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1章
1話
しおりを挟む視界を真っ白く染めるほどのヘッドライト。
鼓膜をひどく震わせる大きなエンジン音。
鳴らないブレーキ音。
私の名を叫ぶ耳慣れた、でも劈くような、それでも尚大好きな声。
ひどく荒っぽく引かれた腕と、肩を脱臼する痛み、衝撃。
水っぽい衝撃音と、目の前で赤く散る、彼の――――・・・
「っ夏樹!!」
彼の名を叫びながら飛び起きる。
泣き叫びたい衝動が喉を締め付ける。全身が痛いくらい強張っている。タオルケットを親の仇のように握りしめたまま、手放すことができない。まるであの瞬間、手を伸ばす事すら叶わなかった自分をまざまざと再現しているようだ。
全力疾走をした後のような荒い呼吸が、しん、と静まり返った暗い部屋に、やけに響いて聞こえた。
夢だ。
これは夢だ。
分かってる。
大丈夫。いや、大丈夫ではない。
けれどもはやどうしようもない、取り返しのつかない過去だ。分かっている。夢だ・・・夢だ・・・。
のろのろと視線を上げ、壁に掛かっている丸時計を見やる。3時を少し過ぎたあたりだった。
最悪だ。
明日も仕事なのにこんな時間に目を覚ますなんて・・・。いや、明日って言うか、もう今日と言った方がいいか。
マジか・・・、マジかぁ・・・。会議あるのに。笑えない。でももう夢見が怖くて寝られない。それは経験則で分かっている事だ。
「あ゛~~~~」
呻き声を上げて髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。声を上げたのは態とだ。沈黙が耳に痛すぎて耐えかねた。
呼吸は大分整ったものの、鼓動はまだばくばくと走っていた。頭が痛い。汗で湿った髪が気持ち悪い。
枕元に置いてあるエアコンのリモコンを操作して、節約の為28度にしていた設定を26度まで下げる。丑三つ時の室内には不釣り合いな、軽薄な電子音と、ごうっという人工的な風を発生させる音が響いた。
恐怖に強張った体をほぐすべく、首を回し、軽くストレッチをしながらべッドから下りた。風呂場へ向かう道すがら、手探りで部屋の電気を点ける。そのタイミングで、スイッチの横に設置した棚が目に入った。正確には、棚の上に飾った写真の中の人物と目が合ったというべきだろう。
そこに映る人物は、夢とは違ってにこやかな笑みを浮かべている。高校の学ランを着て、これ見よがしに卒業証書の入った筒を掲げ、そして隣にはセーラー服の私が、肩が触れるか触れないかの微妙な距離で並んでいる。彼は勿論、私も実に能天気な笑顔を浮かべ、さも幸せそうにこちらを見ていた。その先に晴れがましい未来が待っていると、信じて疑っていない、そんな幼い笑顔だ。
「夏樹・・・」
もしもこの日に戻れたら――――そう、何度思ったことだろう。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
思い、祈り、願い、乞い、そして叶えられなかった願い。
そりゃそうだ。
タイムリープだの逆行転生だのなんて非現実的すぎる。そんな事分かっている。でもほら、たまに、まるで本当にあった事みたいに語られるものだから――――。だから、自分にだってそんな奇跡が起きてもいいんじゃないか、なんて・・・そんな傲慢な考えが過ったりする。
そしてもちろん、今日までそんな奇跡は起きていない。そういうところ、現実って言うのは本当に、これ以上なく、どうしようもなく、徹底的に現実しているものだ。現実のそう言うところが心底嫌いだが、お陰で私は、悪夢に悩まされつつも平穏無事に今日も生きているのだろう。
だってきっと、私の脳のキャパシティでは時間が一方通行でない世界なんて生きづらくて仕方がないだろうから。
現実から逃れられない私は、そっと彼の名を呟き、こつん、と写真を倒さないように気をつけながら、その小さな額を小突いた。
「もうちょいマシな登場しなさいよ」
悲しいかな、彼の笑顔は微動だにしなかったし、返事だってなかった。
ねえ?
