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第一章
「茜ちゃんは、恋人からサプライズされるのは好き? それともしたい派?」
唐突な質問に、助手席から夜の景色を眺めていた茜は、ハンドルを握る運転席の男を見た。
「サプライズって、プレゼントとかパーティーとかのですか?」
「そう、そのサプライズ」
二十歳の茜よりふたつ年上の一成とこうしてデートをするのは二回目だ。
前回のデートでは食事をし、映画館でのレイトショーを楽しんだ。
今日は海沿いの水族館でまったり過ごしたあとのドライブデート。
今はその帰りで、家まで送ってもらっているところなのだが。
「どっちかな……。考えたことなかったです」
というより、それ以前に茜にはまともに恋人がいたことがない。
付き合うことになっても、茜がとある事情を打ち明けた途端、そこで恋が終了してしまうからだ。
故に、サプライズをした経験もされた経験もなかった。
(恋人……サプライズ……)
サプライズをする側、される側の自分を想像してみる。
(要は、尽くしたいか、尽くされたいかってことよね)
好きな人から尽くされるのは悪くなさそうだ。
だが、好きな人に尽くして喜んでもらうのもいい。
むしろ、〝あのこと〟を知って、自分を受け入れてくれる恋人に尽くさないわけがない。
考え込んでいる茜を見て、一成は小さく笑う。
「あれかな。あんまり刺激は求めない感じ?」
「刺激は……そうかも。普段からお腹いっぱいなので」
アハハと笑うと、一成は細い瞳の上にあるこれまた細い眉を上げた。
「ん? 普段から?」
どういう意味だと横目で問われ、しまったと内心で焦る。
「あ、あー、えっとぉ……あっ! 一成さん、次の信号を左の方が近道です」
「左だね。了解」
茜は少々強引に話題を変えて、密かに息を吐いた。
(言動には気を付けなくちゃ。今のところいい感じに進展してるけど、あれを打ち明けるにはまだ早いもの。勝負に出るのは相手の好意をしっかりと感じてからよ)
一成との出会いはひと月前、夏真っ盛りのうだるような夜だった。
合コンというありきたりな始まり。
最初に連絡先を聞いてきたのは一成の方だったと、茜は記憶している。
デートに誘ってくれたのも彼から。
つまり、自分にある程度の興味を持ってくれているのは明白だ。しかし、ここからさらに発展させていくために努力を重ねなければならない。
一成との会話は程よく弾み、居心地も悪くない。付き合ってもきっとうまくいく。
そんな期待に胸に膨らませていると、カチカチという規則的なウィンカーの音に一成の声が重なった。
「明日は学校のあとバイト?」
「はい」
製菓専門学校に通う茜は、高校一年の頃から製菓店にアルバイトとして勤めている。
もちろん、将来の夢はパティシエだが、実はこの夢には少々邪な願いも乗っかっている。
「そっか。じゃあ、会うのは厳しいかな」
「え?」
「オレ、茜ちゃんといると楽しいからさ。毎日でも会いたいなって」
はにかんだ一成の横顔と言葉に含まれる意味に、茜の頬が熱を帯び赤く染まった。
(これは……もう、告白とみていいの!?)
正直なところ、自分の気持ちはまだ一成に向ききっていない。
ただ、好きになれそうな気はしている。
(今向かってるのは家! これは、神様が勝負に出ろって言ってるのかも……?)
信仰している神などいないが、こんな時ばかり信じてみることにする。
何より、うじうじ悩むのは性に合わない。
やらない後悔よりやる後悔が信条の茜は、心の中の勝負スイッチを力いっぱい叩き押した。
「あの、一成さん。さっきの質問ですけど」
「質問? ああ、サプライズ?」
「はい。一成さんは、サプライズされるのは好きですか?」
「うん、好きだよ」
スマホのナビを確認しつつ、ハンドルを切る一成が微笑んだ。
「良かった! 実はうち、家業が特殊なんです」
「家業? ご両親の?」
「そうです。話すと驚く人が多くて」
「へぇ~、一体どんな仕事してるの?」
尋ねられたタイミングで、ナビが茜の家に到着したことを知らせる。
一成は車を停めて先に降りると、助手席のドアを開けて茜をエスコートした。
「ありがとうございます」
礼を述べた茜は、高い塀に囲まれた日本屋敷を背に笑みを浮かべる。
「極道なんです」
「……へ?」
固まった一成の視線が、茜の背後に見える代紋つきの表札へと移った。
『本条組』
ひゅう、と九月半ばの生ぬるい風が通り過ぎる。
一成は無言のまま、ゆっくりと微笑んだ。
「そっか。じゃ、俺帰るわ。おやすみ! 今までありがとう! 元気でね!」
就寝の挨拶に加え、別れの言葉まで残し手を振った一成は、あっという間に車に乗り込んで去っていった。
茜は貼り付けていた笑みを引きつらせる。
「毎日会いたいって言ったのはどの口よ」
またしても受け入れてもらえず、深く長い溜め息を吐いた茜は門扉を押し開けた。
