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1巻
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暁哉は口元に薄い笑みを浮かべ、悪態をつく男の腕をさらに強く掴む。
「ちょっと、痛い目見てもらおうか」
そう低い声で告げた直後、掴んでいた腕をぐるりと捻り上げた。
「ぐあああぁっ!」
痛みに悶える男の絶叫が店内に響き渡る。
(相手は素人で酔っ払いとはいえ、動きに無駄がなかった。若くして若頭まで上り詰めるだけはあるのかも)
護身術を教えてくれた父の動きを思い出して比べていると、痛みで酔いが醒めたのか、男が逃げるように店を出ていく。
連れの女性が暁哉に頭を下げ感謝し、店のスタッフが片付けを始めたところで、バーテンダーが「暁哉さん」とカウンターへ手招いた。
「ドンペリ?」
「もちろんご馳走させてもらうわ。助けてくれてありがとう。あのね、彼女が暁哉さんに頼みがあるんですって」
紹介され、茜は慌てて一礼する。
「は、初めまして。私、本条茜といいます」
名乗ると、暁哉は黙したまま茜を観察するように見つめる。
「……あの?」
「ああ、悪い。オーナー、部屋は空いてる?」
「ええ。どうぞ」
にっこりと微笑んだバーテンダーはこの店のオーナーらしい。
オーナーは茜と暁哉をVIPルームに案内し、ドリンクを持ってくると告げて一度下がった。
全面ガラス張りの窓からは東京タワーが見え、夜景の明かりがシックな室内に華やかさを添えている。
「お好きな席へどうぞ、本条組のお嬢様」
革張りのソファに手のひらで着席を促す暁哉に肩書で呼ばれ、茜は僅かに身体を強張らせた。
「……私を知ってるんですか」
「もちろん」
にっこりと微笑む暁哉。
(なるほど。さっき私をじっと見てたのは、名前を聞いて本条の娘だとわかったからなのね)
茜は得心し、程よい弾力のソファに腰を下ろす。その向かい側に座った暁哉は長い足を組んだ。
「それで、俺に頼みって?」
尋ねられ、茜は背筋を伸ばして口を開く。
「単刀直入に言います。京極組を抜けて本条組に来てくれませんか?」
「無理だな」
間髪容れずに一蹴されるも、茜は嫌な気分にはならなかった。
ここでさらっとOKするような人物であれば、むしろ本条組には来てほしくないからだ。
スカウトを受けた場合に迫る身の危険。
それを予測できないような浅慮な人間はお断りなのはもちろんのこと、世話になっている組を簡単に捨てるなら、いずれ父をも裏切るだろう。
何より茜は、暁哉には他にも断る理由があるのを知っている。
「京極組組長、京極健太郎の息子、副組長の蓮二さんが澤村さんの親友だからですか?」
「その通り。さすが本条組のお嬢。よく知ってるな」
生徒を褒めるような口ぶりで暁哉が口元に笑みを浮かべた時、部屋にノックの音が響いた。
「失礼します。お飲み物をお持ちしました」
オーナーは、先ほど茜が頼んだノンアルコールカクテルと暁哉へのお礼用ドンペリを、お通しのナッツと共にガラステーブルに置く。
「ごゆっくり」
微笑を浮かべたオーナーが退室すると、茜はサングラスでよく見えない暁哉の目を見つめた。
「ひとまず乾杯しようか」
暁哉がグラスを持ちあげたので、茜もカクテルのグラスを手にして軽く打ち鳴らす。
細いストローに口をつけると、交渉の緊張で知らず渇いていた口内に、パイナップルとオレンジの爽やかな酸味が広がった。
喉を潤したところで、報酬のドンペリを堪能する暁哉に茜は食い下がる。
「裏切れないのはわかります。でも、私もあなたを諦めるわけにはいかないんです。今すぐじゃなくてもいいので考えてもらえませんか? OKしていただけた場合は、本条組組長が責任を持って京極組に交渉しますので安心してください」
茜にとって自分の未来がかかっているスカウトだ。一度断られたくらいで諦めてたまるか。
簡単には引き下がらない姿勢を見せた茜に、暁哉は一笑する。
「熱烈だな。お嬢はそんなに俺が欲しいのか」
「私じゃなくて、父があなたを欲しがってるんです」
からかうように言われ、否定すべき部分をしっかりと否定した茜。
暁哉が喉を小さく鳴らし、楽しそうに笑った。
「それは残念。にしても、どうしてお嬢である君がスカウトに駆り出されてるんだ? 本条組は人材不足か何か?」
普段ほとんど組に関わりのない娘が交渉者であることが解せないのだろう。
問われた茜は「いいえ」とやや強い口調で答えた。
「優秀な幹部や構成員はたくさんいます。今回は、私の都合で私がスカウトさせてもらってるんです」
父や所属する構成員を軽く見た発言に対し、誤解のないように告げる。
するとなぜか暁哉は「そうか」と口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「で、君の都合って?」
きっと尋ねられるだろうと予想していた茜は、偽りなく告げる。
「本条組から離れて、独り立ちするためです」
「それを叶えるために、俺をスカウト?」
「はい。父は、私があなたを本条組に引き入れることを条件にOKしてくれました」
