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1巻
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だって、ロイのいる世界に転生したのだから。
そして、陽菜乃にめちゃくちゃ伝えたい。
(私、ロイ様に会えるかも。いいえ、『かも』じゃなく、会ってみせるわ)
そのためにはまず説得だ。だが、グレインは簡単に首を縦に振らないだろう。
なぜならグレインは、ロイの存在を疎んでいるからだ。
関われば人を不幸にするといわれる特徴を持って生まれた、『忌み子』のロイを。
そんなロイを孤独から解放し、心を癒すのがゲームヒロインの役割なのだが――
(どうして義妹に転生? そこは普通ヒロインじゃないの? まあ、結ばれてもメリバエンドなんだけど。あ、だから義妹?)
異世界転生ものでは、ヒロインやヒーローの運命を変える目的のストーリーものが多い。
だが、杏奈の場合ラッキー体質が発動し、悲しいエンドにならない可能性を秘めている義妹に転生したのかもしれない。
まあ、転生といっても前世の記憶を思い出して、杏奈の性格が色濃く出ている……という方が正しいが。
と、そこまで考え至りハッとする。
「つまり、推しを幸せにしてあげることが、オタクの神から授かった私の使命なのでは?」
『君果て』では得られなかった「本当の幸せ」をロイに感じてもらう。
これこそが、杏奈がアンナに転生した理由。
「わかったわ、オタクの神様。私は今日からアンナとなって、ロイ様をハッピーエンドに導いてみせる!」
となれば、是が非でもロイに会わなければ。
父がダメなら、母に頼んでみるのはどうか。優しい母なら協力してくれるかもしれない。
それでもダメならこっそり会いに行ってしまおうと心に決め、杏奈ことアンナは高揚感を胸に再びベッドに寝転んだ。
――一夜明け、朝食の団らん後。
「え? ロイさんに会いたい?」
グレインが仕事に出かけた隙を見計らい、紅茶を嗜む母に耳打ちしたアンナはこくこくと頷いた。
早朝、朝靄の向こうにうっすらと見えた赤レンガの屋敷。ロイの住む離れで間違いはないだろうが、この目で確かめたいし、早く生の推しを拝みたい。
アンナは寝不足気味の充血した目で、祈るように母を見つめた。
「そうねぇ……私も挨拶くらいはしたいのだけれど……」
母は悩む口振りでカップをソーサーに置く。
(ロイ様について、母様はなんて説明されてるのかしら)
ロイが病弱というのは嘘だと知っているのだろうか。
自分はグレインから病気という体で説明されたので、ひとまずそれに合わせて話を進める。
「母様、実は私、ラッキー体質なの」
「まあ、そうなの? 今まで気づかなかったわ」
母はアンナの発言を本気にせず、まるで娘の空想話に付き合うようにふふふと笑った。
「なので、義兄様に会えたら、義兄様の病気を治せるかもしれないと思って」
陽菜乃が聞いたら確実に「いや、そうはならんだろ」という突っ込みが入りそうなくらいのことを言っている自覚はある。だが、子供が会いたい理由として挙げるぶんには許容範囲だろう。
優しい母なら「それはすごいわ」と話を合わせ、どうにか会える方向に話が転ぶかもしれないと予想して用意した作戦なのだが。
「そうね……ラッキー体質だというなら、もしかしたらロイさんを……」
意外にも母は真面目に受け取ったようで、考え込んでぶつぶつと声を零している。
そして、ひとつ頷くと明るい笑みを見せた。
「わかったわ。ご挨拶に行きましょう。ただしグレインには内緒よ?」
「ありがとう母様! 大好き!」
歓喜し母に抱き着いた時、後方で控えているすらりとした侍女が声を潜めて言う。
「奥様、ロイ様とお会いになるのはあまりお勧めできませんが……」
「忠告ありがとう、エルシー。責任は私が取るから、案内をお願いできる?」
母付きの侍女であるエルシーは、クレスウェル邸に長く勤めているベテランで、今年三十歳の母クラリッサより少し年上だ。
前で合わせていた手で、白いエプロンをきゅっと握るエルシー。
その表情は戸惑いに揺れており、群青色のワンピースと相まって、心なしか顔色も悪く見える。
(ロイ様に関わったことで、不幸が降りかかりはしないかって怖がってるのね)
母もエルシーの様子に気づいたのだろう。すっと立ち上がると、アンナの肩にそっと触れた。
「私ったら考えが足りなかったわ。内緒にするならふたりでこっそり行かないとね」
上品に色付く唇の前に人差し指を立てて、母が微笑む。
エルシーを気遣った母に、アンナは心を打たれた。女神のような人とは、まさにクラリッサのような者を言うのだと。
「というわけでエルシー、今の話は聞かなかったことにしてくれる? グレインには折を見て私から話すから」
「しょ、承知しました。もし誰かにおふたりの行方を尋ねられましたら、庭園のお散歩に出たと伝えますので」
「ありがとう、助かるわ。アン、それじゃあ行きましょうか」
「はい、母様」
ショールを羽織る母に、アンナは心から感謝しつつ頷いた。
屋敷を出ると、柔らかく吹く秋風がアンナの髪を撫でて揺らす。
(いよいよロイ様に会えるのね! ううっ……うまく挨拶できるかしら)
悦びと緊張に躍る胸を両手でそっと押さえ、アンナは深呼吸を繰り返す。
ちなみに、『君果て』のロイルートでは、ヒロインとロイの出会いイベントは街中で起きる。
不注意で怪我を負ったヒロインの傍らに、フードを目深にかぶった青年が無言でしゃがみ込んで手当をしてくれるのだが、その青年がロイだ。
作中の終盤、ロイはヒロインとの出会いを奇跡だと言っていた。
運命に導かれ出会ったのではなく、様々な偶然が重なって起きた奇跡により出会ったのだと。
対して、義妹としての挨拶から始まるアンナとロイの出会いはごくごく平凡だ。
しかし『杏奈』にとっては、ラッキー体質がフルパワーを発揮してもたらされた奇跡。
――この奇跡を無駄にはしない。
強い決意を胸に、花の香りに包まれた庭園を進む。
そうして辿り着いた一軒家を見上げたアンナは、興奮のあまり目が零れんばかりに見開いた。
(これよ! 赤レンガの外壁とシックな灰色の屋根! 二階のあのアーチ状の窓から空を眺めて、ヒロインに想いを馳せるロイ様のスチルが最高に切なかったの!)