(今回もダメだったかぁ~)
誰かに恋心を覚えるようになり、男女交際というものを意識するようになってから数年。
茜がまともに恋愛できないのは、親の家業が極道であるせいだ。
いつになったら肝の据わった運命の相手に巡り合えるのか。
再び溜め息を吐き、玉砂利を踏み鳴らして敷石を渡る。
すると、玄関の引き戸がガラリと開いた。
現れたのは赤髪の若い構成員、本条組若頭の息子、赤城八汰。
茜と同じ歳であり、幼馴染の青年だ。
「お嬢、おかえり」
「ただいま、ハチ。来てたのね」
「親父の付き添いで。お嬢はバイト帰り?」
「ううん、デート帰り」
いつもよりオシャレしているのをアピールするように両手を広げるも、八汰は「あっそ」と面白くなさそうに視線を逸らした。
「はいはい、興味ないわよね。ところで父さんは?」
「庭の方にいたよ」
「またお酒ね」
呆れて呟いた茜は、「じゃあ、またね」と八汰に手を振り、玄関から入らず、そのままぐるりと庭へと回る。
そうして、石灯篭の火が灯る庭園を覗くと、案の定、縁側で晩酌する酒好きの父を見つけた。
「おう、おかえり。デートはどうだった」
涼し気な甚兵衛を纏い、手にした御猪口を持ち上げて目元の皺を深めた父は、そこそこ酒が進んでいるのかご機嫌だ。
「五分前までは順調だったわ」
隣に腰を下ろして唇を尖らせた茜の言葉に、父は大口を開けて笑う。
「てことは、またダメだったか!」
「笑い事じゃないの! 家のこと話した途端にこれよ?」
ショルダーバッグを放りふてくされる茜に、父は「俺のせいか?」と苦笑した。
今は和やかな雰囲気を醸し出している父、本条頼次は、関東最大と云われる任侠団体『神崎会』の直系組織本条組の三代目組長で、直系の中でもトップクラスの勢力を束ねる人物だ。
「うちの生業を話すからフられるんだろう」
「だけど、後出しにされるより、最初に話してもらった方が相手にとってはいいでしょ」
「まぁな。ま、俺は真っ直ぐな性格のお前が好きだが、もうちょい要領よくやってもいいと思うが」
「騙すようなことしたくないの」
例えば、家の事情を明かさずに交際をスタートさせたとして、うまくいっているからそろそろ大丈夫なのではと打ち明けたとする。
しかし、大丈夫ではなかった場合、相手を傷つける可能性はもちろん、そこで離れていかれたら自分も深手を負う。
現に、今までの友人にもそういった者はいた。
茜の親の家業が極道と知るや否や、それとなく距離を取られ、関わりがなくなったのだ。
だが、相手が嫌厭する気持ちはわかる。
何かあって自分も巻き込まれたらという不安に駆られるのも当然だ。
離れられるのは寂しいが、そんな経験があるからこそ、この先も信頼関係を築けるか見極めるため、ここだというタイミングで家のことを打ち明けてきた。
しかし、友人はともかく、恋愛において「それでもかまわない」と茜に愛をぶつけてくれる人は未だいない。
「ああっ、このままじゃ結婚もできないよ。一生独身で人生が終わっちゃう」
縁側にだらりと仰向けになった茜が嘆くも、頼次は落ち着いた様子で御猪口に口をつける。
「それならそれで、俺が面倒見てやるから問題ねぇって」
「問題ありありよ!」
今度は勢いよく起き上がり、強い眼差しで父を見つめた。
「ねえ、父さん! 私、前々から考えてたんだけどね、家を出て堅気として生きてみたい」
「それはつまり、俺と縁を切るってことか?」
「そんなわけないでしょ。単純に本条組から離れるってことよ」
ここに住んでいると、どうしても親の家業がついてまわる。
まして茜は一人娘。兄弟姉妹がいない茜の恋人となる場合、いずれ組織に関わらなければいけないのでは……という不安と恐怖を相手に与えてしまいがちだ。
ならば、家を出て独り立ちすることで、『私は私の人生を歩んでいます。後継者とか気にしなくていいですよ』というアピールをする。
それだけでも恋が進展する可能性が広がるのではないか。
「ってことで、堅気の環境にいれば幸せの道が開けると思うの」
茜がそう熱弁をふるうと、父は「うーん」と顎に手を添えた。
「まあ、お前ももう大人だ。てめーの道はてめーで決める権利もある。が、お前にはうちを継いでほしい気持ちもあってだな」
「悪いけど、組長にはなりたくないわ」
本条組は真っ当な任侠道を掲げ、違法薬物や賭博はご法度。
堅気に迷惑をかけないことを徹底したその姿勢を、茜は好ましく思っている。
しかし、だからといって組長になる気はないし、そもそも自分にそんな力量がないのは重々承知。
なので、はっきりとお断りしたのだが。
「なら、取引といこうじゃねーか」
「取引?」
父が組長としての顔つきで茜を見た。
「欲しい人材がいる。そいつをスカウトしてうちに引き入れることができたら、茜の好きにしていいぞ」
