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1巻

1-3

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(もう何度画面越しに、ロイ様のせいじゃないと涙したことか)

 だが今、ロイのせいではないと伝えても受け入れてもらえないだろう。何も知らないくせにと嫌な気持ちにさせ、心の距離ができてしまう可能性もある。
 ならば、ロイの傍にいてもアンナは不幸にならないと実感してもらうのが一番だ。
 そう思い至ったアンナは、ロイににっこりと笑ってみせる。

義兄にいさま、心配しないで。不幸なんて私がいれば相殺よ!」

 自信満々に言い切って、さっそく何事もない日常を過ごすべく、まだ浮かない顔のロイに近寄る。

「あの、何かお手伝いを――」

 だが、推しへの緊張のせいか、ホースに足を引っかけて盛大に転んでしまった。
 幸い、芝の上なのでひどい汚れはないが、咄嗟とっさについた手の平はけて赤くなっている。

「ううっ……」

 失態だ。この流れでは、ロイに自分が不幸を呼んだと感じさせてしまうだろう。
 そんな後悔から漏れたアンナのうめき声を、ロイは痛がっていると勘違いしたようだ。
 短い溜め息を吐き、ぺしゃりと座り込むアンナのかたわらに片膝をつく。

「言った通りだろ? 昨日は水をかけられて、今日は転んだ。明日はもっとひどいことになるかもしれない」
「こ、これは、私が足元をちゃんと確認してなかっただけだわ」
「いいや、俺のせいだ。とりあえず手、見せて」

 言われるままに手のひらを見せると、ロイはアンナの小さな手にそっと触れていた箇所を確認する。

(はわわわわ! ロイ様が私に触れてるぅ……!)

 初めて感じる推しの体温に感動し、おかしなことを口走らないようアンナはキュッと唇を引き結んだ。
 すると、先ほどと同様、ロイには疼痛をこらえているように見えたのだろう。アンナの顔を申し訳なさそうにのぞき込む。

「痛むか?」

 ぶんぶんと首を横に振ると、「子供が我慢するな」と静かな声色でたしなめられた。

きずぐすりを取ってくる。少し待ってろ」

 抑揚のない声で言うや、立ち上がったロイはガーデンデッキから邸内に入っていった。
 ややあって、こぶしほどの小さな木箱を手に戻ってくると、再び膝をついてふたを開け、薄緑色の軟膏なんこうを指ですくう。

「手を」
「は、はい」

 手のひらを上に向けて差し出すと、きずに薬が優しく塗布される。ひりひりとみるが、幼い頃から孤独を強いられ、我慢を重ねるしかなかったロイの心の痛みを思えば蚊に刺された程度だ。

「よし、いいぞ」
「ありがとう、義兄にいさま
「礼はいい。それより、もうここへは来るな。また怪我をしたくないだろ」

 忠告し、アンナと視線を合わせないまま木箱にふたをする。
 そうして立ち上がろうとするロイの手を、アンナは咄嗟とっさつかんで引き止めた。
 ふらついたロイはバランスを取れずに尻もちをつく。

「おいっ、いきなり危な――」
義兄にいさま! なんでも自分のせいにしちゃだめ。私は自分に何かあっても、それを義兄にいさまのせいだなんて思わないわ」

 アンナは、ロイが話し終えるのを待たず、前のめりに思いを伝える。

義兄にいさまは人を不幸にしてなんかない。私は不幸にならない。それを証明するわ。だから、明日も明後日も、その次の日も、毎日義兄にいさまに会いにここに来るね」

 絶対に折れない意志を胸に、アンナはロイの目を真っ直ぐに見つめる。
 すると前髪からわずかにのぞく赤い瞳が、アンナの姿を映して不安そうに揺れた。

「君は、怖くないのか?」

 ロイのことだろうか。それとも、不幸になることか。
 どちらにせよ、恐れていないので首を横に振る。

「ちっとも。こうして義兄にいさまと過ごせて幸せだなぁって思ってる」
「昨日会ったばかりの相手に?」
「時間なんて関係ないわ。私はずっと義兄にいさまに会いたかったんだもの」

