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1巻
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対して、そんな女性の腕を掴む男性は、胸元を飾る金のネックレスを見せつけるようにワイシャツのボタンを開けている。
いかにもチンピラな風貌の男に、茜は目を細めた。
(まさか無理矢理部屋に連れ込もうとしてる!?)
だとしたら放ってはおけない。
茜は躊躇うことなく階段を駆け上がった。
「離してあげてください」
突然現れ止めに入った茜に、女性とチンピラ男の視線が同時に向けられる。
「ああ? なんだお前。お前が代わりに出るってか?」
割って入れば「邪魔するな」と言われることを予想していた茜は、想定外の言葉に首を傾げた。
「出る? 何に?」
チンピラ男がニヤリといやらしく口を歪める。
「AVだよ」
「えっ、エー」
ブイと、大きな声で続けそうになり、両手で慌てて口を塞いだ。
(冗談? 本気? 待ってよ? 本当にAVだとしたら、この女の人、もしかして女優さんなの?)
いや、女優だとしても何かを嫌がっていて揉めているはずだ。
(はっ!? もしや、素人が騙されて無理矢理的なやつ!?)
だとしたら、是が非でも助けてあげるべきではと思案するも、代わりに自分があてがわれたらと想像して不安になる。
(処女喪失はAVデビュー作です、なんて、シャレにならないし笑えない!)
そんなオチは絶対お断りだけれど、放置はできない。
どうやってこの場を収めるべきか。
茜が逡巡していると、いつの間にか近づいていた足音の主に「お嬢」と呼ばれた。
「嫌な予感がして来てみれば、なにやってんだか」
黒い細身のスーツに身を包んだ暁哉が階段を上がってきた。
「澤村さん!」
茜が驚きと安堵を同時に感じると、チンピラ男が目を丸くする。
「兄貴!?」
どうやら知り合いのようで、チンピラ男が慌てて頭を下げた。
その様子に、茜は理解する。
(もしかして、京極組の?)
問いかける眼差しを暁哉へ投げると、彼は「そうだ」と言うように眉を上げた。
「うちの若衆だよ」
「やっぱり」
納得する茜の隣に立つ女優は、「やだイケメン」と暁哉に見惚れて話を聞いていない。
「あ、兄貴の知り合いで?」
「知り合いなんて軽い関係じゃない。俺の女」
堂々と告げた暁哉に肩をぐっと掴まれ引き寄せられ、茜の身体が緊張で強張った。
心臓が早鐘を打ち、頬が火照ってくる。
「兄貴の!?」
「そう。で、お前、俺の女になにさせるって?」
暁哉の声色が低くなり、チンピラ男の顔が青ざめた。
「し、知らなかったとはいえすんません!」
「謝るだけじゃなくてしっかり説明もしろ」
「は、はい! 実は昨日から、ここの一室を借りて撮影してんすけど、彼女が出ないってごねてて」
「男優が嫌なのよ! ジャネーズ系の男優だって言ってたから引き受けたのに!」
目を吊り上げて怒りを露わにする女優は、暁哉を見て「あ」と微笑む。
「あなた、男優さんやってくれない? 私、あなたが相手なら部屋に戻るわ」
まさかのお誘いに茜はぎょっと目を剥くが、暁哉は微塵も動揺せずに微笑み返した。
「悪いけど、俺が抱きたいと思うのは彼女だけなんだ」
ちらりと自分に視線が向けられ、茜の双眸がさらに驚きに染まる。
(こ、断るための口実に使っただけよね?)
本当に抱きたいとは思っていないはず。何せ、自分たちはまだ出会って間もないのだ。
「あーん、残念」
「じゃあ、俺たちはここで。完成楽しみにしてますよ」
女優に伝える暁哉にエスコートされ、エレベーターホールへ移動する。
ふたりが完全に見えなくなったところで、茜は寄り添う暁哉をチラリと見上げた。
「完成したら観るんですか?」
「観ないよ。楽しみしてるって言えば少しはやる気出すかもしれないだろ?」
茜の中で、確かにと思う気持ちと、どうだかと疑う気持ちが混ざる。
(まあ、観るのは個人の自由だけど……)
以前友人が、恋人がいるにもかかわらずAVを見る彼氏は許せないと話していたのを思い出す。
しかし、茜と暁哉は恋人といってもまだ始まったばかりだ。
まして、互いに好意を持っての交際ではないので、許す許さないの話になるのもおかしい。
(おかしいんだけど……)
胸の内がモヤッとするのは、始まったばかりにせよ恋人関係だからなのだろうか。
ふたりきりでエレベーターに乗り込み、四十五階のボタンを押した暁哉が茜を見下ろす。
「不満? あの子の頑張ってる姿を、俺が観るの」
心中を見透かされ、茜は焦りつつも視線を外した。
「べ、別に。それより、京極組ってAVの制作会社もやってるんですね」
扉が閉まり、上昇していくインジケーターを見ながら茜は微妙に話題を逸らす。
「ああ。風俗とかそっち関係は結構手広くやってるな」