つまり、組長、もしくは極妻となって本条組を背負わないのなら、組にとって代わりとなる利益を持ってこいということらしい。
「本当? スカウトできたら家を出ていいの?」
「ああ、男に二言はねぇ」
腕を組んだ父がしっかりと頷くのを見て、茜は心の中でガッツポーズをした。
「わかった。引き受けるわ!」
「よし、頼んだぞ。ターゲットの名前は澤村暁哉」
父が告げた名に茜は首を傾げる。
「堅気の人?」
「いや、京極組の若頭だ」
「え? 京極って、うちの傘下の京極?」
「その京極だな」
ニコニコしている父に、茜は唖然として口を開けた。
「そ、それは難易度も危険度も高すぎでしょ!」
京極組は本条の傘下に入ってはいるが、最近本条のやり方に異を唱えており、雲行きが怪しい組だ。
そこの若頭をスカウトなど叶う確率はかなり低い。
それに、いくら上部団体といえども、仮にその人物がスカウトを受けたら裏切りとみなされる危険もあるだろう。
「心配すんな。OKがもらえれば、京極との折衝は俺が引き受ける」
父が心強い言葉をくれるも、そもそも家から出す気がないからこれを条件にしたのではと勘ぐってしまう。
それほどの高難易度ミッションに、早々に折れそうになる心を奮い立たせる。
(やる前から諦めちゃダメね。まずは会って交渉してみよう)
前向きに考え、茜はさっそく父に澤村暁哉に関する聞き込みを開始した。
翌日、バイトを終えたその足で茜が向かったのは『ATARAYO』いう名のBARだ。
父の話によると、この店は澤村のいきつけらしい。
ここに来れば本人と会える確率が高いと聞き、茜は期待を胸にやってきた。
(明日も学校があるから早く帰って寝たいところだけど、今はスカウトが優先)
とにかく、澤村に会えるまではできるだけ毎日ここに通う覚悟で、七階建てのビルのエレベーターに乗り込んだ。
最上階に店を構えるATARAYOは、エレベーターのドアが開くとそこが店の入口となっている。
店の名が刻まれた看板は柔らかな色合いのスポットライトに照らされ、洒落た空間を演出していた。
最近二十歳になったばかりの茜は、お酒を扱う店にまだ入り慣れていない。
父に連れられて小料理屋や料亭などには行ったことはあるが、ATARAYOのような大人の雰囲気が漂うBARは初めてだ。
少しの緊張を胸にキャンドルが飾られた壁に沿って奥へ進むと、バーカウンターに立っている三十代くらいの女性がマスカラたっぷりの双眸を柔らかく細めた。
「いらっしゃいませ」
スレンダーな身体にフィットする黒いワンピース。緩く編み込んでひとつに纏めた黒髪。
色気を纏うそのバーテンダーは「お好きな席へどうぞ」と少々ハスキーな声で促した。
とりあえず空いているカウンター席に座り、渡されたメニューを広げる。
(うわ、何だかオシャレな名前がいっぱい並んでるけど、よくわからない……)
カタカナの羅列に何を頼んだらいいのか戸惑う茜に、バーテンダーが再び声をかけた。
「お客様、うちは初めてですよね?」
「は、はい」
「お酒は得意ですか?」
「最近飲める年齢になったばかりで、あまり」
茜は愛想笑いを浮かべて答えたが、本当は得意だ。
正確に言えば、別に酒好きではないがザルである。
発覚したのは二十歳の誕生日の夜のこと。
『おめでとう、我が娘よ! さぁ、好きなだけ飲め!』
本条組本部の大広間にて構成員らに囲まれ盛大に祝ってもらった際、父が様々な酒を茜の前に並べた。
ビール、カクテル、日本酒にワイン等々。父や若頭たちに飲みやすさや度数などを解説してもらいながら、まだ二十歳前の八汰もまざってあれこれと試した結果。
『おい茜。随分飲んでるが、お前、大丈夫なのか?』
『何が?』
『ふらつくとか、気持ち悪いとか、頭いてぇとか』
『ないよ? 少しフワフワした感じはあるけど、これはアルコールが入ってるからよね?』
飲んでもあまり酔わない、所謂ザルだと判明したのだ。
これは酒好きの父の遺伝だと皆が言っていたが、茜はまったく嬉しくはなかった。
なぜなら、女性がザルであるのは可愛げがない気がするからだ。
素敵な恋人を作るためには印象は大事。
少しでも極道のイメージを和らげるべく、一成とのデートでお酒を勧められても『まだ慣れてなくて』と飲まずにいた。
ちなみに、茜がお菓子作りに目覚めたのも、印象作りがきっかけだ。
「それなら、この辺りのお酒なら度数が低くて飲みやすいかも。もしくは、ノンアルコールカクテルも作れますよ」
「あっ、それならノンアルコールでお願いします」
今この場に恋愛対象となる相手はいないので取り繕う必要はないのだが、ここに来た目的はスカウト。
澤村としっかりと交渉するためにも、お酒は入れないことにした。
「かしこまりました」
そうして、いくつか紹介されたノンアルコールカクテルからひとつを選んで注文。
ほっと息を吐き、ずらりと並ぶボトルに手を伸ばすバーテンダーから視線を外した茜は、愛用の白いショルダーバッグから写真を一枚取り出す。