 ほんのり頬を染めつつ本音を語ったはいいが、一歩間違えれば口説いているような会話だ。
 しかし、幸いなことに、アンナは八歳の少女で相手は義兄。
 無邪気で純粋な好意として受け取ってもらえたようで、ロイはわずかに目元をやわらげた。

「俺よりもずっと年下なのに、強いんだな、君は」

 転生して初めて見るロイの微笑に、アンナの小さな胸の内がときめく。

(あなたのためなら強くなれるの)

 アンナが織りなすロイへの愛に果てはないのだ。

「アンナ……だったな」

 ずっと君呼びだったロイから名を呼ばれ、アンナは奇声を上げそうになった。

(威力が! すさまじい! 心臓が止まる!)

 アドレナリンが体内を駆け巡るのを感じながらこくこくと頷くと、ロイは改めて「アンナ」と名をつむいだ。

「君が本当にラッキー体質で、俺といても問題ないと思うなら好きにしていい」
「本当っ⁉」
「だが、ひとつだけ約束してほしいことがある」
「するわ! 必ず守る!」
「落ち着け。まだ何も言ってない」

 呆れた眼差しでたしなめられ、アンナは芝の上に正座しロイの言葉を待つ。

「君や君の周りでよくないことが起こっていると感じたら、二度と俺には近づかないこと。約束できるか?」

 真剣な、けれどどこか寂しさをにじませた瞳がアンナを見つめる。
 アンナにとって、この世界で生き、ロイと出会い、ロイと共にいられるだけでこの上ない幸福だ。
 たとえきずついても苦しくても、不幸だと感じることはないと断言できる。

(ん? 待って。これって一歩間違えるとメリバ思考なのでは⁉)

 想いが強すぎると、不幸さえ幸福に変わる――
『君果て』のメリバエンディングは全てそうだ。
 監禁されても、視力や声を失っても、やまいおかされたとしても、幸せであると感じて幕を閉じる。
 だが、アンナの目的はロイが幸せになることだ。
 推しのハッピーエンドを見届けられるなら、どんな自分になろうともかまわない。

(メリバ思考上等よ。私の愛をぶつけまくって、ロイ様を必ずハッピーエンドにみちびくわ!)

 やる気をみなぎらせるアンナは、静かに返答を待つロイにしっかりと頷いてみせる。

「わかったわ。約束する」

 するとロイは今度こそ立ち上がり、ホースを手にした。

「水やりが終わったら何か飲み物を用意する。ただ、客なんて来たことがないからたいしたものは出せないからな」

 人をもてなしたことがないと言い、ロイは少々気まずそうに背を向け散水を再開した。
 アンナはその背を見つめ、ようやく一歩踏み出せたと安堵し頬をゆるませる。

「何でも飲むわ。あ、義兄にいさまがいつも飲んでいるものが飲みたい!」
「カフェインが入ってるから子供はダメだ。レモン水……は、スコーンには合わないか?」

 ポンプを踏みながら半ばひとちるロイ。

義兄にいさま、私にもお手伝いさせて」

 隣に並んだアンナの申し出を、ロイはもう断ることはなかった。
 ホースをアンナに手渡し、向ける方向を指示してロイがポンプを踏む。
 兄妹初の共同作業でうるおう草花は、ふたりの始まりを喜ぶように陽を浴びて輝いていた。