「利益の問題か。だとしたら、俺はお嬢の代わりになるような人材じゃないけどな」
買いかぶりすぎだと呟いて、ドンペリをひとくち飲む暁哉はグラスを手にしたまま首を傾げた。
「ちなみに、なんで組を離れたいのかを聞いても?」
「家のせいでまともな恋愛ができないからです」
真面目な顔で堂々と言ってのけた茜に、暁哉は「なるほど」と共感を示した。
「まあ、堅気の男の大半は、覚悟なんてないだろうな」
「そうなんです! うちのことを知った途端にみんな回れ右して去っていく! もう本当、根性なしの意気地なしばっかりで!」
わかってもらえていることが嬉しくなり、茜はつい前のめり気味で悔しさを吐露する。
「でも、愚痴ってても仕方ないし、何も変わらない。だから、好きになってもらえるように努力してきたんですけど、やっぱり逃げられるので、私が堅気になろうと決意したんです」
「そこまで前向きなら、視野を広げて堅気じゃなく極道の男と付き合えばいい」
グラスをテーブルに戻しソファに凭れる暁哉に、茜はしっかりと頭を振ってみせた。
「いやですよ」
「何で? 本条組のお嬢が相手ならいくらでも立候補する奴はいるだろ」
確かに、茜を欲しがる極道の男たちはいるだろう。
ただし、その大半は本条組の跡目を狙ったものだ。
そして何より、極道者は堅気の女に手を出すことを良しとしない。
つまり、茜のように身内に極道がいる者は、極道に生きる男たちの狭き恋愛対象に入るのだ。
故に、本条組の若い構成員からは憧れの存在にもなっているのだが。
「極道男に恋したって苦労しそうだもの」
茜にはその気がまったくない。
五年前、病に倒れ亡くなった母親が生前よく零していたからだ。
『極道の男に惚れるのは命がけ。平穏な恋とは程遠い。あんたも、父さんみたいな男を選ぶなら覚悟するんだよ』
そんな覚悟はノーサンキュー。
カチコミやら抗争やら、物騒な言葉が飛び交う世界で生きる男に恋して気を揉みたくない。
そんな心配をさせられるのは、父ひとりだけで十分なのだ。
だから極道の男は選ばないと主張する茜に、暁哉は「ダメだな」と零した。
「お嬢、食わず嫌いはよくない」
「食わず嫌いって」
「そもそも恋は選んでするモンじゃない。どうのこうの言ってても落ちる時は落ちる。それが恋だ」
至極真っ当なことを言われ、茜は「た、確かに」と納得の声を発した。
「だろ? だから、まずは試してみようか」
「えっと……?」
試すって一体何を──と尋ねる前に暁哉が口を開く。
「お嬢にとって、極道の男がありかなしか」
「え、どうやって」
まさか本条組の誰かと付き合ってみろとでも言うのだろうか。
流れから見てそう予想した茜だったのだが。
「もちろん、俺と君が恋人になって」
「……はぁっ!?」
まさかの暁哉指定に茜は声を大にして瞠目した。
「じょ、冗談、ですよね?」
からかうのはやめてほしいと苦笑するも、暁哉はにっこりと微笑む。
「本気だよ。で、その間に俺が君に本気になったら……受けてあげるよ、スカウト」
暁哉が初めてスカウトを受けると告げ、茜の未来に光が差す。
しかし、なぜ恋人になる必要があるのかが釈然とせず、茜は首を捻った。
「でも、澤村さんにメリットないですよ?」
「一応あるよ。お嬢にも事情があるように、俺にも色々とね」
思わせぶりな態度で語る暁哉。
今事情を明かさないのは理由があるからかもと思うと追及は憚られ、ひとまずは恋人提案について、茜の脳内は緊急会議へ突入した。
茜(慎重派)が首を横に振る。
『そんな誘いに乗ったらダメよ! 身体目当てかもしれないでしょ。もしくは、油断して人質にとるのかもしれない』
父親にも組にも迷惑がかかってしまうのではと懸念する茜(慎重派)に対し、茜(楽観派)が首を傾げた。
『そうかしら。悪い人ではなさそうだけど』
『いやいや、極道男よ? まして本条と京極が不仲になってる原因が、本条ではご法度の違法薬物売買疑惑。そんなことする組織の若頭と恋人になるなんて危険よ』
『でも、父さんが欲しがってる人なんでしょ? ということは、京極にいるのはもったいない人材、イコールいい男ってことなんじゃない?』
茜(楽観派)の言葉に、茜(慎重派)が『うーん』と考え込む。
『確かに、父さんは人を見る目があるけど……』
『でしょ? スカウトを成功させるチャンスがもらえるなら、飛び込んでみるべきだわ』
『でも……』
まだ尻込む茜(慎重派)の肩を、茜(楽観派)が優しく叩く。
『何より、さっきから気付いてるでしょ』
『ああっ……やめて!』
それについて意識しないようにしていた茜(慎重派)が聞きたくないと耳を塞いだ。
しかし、茜(楽観派)はかまわずに続ける。
『彼の声、私好みの声だって』
そうなのだ。実は茜は声フェチであり、茜の心に響く声というのがある。
聞いていて心地よい声の男性に惹かれることも多く、暁哉の声はかなり理想に近いバリトンボイスだ。
『囁かれてみたくない? あの声で、恋人しか聞けない言葉を』
高すぎず低すぎない暁哉の声が、特別な甘さを持ったらどのようなものに変化するのか。
葛藤の末……
(知りたい、かも)
興味が勝り、脳内の会議に決着がついた。
(やらない後悔よりやる後悔!)