「さっき揉めてるのを見た時、普通の子が無理矢理やらされそうになってるのかって勘違いしちゃいました」
「うちは素人を使わないって聞いてるけど。いてもデリヘル経験者が多いらしいな」
「そうなんですね。本条は高級クラブなんかは経営してるみたいですけど、そっちは手を出さないみたいで」
とはいえ、茜も組がどういった仕事をしているか全て把握しているわけではない。
もしかしたら知らないだけで、そういったこともやっているのかもしれないと考えていると、暁哉が「そうらしいな」と肯定した。
「本条は京極に比べたら本当に真っ当な極道だって聞いてる。将来足を洗う奴が堅気に戻りやすくなるように、スミは入れない方がいいって忠告もしてるんだって?」
「その話なら父から聞いたことあります。そもそも本条は行き場のない人たちの受け皿で、どう生きるかを考えて決める場所なんだとも言ってました」
組長である茜の父にとって、構成員は子のようなもの。
子が一人前になって巣立つのを見守る役目を組長は負っている。
先代もよくそう話していたと、父は酒を片手に語っていた。
また、一度極道となった者が堅気に戻るのは簡単ではないのだが、本条では脱退届をしっかりと警察に提出させ、就労支援まで受けられるように手配もしているのだ。
「お嬢はいい親父さんのところに生まれたな」
そう思ってくれるのであれば、ぜひうちに移籍してください。
喉元まで出かかったその言葉を、茜はぐっと呑み込んだ。
暁哉にも、親友というかけがえのない間柄の人物が京極組にいる。
本来なら、スカウトはあの夜にきっぱりと断られてもおかしくなかった。
けれど、チャンスをくれたのだ。
しつこく勧誘するのは良くないと思い、茜は「はい」と短く答えた。
エレベーターの扉が開き、暁哉と共に靴音を鳴らしながらレストランに向かう。
受付に立つレセプションの男性に予約を告げる暁哉を、茜はそっと観察した。
(澤村さんって、佇まいにどことなく品があるから、極道っていうより御曹司っぽく見えるかも)
今日はサングラスをかけておらず、着ているスーツがスマートなせいもあるだろうか。
「澤村様、二名様ですね。ご来店ありがとうございます」
レセプションの男性が「ご案内いたします」と綺麗な所作で席へと誘導する。
案内されたのは東京の夜景を見下ろせる個室だ。
大人の雰囲気を醸し出すシックでモダンな空間の中、暁哉は慣れたようにふたり分のコース料理をオーダーした。
(今までの人とは全然違う)
一成を含め、デートで高級店に茜を連れてきた男性はいなかった。
茜としてはカジュアルな店で十分であり、極端な話、ファストフード店でもかまわない。
何より肝心なのは、自分を受け入れてくれる男性であることだからだ。
それが、避けていた極道の男が相手になった途端変わった。
いや、極道でも若衆であればこうはならない。暁哉が若頭という役職だからだ。
(極道の女になると、その階級によって女性は磨かれていくって話をほろ酔いの父さんから聞いたことあるけど、これは確かに自分のレベルを上げたくなるかも)
その環境に見合う自分になれるよう、みんな磨きをかけるのだろう。
それは極道だけに非ず、他の職種でも言えることなのだが。
(澤村さんに合わせて服とか少し新調した方がいいかも)
そんな風に考えながら向かいの席に座る暁哉を見ると、いつからこちらを見ていたのか、視線がぶつかり、思わず逸らしてしまう。
(こ、これじゃ澤村さんを意識してるみたいじゃない)
暁哉の容姿が完璧なので変に意識してしまう茜は、早く慣れてしまおうと視線を戻す。
すると、タイミング良くウェイターがワインを持ってきた。
暁哉は辛口の白ワイン。茜はスパークリングワインだ。
「記念すべき初デートに」
微笑む暁哉が掲げたワイングラスに促され、茜はグラスを合わせ鳴らした。
「澤村さんは、この店には何度か来たことあるんですか?」
「ああ、よく来るよ。ここは融通を利かせてくれるしな」
なるほどと、心の中で納得する。
極上の夜景を眺められる個室でのディナーとあれば、予約で埋まっていそうなもの。
しかし、急なデートにもかかわらずこうして取れるのは、顔が利くからなのだろう。
その理由が、常連だからなのか職業柄なのかは置いておく。
「ところで、今日のお嬢は少し大人っぽいな。カジュアルな印象が強いけど、そういう雰囲気のお嬢も悪くないな」
「強いも何も、この前会ったのが初めましてじゃないですか」
ATARAYOで初めて会った時、茜の服装は、ロゴスウェットと深いスリットの入ったタイトなロングデニムスカートというコーディネートだった。
確かにカジュアルスタイルだが、しかしその一度だけで印象が決められるのもおかしな話だろう。
首を傾げた茜に、暁哉は「まあ、そうだな」と苦笑した。
(そういえば、初対面の時に澤村さんはすでに私のことを知ってた。名前だけじゃなくて、写真や資料で見たことがある……とか?)