幸せになってと願わずにはいられないアンニュイなロイの表情を思い出しながら、重厚な玄関扉の前に母と並んで立つ。
母は鉄製の黒いドアノッカーを持って叩くが、待てども人が出てくる気配はない。
「留守かしらね?」
母が首を傾げる横で、アンナは扉を見つめたまま思考を巡らす。
普段離れで過ごしているロイは、長らく研究している薬に必要な物資調達のため、月に一度ほどこっそりと街に出ている。それ以外では、ヒロインが約束して呼び出さない限り、離れから出ることはなかった。
運悪く、そのたまにしかない外出のタイミングに来てしまったのか。
(もしかして、転生のために今生のラッキー運まで使い切ってしまって会えない、とか?)
運に頼って生きてきたわけではないが、最推しロイのためにはラッキー体質でありたいと願ったその時――
(ん……? 水音?)
建物の中ではなく、別の方向から水を弾くような音が聞こえた。アンナはなんとなくそちらに足を向け、母がもう一度ドアをノックする音を背に、建物を回り込んで草木の生い茂る庭に出る。
「ふぁっ⁉」
その瞬間、顔に大量の水がかかり、咄嗟に目を瞑ったアンナはへんてこな声を上げた。
「こ、ども? なんで、ここに……」
ふと、動揺を滲ませる男性の声が聞こえた。
それは、どこか陰のある、けれどほんのりと甘さを持つ耳心地のよい声で。
(ちょ、ちょっと待って、この声って)
水に負けて目を閉じている場合ではない。一刻も早く声の主を確認せねば。
濡れた顔を急ぎ手で拭って目を開いたアンナは、半ば予想できていたにもかかわらず襲い来る衝撃に呼吸を止めた。
色とりどりの花々を背景にしても、決して劣らない美しさを持つその人は。
「大丈夫、か……?」
ばつが悪そうにポンプ式散水機のホースを芝生に置いた彼は。
(つ、つ、つつつつつついに!)
前世の杏奈が運を使い果たしてでも会いたいと願った、ロイ・クレスウェルだ。
(本物の! 生の! ロイ様……!)
会いたくてたまらなかった推しを前に、歓喜に震えるアンナは叫びそうになるのを堪えて、ロイの問いにこくこくと頷いた。
(ああっ、せっかく転生したのに尊死しそう! でも今うっかり死んだら推しを幸せにできない。……ロイ様のために生きるのよ、私)
それにしても、ロイが離れにいてくれた上、水までかけてもらえるとは。出会いイベントとしてはなかなかのインパクトだ。
てっきり運を使い果たしたかと心配したが、自分は今生でもラッキー体質なのかもしれない。いや、ラッキー体質だと信じよう。そして自分は必ずロイを幸せにするのだ。
(というかロイ様若くない⁉)
彫像のように目鼻立ちの整った顔はゲームよりもどこかあどけなく、しかしながら、左目を隠して流れる前髪と、襟足の長い濡羽色の髪は変わらない。
隠れていないオリーブ色の瞳はいまだ戸惑いに揺れ、けれど居心地悪そうに時々目を逸らすところを見ると、人と接するのが苦手な性格はすでに出来上がっているようだ。
だが、ゲームよりも前の時間に転生しているのならば、ロイがゲームヒロインと出会うまでまだ余裕がある。その日がやってくる前に彼を幸せにし、メリバエンドを迎えないように導かねば。
(それにしても、若いロイ様も素敵。あらゆる角度からスクショしたい)
しかし、目の前にいるロイはゲーム機越しではなくリアル。
アンナは、心のシャッターを切りながら、目の前の推しを食い入るように見つめた。
庭で作業中だからか、白いボタンダウンシャツと黒のトラウザーズといったラフな装いだが、長身かつモデルのような体格のおかげで、どこか上品に見える。
「あの! ロイ様は今おいくつですか⁉」
「は……? 十八、だが」
(十八歳! つまり、ゲームより十年前のロイ様!)