もし会えるなら、声を聴けるなら、触れることが叶うなら。あなたが幽霊だろうが、悪霊だろうが、肉の塊だろうがなんだって構わない。構わないから・・・だからどうか・・・。
...
..
.
結局、予想通り私は、胸の奥に潜む恐怖と怖気のおかげで眠る事もできず、大して興味もない動画を適当に流し見て鬱々としながら朝を迎えた。眠れなかったから眠くないという事にはならない。めちゃくちゃ眠い。その為眠気覚ましに、もはやただの苦みしか感じない程に濃いブラックコーヒーをぶち込んで、通勤電車に乗り込む羽目になった。
怪我の功名というべきか、少し早めに出勤できたのは良かったのかもしれない。始業前にメールの処理が終わったし、余裕をもって定時に上がれそうだ。
いつもは会社に置いてある給茶機で、紙コップにコーヒーを淹れて参加してる会議だが、今日はペットボトルでブラックコーヒーを持参だ。だって無理だ。紙コップの量じゃ絶対足りない。その程度のカフェインじゃ寝る自信しかない。
参加できるタイプの会議なら一向にかまわないのだが、今日のような人の報告聞くだけ系の会議は、普通に参加しているだけでも眠くなる。
というか、そもそも今回の会議内容、うちの部署は掠めるくらいしか関係してない。もう全然参加メンバーから外してくれていいんですけど、って感じのアレだ。「主任だけ参加すればよくね?」と部署の全員で話しているくらい淡い関係しかないやつだ。それでも参加しろと上からのお達しがあれば、社畜は喜んで参加して粛々とありがたくもないお話を傾聴するしかない。
まあ、そんなあまり参加意義を感じない会議も――一瞬意識が飛びかけたけど――お昼休憩のチャイムが鳴ったのを契機に無事終わった。
ぐぎぎぎっと伸びをして、席を立つ。
さっさとお昼を食べて、仮眠して、あとは午後にいくつか電話を掛けるのと、事務作業をちょこちょこ熟せばおしまいだ。しっかり定時に上がろ。明日は休みだし漫喫行こうかなぁ。なんかこう・・・バトル系のなっっっがい漫画とか読みたい気分だ。
「――――さん」
背後から苗字を呼ばれて立ち止まる。
その声を聴いただけで、昼休憩という事で少し上向いた私の機嫌は急降下だ。
一瞬止まって、彼とやり取りをする覚悟を一呼吸で決める。
隣の島に座っている灰寺という派遣社員の男である。仕事では随分と優秀らしいが、何かと絡んで来るので私は非常に苦手だ。ぶっちゃけ隣の島は、うちの部署とはほぼ関りがないのに、なんでそんな話しかけてくるんだよと、毎日思っている。
「はい、なんでしょうか」
とりあえず腹は括ったので、返事をしながら笑顔を貼り付けて振り返る。これからお昼を食べて仮眠もとりたいので秒で終わらせてやる。
「今日仕事終わってから暇?」
「あー、ごめんなさい。今日はちょっと予定があるんです」
そも、まったく仲良くなった認識もないのに、なんでこいつタメ口なんだろう。そこから嫌いだ。いや、そこも嫌いだ。
満喫に行く予定は、行くか行かないか迷っている段階だったが、今確定の予定に変化した。だって、夏樹の夢なんて見ちゃった日には、きちんとメンタルケアをしなければならないもの。非常に大事な予定である。とてもじゃないが好きでもない挙句、ただ隣の島ってだけで全然別の仕事をしている同じ会社の人間に時間を割いている暇などない。
ちなみにどうでもいい話だけれど、灰寺さんに誘われた回数はもはや覚えていないが――両手の数は確実に超えている――間違いなくすべて断っている。
「ノリ悪いなぁ。金曜いっつもダメじゃん」
「週末ってどうしても予定入ってることが多いので」
「あ、じゃあ明日はどう?」
思わず笑顔が引きつった。
「えーーーっと・・・」
そもそもコーヒーで無理やり覚醒させているだけの脳の回転はそこまで早くない。そのせいもあって、答えに詰まってしまった。だって、これどう躱すのが正解なんだ?