裏があるかどうかは飛び込んでみないとわからないもの。
(もし澤村さんが私に本気になってくれたとしても、私が本気にならなければいいだけ。ちょっと申し訳ないけど『ごめんなさい』して家を出ればいいのよ! よし!)
茜は覚悟を決めて暁哉を見つめた。
「わかりました。引き受けさせてください」
真っ直ぐな視線を受ける暁哉が、サングラスを外す。
長い睫毛に縁どられた双眸と視線がぶつかった刹那、茜の胸が高鳴った。
その瞳は桃花眼と云われる、妖艶さを纏う瞳。
くっきりとした二重の目がにっこりと細められる。
「よろしく、お嬢」
「よ、よろしくお願いします」
魅力的なのは声だけでなく容姿までもとは予想していなかった茜は、
(やばい、ドキドキが止まらない……!)
ほんのりと赤くなってしまった顔を隠すように一礼した。
第二章
広さが二十畳ほどの食堂にて、子供たちが茜を取り囲んでいる。
その中でも、最年少である五歳の少女が待ちきれないといった様子で茜のスカートの裾を引っ張った。
「おねえちゃん、今日のおかしはなあに?」
「今日はね、ジャジャーン! ソフトタルトでーす!」
テーブルの上に置いた箱の蓋を持ち上げると、子供たちが一斉に目を輝かせた。
「わあっ! おいしそう!」
「全部で二十二個あるから、ひとりふたつよ?」
茜が左手でピースの形を作ると、来年からいよいよ中学生になる少年が「でも、それだと六個余るじゃん」と突っ込んだ。
「残りの六個は真中さんたちの分に決まってるでしょ」
そう言って、茜はこの児童養護施設『虹の家』の施設長である真中を見た。
「真中さんも食べてくださいね」
勧めると、父より少し年上の真中頼子が、ゆったりと優しい笑みを浮かべ小皺を深めた。
「いつも私たちの分までありがとう、茜さん」
「どういたしましてですよ! 喜んでもらえるので作り甲斐があります」
笑顔で答えながら、「ありがとう」「いただきます」とソフトタルトを食べ始める子供たちの様子を見守る。
子供たちに冷えた麦茶を用意した真中が、茜にもグラスを差し出した。
「本条さんはお元気ですか?」
「はい、元気ですよ。毎日お酒飲んでご機嫌そうです」
父の様子を話して聞かせた茜は、さっそくグラスに口をつけて香ばしい麦茶を飲む。
「ふふ、それは何よりだわ。本条さんのご支援のおかげでうちは本当に助かってます」
「俺にとって虹の家は実家なんだって、父がよく言ってますよ」
茜の父である頼次は、シングルマザーの母親を三歳の時に亡くし、この虹の家に入所した。
頼次の母、つまり茜の祖母は、二十歳の頃に極道の若頭と恋に落ち、しかし堅気であるゆえ家族に猛反対され、泣く泣く別れたのだが、後に妊娠が発覚。
ひとりで産んで育てると決め、家族にも元恋人にも告げることなく姿を消した。
そうして病により亡くなったのち、頼次が九歳の時、ようやく事情を知った父親が頼次を迎えに来たらしい。
『今日まで何もできずにすまなかった』と頭を下げたと聞いている。
以来、頼次は厳しくも温かな愛情を受け、本条組組長の息子として成長していった。
親の志をしっかりと受け継ぎながら。
そして十年ほど前、虹の家の老朽化が進み建て替えが必要になった際、費用を寄付。以来、運営を支援するようになったのだ。
創設者であり、第二の母親でもあった当時の施設長へ恩を返すためにもと。
ちなみに、茜が子供たちにお菓子を差し入れるようになったのは、茜が高校一年の時からだ。
家業が原因で失恋した茜は、ストレス発散にと大量にクッキーを作った。
だが、当然ひとりでは食べきれず、しかし振られた原因ということもあって本条の男にはあげたくないと悩んだところ、父が『虹の家の子供たちにあげたらどうだ』と提案。
さっそく父に連れられ虹の家を訪れると、クッキーを目にした子供たちは大喜び。
その姿に茜まで嬉しくなり、それからというもの、休日はこうしてお菓子を差し入れるようになったのだ。
様々な事情があり、虹の家で暮らしている子供たちに、少しでも笑顔になってもらえたらと願いながら。
「今でもそう思っていただいて嬉しいです。本当にうちは恵まれていますね。実は、十年前に巣立った子も、今も毎月援助してくれていて」