その資料の自分がカジュアルスタイルだったなら、その印象が強いということなのかもしれない。
ワインを飲む暁哉を見つめながら考え、自分もグラスを手にする。
「そうだ、お嬢。確認しとくけど、昨今の京極と本条の関係を鑑みて、俺たちが大手を振って外で会うのは避ける、でいいか?」
「そうですね。本条でも、私が澤村さんと会ってるのを知っているのは父だけですし」
本条はまだしも、京極の者たちにふたりでいるところを見られ、変な勘繰りを入れられると後のスカウトも厳しくなりかねない。会う時は周りの目を気にした方が良いのは間違いないだろう。
「なら、デートの仕方も考えないとだな」
「さっきの若衆の人は大丈夫なんですか?」
「お嬢の顔と名前が一致するのは、組織の中でも幹部クラスくらいだ。問題ないだろ」
言われてみれば、暁哉の女だということに驚いていただけで、誰であるかは気付いてなかった。
とはいえ、念には念を入れ、気を付けた方が良さそうだ。
「親友の副組長さんにも話してないんですよね?」
「当然。あいつはずっと俺を京極に入れたがってたんだ。それが叶った時はかなり喜んでたし、自分が組長となった時には俺を副組長にしたいって話してる。そこまで言ってる奴に、お嬢が俺の女になったなんて話せば間違いなく揉める」
だから話せるわけがないと語りきったところで、コース料理の前菜が運ばれてきた。
副組長への抜擢を考えているということは、かなり暁哉を信頼しているのだろう。
(このまま京極に残れば昇進は堅い。そんな人をスカウトなんて、やっぱり難易度高すぎ……)
暁哉が出世を捨ててスカウトを受けたくなるくらい、自分に本気にさせなければいけない。
(こんないい男が、私に惚れる?)
鰆のカルパッチョにナイフを入れながら、同じくフォークで野菜を寄せ集める暁哉を観察する。
誰もが振り向くような完璧な容姿。
食事をする所作も様になっていて、映画のワンシーンのようだ。
(何をしててもイケメンとか国宝か)
恋愛経験も人生経験も明らかに豊富そうな男を本気にさせるなど、やはり無謀なのではと自問自答していると暁哉がフッと笑った。
「見つめすぎ」
「えっ、ち、ちがっ、これは、そう! あなたのことまだよく知らないから観察してるんですっ」
焦って思いつくままに言葉にしたものの、あながち嘘でもないのだ。
「へぇ? じゃあ、俺んちにおいで」
まるで近所のコンビニに寄っていこうかというレベルの軽さで誘われ、理解が追い付かない茜は一瞬フリーズする。
誘われているのはコンビニではなく、暁哉の家。言葉を脳内で確認し、改めて狼狽える。
「な、なんでそうなるんですか」
「家の中を見れば、俺がどんな人間かわかるかもよ」
どんな家に住み、どんな部屋でどのような生活を送っているのか。
それを目の当たりにすることで、わかることもある。
(それは、一理あるかも)
趣味のものなどもあれば、人となりが垣間見られるかもしれない。
だがしかし。
(恋人になったとはいえ、まだ二回しか会ってない相手の家に行くってどうなの!?)
茜は「うーん」と無意識に声に出して熟考する。
(もしかして、ここで断ったらスカウトの件は終了なんてオチだったりして)
俺が欲しいなら、それ相応の根性を見せろと試されてるのでは。
だとしたら、断る道はない。
「わかったわ。受けて立ちます!」
「ふはっ……何と戦う気だよ」
おかしそうに笑った暁哉の少年のような笑顔に心臓が跳ねる。
「じゃあ、食べ終わったら行こうか」
「今日なの!? きゅ、急すぎない?」
「片付けも何もしてない方が、俺のことがよりわかるだろ?」
そう言われて、どちらにせよ行くのは変わらないと茜は息を吸った。
(女は度胸! 虎穴に入らずんば虎子を得ず!)
心の中で気合を入れた茜が「行きます」と答えると、暁哉は「さすがお嬢」と満足げに微笑んだ。
タクシーから降りた茜は、都心の一等地に聳え立つタワーマンションを見上げた。
「ここ、ですか?」
「そう。便利なとこだろ?」
暁哉の言う通り、マンションの一階と二階は商業施設になっていて、スーパーやコンビニ、カフェに薬局などが見える。
「二階にはワインの美味いバルもある。時間があるなら後で飲みに行こうか」
「いいですね!」
茜は笑顔で答えつつ、内心では暁哉の提案に安堵した。
部屋に入った後、ベッドに連れ込まれるのではという不安がつきまとっていたからだ。
(まあ、澤村さんは余裕のある大人って感じだし、無理矢理どうのってことはなさそうだけど、油断は禁物よね)
度胸と共に警戒心を持ちつつ、暁哉の背を追って両脇に水の流れるアプローチを進んでいく。
インターホン装置にカードキーをかざし、自動扉をくぐった先に広がるのは、ガラス張りの洗練されたエントランスロビーだ。
常駐しているフロントスタッフが一礼して、エレベーターホールに向かう茜たちを見送る。
「なんだかホテルみたいですね」
「そうだな。ハウスキーピングにルームサービス、荷物を運ぶポーターに、車を入出庫してくれるバレーパーキングのサービスもある」
「高級ホテル仕様じゃないですか!」
瞠目しながらエレベーターに乗り込む。暁哉が押したフロアボタンは最上階だ。
「至れり尽くせりの高級タワーマンションの最上階って、家賃やばそうですね……」
一体いくらぐらいするのだろうか。慄く茜に、暁哉は「ここは分譲のはずだ」と曖昧に答えた。
「澤村さんが契約したんじゃないんですか?」
「元々ここは京極の親父が買った物件で、二年前に蓮二が譲り受けたんだよ。で、蓮二が女の家で同棲することになって、ちょうど新居を探してた俺に貸し出したって流れ」
暁哉の説明を聞き、なるほどと曖昧だった理由に納得がいく。
「そうだったんですね。新居はタワマンを希望してたんですか?」
「いや、元々の部屋より少し広ければなんでもいいと思って物件見てた」
「元の家もマンションだったんですか?」
「そう。築三十年の四十平米1LDK」
「え……」
予想していたよりも古く狭かったので、思わず驚き、目を瞬かせた。
「イメージと違った?」
「そ、そうですね。役職が若頭ともなると、それなりに広い家に住んでる人が多いイメージが強いので」
本条の若頭も、茜の住む家からほど近いマンションの最上階に住んでいる。
ちなみに、最上階に住むのは防犯面を考慮してのことで、このタワーマンションであれば高さ的にも心配は少ないだろう。だからこそ、京極組の組長が購入したのは頷けるのだが……
「蓮二にも言われた。組の沽券にも関わるし、下のモンに示しがつかないって。セキュリティもガバガバなとこだったから引っ越せってうるさかったな」
どうやら、暁哉はあまり気にしない性格らしい。
最上階に到着し、エレベーターから降りた茜は「それで引っ越し先を探してたんですね」と内廊下を歩く暁哉に話しかけた。
「そういうことだ。ただ、ペントハウスは俺には広すぎて使い辛いのが難点だな」
そう言いながら、一番奥の扉の前で立ち止まる。
「ここがその広すぎる俺の家。ようこそ、お嬢」
カードを差し込み、ロックを解除すると扉を引き開けた。
その途端、家の中から暁哉のつけている香水の香りがふわりと流れ出てくる。
暁哉の家に来たのだと否が応でも感じてしまい、緊張にそっと喉を鳴らした。
しかし、茜は怯むまいと息を吸い込む。
「お、お邪魔します!」
いざ参ると言わんばかりの戦人のような覚悟でパンプスを脱いだ。
エントランスから大理石で繋がっているリビングは、ホームパーティーを余裕で開けるほどに広い。
(想像はしてたけど、やっぱり壁は全面窓ガラス!)
