虐げられた兎は運命の番に略奪溺愛される

志波咲良

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1巻

1-2

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 数日前まで、あの家でれいぐうを受け続けるくらいなら、肉食獣人に噛まれて死んだ方がずっといいと思っていた。だが現実はどうだ。
 本能に刻まれた恐怖が、助けてくれと叫び出す。死にたくない。そればかりが、頭の中を支配する。僕が一体、どんな表情をしていたのかは分からない。
 だが男は僕の顔を見るなり、ばつの悪そうな顔をした。

「悪い。怖がらせるつもりじゃなかった」
「っ……う、はっ……」

 息が、できない。呼吸すらままならなくなった僕に、男は慌てて駆け寄ってきた。

「おい、息をしろ! 大丈夫だ!」

 離れてくれた方がよっぽど助かるのに……。そう思っても伝えられる余裕がない。

「勘違いすんな。俺らは別に、お前らを取って食ったりは……」

 震えて動けない僕を彼が抱き上げる。自分には持ちえない分厚い筋肉と、肉食獣人特有の香りを間近で感じた。
 それだけでショックで心臓が止まってもおかしくないのに、その瞬間、なぜだか全身が一気に軽くなった。呼吸ができる。震えが止まった。自分の状態の変化に、自分でも理解が追い付かない。
 僕が異変を感じたのと同じく、彼も何かを察した表情をして話すのを止めた。
 腕に収まる僕をジッと見つめ、ゴクリと生唾なまつばを飲む音が聞こえる。

「お前……Ωオメガか……」

 そう問う意味は、ただ一つ……彼が、αアルファであるという他ない。二人の間に沈黙が流れたが、先に我に返った彼が溜息ためいきを吐く。

「ヒートじゃねぇとは言え、馬油の匂いにだまされて、ここまで気がつかねぇとは。俺の鼻も落ちたもんだ」

 マルクスの見立ては、正しかったようだ。草食には感じ取れず。肉食をだます。恐らくは、彼がおとっているのではなく、マルクスが凄いのだろう。
 今はそれよりも、肉食のαアルファと、草食のΩオメガが出会ってしまったことが重要だ。ただ、この違和感は、それだけじゃない。
 僕はついさっきまで酷く恐怖を覚えていた。だけど、彼の匂いを全身で嗅いだ瞬間に心を満たしたのは……安堵だった。
 恐怖も拒絶も、全てが取り払われていく。草食の本能に上書きする、何かがある。
 端的に。全身をこのまま、彼に包まれていたいと思う。
 彼のαアルファの匂いが、僕の中に眠る自分でも説明が付かない何かを引きずり出す。
 彼の匂いはレイ様の匂いとはまったく違っていて、そして比べられないほど強い。
 レイ様で知っているはずなのに、「これがαアルファの匂いなのか」とさえ思ってしまった。

「……俺が怖いか?」

 そう聞かれた言葉に、数拍の間を開けて答える。

「怖く、ない……」
「そうか。俺は今、お前が無性に愛おしいと感じている」

 愛おしい? 出会ったばかりの人物にそんなことを言われ、僕の頭の中で想いが渦巻く。頬に触れる彼の短髪一本一本でさえ離れてほしくない。そう思ってしまう。
 彼は僕の顔を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。

「やっと見つけた。俺の……運命のつがい

 運命のつがい。その単語には聞き覚えがあった。αアルファΩオメガの間のみに発生する、他のどの本能よりも優先される本能だ。出会える確率は、極めてまれである。
 ただ、一度出会えば、全身で互いを求め合う――究極の愛の形。
 彼が? 肉食獣人である、彼が……僕の運命のつがい
 そんなわけないと、理性が言う。そうであると、本能が言う。
 その証拠に、彼を見ているだけで、今までレイ様のことばかり考えていた脳内が、彼の存在に塗り替えられていく。肌の触れ合った部分を通じて、徐々に全身の体温が上昇する。その熱を吐き出すかのように、籠った吐息がれた。
 彼への恐怖を置き去りにして、身体がうずいた。

「なん、で……ヒートが……!」

 ヒートはついこの前終わったはずだ。それなのに、僕の身体はどうしようもなく目の前の雄を求める。拘束されている下半身が、もう痛いほどたかぶりを主張していた。肌が触れただけなのに、どうして。僕は慌ててふところを探る。