「というか、誰だ……?」
訝しげに呟いたロイの声に、アンナはハッと我に返る。
この離れには使用人以外は滅多に人が近づかないと、ゲームでロイが話していた。そんな中、面識のない子供が急に訪れロイの名を口にし、あまつさえ年を尋ねるなど奇妙に感じるのは当然だ。
十代のロイを前に我を忘れ、自己紹介もせずに突っ走ってしまったことを反省し、アンナは背筋を伸ばして居住まいを正す。
「ご、ごめんなさい、わた、し、わ……わ……ぁっくしゅん!」
「俺のせいだな……。これを」
白いガーデンテーブルに畳んで置かれているリネンタオルを手渡すと、ロイはすぐ距離を取った。
その行動は恐らく、アンナの身を気遣ってのもの。近づきすぎて、不幸にしないように、と。
(私なら平気なのに)
自分はラッキー体質だから気にしないでいいと伝えたいが、いきなりそんな話をしても警戒されることうけあいだ。名前の件も不審がられているし、今はあまり攻めないでおこう。
「ありがとうございます」
鼻を啜りつつさっそくタオルで顔を拭くと、花のような香りが微かに鼻腔をくすぐった。
(これはもしかしてロイ様の香りでは? 公式さん、今すぐこれを香水として商品化してください! 毎日吹きかけて、ロイ様にバックハグされてる妄想しながら暮らします)
前世で生活している感覚に戻りつつ匂いを嗅いでいると、背後からさくさくと芝を踏む足音が聞こえて振り返る。
「あ、母様」
「アン、こんなところにいたのね。勝手に離れるなんて」
安堵の息を吐く母に、アンナは肩をすぼめて眉尻を下げた。
「ごめんなさい」
「敷地内には林もあるのだからなるべく……あら?」
母は、アンナの向かいに立つロイに気づいて首を傾げる。
「もしかして、ロイさん?」
ロイが小さく頷くのを見て、母はパッと花開くような笑みを浮かべた。
「やっぱり! 会えてよかったわ」
嬉しそうに近づくも、ロイは左腕を右手で押さえ警戒するように半歩下がる。
「私はクラリッサです。この子は娘のアンナよ」
「ああ……父の」
挨拶には呼ばれなくとも、さすがに再婚相手の情報は入手していたようだ。
相手が誰であるかを理解した途端、ロイはふたりから視線を外し、芝生の上に置いたホースを拾って水やりを再開した。
「急に訪ねてごめんなさい。アンがロイさんに会いたがっていて、私もあなたにご挨拶したかったから訪問させてもらったの」
「ここへ来ることを父が許したんですか?」
「いいえ、内緒で」
「それなら今すぐ戻ってください。俺と関われば父が機嫌を損ねるだろうから」
素っ気ない態度の裏に隠れる彼の孤独、寂しさ、優しさ。
ゲームでもロイは何度もヒロインを突き放していたが、それも全てヒロインを不幸にしたくないからだ。
愛する人を守るために孤独を選ぶロイの心情を知っているアンナは、切なさに胸を痛めながらも、きつい言葉を浴びせられた母を心配して見上げる。
しかし、特に気にしていないのか、母は双眸を優しく細め、草花に水やりを続けるロイを見守っていた。
(本当に女神のような人だな……)
懐の深い母を尊敬の眼差しで見つめていると、ロイに温かく注がれていた瞳がアンナを捉えた。
「アン、ちゃんとご挨拶はしたの?」
「ま、まだなの。してきてもいい?」
「ええ、あなたが望むようになさい」
頷いた母の華奢な手が、勇気を授けるようにそっとアンナの背を撫でる。
(よしっ)
冷たくあしらわれる可能性は高いが、ロイの幸せのためにも負けてはいられない。
アンナは深く息を吸い、短い芝の上をずんずん歩く。
そうしてロイの横に立つと、くんと顔を上げ、背の高い彼を真っ直ぐに見つめた。
「は、初めまして義兄様、私はアンナです。お会いできて尊死しそうなレベルで嬉しいです」
「……とうとし?」
ロイが不可解な言葉に反応し、草花に向けていた視線をアンナに投げた。
(ああっ、しまった! またしてもいつもの癖で!)
ロイのスチル、ロイの立ち絵、ロイのセリフ。
『君果て』をプレイ中、ロイが魅せるひとつひとつに胸を震わせていた杏奈の言葉がうっかり出てしまった。
焦るアンナだったが、対するロイは僅かな笑みも浮かべず、感情を捨てたかのような冷めた瞳でアンナを見下ろしている。
尊死についてフォローを入れるか、スルーすべきか。
逡巡し口を開きかけた刹那、突如強い風が吹きつけた。
風は木々の葉を激しく揺らし、ロイの長い前髪を靡かせ、彼がひた隠している秘密を暴いてしまう。関わる者を不幸に陥れるといわれる忌み子の証、ルビーのような赤い瞳を。
(ああ……この瞳……!)
アンナは長い睫毛が縁どるそれに釘付けになる。
「……くそっ」
忌々しげに声を漏らしたロイが慌てて赤目を手で隠した直後、アンナはイベントスチルで初めてロイの瞳を見た際に思ったことを自然と口にした。
「すごく綺麗。まるで宝石みたい」
――ピタリ。ロイの動きが止まる。
瞬きさえ忘れたように、ロイは、手で片目を覆ったままじっとアンナを見つめた。
「ほう、せき?」
かすれた声にアンナは微笑んで頷く。
「そう、キラキラ輝くルビーみたい。あ、義兄様知ってますか? ルビーには『勝利』と『成功』へ導く力があるって」
前世、ロイの瞳と同じ色のアクセサリーが欲しいと思い立ち、その時に調べた知識を披露する。
するとロイは言葉ではなく、頭を振って知らないと告げた。
「そうなのね! じゃあどうか忘れないで、義兄様。その瞳は、いつか義兄様を勝利と成功に導いてくれる宝石だって」
そう心にとどめ、皆が噂する言い伝えに負けないで。
胸の内で続けると、ロイの手がゆっくりと外されていく。
「君には、そんな風に見えるのか」
ぽつりと言って戸惑いながらも泣きそうに微笑んだロイに、心臓がキュンどころかギュンとなる。
(ああっ、守りたいその儚げな微笑み!)