純和風の茜の自宅は、母屋も本部もこういった造りにはなっていない。
本条家も広いが、初めて目の当たりにする高級マンションのペントハウスに、茜は少々興奮する。
「めちゃくちゃオシャレ!」
無駄な物がないモデルルームのような室内をぐるりと見渡す。
頭上でゆっくりと回る、モダンなデザインのシーリングファンライト。
柔らかそうなグレーのラグに乗るのは、茶色い革張りのソファと黒いガラスのローテーブルだ。
壁にかかった液晶テレビと、レンガを模してブロック型に貼り合わされたウォールナットのテレビボードはユニークで洒落ている。
「綺麗にしてるんですね」
「ハウスキーパーに頼んで、週二で掃除してもらってるんだ」
暁哉はカードキーをガラステーブルに置き、ジャケットを脱ぎながら答えた。
「さっき言ってたマンションのサービスですか? それとも、ハウスキーパーという名の彼女だったり?」
「さあ? どっちだと思う?」
「ズルイ。私が先に質問してるのに」
からかうつもりが飄々とかわされてしまい、茜は少しだけ唇を尖らせる。
「ここのサービスだよ。俺はそんなに軽くない」
「軽くない人は、出会ってすぐに恋人になる提案なんてしてこないと思いますけど」
きっぱりと言い放つも、暁哉は余裕の表情で微笑んだ。
「それは相手がお嬢だからだよ」
特別だと暗に告げられ、それが女を口説くための常套句だとわかっていても、ついときめいてしまう。
(声のせいよ。声が好みなのが良くない)
木乃伊取りが木乃伊になるわけにはいかない。
恋人ではあるけれど、自分が惚れるのではなく惚れさせなければならないのだ。
堅気になるために冷静になれと心の中で自分に言い聞かせる。
「もしかして信じてないな?」
無言でいる茜を疑っていると捉えたのか、暁哉は「なら、うちに来たのはちょうど良かったな」と話しつつ、ジャケットをソファの背もたれにかけた。
「俺はコーヒーを用意してくるから、お嬢は目的を達成しておいで。そのついでに、女の気配も探すといい」
「自信満々ですね」
「潔白だからな」
そう言って暁哉はスリッパの音を鳴らしながらキッチンへと消えた。
(別に、本当に他に彼女がいるとは思ってないけど……)
いないと言い切れるほど暁哉を知らないので、一応気にはしておきつつ、家の中の観察をスタートする。
(とりあえず、このリビングには特になさそうかな)
そもそも、ここにある家具は暁哉が持ってきた物なのかも疑問だ。
京極蓮二が置いていった物もあるのなら、モダンな家具が暁哉の好みなのか判断がつかない。
(週二でハウスキーパーに掃除を頼むってことは、掃除好きってわけではない……のかも?)
それと、他人を家にあげられることから見て、潔癖という感じでもなさそうだ。
そんな分析をしながらリビングを出た茜は、廊下を進み、扉が開いている洋室を覗いた。
「書斎、かな?」
仕事部屋と言うべきか。
L字型の黒い鏡面デスクの上に、多画面仕様のパソコンとプリンターが載っている。
(トレーディングってやつ?)
投資で京極組の経済状況を支えているのだろうか。
(仕事じゃなくて、何か澤村さんのことを知れそうな物ってあるかな?)
デスクに近寄り視線を動かして探してみるも、目ぼしい物は見つからない。
リビングと同様、余計な物がほとんどないデスクから、壁の飾り棚へと目を向けた。
(株に不動産、人材派遣……うーん……完全に仕事って感じの本ばっかりだなぁ)
さすがにデスクの引き出しまで確認するわけにもいかず、次の部屋へと移動する。
暁哉の纏う爽やかで落ち着いた香りがひと際強いこの部屋は。
(寝室ね)
寝室はプライベート中のプライベート空間だ。
茜はここならば趣味のものもあるのではと、少し緊張しつつ足を踏み入れる。
いかにもチンピラな風貌の男に、茜は目を細めた。
(まさか無理矢理部屋に連れ込もうとしてる!?)