それは澤村が写っているものなのだが。
(なんでサングラスかけてるのしかないのよ。これじゃ顔がよくわかんないじゃない)
心の声で毒づきつつも、身体を捻って店内を見渡す。
黒を基調としたシックな店内では、数人の客がそれぞれに酒や会話を楽しんでいる。
カウンター席の端には、ひとりでしっぽりとグラスを傾ける中年のサラリーマンと、仕事の愚痴を零し合うOL女性の二人組。
茜から見えるテーブル席やボックス席は全て客で埋まっているが、どこにも澤村らしき男はいないようだ。
(とりあえず、しばらく待ってみよう)
写真に視線を落とし、せめて終電までは粘ってみるべきかと考えたところで、先ほどのバーテンダーがグラスを片手にやってきた。
「お待たせしました。あら? それって、暁哉さん?」
バーテンダーは、茜が手にする写真を見て首を傾げる。
「ご存知ですか?」
白い泡が立った山吹色のカクテルを紙のコースターの上に置きながら、バーテンダーは頷いた。
「ええ、うちの常連さんだもの」
このBARがいきつけだという情報は間違っていないようで、茜は胸を撫で下ろす。
「あの、今日はもう来られましたか?」
「まだいらしていないですよ。あなた、暁哉さんのお知り合い?」
「いえ、ちょっと……」
父の組にスカウトしたくて来ましたと説明するのは憚られて言葉を濁すと、バーテンダーは「ふぅん?」と目を細めて茜を観察した。
「もしかして……暁哉さんのストーカー?」
「ちっ、違います! 面識はないので! ただ、頼みたいことがあって」
慌てて否定すると、バーテンダーはからかっていたようでクスクスと肩を揺らした。
「それで、うちに探しに来たんですね」
「はい。あの……澤村さんってどんな人ですか?」
澤村について茜が知っているのは、名前と組織、歳が二十七歳で、家族はおらず天涯孤独の身であることだけだ。
スカウトするにあたって他に有益な情報はないかと尋ねる。
「そうねぇ」
バーテンダーは、長く綺麗な人差し指を顎に当て「んー」と考える。
「あたしの誘いをのらりくらりとかわす悪い男、かな」
フフと妖艶な笑みを浮かべたその時だ。
店の奥から女性客の悲鳴が上がり、茜は驚いて振り向いた。
年は三十代後半くらいだろうか。柄の悪い男性客が、連れらしき女性客の胸ぐらを掴んでいる。
「俺が歌えって言ったら歌えや。ああっ!?」
男がドカッとテーブルを足蹴にし、グラスが倒れて転がった。
怯える女性に「早く歌え」と声を荒らげて強要する男は、酩酊しているのか目が据わっている。
「……女に手をあげるなんて最低な男ね」
独り言ちて椅子から立ち上がる茜を、バーテンダーが「危ないですよ」と引き止めた。
「心配しないでください。護身術ならひと通りマスターしてるので」
極道の家に生まれた茜は、万が一のためにと幼い頃から暴漢撃退法を身につけている。
(とりあえず、あの女性を助けてあげないと)
殴られたりでもしたら大変だ。
困っている者、弱き者には手を差し伸べる父親譲りの任侠を胸に、茜が一歩踏み出した直後。
「君は行かないでいいよ」
耳心地の良いバリトンボイスに止められた。
「あら暁哉さん、いらっしゃい。グッドタイミング」
バーテンダーの紡いだ名に、茜は目を見開いて店内に入ってきた男へと視線をやる。
(背ぇ、たかっ)
百六十センチの茜より頭ひとつ分は背の高いその男は、写真と同じく黒いスクウェア型のサングラスをかけている。
スッと通った鼻筋にシャープで美しい顎のライン。
写真より実物の方がいい男かもと観察していた茜の耳に、バリンとグラスが割れる音が届いた。
「賑やかだな。なんの騒ぎ?」
束感のあるレイヤーカットの黒髪が、空調の風に柔らかく靡く。
「酔っ払い様がおいたを始めちゃって」
「なるほど。必要ならお帰り願おうか?」
「頼めるかしら? お礼はあたしとのめくるめく一夜でどう?」
「ドンペリで手を打つよ」
ひらと手を振って、暁哉は酔って暴れ始めた客のもとへ向かった。
「ね? かわすでしょ?」
バーテンダーが先ほど話した通りであることを証明し、茜は苦笑して暁哉の動向を見守る。
「お兄さん、元気だね」
軽い調子で話しかける暁哉を、酔っ払い男は睨み立ち上がった。
「ああ? なんだてめーは」
「ただの客だ。俺のことはどうでもいいんだよ。お兄さん、そろそろ帰る時間じゃない?」
「うるっせぇな!」
男は苛つきを露わにし、暁哉の顔面めがけてパンチを繰り出す。
だが、流れるような動きで暁哉が避けたため、男は勢い余ってつんのめった。
「おっと」
転ぶ寸前、暁哉は男の腕を掴んで支える。
「ほら、限界だろ? もう帰って寝た方がいい」
「てめーに指図される筋合いはねぇんだよ!」
酒で赤く染まった顔をさらに色濃くして男が怒鳴る。
そうして怒り狂いつつ暁哉の手を振りほどこうとするが、暁哉はびくともしない。
(強い……!)