「く、す、りっ……」

 兎としての本能と、Ωオメガとしての本能。二つの本能から生じる性的欲求を抑える為に、専用の薬を貰っている。ストレスの天秤が崩れ落ちるのを、き止めてくれる。最近はめっきり効果を感じなかったが、ないよりはマシだろう。
 袖の中をまさぐり、薬を探そうとする。しかし、彼の大きな手が優しく止めた。
 顔をあげると、再び金色の瞳と僕の瞳が交差する。言葉を交わすより早く、僕の唇に濡れた柔らかな感触が伝わった。口付け。緩んだ唇の間から、舌が入り込む。舌先が歯茎をなぞるたびに、脳を溶かす快感がほとばしった。
 気持ちいい。
 快楽によって、僕の視界が涙でにじむ。

「んっ……ふっ」

 より深く。より激しく。
 その快楽をきょうじゅしようと、理性も忘れて、口内を犯すソレに自分の舌を絡ませた。僕の動きに応え、彼の大きなてのひらが僕の後頭部に添えられた。指が髪をかし、頭部を温もりが包んでいく。
 酸素を吸うことすら忘れ、時間を忘れて互いに求め合った。どれほどそうしていただろうか。ようやく互いの唇が離れる。まるで別れを惜しんでいるみたいに、二人の間を粘性のある透明な糸が繋いだ。
 熱に浮かされた金色の瞳が、真っ直ぐに僕を捉える。そして、小さく口を開いた。

「……名前は?」
「カノン……」

 カノン。み込むかのように、刻み付けるかのように、男は僕の名を復唱した。
 後頭部を支えていたてのひらが、今度は頬をなぞる。丁寧に、優しく。その動きに魅了され、心臓の鼓動が速さを増した。
 彼の片腕の中に納まっていた身体が、ゆっくりと草花の生い茂る大地へ倒される。仰向けに倒れた身体の上に、彼が覆いかぶさってきた。分厚い上半身の筋肉は、きっと僕が押した所でビクともしないのだろう。
 再び唇が触れ合う。先程より激しくむさぼり合う。彼の片手は、頬から首筋をなぞり、鎖骨に届く。そしてはだけた着物のえりの間に滑り込んだ。肌の具合を確かめるかのように、何度か胸部をまさぐった後、指先が胸の飾りに届いた。

「っあ!」

 その瞬間に、僕の口から短い悲鳴がれ、背中がわずかに跳ねる。口内に与えられた快楽より強い快感は、まるで全身に電流が流れたようだった。
 たった一度触れられただけなのに。こんなかん、僕は知らない。
 胸の突起に触れた指は、止まることなく刺激を与え続ける。

「ひ、あっ……ん! っう!」

 そのたびに、身体は跳ね、口からは甘い息がこぼれた。
 顔から離れた彼の唇は、先程なぞったてのひらの道を辿たどり、首から鎖骨へと舌をわす。胸元まで辿たどり着いた舌先がもう片方の飾りを口に含んで転がした。

「ああっ! やぁ、ああんっ!」

 逃がしようのない快感に耐えきれず、僕は彼の頭に手を回して抱きしめる。
 もどかしい。もう限界だ。早く、イかせてほしい。
 津波のように襲い掛かる快楽は、思考にそれだけを叩きつける。思考に促され腰が浮き、無意識に股間を彼の鍛え抜かれた腹筋へと擦り付けた。
 快感を与える。きょうじゅする。それを繰り返していたが、ふと彼が声を上げた。

「……ん?」

 自分の疑問を確認しようと、彼は胸の突起をいじっていた手を離す。そして、僕の股座またぐらに手を伸ばした。その指先に触れたのは、金属。僕の性をしばる、拘束具だ。

「……所帯持ちか。随分と趣味の悪い貴族だな」

 なぜそれを付けられているのか。それがある意味とは。
 まるで全てを理解したかのように、彼はりんとした目を伏せる。
 ここまでたかぶらせられたのに、中断されるのだろうか。そうなったとき、僕はどうなってしまうのだろう。不安が込み上げ、僕は眉尻を落とす。僕の顔色を確認した彼は、穏やかな笑みを浮かべた。