「そうなんですね。それって、真中さんたちの愛情が届いてるからですよね、きっと」
職員たちの人柄と子供たちとの関わり方がいいのは、こうして接している茜にも伝わってくる。
父もそうだが、十年前に巣立ったというその人物もきっと、真中さんたちから受けた愛情に、援助という形で恩を返しているのだ。
タルトを頬張ったり、飲み物を取りに行く子供たちを見ていた茜は、ひとり、輪に入らない男の子がいることに気付いた。
小学校中学年くらいか。
椅子に座っているけれど、俯いたまま誰かと会話することもなく、お菓子を手にしてもいない。
茜の視線に気付いた真中が、小声で説明する。
「彼は先月から入った子なんです。虐待にあっていたせいでふさぎがちで、最近ようやく部屋から出てこられるようになったんですよ」
「虐待……」
本条組にも、家庭環境に恵まれず道を踏み外しかけた者たちが多い。
普段は大口を開けて笑っているが、未だに過去の痛みを引き摺っている構成員もいる。
(心の傷は、簡単には癒えないよね)
男の子の心中を慮り、茜は真中を見た。
「お菓子、私から直接渡してもいいですか?」
「ええ」と真中から許可が下り、茜はソフトタルトをふたつ手に取った。
そうして、椅子に座る男の子の横にしゃがみ込む。
「初めまして、私は本条茜です。お菓子、頑張って作ったの。良かったら食べてくれる?」
どうぞと差し出すと、男の子は無言で受け取った。
「お名前、聞いてもいい?」
なるべく穏やかな口調で尋ねるも、男の子の口は開かない。
無理強いはせず、今度は「好きなお菓子ある?」と別の話題に切り替えた。
すると男の子の瞳が揺れて。
「……ゼリー」
ぼそり、とまだ声変わりをしていない声で告げられた。
「そっか。じゃあ、次はゼリーを作って持ってくるね」
笑顔を見せる茜をチラリと見て、すぐに目を逸らした男の子。
心の傷の深さを感じて、茜は胸を痛めた。
しかし、ここでの生活が子供たちを癒してくれるのを見てきた茜は、きっと大丈夫だと信じる。
(私は変わらず、お菓子で応援しよう)
タルトを食べてねと伝え、茜が立ち上がった時だ。
ショルダーバッグの中のスマホが振動を繰り返していることに気付き、茜は食堂から廊下に出た。
(もしかして……)
半ば相手を予想しつつスマホを取り出す。
画面に表示された名前を見た途端、やっぱりと思いつつも茜の心臓が跳ねた。
(澤村さんだ)
実は一昨日、ATARAYOを出る前に連絡先を交換したのだ。
とりあえず近いうちに食事でも。そんな話をしながら。
(昨日の夜、明日あたり電話するなんてメッセージをもらったけど、本当にきた)
ドキドキしながら通話ボタンをタップして、耳にあてる。
「はい、本条です」
『こんにちは、お嬢。今少し話せる?』
機械越しに届けられる暁哉の声に、茜の声フェチセンサーが作動し、一瞬、耳がほのかな幸福に包まれた。
「はい、大丈夫です」
『なんか他人行儀な話し方だな。声も硬い』
緊張が声に滲み出ていたようだ。
暁哉に指摘され茜は動揺し、意味もなく廊下をうろつく。
「しょ、しょうがないじゃないですか。一昨日出逢ったばかりだし」
『でも、俺たちは恋人になった』
「そ、うです、けど……」
スカウト成立のため、恋人になる。
決定した夜から、大胆な判断をしたと何度も思っている茜は、正直半信半疑でいた。
あれはからかっただけ。本気にするなよと笑われて終わるのではと。
しかし、今『恋人』と告げた暁哉の声色に、からかいは感じられなかった。
『まあ、焦らないでいいか。それよりお嬢。今日は休みだって言ってたよな?』
尋ねられ、昨夜、メッセージで今日の予定を聞かれた際、確かにそう答えたのを思い出す。
『仕事が早く終わりそうだから、デートに行こう』
「デ、デートですか?」
『飯でも行こうって話しただろ?』
言っていたけれど、今日は電話で話すだけかと思っていた茜は焦る。
こんな急に決まるとは思っていなかったので、デートをするような恰好ではないのだ。
『十八時にグランドロイヤルホテル東京の四十五階のロビーに集合でどう?』
しかも、暁哉が指定したホテルは都内でもトップクラスの高級ホテル。
(着替え必須!)