だとしたら放ってはおけない。
茜は躊躇うことなく階段を駆け上がった。
「離してあげてください」
突然現れ止めに入った茜に、女性とチンピラ男の視線が同時に向けられる。
「ああ? なんだお前。お前が代わりに出るってか?」
割って入れば「邪魔するな」と言われることを予想していた茜は、想定外の言葉に首を傾げた。
「出る? 何に?」
チンピラ男がニヤリといやらしく口を歪める。
「AVだよ」
「えっ、エー」
ブイと、大きな声で続けそうになり、両手で慌てて口を塞いだ。
(冗談? 本気? 待ってよ? 本当にAVだとしたら、この女の人、もしかして女優さんなの?)
いや、女優だとしても何かを嫌がっていて揉めているはずだ。
(はっ!? もしや、素人が騙されて無理矢理的なやつ!?)
だとしたら、是が非でも助けてあげるべきではと思案するも、代わりに自分があてがわれたらと想像して不安になる。
(処女喪失はAVデビュー作です、なんて、シャレにならないし笑えない!)
そんなオチは絶対お断りだけれど、放置はできない。
どうやってこの場を収めるべきか。
茜が逡巡していると、いつの間にか近づいていた足音の主に「お嬢」と呼ばれた。
「嫌な予感がして来てみれば、なにやってんだか」
黒い細身のスーツに身を包んだ暁哉が階段を上がってきた。
「澤村さん!」
茜が驚きと安堵を同時に感じると、チンピラ男が目を丸くする。
「兄貴!?」
どうやら知り合いのようで、チンピラ男が慌てて頭を下げた。
その様子に、茜は理解する。
(もしかして、京極組の?)
問いかける眼差しを暁哉へ投げると、彼は「そうだ」と言うように眉を上げた。
「うちの若衆だよ」
「やっぱり」
納得する茜の隣に立つ女優は、「やだイケメン」と暁哉に見惚れて話を聞いていない。
「あ、兄貴の知り合いで?」
「知り合いなんて軽い関係じゃない。俺の女」
堂々と告げた暁哉に肩をぐっと掴まれ引き寄せられ、茜の身体が緊張で強張った。
心臓が早鐘を打ち、頬が火照ってくる。
「兄貴の!?」
「そう。で、お前、俺の女になにさせるって?」
暁哉の声色が低くなり、チンピラ男の顔が青ざめた。
「し、知らなかったとはいえすんません!」
「謝るだけじゃなくてしっかり説明もしろ」
「は、はい! 実は昨日から、ここの一室を借りて撮影してんすけど、彼女が出ないってごねてて」
「男優が嫌なのよ! ジャネーズ系の男優だって言ってたから引き受けたのに!」
目を吊り上げて怒りを露わにする女優は、暁哉を見て「あ」と微笑む。
「あなた、男優さんやってくれない? 私、あなたが相手なら部屋に戻るわ」
まさかのお誘いに茜はぎょっと目を剥くが、暁哉は微塵も動揺せずに微笑み返した。
「悪いけど、俺が抱きたいと思うのは彼女だけなんだ」
ちらりと自分に視線が向けられ、茜の双眸がさらに驚きに染まる。
(こ、断るための口実に使っただけよね?)
本当に抱きたいとは思っていないはず。何せ、自分たちはまだ出会って間もないのだ。
「あーん、残念」
「じゃあ、俺たちはここで。完成楽しみにしてますよ」
女優に伝える暁哉にエスコートされ、エレベーターホールへ移動する。
ふたりが完全に見えなくなったところで、茜は寄り添う暁哉をチラリと見上げた。
「完成したら観るんですか?」
「観ないよ。楽しみしてるって言えば少しはやる気出すかもしれないだろ?」
茜の中で、確かにと思う気持ちと、どうだかと疑う気持ちが混ざる。
(まあ、観るのは個人の自由だけど……)
以前友人が、恋人がいるにもかかわらずAVを見る彼氏は許せないと話していたのを思い出す。
しかし、茜と暁哉は恋人といってもまだ始まったばかりだ。
まして、互いに好意を持っての交際ではないので、許す許さないの話になるのもおかしい。
(おかしいんだけど……)
胸の内がモヤッとするのは、始まったばかりにせよ恋人関係だからなのだろうか。
ふたりきりでエレベーターに乗り込み、四十五階のボタンを押した暁哉が茜を見下ろす。
「不満? あの子の頑張ってる姿を、俺が観るの」
心中を見透かされ、茜は焦りつつも視線を外した。
「べ、別に。それより、京極組ってAVの制作会社もやってるんですね」
扉が閉まり、上昇していくインジケーターを見ながら茜は微妙に話題を逸らす。
「ああ。風俗とかそっち関係は結構手広くやってるな」
「さっき揉めてるのを見た時、普通の子が無理矢理やらされそうになってるのかって勘違いしちゃいました」
「うちは素人を使わないって聞いてるけど。いてもデリヘル経験者が多いらしいな」
「そうなんですね。本条は高級クラブなんかは経営してるみたいですけど、そっちは手を出さないみたいで」
とはいえ、茜も組がどういった仕事をしているか全て把握しているわけではない。
もしかしたら知らないだけで、そういったこともやっているのかもしれないと考えていると、暁哉が「そうらしいな」と肯定した。
「本条は京極に比べたら本当に真っ当な極道だって聞いてる。将来足を洗う奴が堅気に戻りやすくなるように、スミは入れない方がいいって忠告もしてるんだって?」
「その話なら父から聞いたことあります。そもそも本条は行き場のない人たちの受け皿で、どう生きるかを考えて決める場所なんだとも言ってました」
組長である茜の父にとって、構成員は子のようなもの。
子が一人前になって巣立つのを見守る役目を組長は負っている。
先代もよくそう話していたと、父は酒を片手に語っていた。