 まずは孤独ではないと感じてもらう。
 その第一目標を胸に、アンナはほぼ毎日ロイのもとに通った。
 ひと月目は無理に長時間を過ごさず、庭の手入れや植物の世話を手伝い、休憩中に母の手作り菓子を食べて帰るようにした。
 これはロイだけでなく、アンナにとっても推しの存在に慣れる時間となり、ふた月目を迎える頃には、変に緊張することはなくなった。
 そうして三ヶ月も経てば『アンナ』と名を呼ばれるのも慣れ、最初の頃のように過剰に反応する回数も減っていた。
 徐々に余裕が出てきたアンナは、次は共にいる時間を長くして家族らしさを出そうという計画を立てた。
 ロイと昼食を摂るようにし、グレインが仕事で王都に出張中は離れに泊まることもあった。もちろん、母の許しを得て。
 そう、これほど自由にアンナがロイと過ごせるのは、母クラリッサの寛容さと全面的な協力のおかげである。
 アンナがこっそり女神とうやまう母は、その穏やかな気性に加え、誰に対しても分けへだてなく接し気遣いのできる女性だ。
 領主夫人として針仕事から社会福祉への奉仕までそつなくこなし、使用人たちの心をあっという間につかんでしまった。
 ロイのもとに足しげく通っても使用人たちがグレインに黙ってくれているのは、兄妹のために立ち回る母に協力してくれているからなのだ。
 アンナはそんな母に深く感謝し、本邸に戻る度、ロイとどんな風に過ごしたか報告した。
 ロイがアンナのために、美味おいしい飲み物をたくさん用意してくれるようになったこと。
 母の作った差し入れの菓子を気に入ってくれていること。
 離れの庭や薬草畑で育てている植物を使った、薬草作りを手伝わせてもらったこと。
 嬉しそうに話すアンナに、母は笑みを浮かべ何度も頷きながら聞いてくれた。
 そんな親子の姿を傍で見守る侍女のエルシーと使用人たちは、アンナの話を聞き、初めてロイの人柄や嗜好しこうを知る者も多かった。
 使用人たちは皆、忌み子であるロイと距離を取っている。
 理由はもちろん、不幸になるのが恐ろしいからに他ならない。
 しかし、嫌いではないのか、もしくはアンナが普通に接しているから恐怖心が薄れてきたのか。
 ロイの世話をしに離れに通う使用人たちの中には、ロイの好む紅茶の茶葉を補充し、体調を考慮した食事を用意するなど気に掛ける者が現れるようになった。
 その変化がアンナの影響ではないかと、ロイ自身も感じているようで……
 雨がしとしとと降り続けていた、五月のあるな日の夕刻。
 リビングで紅茶を飲むロイはぽつりとつぶやいた。

「君が来てから、使用人たちの態度が少し変わった気がする」
「きっと、私が義兄にいさまと一緒にいても、何もないから安心したのね」

 孤独を感じさせないようにと過ごしてきたが、思わぬ相乗効果を得られてアンナは瞳を輝かせた。
 もしかしたら、ロイを取り巻く環境が、予想以上に早くよくなるのではと期待する。
 だが、ロイの表情は暗くかげっている。

義兄にいさま? どうしたの?」
「不幸がすぐに訪れるとは限らない。俺の母は、俺が六つになった日に……命を、落とした」

 とつとつと語るロイは、憂いを帯びた表情で窓を濡らす雨粒をぼんやりと見つめ続ける。
 確かにロイの言うことには一理ある。
 ロイの母、カトリーヌの死はロイの誕生から六年後。そして、ロイルートのゲームヒロインに不幸が訪れるのは、出会いから約三ヶ月後だ。
 ただし、それを忌み子のせいだとするなら、だが。

「でも、義兄にいさまのせいだって証拠はないんでしょう?」
「俺の存在が証拠のようなものだろ」

 忌み子である自分のせいだ――そう思い込んでいるのがありありとわかる発言に、アンナは唇を尖らせた。

「私、前にも言ったわ。何でも義兄にいさまのせいにしちゃだめって」

 ロイの隣に座り、大きな瞳でネガティブモードの義兄を見上げる。

「心配しないで義兄にいさま。私は十年後も元気だし、こうやって、毎年プレゼントを渡すから」

 そう言って、今か今かと渡すタイミングを見計らっていた小箱を、バスケットから取り出した。

「お誕生日おめでとう、義兄にいさま

 赤いリボンを巻いたそれを、ロイはまばたきを繰り返して凝視する。

「……俺に?」
「そうよ」
「でも、今日は母さんの命日だ」
(もちろん知っているわ)