余裕のある態度で酔っ払いを制する姿に、茜は思わず見惚れた。
「は、離せコラ!」
「今すぐ帰るなら離すよ」
「うるせぇクソが」
「帰る気なさそうだ。それなら仕方ない」
「茜ちゃんは、恋人からサプライズされるのは好き? それともしたい派?」
唐突な質問に、助手席から夜の景色を眺めていた茜は、ハンドルを握る運転席の男を見た。
「サプライズって、プレゼントとかパーティーとかのですか?」
「そう、そのサプライズ」
二十歳の茜よりふたつ年上の一成とこうしてデートをするのは二回目だ。
前回のデートでは食事をし、映画館でのレイトショーを楽しんだ。
今日は海沿いの水族館でまったり過ごしたあとのドライブデート。
今はその帰りで、家まで送ってもらっているところなのだが。
「どっちかな……。考えたことなかったです」
というより、それ以前に茜にはまともに恋人がいたことがない。
付き合うことになっても、茜がとある事情を打ち明けた途端、そこで恋が終了してしまうからだ。
故に、サプライズをした経験もされた経験もなかった。
(恋人……サプライズ……)
サプライズをする側、される側の自分を想像してみる。
(要は、尽くしたいか、尽くされたいかってことよね)
好きな人から尽くされるのは悪くなさそうだ。
だが、好きな人に尽くして喜んでもらうのもいい。
むしろ、〝あのこと〟を知って、自分を受け入れてくれる恋人に尽くさないわけがない。
考え込んでいる茜を見て、一成は小さく笑う。
「あれかな。あんまり刺激は求めない感じ?」
「刺激は……そうかも。普段からお腹いっぱいなので」
アハハと笑うと、一成は細い瞳の上にあるこれまた細い眉を上げた。
「ん? 普段から?」
どういう意味だと横目で問われ、しまったと内心で焦る。
「あ、あー、えっとぉ……あっ! 一成さん、次の信号を左の方が近道です」
「左だね。了解」
茜は少々強引に話題を変えて、密かに息を吐いた。
(言動には気を付けなくちゃ。今のところいい感じに進展してるけど、あれを打ち明けるにはまだ早いもの。勝負に出るのは相手の好意をしっかりと感じてからよ)
一成との出会いはひと月前、夏真っ盛りのうだるような夜だった。
合コンというありきたりな始まり。
最初に連絡先を聞いてきたのは一成の方だったと、茜は記憶している。
デートに誘ってくれたのも彼から。
つまり、自分にある程度の興味を持ってくれているのは明白だ。しかし、ここからさらに発展させていくために努力を重ねなければならない。
一成との会話は程よく弾み、居心地も悪くない。付き合ってもきっとうまくいく。
そんな期待に胸に膨らませていると、カチカチという規則的なウィンカーの音に一成の声が重なった。
「明日は学校のあとバイト?」
「はい」
製菓専門学校に通う茜は、高校一年の頃から製菓店にアルバイトとして勤めている。
もちろん、将来の夢はパティシエだが、実はこの夢には少々邪な願いも乗っかっている。
「そっか。じゃあ、会うのは厳しいかな」
「え?」
「オレ、茜ちゃんといると楽しいからさ。毎日でも会いたいなって」
はにかんだ一成の横顔と言葉に含まれる意味に、茜の頬が熱を帯び赤く染まった。
(これは……もう、告白とみていいの!?)
正直なところ、自分の気持ちはまだ一成に向ききっていない。
ただ、好きになれそうな気はしている。
(今向かってるのは家! これは、神様が勝負に出ろって言ってるのかも……?)
信仰している神などいないが、こんな時ばかり信じてみることにする。
何より、うじうじ悩むのは性に合わない。
やらない後悔よりやる後悔が信条の茜は、心の中の勝負スイッチを力いっぱい叩き押した。
「あの、一成さん。さっきの質問ですけど」
「質問? ああ、サプライズ?」
「はい。一成さんは、サプライズされるのは好きですか?」
「うん、好きだよ」
スマホのナビを確認しつつ、ハンドルを切る一成が微笑んだ。
「良かった! 実はうち、家業が特殊なんです」
「家業? ご両親の?」
「そうです。話すと驚く人が多くて」
「へぇ~、一体どんな仕事してるの?」
尋ねられたタイミングで、ナビが茜の家に到着したことを知らせる。
一成は車を停めて先に降りると、助手席のドアを開けて茜をエスコートした。
「ありがとうございます」
礼を述べた茜は、高い塀に囲まれた日本屋敷を背に笑みを浮かべる。
「極道なんです」
「……へ?」
固まった一成の視線が、茜の背後に見える代紋つきの表札へと移った。
『本条組』
ひゅう、と九月半ばの生ぬるい風が通り過ぎる。
一成は無言のまま、ゆっくりと微笑んだ。
「そっか。じゃ、俺帰るわ。おやすみ! 今までありがとう! 元気でね!」
就寝の挨拶に加え、別れの言葉まで残し手を振った一成は、あっという間に車に乗り込んで去っていった。
茜は貼り付けていた笑みを引きつらせる。
「毎日会いたいって言ったのはどの口よ」
またしても受け入れてもらえず、深く長い溜め息を吐いた茜は門扉を押し開けた。