絶対にロイを幸せにしたい。強く思い、アンナは微笑み返す。
「アン、そろそろ戻りましょうか」
離れた場所で見守っていた母に声をかけられ、アンナは唇を尖らせた。
「ええっ⁉ もう少し義兄様とお話ししたい」
「ダメよ。着替えないと」
母の言葉にロイから微笑が消える。
恐らく、自分のせいで……とまた思ったのだろう。
だが、多くの乙女ゲームにおいて、出会いイベントのアクシデントはハッピーエンドへの始まり。
とはいえ、ここで体調を崩せばロイは気に病み、アンナとの関わりを避けるかもしれない。
そうなっては困るので、ここは素直に母に従う。
「はーい。義兄様、また明日来ますね!」
アンナの予告に、ロイは驚いて目を見開いた。
「あ、明日?」
「はい! ではまた明日~!」
有無を言わさず手を振って、アンナは母と共に離れの敷地を出た。
来た道を戻りながら母が柔らかく眦を下げる。
「よかったわね、ロイさんに会えて」
「うん、ありがとう母様。明日もこっそり来ていい? このタオルを返したいの」
「ふふっ、訪ねる理由がなくても止めたりしないわ。あなたの力でロイさんを癒してあげて」
「もちろん! 頑張るわ!」
やる気を胸に、満面の笑みを浮かべる。
こうして、母の協力を得られたアンナは、第二の人生の使命である『ロイの幸せ』のため、本格的に動き始めたのだった。
第二章 兄妹として
「本当に来たのか……」
記念すべき初顔合わせの翌日。
本日も庭で草花の世話に勤しむロイが、ホースを手に呆れ顔でアンナを見下ろした。
「約束したでしょう?」
「君が勝手にな」
子供相手でも塩対応するロイに、アンナは『ああっ、これぞロイ様』と内心で喜びながら、ミントグリーンに染められたエンパイアドレスの裾を揺らして歩く。
「借りた物はちゃんと返さないと。はい、義兄様、タオルありがとう」
綺麗に洗って乾かしたタオルを差し出すと、ロイは少々気怠げに受け取った。
「わざわざ君が返しに来なくても、誰かに預ければよかっただろ」
「それだと義兄様に会えないもの。あとこれ、母様が義兄様と一緒に食べてって」
アンナはそう言って手に持つバスケットの蓋を開け、中に並んだスコーンを見せる。
すると、ロイは訝しげに顎に手を当てて考え込み始めた。
「あの人は俺の瞳について聞かされてないのか? そうじゃなきゃ、娘を俺のところに寄越さないはずだ」
ぶつぶつと独り言ちているが、アンナは聞こえない振りをして、バスケットをガーデンテーブルに置く。
母がロイについてグレインからどう聞いているか。それはアンナもよくわかっていない。
だが、知っていて協力してくれているのならありがたいし、知らずに病気だと思っているのならそれでもいい。
アンナにとって重要なのは、ロイに会い、ロイの孤独感を払拭することだ。
(そう、まずは幼い頃からひとりで過ごしているロイ様に、自分はひとりじゃないと感じてもらうのよ)
そのために、今後はできる限り共に過ごすつもりでいるのだが、昨日に引き続き、ロイはアンナを歓迎していないようだ。
「悪いが、君はこのまま本邸に戻ってくれ」
素っ気ない口振りで背を向けられるも、そう言われるのを想定済みのアンナは動じない。
「父様に叱られてしまうから?」
「そうだ。目を三角にしながら、俺に近づくなときつく言われるぞ」
散水機のポンプを踏みながら、感情の見えない声で述べたロイ。自虐のような言葉を淡々と口にするその後ろ姿に、アンナの胸が切なく締め付けられる。
抱き締めたい衝動に駆られるも、ぐっと堪えて笑みを浮かべた。
「大丈夫よ義兄様、バレたりしないから」
母とエルシーが協力してくれているし、何よりオタクの神様とラッキー体質が味方しているのだ。
慎重を期していれば、グレインの耳に入ることはそうそうないはず……というのは過信しすぎかもしれないが、万が一バレたとしても、どうにか説得するつもりでいる。
いや、説得できなくても、会うことを止めるつもりはない。
どんな障害も乗り越えて、必ずロイを幸せにしてみせる。
むんっ、と小さく拳を握るアンナを視界の隅に捉えたロイが鼻で笑った。
「なんでそんな自信満々に言い切れるんだ」
「それはね義兄様、私がラッキー体質だからよ」
「ラ、ラッキー体質?」
アンナの答えに意表を突かれたのか、ロイは思わずといった様子で振り返る。
「そう! だから心配しないで」
胸元に手を当て、堂々と微笑むアンナ。対してロイは、翳る瞳を隠すように瞼を伏せた。
「……なら、俺は不幸体質だ。それも、人を不幸にする。この赤い左目がその証拠だ。だから君は俺と一緒にいない方がいい。不幸になりたくないだろ?」
前髪の合間から覗く赤瞳でアンナを見据え、脅すような口振りで言い放つ。
(ロイ様……)
人を遠ざけ、孤独を選ぶロイのオッドアイを、アンナは真っ直ぐ見つめ返した。
赤い瞳は悪魔の生まれ変わり。
最初にそんな噂を流したのは、一体どこの誰だろうか。
公式設定では、赤瞳を持つ者を忌み子として差別する風習は、王国内のみに見られるものだと書かれていた。
現代でも赤い瞳は珍しく、アルビノの人が持つ瞳の色とされている。これはロイが推しになってから調べたものだが、瞳が赤いのは、虹彩の色素の欠如によって血の色が見えているのが要因らしい。
『君果て』の世界においてもそのような理由なのではないかと推測するが、王国内において稀に生まれる赤瞳の者は片目だけだ。両目が赤い瞳の者は生まれない。
(忌み子の不吉さを表現したのかもしれないけど、ロイ様の気持ちを考えると胸が痛い……)
ゲームでは、赤瞳の者が本当に不幸を呼ぶのかについては、はっきりと言及されていない。
恐らく、ロイルート中盤でゲームヒロインが語る『不幸かどうかは私が決めます』の言葉が答えなのだが、ロイは過去の体験によって自分が不吉な存在であると思い込んでいる。
その原因はロイの母、カトリーヌの他界だ。
カトリーヌは、ロイが幼い頃、生命力を養分とし、発症者オリジナルの華が身体中に生えて咲く奇病『華咲病』を患いこの世を去った。
しかも、ロイの誕生日に。
最愛の妻を亡くして嘆くグレインに、ロイは『カトリーヌの死はお前のせいだ』と責められ、この離れに遠ざけられ……
以来ロイは、使用人に必要最低限の世話をされながら、孤独で寂しい日々を過ごしてきた。
涙しても慰めてくれる者はなく、喜びを分かち合う者もいない。
カトリーヌの命日のため、誕生日も祝われない。
そんな毎日の中でいつしかロイは、母を死に追いやってしまった自分を嫌悪し、生まれたことを否定するようになった。
けれども心の奥底では、誰かに愛されたいと渇望していて。
そして、陽菜乃にめちゃくちゃ伝えたい。
(私、ロイ様に会えるかも。いいえ、『かも』じゃなく、会ってみせるわ)
そのためにはまず説得だ。だが、グレインは簡単に首を縦に振らないだろう。
なぜならグレインは、ロイの存在を疎んでいるからだ。
関われば人を不幸にするといわれる特徴を持って生まれた、『忌み子』のロイを。
そんなロイを孤独から解放し、心を癒すのがゲームヒロインの役割なのだが――
(どうして義妹に転生? そこは普通ヒロインじゃないの? まあ、結ばれてもメリバエンドなんだけど。あ、だから義妹?)