 毎年ひとりぼっちで空を見上げ、自分が生まれてきたことを後悔し、天に昇った母に『ごめん』とつぶやいているのを。
 けれどアンナは、ロイにとって悲しい日となってしまった今日を、本来の姿に戻してあげたいと思っている。
 自己満足かもしれない。拒絶されるかもしれない。
 それでも踏み出さねば変わらないと覚悟し、プレゼントを用意したのだ。
 幸せの一歩になることを願って。

「命日なだけじゃない。義兄にいさまのお母様が、義兄にいさまと会えて嬉しかった日でもあるわ」
「俺の瞳を見て絶望した日かもしれない」
「誰かがそう言ってたの?」

 アンナの問いに、ロイは小さく首を横に振る。

「なら、悪いように考えちゃダメ。天国でお祝いしてるお母様が可哀そうだわ」

 たしなめて「はい」と押し付けると、ロイは戸惑いながらプレゼントを受け取った。

「いいんだろうか。生まれた日を祝っても」
「ダメだって言う人がいても、私はお祝いしたい。来年も再来年も、ずっとずっと、お誕生日おめでとうって」
「……ありがとう」

 ロイの唇が柔らかな弧を描き、目が泣きそうに細められる。
 その表情に、アンナの胸がギュッと切なく締め付けられた。そして、つられて泣きそうになるのを誤魔化すように微笑む。

「乾杯しましょ! 私は義兄にいさま特製のフルーツジュースが飲みたいなぁ」

 アピールすると、ロイはふ、と吐息で笑う。

「わかった。すぐに作るよ」
「やった!」
「本当に、君といると肩の力が抜けるな」

 それは初めて見る自然な微笑みで、目を奪われたアンナは恍惚こうこつとして見つめて固まった。

(推しの微笑みがとうとい……浄化されて消えてしまう……)

 その視線を受けて羞恥しゅうちが湧いたのだろう。ロイは顔を隠すように立ち上がり、そそくさとキッチンへ逃げた。
 誕生日を祝って喜んでもらうはずが、自分の方が幸せな心地にさせられてしまった。
 やはり、最推しロイの沼からは、一生抜け出せそうにない。

(これからもロイ様のために頑張ろう)

 改めて心に誓ったアンナは、プレゼントのカフスをつけて戻ってきたロイに似合うと褒めちぎる。
 ――どうか、心から幸せだと思える日が彼に訪れますように。
 その願いを現実のものにすべく、以降もアンナは、ロイが不安にさいなまれる度に励まし支えた。
 さらに、もっと役に立ちたい一心で、ピアノや絵画、外国語などの勉学に励むだけでなく料理や薬草についても学び始めた。
 料理は前世でもたまにしていたが、『君果て』の世界では勝手が違う。なので、母やアンナ付きの侍女、屋敷に勤める料理人たちに基礎から教えてもらう。
 薬草については、ロイが離れで様々な薬を自作し研究しているので、少しでも手伝えたらと図鑑などを借りて学んだ。
 全てはロイにハッピーエンドを迎えてもらうため。
 アンナは苦労をいとわず、自分のスキルを磨き続けながら目標に邁進し続けた。


 やがて季節が幾度いくどめぐり、アンナが十二歳になった冬の午後。

義兄にいさま! 見て、ガーデニアが持ち直したみたい」

 離れの庭にもうけられた温室にて、花に水を降らせるアンナは、薬の材料となる緑葉を摘む義兄を振り返った。
 ロイは小さなかごに葉を入れ、アンナの隣に立って白色の小さな花を見下ろす。

「本当だ……。アンナに世話を任せると、どんな植物も元気になるから不思議だな」
「元気のない子には、頑張ってって声をかけてるもの」

 植物は音を感知しているらしく、ポジティブな言葉をかけるとよく育つらしい。
 これは前世で得た情報だが、『君果て』の世界では知られていないようで、アンナが話しかけているのを初めて見たロイは微妙な反応をしていた。
 今では当たり前の光景となり、「返事はあったのか」などとからかわれる始末だ。