茜は、今着ているデニムパンツではさすがに無理だと判断。
現在十五時過ぎ。夕方まで子供たちと遊べたらと思っていたが、予定変更だ。
「わかりました。それじゃあ、十八時に」
『ああ、楽しみにしてるよ。またあとでな』
通話が切れると、茜はスマホを握ったまま急ぎ真中や子供たちに帰ることを告げ、虹の家を飛び出した。
グランドロイヤルホテル東京には、高校の卒業祝いに父と一度だけ来たことがあった。
その際、ドレスコードがスマートカジュアルだと聞かされ、ワンピースを纏ったことを記憶していた茜。
それを踏まえて今夜の服装は、白いレース素材のブラウスと、ピンクベージュのワイドパンツだ。
パンプスはあえて黒にして全体の甘さを引き締め、フェミニンな印象に仕上げている。
(うん、おかしくはないよね)
お手洗いの鏡の前で念入りに最終チェックを済ませた茜は、胸元まで伸びる黒髪をサッと手で梳いてからエレベーターホールへと向かった。
小ぶりのハンドバッグを手に、綺麗に磨かれた廊下を進むその途中。
「……つ……あ……じゃない!」
エレベーターホールの手前、常用階段を伝って上階から揉めている女性の声が聞こえ足を止めた。
「こ……すよ……しっかり……仕事……」
男性の苛立った声が続いて、少し気になった茜は階段を数段上り、隠れて様子を窺う。
「離して! 無理です」
最初に見えたのは嫌がる女性だ。
二十代半ばくらいだろうか。花柄のワンピースを纏う女性は清楚な雰囲気がある。
「ちょっと、痛い目見てもらおうか」
そう低い声で告げた直後、掴んでいた腕をぐるりと捻り上げた。
「ぐあああぁっ!」
痛みに悶える男の絶叫が店内に響き渡る。
(相手は素人で酔っ払いとはいえ、動きに無駄がなかった。若くして若頭まで上り詰めるだけはあるのかも)
護身術を教えてくれた父の動きを思い出して比べていると、痛みで酔いが醒めたのか、男が逃げるように店を出ていく。
連れの女性が暁哉に頭を下げ感謝し、店のスタッフが片付けを始めたところで、バーテンダーが「暁哉さん」とカウンターへ手招いた。
「ドンペリ?」
「もちろんご馳走させてもらうわ。助けてくれてありがとう。あのね、彼女が暁哉さんに頼みがあるんですって」
紹介され、茜は慌てて一礼する。
「は、初めまして。私、本条茜といいます」
名乗ると、暁哉は黙したまま茜を観察するように見つめる。
「……あの?」
「ああ、悪い。オーナー、部屋は空いてる?」
「ええ。どうぞ」
にっこりと微笑んだバーテンダーはこの店のオーナーらしい。
オーナーは茜と暁哉をVIPルームに案内し、ドリンクを持ってくると告げて一度下がった。
全面ガラス張りの窓からは東京タワーが見え、夜景の明かりがシックな室内に華やかさを添えている。
「お好きな席へどうぞ、本条組のお嬢様」
革張りのソファに手のひらで着席を促す暁哉に肩書で呼ばれ、茜は僅かに身体を強張らせた。
「……私を知ってるんですか」
「もちろん」
にっこりと微笑む暁哉。
(なるほど。さっき私をじっと見てたのは、名前を聞いて本条の娘だとわかったからなのね)
茜は得心し、程よい弾力のソファに腰を下ろす。その向かい側に座った暁哉は長い足を組んだ。
「それで、俺に頼みって?」
尋ねられ、茜は背筋を伸ばして口を開く。
「単刀直入に言います。京極組を抜けて本条組に来てくれませんか?」
「無理だな」
間髪容れずに一蹴されるも、茜は嫌な気分にはならなかった。
ここでさらっとOKするような人物であれば、むしろ本条組には来てほしくないからだ。
スカウトを受けた場合に迫る身の危険。
それを予測できないような浅慮な人間はお断りなのはもちろんのこと、世話になっている組を簡単に捨てるなら、いずれ父をも裏切るだろう。
何より茜は、暁哉には他にも断る理由があるのを知っている。
「京極組組長、京極健太郎の息子、副組長の蓮二さんが澤村さんの親友だからですか?」
「その通り。さすが本条組のお嬢。よく知ってるな」
生徒を褒めるような口ぶりで暁哉が口元に笑みを浮かべた時、部屋にノックの音が響いた。
「失礼します。お飲み物をお持ちしました」
オーナーは、先ほど茜が頼んだノンアルコールカクテルと暁哉へのお礼用ドンペリを、お通しのナッツと共にガラステーブルに置く。
「ごゆっくり」
微笑を浮かべたオーナーが退室すると、茜はサングラスでよく見えない暁哉の目を見つめた。
「ひとまず乾杯しようか」
暁哉がグラスを持ちあげたので、茜もカクテルのグラスを手にして軽く打ち鳴らす。
細いストローに口をつけると、交渉の緊張で知らず渇いていた口内に、パイナップルとオレンジの爽やかな酸味が広がった。
喉を潤したところで、報酬のドンペリを堪能する暁哉に茜は食い下がる。
「裏切れないのはわかります。でも、私もあなたを諦めるわけにはいかないんです。今すぐじゃなくてもいいので考えてもらえませんか? OKしていただけた場合は、本条組組長が責任を持って京極組に交渉しますので安心してください」
茜にとって自分の未来がかかっているスカウトだ。一度断られたくらいで諦めてたまるか。
簡単には引き下がらない姿勢を見せた茜に、暁哉は一笑する。
「熱烈だな。お嬢はそんなに俺が欲しいのか」
「私じゃなくて、父があなたを欲しがってるんです」
からかうように言われ、否定すべき部分をしっかりと否定した茜。
暁哉が喉を小さく鳴らし、楽しそうに笑った。
「それは残念。にしても、どうしてお嬢である君がスカウトに駆り出されてるんだ? 本条組は人材不足か何か?」
普段ほとんど組に関わりのない娘が交渉者であることが解せないのだろう。
問われた茜は「いいえ」とやや強い口調で答えた。
「優秀な幹部や構成員はたくさんいます。今回は、私の都合で私がスカウトさせてもらってるんです」