異世界転生ものでは、ヒロインやヒーローの運命を変える目的のストーリーものが多い。
だが、杏奈の場合ラッキー体質が発動し、悲しいエンドにならない可能性を秘めている義妹に転生したのかもしれない。
まあ、転生といっても前世の記憶を思い出して、杏奈の性格が色濃く出ている……という方が正しいが。
と、そこまで考え至りハッとする。
「つまり、推しを幸せにしてあげることが、オタクの神から授かった私の使命なのでは?」
『君果て』では得られなかった「本当の幸せ」をロイに感じてもらう。
これこそが、杏奈がアンナに転生した理由。
「わかったわ、オタクの神様。私は今日からアンナとなって、ロイ様をハッピーエンドに導いてみせる!」
となれば、是が非でもロイに会わなければ。
父がダメなら、母に頼んでみるのはどうか。優しい母なら協力してくれるかもしれない。
それでもダメならこっそり会いに行ってしまおうと心に決め、杏奈ことアンナは高揚感を胸に再びベッドに寝転んだ。
――一夜明け、朝食の団らん後。
「え? ロイさんに会いたい?」
グレインが仕事に出かけた隙を見計らい、紅茶を嗜む母に耳打ちしたアンナはこくこくと頷いた。
早朝、朝靄の向こうにうっすらと見えた赤レンガの屋敷。ロイの住む離れで間違いはないだろうが、この目で確かめたいし、早く生の推しを拝みたい。
アンナは寝不足気味の充血した目で、祈るように母を見つめた。
「そうねぇ……私も挨拶くらいはしたいのだけれど……」
母は悩む口振りでカップをソーサーに置く。
(ロイ様について、母様はなんて説明されてるのかしら)
ロイが病弱というのは嘘だと知っているのだろうか。
自分はグレインから病気という体で説明されたので、ひとまずそれに合わせて話を進める。
「母様、実は私、ラッキー体質なの」
「まあ、そうなの? 今まで気づかなかったわ」
母はアンナの発言を本気にせず、まるで娘の空想話に付き合うようにふふふと笑った。
「なので、義兄様に会えたら、義兄様の病気を治せるかもしれないと思って」
陽菜乃が聞いたら確実に「いや、そうはならんだろ」という突っ込みが入りそうなくらいのことを言っている自覚はある。だが、子供が会いたい理由として挙げるぶんには許容範囲だろう。
優しい母なら「それはすごいわ」と話を合わせ、どうにか会える方向に話が転ぶかもしれないと予想して用意した作戦なのだが。
「そうね……ラッキー体質だというなら、もしかしたらロイさんを……」
意外にも母は真面目に受け取ったようで、考え込んでぶつぶつと声を零している。
そして、ひとつ頷くと明るい笑みを見せた。
「わかったわ。ご挨拶に行きましょう。ただしグレインには内緒よ?」
「ありがとう母様! 大好き!」
歓喜し母に抱き着いた時、後方で控えているすらりとした侍女が声を潜めて言う。
「奥様、ロイ様とお会いになるのはあまりお勧めできませんが……」
「忠告ありがとう、エルシー。責任は私が取るから、案内をお願いできる?」
母付きの侍女であるエルシーは、クレスウェル邸に長く勤めているベテランで、今年三十歳の母クラリッサより少し年上だ。
前で合わせていた手で、白いエプロンをきゅっと握るエルシー。
その表情は戸惑いに揺れており、群青色のワンピースと相まって、心なしか顔色も悪く見える。
(ロイ様に関わったことで、不幸が降りかかりはしないかって怖がってるのね)
母もエルシーの様子に気づいたのだろう。すっと立ち上がると、アンナの肩にそっと触れた。
「私ったら考えが足りなかったわ。内緒にするならふたりでこっそり行かないとね」
上品に色付く唇の前に人差し指を立てて、母が微笑む。
エルシーを気遣った母に、アンナは心を打たれた。女神のような人とは、まさにクラリッサのような者を言うのだと。
「というわけでエルシー、今の話は聞かなかったことにしてくれる? グレインには折を見て私から話すから」
「しょ、承知しました。もし誰かにおふたりの行方を尋ねられましたら、庭園のお散歩に出たと伝えますので」
「ありがとう、助かるわ。アン、それじゃあ行きましょうか」
「はい、母様」
ショールを羽織る母に、アンナは心から感謝しつつ頷いた。
屋敷を出ると、柔らかく吹く秋風がアンナの髪を撫でて揺らす。
(いよいよロイ様に会えるのね! ううっ……うまく挨拶できるかしら)
悦びと緊張に躍る胸を両手でそっと押さえ、アンナは深呼吸を繰り返す。
ちなみに、『君果て』のロイルートでは、ヒロインとロイの出会いイベントは街中で起きる。
不注意で怪我を負ったヒロインの傍らに、フードを目深にかぶった青年が無言でしゃがみ込んで手当をしてくれるのだが、その青年がロイだ。
作中の終盤、ロイはヒロインとの出会いを奇跡だと言っていた。
運命に導かれ出会ったのではなく、様々な偶然が重なって起きた奇跡により出会ったのだと。
対して、義妹としての挨拶から始まるアンナとロイの出会いはごくごく平凡だ。
しかし『杏奈』にとっては、ラッキー体質がフルパワーを発揮してもたらされた奇跡。
――この奇跡を無駄にはしない。
強い決意を胸に、花の香りに包まれた庭園を進む。
そうして辿り着いた一軒家を見上げたアンナは、興奮のあまり目が零れんばかりに見開いた。
(これよ! 赤レンガの外壁とシックな灰色の屋根! 二階のあのアーチ状の窓から空を眺めて、ヒロインに想いを馳せるロイ様のスチルが最高に切なかったの!)