義兄にいさまも声をかけてあげればいいのに」
「俺がやっても効果はないよ。植物が元気になるのは、アンナのラッキー体質のおかげだろうし」

 ロイの言葉に、アンナは嬉しさをこらえきれず笑みを浮かべる。
 転生し、ロイと共に過ごすようになって四年。
 アンナの体質についてずっと半信半疑だったロイが、ここ最近は信じているようなセリフを口にすることが増えたのだ。大方この四年の間、様々なラッキーを体験したからだろう。
 数年前にロイが無くした物を、アンナがたまたま見つけたり。
 たまの買い付けでロイと外出した際、荷物をひったくりに奪われるも、犯人が盛大にすっころんだ上、偶然近くにいた自警団が捕まえて事なきを得たり。入手困難でなかなか市場に出ない植物の種を、別の用事で出かけていたアンナが見つけて買って帰ったり。
 その他にも色々とあったが、とにかく、ロイだけではうまくいかなかったことが、アンナが絡むとうまく運んだ。
 そして何より、今日まで不幸と思えるような出来事はアンナに起こっていない。

「じゃあ、義兄にいさまが元気ない時は、私が傍にいてたくさん声をかけてあげる」
「頼むから、熱で寝込んでる時だけはやめてくれ」

 以前、ロイが風邪をひいて高熱を出した際、アンナが傍で子守唄を歌ったり本を朗読したりしたことがあった。だが、騒がしくてゆっくり休めなかったようで、三日後、熱が下がったロイに『看病はもういい』と断られている。

「でも、具合が悪い時は誰かが傍にいると安心するでしょう?」
「傍にいるだけなら。声掛けは禁止」
「はーい」

 今回もきっぱりと断られて少々不服のアンナは、唇を尖らせながら水やりを再開した。

「そういえば義兄にいさま。アイシャなんだけど、つかまり立ちができるようになったのよ」

 アイシャとは、昨年グレインとクラリッサの間に生まれた妹だ。
 もうじき一歳になるのだが、ロイはクラリッサがたまに離れに連れてくる時にしか会えないので、こうしてアンナが様子を伝えている。

「そうか。成長したんだな」
「アイシャに会いたい?」
「いや、俺にはアンナがいるから」

 おそらくは無意識だったのだろう。
 ぽつりと零したロイは、ハッと我に返り、耳まで赤くなった顔を隠すように背を向け葉集めに戻る。
 ロイが突如繰り出したデレ攻撃に、気づけば呼吸を忘れていたアンナは慌てて息を吸いこんだ。

(なっ、なに今の……いや、前よりも態度は柔らかいし、可愛がってもらっているかなって感じることはあるけど、こんな、彼氏みたいなこと不意打ちで言われたら意識飛ぶわ!)

 とはいえ、発言に深い意味はないだろう。アイシャを不幸にしたくないからなるべく会わない、だけどラッキー体質のアンナならいい、という意味で出た言葉だ。
 今のロイは、気軽にアンナに触れるほど気を許すようになり、アンナの前でだけは無理に赤瞳を隠すこともしなくなった。距離感がようやく兄妹のものになったのだ。
 そう、そもそも兄妹だ。深い意味などあるはずもない。
 けれど意識してしまうのは、アンナにとってロイは推しであると同時に、恋がれる相手でもあるからだ。転生前からその気持ちは変わらず……いや、むしろ共に過ごす時間が増えるたびに、想いは膨らむばかり。
 だが自分は義妹いもうとだ。義理とはいえ兄妹。だからこの想いは叶わない。実るはずもない。

(これ以上好きになりすぎないように注意しなくちゃ)

 ロイと出会えた日、義妹いもうととしてロイを幸せにすると心に誓った。
 四年かけて、ようやく兄妹らしい穏やかな関係を築けたのだ。
 まだ本邸には戻れておらず、グレインともほとんど顔を合わせないのは変わっていないが、第一目標の『孤独ではないと感じてもらう』は達成できたと言っていいだろう。
 となると、次のステップへと進む頃合いだ。