父や所属する構成員を軽く見た発言に対し、誤解のないように告げる。
するとなぜか暁哉は「そうか」と口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「で、君の都合って?」
きっと尋ねられるだろうと予想していた茜は、偽りなく告げる。
「本条組から離れて、独り立ちするためです」
「それを叶えるために、俺をスカウト?」
「はい。父は、私があなたを本条組に引き入れることを条件にOKしてくれました」
「利益の問題か。だとしたら、俺はお嬢の代わりになるような人材じゃないけどな」
買いかぶりすぎだと呟いて、ドンペリをひとくち飲む暁哉はグラスを手にしたまま首を傾げた。
「ちなみに、なんで組を離れたいのかを聞いても?」
「家のせいでまともな恋愛ができないからです」
真面目な顔で堂々と言ってのけた茜に、暁哉は「なるほど」と共感を示した。
「まあ、堅気の男の大半は、覚悟なんてないだろうな」
「そうなんです! うちのことを知った途端にみんな回れ右して去っていく! もう本当、根性なしの意気地なしばっかりで!」
わかってもらえていることが嬉しくなり、茜はつい前のめり気味で悔しさを吐露する。
「でも、愚痴ってても仕方ないし、何も変わらない。だから、好きになってもらえるように努力してきたんですけど、やっぱり逃げられるので、私が堅気になろうと決意したんです」
「そこまで前向きなら、視野を広げて堅気じゃなく極道の男と付き合えばいい」
グラスをテーブルに戻しソファに凭れる暁哉に、茜はしっかりと頭を振ってみせた。
「いやですよ」
「何で? 本条組のお嬢が相手ならいくらでも立候補する奴はいるだろ」
確かに、茜を欲しがる極道の男たちはいるだろう。
ただし、その大半は本条組の跡目を狙ったものだ。
そして何より、極道者は堅気の女に手を出すことを良しとしない。
つまり、茜のように身内に極道がいる者は、極道に生きる男たちの狭き恋愛対象に入るのだ。
故に、本条組の若い構成員からは憧れの存在にもなっているのだが。
「極道男に恋したって苦労しそうだもの」
茜にはその気がまったくない。
五年前、病に倒れ亡くなった母親が生前よく零していたからだ。
『極道の男に惚れるのは命がけ。平穏な恋とは程遠い。あんたも、父さんみたいな男を選ぶなら覚悟するんだよ』
そんな覚悟はノーサンキュー。
カチコミやら抗争やら、物騒な言葉が飛び交う世界で生きる男に恋して気を揉みたくない。
そんな心配をさせられるのは、父ひとりだけで十分なのだ。
だから極道の男は選ばないと主張する茜に、暁哉は「ダメだな」と零した。
「お嬢、食わず嫌いはよくない」
「食わず嫌いって」
「そもそも恋は選んでするモンじゃない。どうのこうの言ってても落ちる時は落ちる。それが恋だ」
至極真っ当なことを言われ、茜は「た、確かに」と納得の声を発した。
「だろ? だから、まずは試してみようか」
「えっと……?」
試すって一体何を──と尋ねる前に暁哉が口を開く。
「お嬢にとって、極道の男がありかなしか」
「え、どうやって」
まさか本条組の誰かと付き合ってみろとでも言うのだろうか。
流れから見てそう予想した茜だったのだが。
「もちろん、俺と君が恋人になって」
「……はぁっ!?」
まさかの暁哉指定に茜は声を大にして瞠目した。
「じょ、冗談、ですよね?」
からかうのはやめてほしいと苦笑するも、暁哉はにっこりと微笑む。
「本気だよ。で、その間に俺が君に本気になったら……受けてあげるよ、スカウト」
暁哉が初めてスカウトを受けると告げ、茜の未来に光が差す。
しかし、なぜ恋人になる必要があるのかが釈然とせず、茜は首を捻った。
「でも、澤村さんにメリットないですよ?」
「一応あるよ。お嬢にも事情があるように、俺にも色々とね」
思わせぶりな態度で語る暁哉。
今事情を明かさないのは理由があるからかもと思うと追及は憚られ、ひとまずは恋人提案について、茜の脳内は緊急会議へ突入した。
茜(慎重派)が首を横に振る。
『そんな誘いに乗ったらダメよ! 身体目当てかもしれないでしょ。もしくは、油断して人質にとるのかもしれない』
父親にも組にも迷惑がかかってしまうのではと懸念する茜(慎重派)に対し、茜(楽観派)が首を傾げた。
『そうかしら。悪い人ではなさそうだけど』
『いやいや、極道男よ? まして本条と京極が不仲になってる原因が、本条ではご法度の違法薬物売買疑惑。そんなことする組織の若頭と恋人になるなんて危険よ』
『でも、父さんが欲しがってる人なんでしょ? ということは、京極にいるのはもったいない人材、イコールいい男ってことなんじゃない?』
茜(楽観派)の言葉に、茜(慎重派)が『うーん』と考え込む。
『確かに、父さんは人を見る目があるけど……』
『でしょ? スカウトを成功させるチャンスがもらえるなら、飛び込んでみるべきだわ』
『でも……』
まだ尻込む茜(慎重派)の肩を、茜(楽観派)が優しく叩く。
『何より、さっきから気付いてるでしょ』
『ああっ……やめて!』
それについて意識しないようにしていた茜(慎重派)が聞きたくないと耳を塞いだ。
しかし、茜(楽観派)はかまわずに続ける。
『彼の声、私好みの声だって』
そうなのだ。実は茜は声フェチであり、茜の心に響く声というのがある。
聞いていて心地よい声の男性に惹かれることも多く、暁哉の声はかなり理想に近いバリトンボイスだ。
『囁かれてみたくない? あの声で、恋人しか聞けない言葉を』
高すぎず低すぎない暁哉の声が、特別な甘さを持ったらどのようなものに変化するのか。
葛藤の末……
(知りたい、かも)
興味が勝り、脳内の会議に決着がついた。
(やらない後悔よりやる後悔!)