また、一度極道となった者が堅気に戻るのは簡単ではないのだが、本条では脱退届をしっかりと警察に提出させ、就労支援まで受けられるように手配もしているのだ。
「お嬢はいい親父さんのところに生まれたな」
そう思ってくれるのであれば、ぜひうちに移籍してください。
喉元まで出かかったその言葉を、茜はぐっと呑み込んだ。
暁哉にも、親友というかけがえのない間柄の人物が京極組にいる。
本来なら、スカウトはあの夜にきっぱりと断られてもおかしくなかった。
けれど、チャンスをくれたのだ。
しつこく勧誘するのは良くないと思い、茜は「はい」と短く答えた。
エレベーターの扉が開き、暁哉と共に靴音を鳴らしながらレストランに向かう。
受付に立つレセプションの男性に予約を告げる暁哉を、茜はそっと観察した。
(澤村さんって、佇まいにどことなく品があるから、極道っていうより御曹司っぽく見えるかも)
今日はサングラスをかけておらず、着ているスーツがスマートなせいもあるだろうか。
「澤村様、二名様ですね。ご来店ありがとうございます」
レセプションの男性が「ご案内いたします」と綺麗な所作で席へと誘導する。
案内されたのは東京の夜景を見下ろせる個室だ。
大人の雰囲気を醸し出すシックでモダンな空間の中、暁哉は慣れたようにふたり分のコース料理をオーダーした。
(今までの人とは全然違う)
一成を含め、デートで高級店に茜を連れてきた男性はいなかった。
茜としてはカジュアルな店で十分であり、極端な話、ファストフード店でもかまわない。
何より肝心なのは、自分を受け入れてくれる男性であることだからだ。
それが、避けていた極道の男が相手になった途端変わった。
いや、極道でも若衆であればこうはならない。暁哉が若頭という役職だからだ。
(極道の女になると、その階級によって女性は磨かれていくって話をほろ酔いの父さんから聞いたことあるけど、これは確かに自分のレベルを上げたくなるかも)
その環境に見合う自分になれるよう、みんな磨きをかけるのだろう。
それは極道だけに非ず、他の職種でも言えることなのだが。
(澤村さんに合わせて服とか少し新調した方がいいかも)
そんな風に考えながら向かいの席に座る暁哉を見ると、いつからこちらを見ていたのか、視線がぶつかり、思わず逸らしてしまう。
(こ、これじゃ澤村さんを意識してるみたいじゃない)
暁哉の容姿が完璧なので変に意識してしまう茜は、早く慣れてしまおうと視線を戻す。
すると、タイミング良くウェイターがワインを持ってきた。
暁哉は辛口の白ワイン。茜はスパークリングワインだ。
「記念すべき初デートに」
微笑む暁哉が掲げたワイングラスに促され、茜はグラスを合わせ鳴らした。
「澤村さんは、この店には何度か来たことあるんですか?」
「ああ、よく来るよ。ここは融通を利かせてくれるしな」
なるほどと、心の中で納得する。
極上の夜景を眺められる個室でのディナーとあれば、予約で埋まっていそうなもの。
しかし、急なデートにもかかわらずこうして取れるのは、顔が利くからなのだろう。
その理由が、常連だからなのか職業柄なのかは置いておく。
「ところで、今日のお嬢は少し大人っぽいな。カジュアルな印象が強いけど、そういう雰囲気のお嬢も悪くないな」
「強いも何も、この前会ったのが初めましてじゃないですか」
ATARAYOで初めて会った時、茜の服装は、ロゴスウェットと深いスリットの入ったタイトなロングデニムスカートというコーディネートだった。
確かにカジュアルスタイルだが、しかしその一度だけで印象が決められるのもおかしな話だろう。
首を傾げた茜に、暁哉は「まあ、そうだな」と苦笑した。
(そういえば、初対面の時に澤村さんはすでに私のことを知ってた。名前だけじゃなくて、写真や資料で見たことがある……とか?)
その資料の自分がカジュアルスタイルだったなら、その印象が強いということなのかもしれない。
ワインを飲む暁哉を見つめながら考え、自分もグラスを手にする。
「そうだ、お嬢。確認しとくけど、昨今の京極と本条の関係を鑑みて、俺たちが大手を振って外で会うのは避ける、でいいか?」
「そうですね。本条でも、私が澤村さんと会ってるのを知っているのは父だけですし」
本条はまだしも、京極の者たちにふたりでいるところを見られ、変な勘繰りを入れられると後のスカウトも厳しくなりかねない。会う時は周りの目を気にした方が良いのは間違いないだろう。
「なら、デートの仕方も考えないとだな」
「さっきの若衆の人は大丈夫なんですか?」
「お嬢の顔と名前が一致するのは、組織の中でも幹部クラスくらいだ。問題ないだろ」
言われてみれば、暁哉の女だということに驚いていただけで、誰であるかは気付いてなかった。
とはいえ、念には念を入れ、気を付けた方が良さそうだ。
「親友の副組長さんにも話してないんですよね?」
「当然。あいつはずっと俺を京極に入れたがってたんだ。それが叶った時はかなり喜んでたし、自分が組長となった時には俺を副組長にしたいって話してる。そこまで言ってる奴に、お嬢が俺の女になったなんて話せば間違いなく揉める」
だから話せるわけがないと語りきったところで、コース料理の前菜が運ばれてきた。
副組長への抜擢を考えているということは、かなり暁哉を信頼しているのだろう。
(このまま京極に残れば昇進は堅い。そんな人をスカウトなんて、やっぱり難易度高すぎ……)
暁哉が出世を捨ててスカウトを受けたくなるくらい、自分に本気にさせなければいけない。
(こんないい男が、私に惚れる?)
