憎欲

水瀬白龍

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第十一話 交流

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 貰った分の礼は返そうと思った。彼から手渡された物の全ては押し売りではなく譲渡であったが、対価を渡さぬことと誠意を見せぬことは別の問題であると、俺は母の下で学んでいたのである。名を聞き出してようやく男の正体を漠然と想像できるようになった俺は、尋ねられる問いには答えねばならぬと半ば義務的に思い、掠れて痛む喉を酷使して己の身の上を説明した。何を思ったのかは知らぬが、彼は俺についてあれこれと知りたがったのだ。この男、ホルスト卿は慈善事業の一環として度々浮浪児達に食料を提供しているらしく、月に一度はここ貧民窟にやって来ているのだが、俺が他の子供達の様に群れることなく常に一人であったことが彼の興味を引いたのかもしれない。しかし俺は面白味に満ちた人間でもなく、むしろ碌でもない部類であると自覚していた。

「この裏路地から数歩進んだ先にある町では、皆が平穏な生活を享受しているでしょう」

 俺はホルスト卿から貰ったパンを抱えながら遠くに目を向けた。俺の瞳に映るのは罅の入った無機質なコンクリートの壁であるが、その先には今も大勢の民衆が慌ただしくも幸福そうに行き交っていることであろう。

「その現状を俺は理不尽だと思い、貴方には到底信じられぬ程の憎悪を、俺達を見捨てた民衆へ向けています。しかし彼等にとってはこの感情を大層理不尽なものだと感じることでしょう。俺もそれ位は理解出来ます」
「その心は?」
「不当に奪われることを怒るのは正当であり、与えられぬことを恨むのは筋違いということです。己が持ちえないことを理由に他者から譲り受けることを当たり前とするのは傲慢な思想でしかない。故に、俺の理屈が正しいものではないと俺は知っています。しかし不当なものであれ、俺は憎悪を手放せない。理不尽だと罵られようとも」

 初めて出会った時に彼から贈られた外套は、寒さが消え始めた頃に迷わず売り払った。俺は泥塗れの薄い生地の服しか纏っていない体を、己の細い腕で抱きしめる。その骨と皮ばかりの腕に感じるのは結局、骨と皮のみであった。あの外套は金に変りはしたが、異臭を放つ垢だらけの餓鬼ではまともな食事を購入することも出来なかった。
 不幸な者が幸福な者を恨むのとは違う。持たざる者が持つ者を恨むのともまた異なる。俺が憎むのは、彼等の影のように黒く塗りつぶされた人間性のみであった。故に俺が貧しい現状から脱却し安定した生活を手に入れたとしても、この身に渦巻く嫌悪感は生涯俺と共に在ることであろう。それはギッチリと俺の中に根を張り、固くこびり付いて離れない。

「貴方は俺についてあれこれと尋ねますが、これが最も的確に俺という人間性を表しているものと思います。そして、それに貴方がどう思われるかは俺にとってはどうでもいいのです。それよりもよほど、明日明後日の食事の方が重要ですから。こんなつまらぬ話を求める貴方にはちっとも共感出来ませんが、退屈しのぎにはなりましたか」

 地は汚れているというのに構わず俺の横に座り込んだホルスト卿に、俺がそう問いかければ、彼は満足そうに頷いた。

「とても面白い話だと思ったよ。そのような思考は私にはないものだからね」
「そうですか。それならば話した甲斐があるというものです」
「うん、実に興味深かった。良かったらまた君の話を聞かせておくれ」
「俺は興味深い話が何度でも出来る様な話し上手な人間ではありませんよ。酒に溺れてくだを巻くロクデナシと話す方がまだ有意義でしょう」
「己とは異なる価値観を持つ人間が相手であることを考えれば、それもまた、価値がある話を聞けそうだね」
「異なる価値観とは成程、貴方はどう見てもロクデナシとは縁がなさそうな高貴なお人に見えますから、そうなのでしょうね」
「そういう意味ではなく、私が酒を嗜まないことに焦点を置いた返答だったかな。あれは脳を狂わす代物だ。あんな物を好む者とは全く共感出来そうになくてね」
「酒を飲むだけで人生の幸福度の上昇が見込めるのならば、一概に悪いとは言えないのではないでしょうか。一般に悪いと言われるものが、本当に悪いとは限らないものです」
「成程ね。これだから自分と異なる価値観を持つ者との対話はやめられないんだよ。その観点は私にはなかった。機会があれば酒も試してみようかな」

 彼はそう言って楽しそうに笑った。

 *

 その後もホルスト卿と俺は、それぞれ重なりようのないはずの人生を送りながらも定期的に顔を合わせ、交流を楽しんだ。どうやら政府中枢に食い込める程の権力を持つお方らしいホルスト卿とは対照的に、俺はただの浮浪児である。故に、それなりに頭が回る俺が生活のために悪事に手を染め始めたのはごく自然な流れであり、そうこうしているうちに犯罪者の集団に良い意味で目を付けられたこともまた驚くべきことではないだろう。どこかへ属すことへの嫌悪感はあったが、そこは憎き一般民衆とは一線を画す存在であり、また己の知らぬ学びと技術を得られる確信があったから、俺は誘われるがまま彼等の手を取ることにした。そして多事多難の末に、俺はそこで何とか己の居場所を確立し、相変わらず他者と群れることを避けながらも、案外馴染んでいったのである。
 俺が家無しの浮浪児から立派な犯罪者へと昇格、もしくは降格した後も、ホルスト卿との交流は当たり前のように続いていた。そしてその日も土産の茶葉を片手に、彼は俺を訪ねて来たのである。出し入れが面倒になったために常設されるようになった来客用の椅子に腰かけた彼は、いつも通り世間話をするように口を開いた。

「ところで君は金さえ払えば、どんな依頼でも受けると聞いたのだけれどね。私も君に仕事を依頼しても構わないかな。報酬は弾むよ。今ならブランデーもおまけでついてくる」
「他ならぬ卿の頼みであれば仕事としてではなく一人の友人として手を貸しますよ。ブランデーは共に飲みたいので頂きましょう。それでどうなさったのですか?」

 手渡されたばかりの茶葉に湯を注ぎながら問いかけると、彼は少し困ったように微笑んだ。

「それがね、実は色々と面倒なことになってしまったんだ。それで君に少し手伝って欲しくてね」
「貴方の政敵の弱み探しでしたら俺でも力になれるかと」
「それも面白そうだけれど、そうではなくてね。率直に言えば死体の調達とか、私には伝手がなくて出来ないことを君に頼みたいんだ」
「死体ですか? 別に構いませんけれど、卿がそのようなものをご所望とは珍しいですね。それはまたどういった経緯で必要になったのか、俺が尋ねてもよろしいでしょうか」

 死体を用意することは至って容易なことではあるが、想定外の頼みに俺は困惑を隠せない。俺との出会いを鑑みても分かるように、彼はとにかく慈愛に満ちた男である。権力を持つ者としては信じられないことであるが、彼は本当に後ろ暗いものとは完全に無縁なのだ。それが一体どうして、死体という彼に似つかわしくないものを欲するというのか。思考を巡らせてみても突飛な発想を持つ彼の真意に、俺では到底辿り着けそうにない。そんな俺を楽しそうに見つめながら、彼は平然とした調子で「私の死体の代わりだよ」と答えた。

「自殺の偽装をしようかと思っていてね。腐敗が進む政府の崩壊を目論む私のことを、危うんで蹴落とそうとする輩の相手が面倒で堪らないんだ」
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