幸せになってと願わずにはいられないアンニュイなロイの表情を思い出しながら、重厚な玄関扉の前に母と並んで立つ。
母は鉄製の黒いドアノッカーを持って叩くが、待てども人が出てくる気配はない。
「留守かしらね?」
母が首を傾げる横で、アンナは扉を見つめたまま思考を巡らす。
普段離れで過ごしているロイは、長らく研究している薬に必要な物資調達のため、月に一度ほどこっそりと街に出ている。それ以外では、ヒロインが約束して呼び出さない限り、離れから出ることはなかった。
運悪く、そのたまにしかない外出のタイミングに来てしまったのか。
(もしかして、転生のために今生のラッキー運まで使い切ってしまって会えない、とか?)
運に頼って生きてきたわけではないが、最推しロイのためにはラッキー体質でありたいと願ったその時――
(ん……? 水音?)
建物の中ではなく、別の方向から水を弾くような音が聞こえた。アンナはなんとなくそちらに足を向け、母がもう一度ドアをノックする音を背に、建物を回り込んで草木の生い茂る庭に出る。
「ふぁっ⁉」
その瞬間、顔に大量の水がかかり、咄嗟に目を瞑ったアンナはへんてこな声を上げた。
「こ、ども? なんで、ここに……」
ふと、動揺を滲ませる男性の声が聞こえた。
それは、どこか陰のある、けれどほんのりと甘さを持つ耳心地のよい声で。
(ちょ、ちょっと待って、この声って)
水に負けて目を閉じている場合ではない。一刻も早く声の主を確認せねば。
濡れた顔を急ぎ手で拭って目を開いたアンナは、半ば予想できていたにもかかわらず襲い来る衝撃に呼吸を止めた。
色とりどりの花々を背景にしても、決して劣らない美しさを持つその人は。
「大丈夫、か……?」
ばつが悪そうにポンプ式散水機のホースを芝生に置いた彼は。
(つ、つ、つつつつつついに!)
前世の杏奈が運を使い果たしてでも会いたいと願った、ロイ・クレスウェルだ。
(本物の! 生の! ロイ様……!)
会いたくてたまらなかった推しを前に、歓喜に震えるアンナは叫びそうになるのを堪えて、ロイの問いにこくこくと頷いた。
(ああっ、せっかく転生したのに尊死しそう! でも今うっかり死んだら推しを幸せにできない。……ロイ様のために生きるのよ、私)
それにしても、ロイが離れにいてくれた上、水までかけてもらえるとは。出会いイベントとしてはなかなかのインパクトだ。
てっきり運を使い果たしたかと心配したが、自分は今生でもラッキー体質なのかもしれない。いや、ラッキー体質だと信じよう。そして自分は必ずロイを幸せにするのだ。
(というかロイ様若くない⁉)
彫像のように目鼻立ちの整った顔はゲームよりもどこかあどけなく、しかしながら、左目を隠して流れる前髪と、襟足の長い濡羽色の髪は変わらない。
隠れていないオリーブ色の瞳はいまだ戸惑いに揺れ、けれど居心地悪そうに時々目を逸らすところを見ると、人と接するのが苦手な性格はすでに出来上がっているようだ。
だが、ゲームよりも前の時間に転生しているのならば、ロイがゲームヒロインと出会うまでまだ余裕がある。その日がやってくる前に彼を幸せにし、メリバエンドを迎えないように導かねば。
(それにしても、若いロイ様も素敵。あらゆる角度からスクショしたい)
しかし、目の前にいるロイはゲーム機越しではなくリアル。
アンナは、心のシャッターを切りながら、目の前の推しを食い入るように見つめた。
庭で作業中だからか、白いボタンダウンシャツと黒のトラウザーズといったラフな装いだが、長身かつモデルのような体格のおかげで、どこか上品に見える。
「あの! ロイ様は今おいくつですか⁉」
「は……? 十八、だが」
(十八歳! つまり、ゲームより十年前のロイ様!)