「これくらい、俺ならすぐ壊せる。どうする?」

 これが取れたら、積もり積もった不満を解消できる。だが同時に、二度と屋敷のしきまたげないだろう。壊れた言い訳が、何もないからだ。
 でも、それでも……今すぐに彼に抱かれたい。このもどかしさに、これ以上耐えられない。
 欲求と理性の間を行ったり来たりしている間に、僕の目からは大粒の涙が溢れた。
 彼がほしい。レイ様を裏切れない。僕の居場所はあの屋敷の小さな自室だけだ。
 どうしようもない感情の激動を、自分では止められなかった。

「カノン」

 泣きじゃくる僕に、彼の優しい声が降り注ぐ。額に一度唇を落とした後に、目尻から流れ落ちる涙を指ですくってくれた。

「お前を苦しめたいわけじゃない」
「僕は……どうしたらっ……」

 名前も知らない運命のつがいに会った途端に、抱かれたいと願う。
 この先どうなってもいいと思う思考を、罪悪感が押し返す。
 僕の気持ちが伝わったのか、彼は腰に手を回した。
 この快感が続くのか、終わるのか。期待と不安が混じる中、彼の手に促され、僕は腰を浮かせる。

「後ろは……流石さすがに拘束されてねぇな」

 彼の言う通り、尻の方は拘束のたぐいを受けていない。ただ、一人で性欲を解消するには深くまで指が届かず、イけた試しがない。
 中途半端に欲を溜め込むだけだと知っていた。だから、自分で触ることはないのだが……

「後ろだけじゃ、イけなっ……」
「安心していい。前なんか触らずに、それ以上の快楽をくれてやる」

 その言葉が何を意味するのか、具体的には分からない。このよがり狂う身体を早くなぐさめてほしい。滅茶苦茶にしてほしい。いくつもの欲望が浮き沈みを繰り返していると、彼の手が僕の尾に触れる。

「っうう……!」

 それだけで、こうこうが何かを求めるようにヒクついた。

「今はただ、俺に愛されることだけを考えろ」

 愛される。言葉としては知っているが、今まで与えられたことはない。
 彼はもどかし気に僕の首元に顔をうずめる。そして、首輪に軽く歯を立てた。

(ああ……噛んでほしい)

 レイ様以外の人に、噛んでほしいと願うとは思わなかった。己のはしたなさに、眩暈めまいがする。
 彼の上がった吐息が聞こえる音に混じって、衣服が擦れる音が聞こえてくる。
 視線を落とすと、彼が下半身を覆う服を脱いでいる。腰紐だけで支える緩めの布生地は、肉食獣人らしく、動きやすさを重視しているのだろう。
 その服が落ち、素肌がさらされる。

「っ……」

 むわりとした、雄の匂い。こうにその香りが届くだけで、酔った感覚になる。脈打つまでに反り返った男根は、見たこともないほど大きかった。
 これが、僕のナカに入る。
 そう考えただけで、ヒートでもないのに後孔こうこうから粘液がしたたり落ちた。
 早くほしい。匂いに当てられて、再び理性は消え去ってしまう。
 腰をらし、自然と股が開く。男を誘うその仕草に、彼がゴクリと唾をんだ。

「……優しくしてやりたい。あおるな」
「はや、くっ……」

 四つんいに体勢を変えようと身をよじったが、叶わなかった。彼が、僕を抱きしめたからだ。

「このままでいい」

 今までは、屈服を示す体勢しか知らなかった。
 こんな、互いの体温を感じる行為なんてしたことがない。
 彼が僕の開いた股の間に腰を落とす。抱きしめる腕だけでは足りないと言いたげに、彼の長く白い尻尾が僕の足に巻きついた。
 たかぶった熱を後孔こうこうに感じる。あと少し腰を進めれば、僕のナカへ入ってくる。
 待ち焦がれた瞬間を迎える前に、僕は彼に問うた。

