ただ誰かにとって必要な存在になりたかった

風見ゆうみ

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第4話  夜の来客

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 突然現れた彼は、店の人が言っていた坊っちゃん、らしく、私の事情を奥様が説明して下さると、微笑んで言う。

「俺の分をあげればいい。俺は毎日の様に食べてるから、今日、1日くらい我慢できるから」

 彼はそう言うと、髪と同じ色である紺色の瞳を私に向けて続ける。

「気にせずに持って帰ってくれ」
「え…? あっと、その…?」

 整った顔立ちのせいか眩しく見える笑顔に戸惑っていると、彼は首を傾げる。

「君は貴族の様に見えるけれど見ない顔だな。もしかして、俺の事も知らないのか?」
「知識不足で申し訳ございません! 昨日、トライト伯爵家に嫁入りしました、ラノアと申します。実家はナンルー家です。大変恐縮なのですが、お名前を教えていただけないでしょうか?」
「ナンルー家…、という事は、君が噂の令嬢か」
「……噂の令嬢?」

 私が聞き返すと、男性は少し考えた後、笑顔で言う。

「俺の名前はジェリーだ。よろしく」
「……よろしくお願い致します」
「結婚おめでとう。結婚祝いも兼ねて、マドレーヌをあなたに譲ろう」
「あ、ありがとうございます!」

 ジェリーという名の貴族の名前が、すぐに思い出せない。
 坊っちゃんと言われているくらいだから貴族の令息だと思うんだけど、男爵家とか子爵家の人かしら?
 社交場に出たことはないけれど、高位貴族の名前は全て覚えているつもりだけど、覚えきれていないのかもしれない。

 だから、姓をお聞きしようとした時、一度中に引っ込んだご主人が大きな袋を抱えて出て来られて、袋の中を見せてくれながら、私に問いかけてくる。

「これだけで足りますか?」
「足りるどころか多すぎます!」

 袋の中には3口くらいで食べれそうな大きさのマドレーヌが何十個も入っていたので首を横に振る。

「そうですか?」
「こんなにはいらないんです」

 たとえ、フィナ様とビューホ様とシェーラ様が食べるにしても、これだけの量を買って帰ったら文句を言われるに決まっているわ!

 すると、ジェリー様は言う。

「遠慮しなくていい。俺は1人でこの量を食べる」
「遠慮なんてしていません! あの、この内のいくつかをお譲りいただけませんか? もちろん、お金はお支払いしますので」
「お金はいらない。結婚祝いだから」
「ですが…!」
「美味しいものを食べると幸せな気持ちになる。そうだ。あなたはここのマドレーヌを食べた事はあるのか?」
「……いいえ」

 首を横に振ると、ジェリー様は紙袋の中から、手が汚れないようにか白い紙で包まれたマドレーヌを取り出すと、私に差し出てくる。

「とにかく食べてみればいい。俺好みに作ってもらっているから甘さは控えめだが、本当にうまいから幸せな気持ちになれるはずだ。まあ、あなたは新婚だから今は特に幸せな時期かもしれないが」

 ジェリー様はトライト家の内情を知らないから、悪気がない事はわかっているので苦笑する。

 昼食を食べていなかったから、お腹も減っていたので立ったまま食べる事ははしたないと思いつつも、一口、口に入れてみた。
 バターの風味は濃厚で甘さは控えめ。
 とても、美味しくて優しい味で、なぜだか涙が出そうになった。

「……トライト伯爵夫人?」

 ジェリー様は動きを止めた私を見て慌てる。

「しまった。毒見をしていなかったな!? まさか、味がおかしいか? 飲み込んでないなら」
「そ、そういうわけではなくて…!」

 今まで毒見なんて、私はしてもらった事はなかったから、それに関しては全く気にしていない。

「……すごく心が温かくなったんです。作った人の気持ちを感じたというか…」

 私の言葉を聞いて、店主さん達とジェリー様は顔を見合わせた。
 そして、ジェリー様は店の外を見ながら問いかけてくる。

「俺が言えた義理でもないが、あなたは伯爵夫人だろう? メイドもしくは侍女、護衛の騎士はどこにいるんだ?」
「……」

 返答に困っていると、奥様の方がなんとなく事情を察してくださったのか、優しく声を掛けてくださる。

「平民の私が言うのもおこがましい事だと思いますが、事情がおありのようですし、本当にどうしようもなくなった時は遠慮なく、この店に来て下さい。二階が住居になっていますから」
「……ありがとうございます」

 実際に、このお店に逃げてくる事なんて出来ないけれど、そう言ってもらえるだけでも気持ちが楽になった。

「よくわからないが、あまり良い状況ではなさそうだな」

 ジェリー様は眉を寄せて言った後、奥様に言う。

「たくさんはいらないらしいから袋を分けてもらえるかな。あと、それからルグさんには申し訳ないが」
「わかっておりますよ。請求はお父上に? それとも?」
「俺でいいよ。驚くほど高く請求しておいてくれないか? そうすれば父上や母上も気が付くだろうから」
「私達の驚くほど高いという値段と坊っちゃんが感じる高いは次元が違うと思いますけどね」
「坊っちゃん呼びはそろそろやめてくれよ」