(第二目標は『忌み子不幸キャラからの脱却』ね)

 恐らくこれが一番難しい。だが、忌み子など迷信であり、ロイは誰かを不幸にする力など持っていないと、周りの人々はもちろん、何よりも本人に思ってもらうことが重要だ。
 自分が不幸キャラだと思い込んでいるうちは、周りも皆そう思って当然なのだから。
 傾けたじょうろが空になり、アンナはそっとロイを振り返る。

(だけど、難しくてもロイ様のためにやらないと)

 まずは、公式ではっきりと言及されていない忌み子の真偽について調べてみよう。
 もし迷信だという証拠が見つかれば、ロイも家族も納得がいくはずだ。

「よし、引き続き頑張るわ!」

 新しい目標を定め、えいえいおーと心中で掛け声を発し、じょうろを掲げるが――

「いや、今日はここまでにしてそろそろ戻った方がいい」

 手伝いのことだと思ったロイに制され辺りを見れば、陽が大分西に落ちつつある。
 空は間もなくオレンジ色に染まり始めるだろう。
 本音を言えばまだ本邸に戻りたくない。けれど、今日は早く帰ってくると朝食時にグレインが話していた。母にも早めに戻るように言われている……が。

「もうちょっと義兄にいさまと一緒にいたいのに」

 今日はおやつの時間までみっちり勉強していたので、ロイとはまだ小一時間ほどしか共に過ごせていない。
 我慢できずに本音を零すと、ロイは目元に控えめな笑みを浮かべた。

「また明日、な」

 ああ、いつから彼は、こんなに優しい表情を見せるようになったのか。

(ヒロインにも見せていたっけ)

 それは打ち解け始めたばかりの、しかしながら恋の始まりを予感させるものだった。けれど、アンナに対するそれは、義妹いもうと我儘わがままいつくしみなだめるためのもの。
 ツキツキと胸の奥が痛むが、この道を行くと決めたのは自分だ。
 最良でメリバエンドしかない推しをハッピーにみちびける、ロイ義妹いもうとルートを進んでやろうじゃないか。その道の先に、ロイが自分ではない誰かと恋に落ちるゴールがあるとしても。
 切ない想いにふたをして、深く息を吸い、肺を空気とやる気で満たす。

「また明日、義兄にいさま

 今日も明日も明後日も。
 アンナはロイの傍で、ロイの義妹いもうととして彼にありったけの愛をもって接し続けた――


 やがて季節はさらにめぐり、四年後。

「うう……疲れた……」

 十六歳になったアンナは、八年間変わることなく離れで暮らすロイのもとに通っている。
 しかし、第二目標を掲げた四年前と比べて格段と忙しくなり、以前のように昼間からロイと過ごせる日は少ない。
 それもこれも、社交界デビューに向けて本格的に教養を身につけるため、様々な専門教師が代わる代わる訪れるせいだ。

「このまま朝までここで寝ちゃいたい……」

 うめきつつリビングのソファに倒れ込んでいると、キッチンからロイがやってきて湯気の立つティーカップをローテーブルに置いた。

「いつも通り、甘めにしておいた」
「ありがとう、義兄にいさま

 最近お気に入りの紅茶の香りが鼻をくすぐると、ほんの少しだけ気分が上がる。

「随分ぐったりしてるな」

 向かいのソファに腰を下ろしたロイは、長い足を組み、読みかけの本を手に取った。
 実は、変わったのはアンナの忙しさだけではない。
 ロイとのこの距離感も、以前と変わっている。
 以前のロイなら、疲れているアンナの隣に座って頭を撫でていたわってくれたのに。

(ここ一年くらい、お泊まりしたいって言っても断られるしなぁ)

 前世では一人っ子だったのでわからないが、成長した兄妹の距離感は本来こんなものなのか。

「今日もダンスレッスンがなかなか終わらなくて。覚えが悪い、生徒の中で私が一番下手だって溜め息吐いて言われたわ」
「相変わらずはっきり言う教師だな」

 そう言って苦笑する推しは、今日もすこぶるかっこいい。


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