「名前を、教えてください……」

 彼の鼻が僕の耳に当たる。そして甘いささやき声が返ってきた。

「リオン」

 リオン。その名前を何度も何度も頭の中で繰り返す。そうして僕が彼に名前を教えたときと同じように、僕も無意識に彼の名前を口走っていた。

「リオン……」
「そうだ。お前が心の底から俺を欲するまで、何度だって愛してやる」

 そう言って、彼はゆっくりと腰を進めた。

「っはあ!」

 体感したこともない質量が押し迫ってくる。質量だけではない。待ち焦がれた快楽が攻め込んでくる。背中にかんな刺激がはしり、目を見開き、全身が震えだす。毛は逆立ち、肌は鳥肌が立つ。だらしなく開いた口の端からは、口内から押し出されたよだれこぼれ落ちた。
 挿入が深くなるたびに、小さな痙攣けいれんと共に何度も頭が真っ白になる。

「っあ、あぁぁっ……‼」

 後孔こうこうからは、その長大な陰茎をみ込もうと粘液が溢れる。
 一度くわえ込んだら離さないと言わんばかりに、彼の男根を締め上げる。

「くっ……」

 彼――リオンもまた、苦し気に快楽に耐える声をあげた。眉間にしわを寄せ、何かをこらえるような表情だ。

「苦しく、ないか?」

 苦しいか苦しくないかで言えば、少し苦しい。それでも、それが気にならないほど、ただひたすら気持ちよかった。必死で顔を縦に振る。こんなに身体に気をつかってもらったこともない。
 僕の呼吸が落ち着くのを待って、ゆっくりとちゅうそうが始まった。
 おぼれ死ぬのではないかと、恐怖さえ覚える悦楽えつらくの海にまれる。

「あっ! ああっ、あ、んああ!」

 口からは、闇夜に響く喘ぎ声が溢れる。自分では止められないというしゅうが、さらに後孔こうこうを締め付けた。
 全身に降り注ぐ、幸福。
 足りなかったものが。届かなかったものが。
 全てが、満たされていく。
 この夜の時間だけではなく、Ωオメガとして長年待ち焦がれた喜びだった。
 水音が混ざったちゅうそうは、徐々に激しさを増していく。彼の首に腕を回し、必死に全ての律動を全身で感じる。

「気持ちいいな……」

 僕の髪に指を絡ませ、リオンの声が耳元で聞こえた。熱気の籠った余裕のなさそうな声に、また背筋にぞくりとした感覚がはしる。彼の声すら、僕を喜ばせた。

「きもちっ、いい……んあ、ひっあ! っああん!」

 彼の長大な陰茎は、やがては誰も入り込んだことのない深部に到達する。
 最奥の肉壁を亀頭が叩いたとき、全身に強すぎる電流がほとばしった。

「ひあああっ‼ ああっ、んあぁぁ‼」

 一段と大きな喘ぎ声が、僕の口かられた。両脚は痙攣けいれんを起こし、腰は浮いて背がのけぞる。
 最奥を突かれるたびに、激しく脳内が明滅めいめつする。
 自分が何者かすら分からなくなり、正常な思考は何一つない。
 段々と何かが込み上げるような感じがする。

「リオっ、んはっ……! 何かっ、きちゃ、あぁ! ああっ……!」

 奥底から迫りくるうずきを、もう止められない。得体の知れない快楽から逃げようと、僕はリオンに必死でしがみつく。

「イっていい」

 イく? その為には、前を触ってほしい。ああでも……それよりも、迫りくる大波への期待がチラついた。自分が一体どうなってしまうのか分からず、声に導かれるようにまぶたを閉じる。するとリオンの動きが少し変化した。一度グッと腰を引き、これまでの抽挿ちゅうそうの中で最も激しく一突きされる。
 内臓が押し上げられる感覚。
 息ができないほどの衝撃。
 閉じたまぶたは簡単に見開き、視界は何度も明滅めいめつを繰り返す。
 そうした感覚に一拍遅れて、脳裏で何かが弾けた。

「っあああああ‼」

 だらしなく開いた口からは、悲鳴のような嬌声きょうせいが上がる。煮えたぎった水の気泡が弾ける感覚が、何度も全身を襲った。触れていないはずの僕のたかぶった陰茎からは、白濁の液が吹き出す。それは金属の網目を超えて、腹部を濡らした。
 自分が射精を向かえたのだと理解できないまま、収まることを知らないその渦にまれていると、リオンの口からも苦し気な声がれる。