そもそも5回以上断られて、相手から「ここなら空いてますよ」とかの提示もないならもう誘わなくない?普通。金曜日だから駄目なんじゃなくて、遠回しに・・・っていうか割と直接的に、永遠のお断り突きつけてるつもりなんだけど、これ気付いてもらえないものなの?これで気づいてもらえない場合ってどうしたらいいの?「あなたと遊ぶ気はないのでおとといきやがりくださいませ」とかが正解?
正直、これが飲み屋で知り合った人とかなら、平気でぶった切る事もできる。でもあくまで職場の、しかも仕事上は関係なくても、隣の島で毎日顔を合わせる人間なのだ。あんまり事を荒立てたくない。だから是非とも察して欲しい・・・。
え、ダメかなこれ。これ察してちゃんになるなのかな。社会人的常識の範囲内じゃないの?ダメ?
「あー、ごめんなさい。週末は全部埋まっていて・・・」
もう引きつった顔を修正するのすら面倒で、私は壊れたおもちゃみたいに同じ理由を繰り返した。全然誤魔化せてない気がするけど、もうだめだ。なんか新しい言い訳を考えるのすら面倒で、かなり投げやりになっている自覚があった。
大して親しくもない会社の人間と、わざわざ休日を一緒に過ごすわけなかろうよ。頼むよ、気付いてくれ。
「でも彼氏とかいないっしょ?」
「・・・・・」
あ゛ーーーー!!
もうダっっる!
うっっっざ!
寄りにもよって、今日一番踏んで欲しくない地雷を踏んでくるじゃん。なんなんだこいつ。派遣契約の更新やめてくんないかなマジで。
恋愛は地雷なんだよクソが。来る日も来る日も大好きだった、多分両片思いしてた幼馴染が死んだ場面を夢に見続けて、部屋に写真飾って、毎日10回は彼の名前を呼んでるくらい未練タラタラなの。無理なの。私の心はもうそこから動けないの。動きたいとも思ってないの。
もっとぶっちゃけてしまえば、自殺できないから生きてるだけの人間だ、私は。
寝不足の脳みそはいつもより理性が死んでいて、普段は底の方に押し込んでいる焦げついた上で腐ったみたいな、しょうもない思考が、汚らしい油汚れみたいに浮上してくる。
恋人なんていらない。時たま、どうしようもなく本能的に人肌が欲しい時だけ、その場限りの関係を探すくらいがちょうどいい。そのうち覚悟が決まったら――――もう死ぬのも怖くないなって思えたら――――。そのタイミングが来ることを切に願いながら、解放の時をぼんやり夢想して、一応それまで生きるために、最低限の社会活動をしているだけ。
「それ、灰寺さんに関係ありませんよね?」
「え・・・」
思った以上に冷え切った声が出た。
嗚呼これが堪忍袋の緒が切れるってやつか。そんなくだらないことを頭の片隅で思いながら、私はばっさりと灰寺さんの言葉を切り捨てた。何の好意も抱いていない人間に対する配慮は、もう残っていない。それでも、一応は今後もこの会社で働くために必要な、最低限の配慮だけで、どうにか言葉の体裁を整える。
「申し訳ないんですが、お昼を買いに行きたいので失礼しますね」
もう目元に笑みを浮かべる努力なんてせず、とりあえず口元にだけは笑みを模って言い捨てて、私は返事も待たずに踵を返した。
もういいや。
なんかもう優しく対応するのアホらしくなっちゃった。
この前の席替えで、席も遠くに離してもらったし。仕事で関わる事もないし。うちの部署内では一応迷惑してるって話をそれとなく広めてるし。最悪転職しよう。面倒だから出来ればしたくないけど、どうしてもこの会社じゃなきゃ無理ってわけでもない。
唐突に我慢の限界が来て切り捨ててしまったわけだけれど、いっその事私は清々しい気分になっていた。メッセージアプリを起動して、同じ部署の先輩にランチの誘いを掛けながら、背後から私を呼び留める灰寺さんの声を、完全に聞こえなかったことにして、そのままオフィスビルの内廊下へ続く扉を開けたのだった。
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