鰆のカルパッチョにナイフを入れながら、同じくフォークで野菜を寄せ集める暁哉を観察する。
誰もが振り向くような完璧な容姿。
食事をする所作も様になっていて、映画のワンシーンのようだ。
(何をしててもイケメンとか国宝か)
恋愛経験も人生経験も明らかに豊富そうな男を本気にさせるなど、やはり無謀なのではと自問自答していると暁哉がフッと笑った。
「見つめすぎ」
「えっ、ち、ちがっ、これは、そう! あなたのことまだよく知らないから観察してるんですっ」
焦って思いつくままに言葉にしたものの、あながち嘘でもないのだ。
「へぇ? じゃあ、俺んちにおいで」
まるで近所のコンビニに寄っていこうかというレベルの軽さで誘われ、理解が追い付かない茜は一瞬フリーズする。
誘われているのはコンビニではなく、暁哉の家。言葉を脳内で確認し、改めて狼狽える。
「な、なんでそうなるんですか」
「家の中を見れば、俺がどんな人間かわかるかもよ」
どんな家に住み、どんな部屋でどのような生活を送っているのか。
それを目の当たりにすることで、わかることもある。
(それは、一理あるかも)
趣味のものなどもあれば、人となりが垣間見られるかもしれない。
だがしかし。
(恋人になったとはいえ、まだ二回しか会ってない相手の家に行くってどうなの!?)
茜は「うーん」と無意識に声に出して熟考する。
(もしかして、ここで断ったらスカウトの件は終了なんてオチだったりして)
俺が欲しいなら、それ相応の根性を見せろと試されてるのでは。
だとしたら、断る道はない。
「わかったわ。受けて立ちます!」
「ふはっ……何と戦う気だよ」
おかしそうに笑った暁哉の少年のような笑顔に心臓が跳ねる。
「じゃあ、食べ終わったら行こうか」
「今日なの!? きゅ、急すぎない?」
「片付けも何もしてない方が、俺のことがよりわかるだろ?」
そう言われて、どちらにせよ行くのは変わらないと茜は息を吸った。
(女は度胸! 虎穴に入らずんば虎子を得ず!)
心の中で気合を入れた茜が「行きます」と答えると、暁哉は「さすがお嬢」と満足げに微笑んだ。
タクシーから降りた茜は、都心の一等地に聳え立つタワーマンションを見上げた。
「ここ、ですか?」
「そう。便利なとこだろ?」
暁哉の言う通り、マンションの一階と二階は商業施設になっていて、スーパーやコンビニ、カフェに薬局などが見える。
「二階にはワインの美味いバルもある。時間があるなら後で飲みに行こうか」
「いいですね!」
茜は笑顔で答えつつ、内心では暁哉の提案に安堵した。
部屋に入った後、ベッドに連れ込まれるのではという不安がつきまとっていたからだ。
(まあ、澤村さんは余裕のある大人って感じだし、無理矢理どうのってことはなさそうだけど、油断は禁物よね)
度胸と共に警戒心を持ちつつ、暁哉の背を追って両脇に水の流れるアプローチを進んでいく。
インターホン装置にカードキーをかざし、自動扉をくぐった先に広がるのは、ガラス張りの洗練されたエントランスロビーだ。
常駐しているフロントスタッフが一礼して、エレベーターホールに向かう茜たちを見送る。
「なんだかホテルみたいですね」
「そうだな。ハウスキーピングにルームサービス、荷物を運ぶポーターに、車を入出庫してくれるバレーパーキングのサービスもある」
「高級ホテル仕様じゃないですか!」
瞠目しながらエレベーターに乗り込む。暁哉が押したフロアボタンは最上階だ。
「至れり尽くせりの高級タワーマンションの最上階って、家賃やばそうですね……」
一体いくらぐらいするのだろうか。慄く茜に、暁哉は「ここは分譲のはずだ」と曖昧に答えた。
「澤村さんが契約したんじゃないんですか?」
「元々ここは京極の親父が買った物件で、二年前に蓮二が譲り受けたんだよ。で、蓮二が女の家で同棲することになって、ちょうど新居を探してた俺に貸し出したって流れ」
暁哉の説明を聞き、なるほどと曖昧だった理由に納得がいく。
「そうだったんですね。新居はタワマンを希望してたんですか?」
「いや、元々の部屋より少し広ければなんでもいいと思って物件見てた」
「元の家もマンションだったんですか?」
「そう。築三十年の四十平米1LDK」
「え……」
予想していたよりも古く狭かったので、思わず驚き、目を瞬かせた。
「イメージと違った?」
「そ、そうですね。役職が若頭ともなると、それなりに広い家に住んでる人が多いイメージが強いので」
本条の若頭も、茜の住む家からほど近いマンションの最上階に住んでいる。
ちなみに、最上階に住むのは防犯面を考慮してのことで、このタワーマンションであれば高さ的にも心配は少ないだろう。だからこそ、京極組の組長が購入したのは頷けるのだが……
「蓮二にも言われた。組の沽券にも関わるし、下のモンに示しがつかないって。セキュリティもガバガバなとこだったから引っ越せってうるさかったな」
どうやら、暁哉はあまり気にしない性格らしい。
最上階に到着し、エレベーターから降りた茜は「それで引っ越し先を探してたんですね」と内廊下を歩く暁哉に話しかけた。
「そういうことだ。ただ、ペントハウスは俺には広すぎて使い辛いのが難点だな」
そう言いながら、一番奥の扉の前で立ち止まる。
「ここがその広すぎる俺の家。ようこそ、お嬢」
カードを差し込み、ロックを解除すると扉を引き開けた。
その途端、家の中から暁哉のつけている香水の香りがふわりと流れ出てくる。
暁哉の家に来たのだと否が応でも感じてしまい、緊張にそっと喉を鳴らした。
しかし、茜は怯むまいと息を吸い込む。
「お、お邪魔します!」
いざ参ると言わんばかりの戦人のような覚悟でパンプスを脱いだ。
エントランスから大理石で繋がっているリビングは、ホームパーティーを余裕で開けるほどに広い。
(想像はしてたけど、やっぱり壁は全面窓ガラス!)