「っは……」

 一層強く僕を抱きしめ、浅い抽挿ちゅうそうを繰り返す。

「もっ、だめっ……! んあ、とまっ……」
「わるい……もう少し……」

 そうしながら小刻みに続いていた律動は、突然再び最奥を貫く。

「あぁ!」
「くっ……!」

 何かをこらえる声と共にリオンは上体を起こす。

「っ……」

 リオンは自分に残ったわずかな理性に従うように、僕のナカから男根を一気に引き抜いた。
 直後、腹の上に感じたのは、暖かい液。ぼたぼたとしたたり落ちる白濁の液は、腹の上に収まらずに、わき腹を伝って草花を汚す。どちらの呼吸とも分からない息絶え絶えの呼吸音が響く。

「後ろだけでイけたな」

 先程までの苦し気な表情は消え、既に彼の顔には穏やかさが戻っていた。
 足りなかった満足感は、これ以上ないほど満たされている。倦怠感を覚えるのは、初めてかもしれない。リオンの嬉しそうなその顔をもっと眺めていたい。そう思っていても、まどろみが視界をらす。

「寝てていい。日の出の一時間前に起こしてやるよ」

 優しく頭をでられ、快楽とは違った心地よさに包まれた。
 彼は、何者なのだろう。肉食の種族には詳しくないから、聞かなくちゃ。
 そんな考えが浮かんだけれど泡のように弾けて消えた。眠気が思考を拒絶するのだ。
 髪をかす指が気持ちよくて、僕は眠りの中へ落ちて行った。


      ◆


 水がしたたる音が聞こえて、目が覚めた。最初に寝てしまったときとは違って、深く寝入ってしまったようだ。焦点が合わないうちに、僕は身を起こした。

「悪い。起こしたか?」

 真っ先に目に入ってきたのは、白髪の中にいくつかの黒髪が混ざった頭だ。そして、大きな背中と、髪色と同じ毛なみの尻尾がらいでる。
 随分近くに、リオンがいた。

「っあ、えっと……」

 そうだ。僕は昨晩……。思い出して、一気に顔に熱が集まる。リオンは僕の身体に何かをしているようだった。

「清めは終わってる。それと、匂い消しを少し塗り込んだ」

 どうやら、僕が寝てしまった場所から移動したようだ。
 湖のほとりで、丘上より木が生い茂った場所だ。彼の周りには、使った後の布生地がいくつか落ちていた。言葉通り、湖の水で僕の身体を丹念たんねんに拭き上げ、匂い消しの薬草を体毛に塗り込んでくれたのだろう。
 髪の匂いを嗅ぐと、薬草独特の匂いがした。彼の匂いが消えていくことを、残念に思う。
 僕が悲しげな顔をしたのが分かったのか、リオンは僕の頭を優しくでる。

「本当は、お前を今すぐにでも抱き上げて、連れ去りたい……だが、それでお前が悲しみ、後悔するのは耐えられないんだ」

 触れたことのない優しさに、まどう。喜びは勿論あるが、運命のつがいというだけでここまでくしてくれるものなのだろうか。
 無条件に注がれる愛の受け取り方を、僕は知らなかった。
 全身が満たされたことで、ようやく理性が活動を始める。

「帰らなきゃ!」

 慌てて起き上がろうとした僕は腰の痛みを感じ、よろける。それをリオンが抱きとめてくれた。

「大丈夫だ。兎族うさぎぞくの活動時間まで、まだ余裕がある」
「あ、ありがとう……ございます……」

 リオンに出会ったことで、多幸感を味わった。
 だが同時に、レイ様を裏切ったのだ。そして、自分の家族も。
 本能の喜びか、それとも理性の宿命か。どちらも選べない苦しさが心臓を締め付ける。彼がねんした通り、運命のつがいだからといって安易に共に行くことを望めば、僕はきっと「本当にこれでよかったのか」と苦しむ気がした。
 僕たちは寄り添いながら、昨晩はできなかった会話を交わす。