裏があるかどうかは飛び込んでみないとわからないもの。
(もし澤村さんが私に本気になってくれたとしても、私が本気にならなければいいだけ。ちょっと申し訳ないけど『ごめんなさい』して家を出ればいいのよ! よし!)
茜は覚悟を決めて暁哉を見つめた。
「わかりました。引き受けさせてください」
真っ直ぐな視線を受ける暁哉が、サングラスを外す。
長い睫毛に縁どられた双眸と視線がぶつかった刹那、茜の胸が高鳴った。
その瞳は桃花眼と云われる、妖艶さを纏う瞳。
くっきりとした二重の目がにっこりと細められる。
「よろしく、お嬢」
「よ、よろしくお願いします」
魅力的なのは声だけでなく容姿までもとは予想していなかった茜は、
(やばい、ドキドキが止まらない……!)
ほんのりと赤くなってしまった顔を隠すように一礼した。
第二章
広さが二十畳ほどの食堂にて、子供たちが茜を取り囲んでいる。
その中でも、最年少である五歳の少女が待ちきれないといった様子で茜のスカートの裾を引っ張った。
「おねえちゃん、今日のおかしはなあに?」
「今日はね、ジャジャーン! ソフトタルトでーす!」
テーブルの上に置いた箱の蓋を持ち上げると、子供たちが一斉に目を輝かせた。
「わあっ! おいしそう!」
「全部で二十二個あるから、ひとりふたつよ?」
茜が左手でピースの形を作ると、来年からいよいよ中学生になる少年が「でも、それだと六個余るじゃん」と突っ込んだ。
「残りの六個は真中さんたちの分に決まってるでしょ」
そう言って、茜はこの児童養護施設『虹の家』の施設長である真中を見た。
「真中さんも食べてくださいね」
勧めると、父より少し年上の真中頼子が、ゆったりと優しい笑みを浮かべ小皺を深めた。
「いつも私たちの分までありがとう、茜さん」
「どういたしましてですよ! 喜んでもらえるので作り甲斐があります」
笑顔で答えながら、「ありがとう」「いただきます」とソフトタルトを食べ始める子供たちの様子を見守る。
子供たちに冷えた麦茶を用意した真中が、茜にもグラスを差し出した。
「本条さんはお元気ですか?」
「はい、元気ですよ。毎日お酒飲んでご機嫌そうです」
父の様子を話して聞かせた茜は、さっそくグラスに口をつけて香ばしい麦茶を飲む。
「ふふ、それは何よりだわ。本条さんのご支援のおかげでうちは本当に助かってます」
「俺にとって虹の家は実家なんだって、父がよく言ってますよ」
茜の父である頼次は、シングルマザーの母親を三歳の時に亡くし、この虹の家に入所した。
頼次の母、つまり茜の祖母は、二十歳の頃に極道の若頭と恋に落ち、しかし堅気であるゆえ家族に猛反対され、泣く泣く別れたのだが、後に妊娠が発覚。
ひとりで産んで育てると決め、家族にも元恋人にも告げることなく姿を消した。
そうして病により亡くなったのち、頼次が九歳の時、ようやく事情を知った父親が頼次を迎えに来たらしい。
『今日まで何もできずにすまなかった』と頭を下げたと聞いている。
以来、頼次は厳しくも温かな愛情を受け、本条組組長の息子として成長していった。
親の志をしっかりと受け継ぎながら。
そして十年ほど前、虹の家の老朽化が進み建て替えが必要になった際、費用を寄付。以来、運営を支援するようになったのだ。
創設者であり、第二の母親でもあった当時の施設長へ恩を返すためにもと。
ちなみに、茜が子供たちにお菓子を差し入れるようになったのは、茜が高校一年の時からだ。
家業が原因で失恋した茜は、ストレス発散にと大量にクッキーを作った。
だが、当然ひとりでは食べきれず、しかし振られた原因ということもあって本条の男にはあげたくないと悩んだところ、父が『虹の家の子供たちにあげたらどうだ』と提案。
さっそく父に連れられ虹の家を訪れると、クッキーを目にした子供たちは大喜び。
その姿に茜まで嬉しくなり、それからというもの、休日はこうしてお菓子を差し入れるようになったのだ。
様々な事情があり、虹の家で暮らしている子供たちに、少しでも笑顔になってもらえたらと願いながら。
「今でもそう思っていただいて嬉しいです。本当にうちは恵まれていますね。実は、十年前に巣立った子も、今も毎月援助してくれていて」
「そうなんですね。それって、真中さんたちの愛情が届いてるからですよね、きっと」
職員たちの人柄と子供たちとの関わり方がいいのは、こうして接している茜にも伝わってくる。
父もそうだが、十年前に巣立ったというその人物もきっと、真中さんたちから受けた愛情に、援助という形で恩を返しているのだ。
タルトを頬張ったり、飲み物を取りに行く子供たちを見ていた茜は、ひとり、輪に入らない男の子がいることに気付いた。
小学校中学年くらいか。
椅子に座っているけれど、俯いたまま誰かと会話することもなく、お菓子を手にしてもいない。
茜の視線に気付いた真中が、小声で説明する。
「彼は先月から入った子なんです。虐待にあっていたせいでふさぎがちで、最近ようやく部屋から出てこられるようになったんですよ」