(今回もダメだったかぁ~)
誰かに恋心を覚えるようになり、男女交際というものを意識するようになってから数年。
茜がまともに恋愛できないのは、親の家業が極道であるせいだ。
いつになったら肝の据わった運命の相手に巡り合えるのか。
再び溜め息を吐き、玉砂利を踏み鳴らして敷石を渡る。
すると、玄関の引き戸がガラリと開いた。
現れたのは赤髪の若い構成員、本条組若頭の息子、赤城八汰。
茜と同じ歳であり、幼馴染の青年だ。
「お嬢、おかえり」
「ただいま、ハチ。来てたのね」
「親父の付き添いで。お嬢はバイト帰り?」
「ううん、デート帰り」
いつもよりオシャレしているのをアピールするように両手を広げるも、八汰は「あっそ」と面白くなさそうに視線を逸らした。
「はいはい、興味ないわよね。ところで父さんは?」
「庭の方にいたよ」
「またお酒ね」
呆れて呟いた茜は、「じゃあ、またね」と八汰に手を振り、玄関から入らず、そのままぐるりと庭へと回る。
そうして、石灯篭の火が灯る庭園を覗くと、案の定、縁側で晩酌する酒好きの父を見つけた。
「おう、おかえり。デートはどうだった」
涼し気な甚兵衛を纏い、手にした御猪口を持ち上げて目元の皺を深めた父は、そこそこ酒が進んでいるのかご機嫌だ。
「五分前までは順調だったわ」
隣に腰を下ろして唇を尖らせた茜の言葉に、父は大口を開けて笑う。
「てことは、またダメだったか!」
「笑い事じゃないの! 家のこと話した途端にこれよ?」
ショルダーバッグを放りふてくされる茜に、父は「俺のせいか?」と苦笑した。
今は和やかな雰囲気を醸し出している父、本条頼次は、関東最大と云われる任侠団体『神崎会』の直系組織本条組の三代目組長で、直系の中でもトップクラスの勢力を束ねる人物だ。
「うちの生業を話すからフられるんだろう」
「だけど、後出しにされるより、最初に話してもらった方が相手にとってはいいでしょ」
「まぁな。ま、俺は真っ直ぐな性格のお前が好きだが、もうちょい要領よくやってもいいと思うが」
「騙すようなことしたくないの」
例えば、家の事情を明かさずに交際をスタートさせたとして、うまくいっているからそろそろ大丈夫なのではと打ち明けたとする。
しかし、大丈夫ではなかった場合、相手を傷つける可能性はもちろん、そこで離れていかれたら自分も深手を負う。
現に、今までの友人にもそういった者はいた。
茜の親の家業が極道と知るや否や、それとなく距離を取られ、関わりがなくなったのだ。
だが、相手が嫌厭する気持ちはわかる。
何かあって自分も巻き込まれたらという不安に駆られるのも当然だ。
離れられるのは寂しいが、そんな経験があるからこそ、この先も信頼関係を築けるか見極めるため、ここだというタイミングで家のことを打ち明けてきた。
しかし、友人はともかく、恋愛において「それでもかまわない」と茜に愛をぶつけてくれる人は未だいない。
「ああっ、このままじゃ結婚もできないよ。一生独身で人生が終わっちゃう」
縁側にだらりと仰向けになった茜が嘆くも、頼次は落ち着いた様子で御猪口に口をつける。
「それならそれで、俺が面倒見てやるから問題ねぇって」
「問題ありありよ!」
今度は勢いよく起き上がり、強い眼差しで父を見つめた。
「ねえ、父さん! 私、前々から考えてたんだけどね、家を出て堅気として生きてみたい」
「それはつまり、俺と縁を切るってことか?」
「そんなわけないでしょ。単純に本条組から離れるってことよ」
ここに住んでいると、どうしても親の家業がついてまわる。
まして茜は一人娘。兄弟姉妹がいない茜の恋人となる場合、いずれ組織に関わらなければいけないのでは……という不安と恐怖を相手に与えてしまいがちだ。
ならば、家を出て独り立ちすることで、『私は私の人生を歩んでいます。後継者とか気にしなくていいですよ』というアピールをする。
それだけでも恋が進展する可能性が広がるのではないか。
「ってことで、堅気の環境にいれば幸せの道が開けると思うの」
茜がそう熱弁をふるうと、父は「うーん」と顎に手を添えた。
「まあ、お前ももう大人だ。てめーの道はてめーで決める権利もある。が、お前にはうちを継いでほしい気持ちもあってだな」
「悪いけど、組長にはなりたくないわ」
本条組は真っ当な任侠道を掲げ、違法薬物や賭博はご法度。
堅気に迷惑をかけないことを徹底したその姿勢を、茜は好ましく思っている。
しかし、だからといって組長になる気はないし、そもそも自分にそんな力量がないのは重々承知。
なので、はっきりとお断りしたのだが。
「なら、取引といこうじゃねーか」
「取引?」
父が組長としての顔つきで茜を見た。
「欲しい人材がいる。そいつをスカウトしてうちに引き入れることができたら、茜の好きにしていいぞ」
つまり、組長、もしくは極妻となって本条組を背負わないのなら、組にとって代わりとなる利益を持ってこいということらしい。
「本当? スカウトできたら家を出ていいの?」