「というか、誰だ……?」
訝しげに呟いたロイの声に、アンナはハッと我に返る。
この離れには使用人以外は滅多に人が近づかないと、ゲームでロイが話していた。そんな中、面識のない子供が急に訪れロイの名を口にし、あまつさえ年を尋ねるなど奇妙に感じるのは当然だ。
十代のロイを前に我を忘れ、自己紹介もせずに突っ走ってしまったことを反省し、アンナは背筋を伸ばして居住まいを正す。
「ご、ごめんなさい、わた、し、わ……わ……ぁっくしゅん!」
「俺のせいだな……。これを」
白いガーデンテーブルに畳んで置かれているリネンタオルを手渡すと、ロイはすぐ距離を取った。
その行動は恐らく、アンナの身を気遣ってのもの。近づきすぎて、不幸にしないように、と。
(私なら平気なのに)
自分はラッキー体質だから気にしないでいいと伝えたいが、いきなりそんな話をしても警戒されることうけあいだ。名前の件も不審がられているし、今はあまり攻めないでおこう。
「ありがとうございます」
鼻を啜りつつさっそくタオルで顔を拭くと、花のような香りが微かに鼻腔をくすぐった。
(これはもしかしてロイ様の香りでは? 公式さん、今すぐこれを香水として商品化してください! 毎日吹きかけて、ロイ様にバックハグされてる妄想しながら暮らします)
前世で生活している感覚に戻りつつ匂いを嗅いでいると、背後からさくさくと芝を踏む足音が聞こえて振り返る。
「あ、母様」
「アン、こんなところにいたのね。勝手に離れるなんて」
安堵の息を吐く母に、アンナは肩をすぼめて眉尻を下げた。
「ごめんなさい」
「敷地内には林もあるのだからなるべく……あら?」
母は、アンナの向かいに立つロイに気づいて首を傾げる。
「もしかして、ロイさん?」
ロイが小さく頷くのを見て、母はパッと花開くような笑みを浮かべた。
「やっぱり! 会えてよかったわ」
嬉しそうに近づくも、ロイは左腕を右手で押さえ警戒するように半歩下がる。
「私はクラリッサです。この子は娘のアンナよ」
「ああ……父の」
挨拶には呼ばれなくとも、さすがに再婚相手の情報は入手していたようだ。
相手が誰であるかを理解した途端、ロイはふたりから視線を外し、芝生の上に置いたホースを拾って水やりを再開した。
「急に訪ねてごめんなさい。アンがロイさんに会いたがっていて、私もあなたにご挨拶したかったから訪問させてもらったの」
「ここへ来ることを父が許したんですか?」
「いいえ、内緒で」
「それなら今すぐ戻ってください。俺と関われば父が機嫌を損ねるだろうから」
素っ気ない態度の裏に隠れる彼の孤独、寂しさ、優しさ。
ゲームでもロイは何度もヒロインを突き放していたが、それも全てヒロインを不幸にしたくないからだ。
愛する人を守るために孤独を選ぶロイの心情を知っているアンナは、切なさに胸を痛めながらも、きつい言葉を浴びせられた母を心配して見上げる。
しかし、特に気にしていないのか、母は双眸を優しく細め、草花に水やりを続けるロイを見守っていた。
(本当に女神のような人だな……)
懐の深い母を尊敬の眼差しで見つめていると、ロイに温かく注がれていた瞳がアンナを捉えた。
「アン、ちゃんとご挨拶はしたの?」
「ま、まだなの。してきてもいい?」
「ええ、あなたが望むようになさい」
頷いた母の華奢な手が、勇気を授けるようにそっとアンナの背を撫でる。
(よしっ)
冷たくあしらわれる可能性は高いが、ロイの幸せのためにも負けてはいられない。
アンナは深く息を吸い、短い芝の上をずんずん歩く。
そうしてロイの横に立つと、くんと顔を上げ、背の高い彼を真っ直ぐに見つめた。
「は、初めまして義兄様、私はアンナです。お会いできて尊死しそうなレベルで嬉しいです」
「……とうとし?」
ロイが不可解な言葉に反応し、草花に向けていた視線をアンナに投げた。
(ああっ、しまった! またしてもいつもの癖で!)
ロイのスチル、ロイの立ち絵、ロイのセリフ。
『君果て』をプレイ中、ロイが魅せるひとつひとつに胸を震わせていた杏奈の言葉がうっかり出てしまった。
焦るアンナだったが、対するロイは僅かな笑みも浮かべず、感情を捨てたかのような冷めた瞳でアンナを見下ろしている。
尊死についてフォローを入れるか、スルーすべきか。
逡巡し口を開きかけた刹那、突如強い風が吹きつけた。
風は木々の葉を激しく揺らし、ロイの長い前髪を靡かせ、彼がひた隠している秘密を暴いてしまう。関わる者を不幸に陥れるといわれる忌み子の証、ルビーのような赤い瞳を。
(ああ……この瞳……!)
アンナは長い睫毛が縁どるそれに釘付けになる。
「……くそっ」
忌々しげに声を漏らしたロイが慌てて赤目を手で隠した直後、アンナはイベントスチルで初めてロイの瞳を見た際に思ったことを自然と口にした。
「すごく綺麗。まるで宝石みたい」
――ピタリ。ロイの動きが止まる。
瞬きさえ忘れたように、ロイは、手で片目を覆ったままじっとアンナを見つめた。
「ほう、せき?」
かすれた声にアンナは微笑んで頷く。
「そう、キラキラ輝くルビーみたい。あ、義兄様知ってますか? ルビーには『勝利』と『成功』へ導く力があるって」
前世、ロイの瞳と同じ色のアクセサリーが欲しいと思い立ち、その時に調べた知識を披露する。
するとロイは言葉ではなく、頭を振って知らないと告げた。
「そうなのね! じゃあどうか忘れないで、義兄様。その瞳は、いつか義兄様を勝利と成功に導いてくれる宝石だって」
そう心にとどめ、皆が噂する言い伝えに負けないで。
胸の内で続けると、ロイの手がゆっくりと外されていく。
「君には、そんな風に見えるのか」
ぽつりと言って戸惑いながらも泣きそうに微笑んだロイに、心臓がキュンどころかギュンとなる。
(ああっ、守りたいその儚げな微笑み!)