純和風の茜の自宅は、母屋も本部もこういった造りにはなっていない。
本条家も広いが、初めて目の当たりにする高級マンションのペントハウスに、茜は少々興奮する。
「めちゃくちゃオシャレ!」
無駄な物がないモデルルームのような室内をぐるりと見渡す。
頭上でゆっくりと回る、モダンなデザインのシーリングファンライト。
柔らかそうなグレーのラグに乗るのは、茶色い革張りのソファと黒いガラスのローテーブルだ。
壁にかかった液晶テレビと、レンガを模してブロック型に貼り合わされたウォールナットのテレビボードはユニークで洒落ている。
「綺麗にしてるんですね」
「ハウスキーパーに頼んで、週二で掃除してもらってるんだ」
暁哉はカードキーをガラステーブルに置き、ジャケットを脱ぎながら答えた。
「さっき言ってたマンションのサービスですか? それとも、ハウスキーパーという名の彼女だったり?」
「さあ? どっちだと思う?」
「ズルイ。私が先に質問してるのに」
からかうつもりが飄々とかわされてしまい、茜は少しだけ唇を尖らせる。
「ここのサービスだよ。俺はそんなに軽くない」
「軽くない人は、出会ってすぐに恋人になる提案なんてしてこないと思いますけど」
きっぱりと言い放つも、暁哉は余裕の表情で微笑んだ。
「それは相手がお嬢だからだよ」
特別だと暗に告げられ、それが女を口説くための常套句だとわかっていても、ついときめいてしまう。
(声のせいよ。声が好みなのが良くない)
木乃伊取りが木乃伊になるわけにはいかない。
恋人ではあるけれど、自分が惚れるのではなく惚れさせなければならないのだ。
堅気になるために冷静になれと心の中で自分に言い聞かせる。
「もしかして信じてないな?」
無言でいる茜を疑っていると捉えたのか、暁哉は「なら、うちに来たのはちょうど良かったな」と話しつつ、ジャケットをソファの背もたれにかけた。
「俺はコーヒーを用意してくるから、お嬢は目的を達成しておいで。そのついでに、女の気配も探すといい」
「自信満々ですね」
「潔白だからな」
そう言って暁哉はスリッパの音を鳴らしながらキッチンへと消えた。
(別に、本当に他に彼女がいるとは思ってないけど……)
いないと言い切れるほど暁哉を知らないので、一応気にはしておきつつ、家の中の観察をスタートする。
(とりあえず、このリビングには特になさそうかな)
そもそも、ここにある家具は暁哉が持ってきた物なのかも疑問だ。
京極蓮二が置いていった物もあるのなら、モダンな家具が暁哉の好みなのか判断がつかない。
(週二でハウスキーパーに掃除を頼むってことは、掃除好きってわけではない……のかも?)
それと、他人を家にあげられることから見て、潔癖という感じでもなさそうだ。
そんな分析をしながらリビングを出た茜は、廊下を進み、扉が開いている洋室を覗いた。
「書斎、かな?」
仕事部屋と言うべきか。
L字型の黒い鏡面デスクの上に、多画面仕様のパソコンとプリンターが載っている。
(トレーディングってやつ?)
投資で京極組の経済状況を支えているのだろうか。
(仕事じゃなくて、何か澤村さんのことを知れそうな物ってあるかな?)
デスクに近寄り視線を動かして探してみるも、目ぼしい物は見つからない。
リビングと同様、余計な物がほとんどないデスクから、壁の飾り棚へと目を向けた。
(株に不動産、人材派遣……うーん……完全に仕事って感じの本ばっかりだなぁ)
さすがにデスクの引き出しまで確認するわけにもいかず、次の部屋へと移動する。
暁哉の纏う爽やかで落ち着いた香りがひと際強いこの部屋は。
(寝室ね)
寝室はプライベート中のプライベート空間だ。
茜はここならば趣味のものもあるのではと、少し緊張しつつ足を踏み入れる。
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