「ああ、男に二言はねぇ」
腕を組んだ父がしっかりと頷くのを見て、茜は心の中でガッツポーズをした。
「わかった。引き受けるわ!」
「よし、頼んだぞ。ターゲットの名前は澤村暁哉」
父が告げた名に茜は首を傾げる。
「堅気の人?」
「いや、京極組の若頭だ」
「え? 京極って、うちの傘下の京極?」
「その京極だな」
ニコニコしている父に、茜は唖然として口を開けた。
「そ、それは難易度も危険度も高すぎでしょ!」
京極組は本条の傘下に入ってはいるが、最近本条のやり方に異を唱えており、雲行きが怪しい組だ。
そこの若頭をスカウトなど叶う確率はかなり低い。
それに、いくら上部団体といえども、仮にその人物がスカウトを受けたら裏切りとみなされる危険もあるだろう。
「心配すんな。OKがもらえれば、京極との折衝は俺が引き受ける」
父が心強い言葉をくれるも、そもそも家から出す気がないからこれを条件にしたのではと勘ぐってしまう。
それほどの高難易度ミッションに、早々に折れそうになる心を奮い立たせる。
(やる前から諦めちゃダメね。まずは会って交渉してみよう)
前向きに考え、茜はさっそく父に澤村暁哉に関する聞き込みを開始した。
翌日、バイトを終えたその足で茜が向かったのは『ATARAYO』いう名のBARだ。
父の話によると、この店は澤村のいきつけらしい。
ここに来れば本人と会える確率が高いと聞き、茜は期待を胸にやってきた。
(明日も学校があるから早く帰って寝たいところだけど、今はスカウトが優先)
とにかく、澤村に会えるまではできるだけ毎日ここに通う覚悟で、七階建てのビルのエレベーターに乗り込んだ。
最上階に店を構えるATARAYOは、エレベーターのドアが開くとそこが店の入口となっている。
店の名が刻まれた看板は柔らかな色合いのスポットライトに照らされ、洒落た空間を演出していた。
最近二十歳になったばかりの茜は、お酒を扱う店にまだ入り慣れていない。
父に連れられて小料理屋や料亭などには行ったことはあるが、ATARAYOのような大人の雰囲気が漂うBARは初めてだ。
少しの緊張を胸にキャンドルが飾られた壁に沿って奥へ進むと、バーカウンターに立っている三十代くらいの女性がマスカラたっぷりの双眸を柔らかく細めた。
「いらっしゃいませ」
スレンダーな身体にフィットする黒いワンピース。緩く編み込んでひとつに纏めた黒髪。
色気を纏うそのバーテンダーは「お好きな席へどうぞ」と少々ハスキーな声で促した。
とりあえず空いているカウンター席に座り、渡されたメニューを広げる。
(うわ、何だかオシャレな名前がいっぱい並んでるけど、よくわからない……)
カタカナの羅列に何を頼んだらいいのか戸惑う茜に、バーテンダーが再び声をかけた。
「お客様、うちは初めてですよね?」
「は、はい」
「お酒は得意ですか?」
「最近飲める年齢になったばかりで、あまり」
茜は愛想笑いを浮かべて答えたが、本当は得意だ。
正確に言えば、別に酒好きではないがザルである。
発覚したのは二十歳の誕生日の夜のこと。
『おめでとう、我が娘よ! さぁ、好きなだけ飲め!』
本条組本部の大広間にて構成員らに囲まれ盛大に祝ってもらった際、父が様々な酒を茜の前に並べた。
ビール、カクテル、日本酒にワイン等々。父や若頭たちに飲みやすさや度数などを解説してもらいながら、まだ二十歳前の八汰もまざってあれこれと試した結果。
『おい茜。随分飲んでるが、お前、大丈夫なのか?』
『何が?』
『ふらつくとか、気持ち悪いとか、頭いてぇとか』
『ないよ? 少しフワフワした感じはあるけど、これはアルコールが入ってるからよね?』
飲んでもあまり酔わない、所謂ザルだと判明したのだ。
これは酒好きの父の遺伝だと皆が言っていたが、茜はまったく嬉しくはなかった。
なぜなら、女性がザルであるのは可愛げがない気がするからだ。
素敵な恋人を作るためには印象は大事。
少しでも極道のイメージを和らげるべく、一成とのデートでお酒を勧められても『まだ慣れてなくて』と飲まずにいた。
ちなみに、茜がお菓子作りに目覚めたのも、印象作りがきっかけだ。
「それなら、この辺りのお酒なら度数が低くて飲みやすいかも。もしくは、ノンアルコールカクテルも作れますよ」
「あっ、それならノンアルコールでお願いします」
今この場に恋愛対象となる相手はいないので取り繕う必要はないのだが、ここに来た目的はスカウト。
澤村としっかりと交渉するためにも、お酒は入れないことにした。
「かしこまりました」
そうして、いくつか紹介されたノンアルコールカクテルからひとつを選んで注文。
ほっと息を吐き、ずらりと並ぶボトルに手を伸ばすバーテンダーから視線を外した茜は、愛用の白いショルダーバッグから写真を一枚取り出す。
それは澤村が写っているものなのだが。
(なんでサングラスかけてるのしかないのよ。これじゃ顔がよくわかんないじゃない)
心の声で毒づきつつも、身体を捻って店内を見渡す。