絶対にロイを幸せにしたい。強く思い、アンナは微笑み返す。
「アン、そろそろ戻りましょうか」
離れた場所で見守っていた母に声をかけられ、アンナは唇を尖らせた。
「ええっ⁉ もう少し義兄様とお話ししたい」
「ダメよ。着替えないと」
母の言葉にロイから微笑が消える。
恐らく、自分のせいで……とまた思ったのだろう。
だが、多くの乙女ゲームにおいて、出会いイベントのアクシデントはハッピーエンドへの始まり。
とはいえ、ここで体調を崩せばロイは気に病み、アンナとの関わりを避けるかもしれない。
そうなっては困るので、ここは素直に母に従う。
「はーい。義兄様、また明日来ますね!」
アンナの予告に、ロイは驚いて目を見開いた。
「あ、明日?」
「はい! ではまた明日~!」
有無を言わさず手を振って、アンナは母と共に離れの敷地を出た。
来た道を戻りながら母が柔らかく眦を下げる。
「よかったわね、ロイさんに会えて」
「うん、ありがとう母様。明日もこっそり来ていい? このタオルを返したいの」
「ふふっ、訪ねる理由がなくても止めたりしないわ。あなたの力でロイさんを癒してあげて」
「もちろん! 頑張るわ!」
やる気を胸に、満面の笑みを浮かべる。
こうして、母の協力を得られたアンナは、第二の人生の使命である『ロイの幸せ』のため、本格的に動き始めたのだった。
第二章 兄妹として
「本当に来たのか……」
記念すべき初顔合わせの翌日。
本日も庭で草花の世話に勤しむロイが、ホースを手に呆れ顔でアンナを見下ろした。
「約束したでしょう?」
「君が勝手にな」
子供相手でも塩対応するロイに、アンナは『ああっ、これぞロイ様』と内心で喜びながら、ミントグリーンに染められたエンパイアドレスの裾を揺らして歩く。
「借りた物はちゃんと返さないと。はい、義兄様、タオルありがとう」
綺麗に洗って乾かしたタオルを差し出すと、ロイは少々気怠げに受け取った。
「わざわざ君が返しに来なくても、誰かに預ければよかっただろ」
「それだと義兄様に会えないもの。あとこれ、母様が義兄様と一緒に食べてって」
アンナはそう言って手に持つバスケットの蓋を開け、中に並んだスコーンを見せる。
すると、ロイは訝しげに顎に手を当てて考え込み始めた。
「あの人は俺の瞳について聞かされてないのか? そうじゃなきゃ、娘を俺のところに寄越さないはずだ」
ぶつぶつと独り言ちているが、アンナは聞こえない振りをして、バスケットをガーデンテーブルに置く。
母がロイについてグレインからどう聞いているか。それはアンナもよくわかっていない。
だが、知っていて協力してくれているのならありがたいし、知らずに病気だと思っているのならそれでもいい。
アンナにとって重要なのは、ロイに会い、ロイの孤独感を払拭することだ。
(そう、まずは幼い頃からひとりで過ごしているロイ様に、自分はひとりじゃないと感じてもらうのよ)
そのために、今後はできる限り共に過ごすつもりでいるのだが、昨日に引き続き、ロイはアンナを歓迎していないようだ。
「悪いが、君はこのまま本邸に戻ってくれ」
素っ気ない口振りで背を向けられるも、そう言われるのを想定済みのアンナは動じない。
「父様に叱られてしまうから?」
「そうだ。目を三角にしながら、俺に近づくなときつく言われるぞ」
散水機のポンプを踏みながら、感情の見えない声で述べたロイ。自虐のような言葉を淡々と口にするその後ろ姿に、アンナの胸が切なく締め付けられる。
抱き締めたい衝動に駆られるも、ぐっと堪えて笑みを浮かべた。
「大丈夫よ義兄様、バレたりしないから」
母とエルシーが協力してくれているし、何よりオタクの神様とラッキー体質が味方しているのだ。
慎重を期していれば、グレインの耳に入ることはそうそうないはず……というのは過信しすぎかもしれないが、万が一バレたとしても、どうにか説得するつもりでいる。
いや、説得できなくても、会うことを止めるつもりはない。
どんな障害も乗り越えて、必ずロイを幸せにしてみせる。
むんっ、と小さく拳を握るアンナを視界の隅に捉えたロイが鼻で笑った。
「なんでそんな自信満々に言い切れるんだ」
「それはね義兄様、私がラッキー体質だからよ」
「ラ、ラッキー体質?」
アンナの答えに意表を突かれたのか、ロイは思わずといった様子で振り返る。
「そう! だから心配しないで」
胸元に手を当て、堂々と微笑むアンナ。対してロイは、翳る瞳を隠すように瞼を伏せた。
「……なら、俺は不幸体質だ。それも、人を不幸にする。この赤い左目がその証拠だ。だから君は俺と一緒にいない方がいい。不幸になりたくないだろ?」
前髪の合間から覗く赤瞳でアンナを見据え、脅すような口振りで言い放つ。
(ロイ様……)
人を遠ざけ、孤独を選ぶロイのオッドアイを、アンナは真っ直ぐ見つめ返した。
赤い瞳は悪魔の生まれ変わり。
最初にそんな噂を流したのは、一体どこの誰だろうか。
公式設定では、赤瞳を持つ者を忌み子として差別する風習は、王国内のみに見られるものだと書かれていた。
現代でも赤い瞳は珍しく、アルビノの人が持つ瞳の色とされている。これはロイが推しになってから調べたものだが、瞳が赤いのは、虹彩の色素の欠如によって血の色が見えているのが要因らしい。
『君果て』の世界においてもそのような理由なのではないかと推測するが、王国内において稀に生まれる赤瞳の者は片目だけだ。両目が赤い瞳の者は生まれない。
(忌み子の不吉さを表現したのかもしれないけど、ロイ様の気持ちを考えると胸が痛い……)
ゲームでは、赤瞳の者が本当に不幸を呼ぶのかについては、はっきりと言及されていない。
恐らく、ロイルート中盤でゲームヒロインが語る『不幸かどうかは私が決めます』の言葉が答えなのだが、ロイは過去の体験によって自分が不吉な存在であると思い込んでいる。
その原因はロイの母、カトリーヌの他界だ。
カトリーヌは、ロイが幼い頃、生命力を養分とし、発症者オリジナルの華が身体中に生えて咲く奇病『華咲病』を患いこの世を去った。
しかも、ロイの誕生日に。
最愛の妻を亡くして嘆くグレインに、ロイは『カトリーヌの死はお前のせいだ』と責められ、この離れに遠ざけられ……
以来ロイは、使用人に必要最低限の世話をされながら、孤独で寂しい日々を過ごしてきた。
涙しても慰めてくれる者はなく、喜びを分かち合う者もいない。
カトリーヌの命日のため、誕生日も祝われない。
そんな毎日の中でいつしかロイは、母を死に追いやってしまった自分を嫌悪し、生まれたことを否定するようになった。
けれども心の奥底では、誰かに愛されたいと渇望していて。
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