をよじりながら、そわそわとオレをみた。

「料理人が作ったほうが美味しいと思うけれど、セルンが喜ぶとイグ様が言ったから、一緒に作ったの」

「え、お嬢が厨房に入ったのかい……⁈ まさか、包丁を使ったのか? ダメだよ。どれ、怪我してない? 手を見せて」

「だ、大丈夫……! 大丈夫だから、私のことばかり心配しないで……」

 切り傷が見当たらない。
 本当に大丈夫みたいだ。ああ、ヒヤッとしたぜ……。

 お嬢の指を一本一本確認して、ほっと息をついた時。

「これね、刃物は危ないって、下ごしらえはイグ様がしてくれたの。味つけは私だけれど、あまり自信がないから、食べられなかったらそう言ってね?」

 つまり、これはお嬢の味。
 お嬢がオレを思って作ったスープ……あり得ない、なんだこれ。オレはまだ夢を見てんのか?
 
 銀盆を前にポカンとしていると。

「セルン、どうしたの? もしかして……いや?」

「ち、ちがう! お嬢の手料理だぜ? イヤなわけないだろ……って、あっ、そうだ! お嬢。このままさ、オレに食べさせてくれるかい?」

 ふと閃いて、ねだるようにそうお願いをすると、お嬢はニコッと嬉しそうに点頭した。そして温かいスープをすくいあげると、その小さな唇でふーふーと息を吹きかけてくれた。

「はい、どうぞ」

 うお、まじでキターーーーッ‼︎ 

 かわいい、やばい、どうしよう。
 口元に変な笑みを浮かべてるかも……!

 ぱくっとスプーンの先端をくわえて、ゴクリと飲み込んだ。

「んんー! うまいっ、メチャクチャ美味いよ! おじょ、いてて」

「大丈夫……? いっぱいあるから、ゆっくり食べてね。はい、どうぞ」

 言いながらお嬢がまたスープを寄せてきたので、「あ~ん」と口を開けた時、いっちばん耳にしたくない声が響いた。

「なにをしている?」

「あっ、ニロ! 帰ってきたの? 大丈夫だった?」

 スプーンを下ろしてお嬢がニロを振り向いた。
 
 ちっ、なんつうタイミングだ。っていうか、このまま永遠に帰ってこなくてもいいのに。

 オレの目をみて、ニロが不機嫌そうに眉をしかめた。

「宰相殿の屋敷でやるべきことを片付けたゆえ、怪我人の様子を見にきたのだ。命に別状はないと聞いたが、思っていた以上に元気そうだな」

 泰然と入ってきたニロを無視して、オレはお嬢に顔を向けた。すると、その意図に気づいた様子でお嬢がまたスプーンを手にした。

「ちょっと待ってね、ニロ。セルンが起きたばかりでまだ何も食べてないの。はい、熱いからゆっくりね」

「んん~、うまいっ! のために作ってくれたお嬢の手料理、すごく美味いよ~」

「なっ……!」

 とニロは何やら言いたげな表情を浮かべたが、思いとどまって「ふんっ」とだけ鼻を鳴らし、壁にもたれて腕をくんだ。

 パレードのことでオレに悪いと思って黙ってんだろ。分かっているぜ、お前は妙に義理堅いところがあるからな。

 く、ククククッ。ざまあ見やがれ、バカ王子め。

 腹の底でほくそ笑んでいると、ニロは眩しそうに目を細めて、オレを睨んだ。

「フェーリ。お前は昨日からキーパー・ストロングとの対面を拒否しているようだな」

 ニロの言葉に、お嬢がぎくりと身をこわばらせた。

「彼は今も応接間でお前を待っているぞ。不得手なことを強いるつもりはないが、お前はこの国の復興を願っているのであろう? しからば、お前がキーパー・ストロングと向き合うことは必定だ」

 ドレスの袖をぎゅっとつかみながらニロの発言を聞き終えると、お嬢はゆっくりと銀盆をテーブルに戻した。

 ん? なんだ、この流れは……。

「そう、だね。ニロの言うとおり、ずっと逃げても仕方ないわ」

 いや、偶にはいいんじゃないか。お嬢はいつも無理しすぎなんだよ。

「ふむ。キーパーにはお前が行くことを伝えてある。セルンのことは余に任せて、お前は自分のすべきことを全うしてきたまえ」

「ニロ……。うん、分かったわ。ありがとう……」

 えっ、今の会話のどこに感動の要素があるんだい、お嬢⁇
 ニロはオレからお嬢を引き離したいだけだよ、はやく気づいて!

 そう口を挟みたいところだが、お嬢の目の中には既に決意の色があった。

「すぐに戻ってくるね、セルン」

 くっ、やはり今からいくのか。もう少し後でもいいのに……。

「ああ。がんばれよ、お嬢」

 笑顔でお嬢を見送ると、ニロはわざとなにくわぬ顔をしてオレの横に座った。このやろう……。

 お前はいいから出て行け! そう言いたいが、その前に確認しなければならないことがある。

「ドナルド様にはもう知らせたのか?」

「ふむ。当日のうちに船場で待機していたコンラッド家の者に書状を持たせた。……ほぉ、これは美味だな」

「おいっ、勝手にオレのスープを飲むなよ!」

 ニロの手から白磁の皿を奪いとると、一気に飲み干した。あっつつ!

「なんだ、自分で食べられるのではないか」

 いやみたっぷりなその口調に反応することなく、別の質問を口にした。 

「あいつ、チャールズ家のボンボンはまだ宰相閣下の屋敷にいるのか? ドナルド様はなんて言ったんだ?」

 っていうか、オレは一体なん日間寝込んだんだ……? 
 そう戸惑った時、オレの疑問に答えるかのごとく、ニロが口を開いた。

「ジョセフ陛下が使用した薬の効果もあるが、其方は2日ほど意識を失ったな」

「まる2日? つまり、お前の手紙が王国に届いているかいないかくらい……あれ。でもさっき、閣下の屋敷でやるべきことを終わらせてきたって……」

「ふむ。ちと様子を見るつもりだったが、潮時だと判断して交渉にふみきったのだ」

「交渉?」

「それは其方と関係ない……のだが、まあ、話しておこう」

 オレの脇腹を一瞥してから、ニロが説明をはじめたのだ。
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