黒を基調としたシックな店内では、数人の客がそれぞれに酒や会話を楽しんでいる。
カウンター席の端には、ひとりでしっぽりとグラスを傾ける中年のサラリーマンと、仕事の愚痴を零し合うOL女性の二人組。
茜から見えるテーブル席やボックス席は全て客で埋まっているが、どこにも澤村らしき男はいないようだ。
(とりあえず、しばらく待ってみよう)
写真に視線を落とし、せめて終電までは粘ってみるべきかと考えたところで、先ほどのバーテンダーがグラスを片手にやってきた。
「お待たせしました。あら? それって、暁哉さん?」
バーテンダーは、茜が手にする写真を見て首を傾げる。
「ご存知ですか?」
白い泡が立った山吹色のカクテルを紙のコースターの上に置きながら、バーテンダーは頷いた。
「ええ、うちの常連さんだもの」
このBARがいきつけだという情報は間違っていないようで、茜は胸を撫で下ろす。
「あの、今日はもう来られましたか?」
「まだいらしていないですよ。あなた、暁哉さんのお知り合い?」
「いえ、ちょっと……」
父の組にスカウトしたくて来ましたと説明するのは憚られて言葉を濁すと、バーテンダーは「ふぅん?」と目を細めて茜を観察した。
「もしかして……暁哉さんのストーカー?」
「ちっ、違います! 面識はないので! ただ、頼みたいことがあって」
慌てて否定すると、バーテンダーはからかっていたようでクスクスと肩を揺らした。
「それで、うちに探しに来たんですね」
「はい。あの……澤村さんってどんな人ですか?」
澤村について茜が知っているのは、名前と組織、歳が二十七歳で、家族はおらず天涯孤独の身であることだけだ。
スカウトするにあたって他に有益な情報はないかと尋ねる。
「そうねぇ」
バーテンダーは、長く綺麗な人差し指を顎に当て「んー」と考える。
「あたしの誘いをのらりくらりとかわす悪い男、かな」
フフと妖艶な笑みを浮かべたその時だ。
店の奥から女性客の悲鳴が上がり、茜は驚いて振り向いた。
年は三十代後半くらいだろうか。柄の悪い男性客が、連れらしき女性客の胸ぐらを掴んでいる。
「俺が歌えって言ったら歌えや。ああっ!?」
男がドカッとテーブルを足蹴にし、グラスが倒れて転がった。
怯える女性に「早く歌え」と声を荒らげて強要する男は、酩酊しているのか目が据わっている。
「……女に手をあげるなんて最低な男ね」
独り言ちて椅子から立ち上がる茜を、バーテンダーが「危ないですよ」と引き止めた。
「心配しないでください。護身術ならひと通りマスターしてるので」
極道の家に生まれた茜は、万が一のためにと幼い頃から暴漢撃退法を身につけている。
(とりあえず、あの女性を助けてあげないと)
殴られたりでもしたら大変だ。
困っている者、弱き者には手を差し伸べる父親譲りの任侠を胸に、茜が一歩踏み出した直後。
「君は行かないでいいよ」
耳心地の良いバリトンボイスに止められた。
「あら暁哉さん、いらっしゃい。グッドタイミング」
バーテンダーの紡いだ名に、茜は目を見開いて店内に入ってきた男へと視線をやる。
(背ぇ、たかっ)
百六十センチの茜より頭ひとつ分は背の高いその男は、写真と同じく黒いスクウェア型のサングラスをかけている。
スッと通った鼻筋にシャープで美しい顎のライン。
写真より実物の方がいい男かもと観察していた茜の耳に、バリンとグラスが割れる音が届いた。
「賑やかだな。なんの騒ぎ?」
束感のあるレイヤーカットの黒髪が、空調の風に柔らかく靡く。
「酔っ払い様がおいたを始めちゃって」
「なるほど。必要ならお帰り願おうか?」
「頼めるかしら? お礼はあたしとのめくるめく一夜でどう?」
「ドンペリで手を打つよ」
ひらと手を振って、暁哉は酔って暴れ始めた客のもとへ向かった。
「ね? かわすでしょ?」
バーテンダーが先ほど話した通りであることを証明し、茜は苦笑して暁哉の動向を見守る。
「お兄さん、元気だね」
軽い調子で話しかける暁哉を、酔っ払い男は睨み立ち上がった。
「ああ? なんだてめーは」
「ただの客だ。俺のことはどうでもいいんだよ。お兄さん、そろそろ帰る時間じゃない?」
「うるっせぇな!」
男は苛つきを露わにし、暁哉の顔面めがけてパンチを繰り出す。
だが、流れるような動きで暁哉が避けたため、男は勢い余ってつんのめった。
「おっと」
転ぶ寸前、暁哉は男の腕を掴んで支える。
「ほら、限界だろ? もう帰って寝た方がいい」
「てめーに指図される筋合いはねぇんだよ!」
酒で赤く染まった顔をさらに色濃くして男が怒鳴る。
そうして怒り狂いつつ暁哉の手を振りほどこうとするが、暁哉はびくともしない。
(強い……!)
余裕のある態度で酔っ払いを制する姿に、茜は思わず見惚れた。
「は、離せコラ!」
「今すぐ帰るなら離すよ」
「うるせぇクソが」
「帰る気なさそうだ。それなら仕方ない」
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