 ジェリー様が口をへの字に曲げると、ルグさんと呼ばれた店主さんは笑いながら答える。

「かっ…いえ、あの、ご両親から許可をいただいております」
「……」

 ルグさんは私に軽く一礼した後、不満そうにしているジェリー様を置いて店の奥に入っていったのだった。

 ジェリー様に代金を渡そうとしたけれど、一切受け取ろうとせず、少しの間、話し相手になってほしいと言われたので、紙袋を持ってきてくれた奥様と3人で小一時間話をしてから屋敷に帰った。

 無事に私はマドレーヌを持って帰れたのだけれど、忘れていた事があった。
 このマドレーヌがジェリー様の為に作られた、特別なものだった事を。

 ビューホ様は私がマドレーヌを持って帰ってきた事に驚きを隠せない様子で、違う店のものだと疑った。
 だから、ビューホ様とシェーラ様、フィナさんが味見をするから、食べる所を見ているようにと言われた。

「美味しい! 美味しいけど、でも、いつも食べているものと違う様な気がするわ…」

 フィナさんがマドレーヌを口にして、そう言った瞬間、フィナさんの隣に座っていたビューホ様が激高した。

「違う店のマドレーヌをイツースのものだといって持って帰ってきたな! この嘘つき女が!」

 ビューホ様は叫ぶと、拳を作って私の左腕を三度殴った。
 
「顔を殴ったらバレてしまうからな。あと、俺は優しいから利き腕は勘弁しておいてやる」
「こんな、すぐにバレる嘘をつくんだから、本当に頭が悪いわね。ほら、低能、偽物なんていらないわ。さっさと食べなさいよ」

 そう言って、シェーラ様がマドレーヌを一つ、私の足元に投げつけた。
 
 食べ物を粗末にするだなんて…!
 そう思って、カーペットの上に転がったマドレーヌを拾おうとすると、その手をビューホ様が踏みつけた。

「――っ!」
「ああ、悪い、悪い。ゴミと間違えた」
「ちょっと、ビューホ、やめて! そんなのただのいじめだわ! ラノア様…、大丈夫ですか?」

 フィナさんはビューホ様の体を後ろに押しやると、しゃがみこんで私の手の心配をしてくれた。

「あ、ありがとうございます…。大丈夫です…」
「それからこれ、私が食べます」

 そう言って、フィナさんは投げ捨てられたマドレーヌを手にとると食べ始めた。
 それを見た、ビューホ様とシェーラ様が悲鳴をあげる。

「やめろ、汚いだろう! すぐに吐き出すんだ!」
「そうよ、そんな汚いものを食べたらお腹を壊すわ!」
「貧困で食べ物に困っている人はこれくらいの汚れなら食べるわ」

 フィナさんはビューホ様とシェーラ様に言った後、厳しい顔のまま私に言う。

「暴力はいけないことですが、ラノア様も嘘をついてはいけません!」
「嘘なんてついていないわ」
「絶対に嘘ですよ! イツースのマドレーヌの味はこんな味じゃないですから! せっかく庇ったんですから正直な事を言って下さい!」

 助けてくれたのはありがたいけれど、フィナさんは人の話を聞くタイプではなさそうだった。
 
 その時だった。
 執事が来客を告げ、来客はイツースのルグさんと奥様だった。

 ルグさん達は「オリジナルをアレンジしたマドレーヌを渡してしまった」と謝ってくれ、普段、お店で出しているマドレーヌを、明日の為に寝かせていた生地を使って作り、完成したものを持ってきてくれたのだ。

 なぜ2人がわざわざ持って来てくれたのかと言うと、ジェリー様が念の為にとお願いしてくれたからだった。

 私がお礼とマドレーヌの代金やここまでの費用を支払うと伝えると、2人は口を揃えて言った。

「ジェリー様からいただいております」

 2人はそう言って私からお金を受け取ってくれなかった為、毎日の様にジェリー様がお店に通っているというので、またお店に伺う事にした。

 ジェリー様は私が思っていた以上に位の高い貴族のご子息なのかもしれない。

 でも、ジェリーという名の令息の名前を知らないのよね…。




 この時の私は、女性の名前に愛称がある様に男性の名前にも愛称があるという事をすっかり忘れていた。
 なぜなら、男性の知り合いというものが誰一人いなかったし、社交場に出られなかったせいで話す事もなかったから。

 ジェラルドの愛称がジェリーと知っていれば、私はジェリー様の正体をすぐに気付く事が出来ていたかもしれない。
 
 イシュル公爵領でジェラルドと言えば、一番に思い浮かぶのはイシュル公爵令息の事なのだから。

 ジェリー様の正体を私が知る事になるのは、ビューホ様と出席したパーティーでの話になる。
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