「どうして、トゥルガシオ王国へ?」

 そう訊くと、彼は困った顔をして頭をいた。

「入るつもりじゃなかったんだ。ちょっと、国境付近で調査してる間に、迷い込んじまった」
「調査?」
「まあ、色々とな。近頃、各地で争いが頻発しててよ」

 そういえば、マルクスもそう言っていたな。やはり、肉食獣人の国では争いが絶えないのだろう。
 リオンはその困った顔のまま、軽く笑った。

「秘密にしといてくれ。帰りは、上手く戻るさ」
「……うん」

 国境の警備隊を抜けられる人なんていたんだな。とは思うが、不思議と彼なら、簡単にやってのけそうな気がする。

「……食べられるのかと思った」

 リオンに最初に会ったときの印象が、口からこぼれた。

「草食の国が情報統制されてるって話は、本当だったみたいだな」

 僕の独り言に近い言葉にリオンは答えてくれた。だが、その内容は実に興味深いものだった。

「情報統制?」
「俺たちの国では今じゃもう、草食獣人を手にかける奴は悪だという考えの方が、強くなってる。草食獣人を食べないという道を、俺たちは選び始めている」
「……ふうん」

 リオンは嘘をつくような人物には見えないけれど、すぐには信じがたい。実際、草食獣人が襲われたという話は今でもたまに耳にすることがある。でも興味深い話を聞けたのは確かだ。後で自分でも調べてみよう。そして、僕はゆっくりと目を閉じる。
 彼の腕の中は暖かく、離れるのが惜しいくらい穏やかだ。

「……また、会える?」

 そう訊くと、リオンは喉を鳴らして笑う。

「当たり前だ。言っとくが、手放すつもりは毛頭ないぜ」
「でも、僕にはレイ様が……」
「正々堂々、奪ってやるよ」

 リオンの言葉の一つ一つが、僕の中にある不安を解消していく。リオンに任せていればいいと、根拠もなくそう思う。頭の中の罪悪感を誤魔化ごまかしてくれるようだった。
 朝日が昇るまでには帰らなければ。そう思って、名残惜しい気持ちをこらえて立ち上がる。
 リオンもまた、僕と同じように腰を上げた。
 すらりと高い身長と、目鼻立ちがはっきりしたりんとした顔は、思わず目を逸らしたくなるほど美しかった。この人に抱かれたのだと思うと、また後孔こうこうが切なくなる。

「カノン」

 名を呼ばれて、顔を上げる。真っ赤になった僕の顔を見ながら、リオンは僕の顎に手を添えた。そして、ゆっくりと優しい口付けを落とす。

「必ず迎えに行く。必ずだ」

 言い聞かせるような誓いの言葉を聞いて、僕は笑った。

「待ってる」

 自分でもなぜそう答えたのか分からない。
 ただ考える前に、心の声がそう言ったのだ。
 リオンが一歩後ろへ下がる。僕の気持ちと同じく名残惜しそうに、彼の尾が僕の腰に巻きついた。

「じゃあな。これ以上遅れたら、俺も国境を越えられなくなる」
「あの、次はいつ!」

 いつ会えるのだろう。言葉通り、迎えに来る準備が整うまで会えないのだろうか。
 願いを込めて問うた言葉にリオンは少し考えて、指を一つ立てた。

「毎月、満月の夜。この場所で」

 おうの日取りを頭の中で、何度も反復する。その喜びを表すように、僕の耳がパタパタと動いた。それを見て、リオンは満足気に微笑む。

「お前が喜ぶことなら、なんだってするさ」

 それだけを答えて彼はゆっくりと背を向けて、茂みに向かって歩き出す。追いかけたい気持ちを、グッとこらえた。後ろ姿を見ながら、僕はふと思い出した。
 それをそのまま、大きな声で叫ぶ。

「あの! 貴方の種族は!」

 猫と勘違いしたという記憶と外見の情報しかない。
 リオンのことをもっと知りたい。肉食の種類に関する知識がない僕は、彼の外見だけでは判断が付かなかった。リオンは顔だけで振り返り、口角を上げる。その表情は、今までの笑みとは違う。まるで、いたずらっ子のようだ。その口の隙間から見える犬歯を、もう怖いとは思わない。なんでそんな表情を? と思っていると、彼は聞きなれない名を告げた。

白虎びゃっこ――ホワイトタイガーのリオンだ」

 白虎びゃっこ? ホワイト……タイガー?
 聞いたことがない。いやそもそも、種族ではないのでは? 答えを聞いたのに、疑問符が増えていく。だがリオンはそれ以上何も言わず、茂みの奥へ消えていった。
 マルクスに聞かなきゃいけないことが一つ増えた。
 そんなことを思いながら、僕は帰りの道を急ぎ足で帰った。