「虐待……」
本条組にも、家庭環境に恵まれず道を踏み外しかけた者たちが多い。
普段は大口を開けて笑っているが、未だに過去の痛みを引き摺っている構成員もいる。
(心の傷は、簡単には癒えないよね)
男の子の心中を慮り、茜は真中を見た。
「お菓子、私から直接渡してもいいですか?」
「ええ」と真中から許可が下り、茜はソフトタルトをふたつ手に取った。
そうして、椅子に座る男の子の横にしゃがみ込む。
「初めまして、私は本条茜です。お菓子、頑張って作ったの。良かったら食べてくれる?」
どうぞと差し出すと、男の子は無言で受け取った。
「お名前、聞いてもいい?」
なるべく穏やかな口調で尋ねるも、男の子の口は開かない。
無理強いはせず、今度は「好きなお菓子ある?」と別の話題に切り替えた。
すると男の子の瞳が揺れて。
「……ゼリー」
ぼそり、とまだ声変わりをしていない声で告げられた。
「そっか。じゃあ、次はゼリーを作って持ってくるね」
笑顔を見せる茜をチラリと見て、すぐに目を逸らした男の子。
心の傷の深さを感じて、茜は胸を痛めた。
しかし、ここでの生活が子供たちを癒してくれるのを見てきた茜は、きっと大丈夫だと信じる。
(私は変わらず、お菓子で応援しよう)
タルトを食べてねと伝え、茜が立ち上がった時だ。
ショルダーバッグの中のスマホが振動を繰り返していることに気付き、茜は食堂から廊下に出た。
(もしかして……)
半ば相手を予想しつつスマホを取り出す。
画面に表示された名前を見た途端、やっぱりと思いつつも茜の心臓が跳ねた。
(澤村さんだ)
実は一昨日、ATARAYOを出る前に連絡先を交換したのだ。
とりあえず近いうちに食事でも。そんな話をしながら。
(昨日の夜、明日あたり電話するなんてメッセージをもらったけど、本当にきた)
ドキドキしながら通話ボタンをタップして、耳にあてる。
「はい、本条です」
『こんにちは、お嬢。今少し話せる?』
機械越しに届けられる暁哉の声に、茜の声フェチセンサーが作動し、一瞬、耳がほのかな幸福に包まれた。
「はい、大丈夫です」
『なんか他人行儀な話し方だな。声も硬い』
緊張が声に滲み出ていたようだ。
暁哉に指摘され茜は動揺し、意味もなく廊下をうろつく。
「しょ、しょうがないじゃないですか。一昨日出逢ったばかりだし」
『でも、俺たちは恋人になった』
「そ、うです、けど……」
スカウト成立のため、恋人になる。
決定した夜から、大胆な判断をしたと何度も思っている茜は、正直半信半疑でいた。
あれはからかっただけ。本気にするなよと笑われて終わるのではと。
しかし、今『恋人』と告げた暁哉の声色に、からかいは感じられなかった。
『まあ、焦らないでいいか。それよりお嬢。今日は休みだって言ってたよな?』
尋ねられ、昨夜、メッセージで今日の予定を聞かれた際、確かにそう答えたのを思い出す。
『仕事が早く終わりそうだから、デートに行こう』
「デ、デートですか?」
『飯でも行こうって話しただろ?』
言っていたけれど、今日は電話で話すだけかと思っていた茜は焦る。
こんな急に決まるとは思っていなかったので、デートをするような恰好ではないのだ。
『十八時にグランドロイヤルホテル東京の四十五階のロビーに集合でどう?』
しかも、暁哉が指定したホテルは都内でもトップクラスの高級ホテル。
(着替え必須!)
茜は、今着ているデニムパンツではさすがに無理だと判断。
現在十五時過ぎ。夕方まで子供たちと遊べたらと思っていたが、予定変更だ。
「わかりました。それじゃあ、十八時に」
『ああ、楽しみにしてるよ。またあとでな』
通話が切れると、茜はスマホを握ったまま急ぎ真中や子供たちに帰ることを告げ、虹の家を飛び出した。
グランドロイヤルホテル東京には、高校の卒業祝いに父と一度だけ来たことがあった。
その際、ドレスコードがスマートカジュアルだと聞かされ、ワンピースを纏ったことを記憶していた茜。
それを踏まえて今夜の服装は、白いレース素材のブラウスと、ピンクベージュのワイドパンツだ。
パンプスはあえて黒にして全体の甘さを引き締め、フェミニンな印象に仕上げている。
(うん、おかしくはないよね)
お手洗いの鏡の前で念入りに最終チェックを済ませた茜は、胸元まで伸びる黒髪をサッと手で梳いてからエレベーターホールへと向かった。
小ぶりのハンドバッグを手に、綺麗に磨かれた廊下を進むその途中。
「……つ……あ……じゃない!」
エレベーターホールの手前、常用階段を伝って上階から揉めている女性の声が聞こえ足を止めた。
「こ……すよ……しっかり……仕事……」
男性の苛立った声が続いて、少し気になった茜は階段を数段上り、隠れて様子を窺う。
「離して! 無理です」
最初に見えたのは嫌がる女性だ。
二十代半ばくらいだろうか。花柄のワンピースを纏う女性は清楚な雰囲気がある。
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