      ◆


 深夜の外出は結論から言えば、バレなかった。
 普段は入らない時間帯に湯に入ろうとも、しんを着替えていても、この家の人たちは、必要なとき以外僕を見ない。まるで、いない者かのような扱いだ。
 いつもは悲しいが、今は安堵する。リオンの匂いは消えたが、体の奥に残された温もりは消えない。それはあの日から何日経ってもそのままだった。
 あの瞳と、優しい笑顔を思い浮かべるだけで、僕は全てを包まれたような気持ちになる。だが、てい行為という罪悪感は消えてくれなかった。
 ある日僕は、鏡に映った自分の姿に目を見開く。

「毛が……!」

 信じられない出来事だった。夢なのではないか。
 あれほどすさんでいた獣毛や髪が、つやめきを取り戻し始めている。
 脱毛が目立っていた耳は、フワリと細く柔らかな毛で覆われ、背中の毛を触れば、自分でも心地いいと思うほど手触りが良い。馬油の効果なのか、獣毛も髪の毛も毛先はしっとりと纏まっている。
 そういえば、リオンに会った日以降自分の腕を噛んでない。本来の美しさが目に見えて戻っている。
 失ったきり、もう二度と戻ってこないと思っていた。嬉しくて、嬉しくてたまらないはずなのに、僕は自分の顔を両手で覆う。真っ黒な瞳から、大粒の涙がこぼれた。

「リオン……!」

 涙を拭いながら、喜びを噛み締める。あの人は、僕にこんなに多くの贈り物を授けてくれた。
 その想いは罪悪感を消しさり、早く会いたいという気持ちに変わった。
 次の満月が待ち遠しくて仕方なかった。早く、今の僕の姿を見てほしかった。彼への想いを大切に抱きしめ、庭に出る。
 秋めく紅葉こうようは、国全体で豊作を祝ううたげの合図だ。草食の国、トゥルガシオ王国では年の中で最も賑やかな時期を迎えていた。
 庭から見える本殿の廊下を、多くの従者たちが歩いている。その先頭に、レイ様がいる。リオンのことでひしめいていた脳内が一気に冷静になった。

「珍しい……本殿の方に帰ってこられるなんて……」

 お忙しい方だ。普段は、王宮の執務室にいるはず。なんてことのない昼間に家に帰ってこられている姿は、初めて見た。不思議に思って少し近づいた。すると、レイ様と従者たちの話し声を拾う。

「レイ様。多忙が続いております。少しお休みくださいませ」
「いらん。書類を取りに来ただけだ」
「しかし……お疲れが……」

 続けて心配の声をあげた従者を、レイ様はジロリと睨みつける。背後の従者は顔を伏せてしまった。レイ様は再び前を見据え、小さなためいきをついた。
 随分と疲れておられる。
 表情を変えないレイ様しか見たことがなかったから、その顔を見て僕は眉尻を下げた。
 疲れが顔に出るまで、レイ様は職務を全うされている。

(なのに、僕はていを働いて……)

 浮き上がった気持ちを制するかのように、罪悪感がズキリと突き刺さった。その気持ちを表すように、真っ直ぐ上を向いていた耳が、わずかに垂れる。
 現実は、目の前にあるんだ。レイ様は、屋敷を支えていかなければならない。その為に、最も重要な子作りが僕の使命だ。きっと、レイ様を疲れさせる悩みの一端は僕にもある。

(僕が欠陥品だから……)

 罪悪感の行き場を探していれば、ふと地面に転がる栗が目に入った。
 秋に多くの実りを見せるのは、この大きな庭園も同じ。

「レイ様は……確か、栗がお好きだったはず」

 数少ないレイ様の情報をり寄せ、僕は地面に手を伸ばして栗を拾う。
 その栗の匂いを嗅いで、再び地面に投げた。

「駄目だ。もっと良質なものがあれば……」

 晩酌の際のつまみになれば。少しでも、お疲れをいやしていただけたら。
 しょくざいの方向が違うことは分かっている。最も正しいのは、子を成すことだ。けれど、それが叶わない今、せめて好きな物を召し上がって頂きたい。


 ――ありがとう、カノン。


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