人と獣の境界線

蒼衣ユイ/広瀬由衣

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第一章 獣人隠里

第一話 逃亡(一)

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 人里離れた深い森。人の手が入っていない木々は好き勝手に生い茂っていた。
 夜空では白い満月が静寂を保っているが、たくさんの足音で美しい沈黙が乱れていく。
 幾人もの男が風に揺れるだけの草花を踏み躙り、何の罪もない蜥蜴や鼠を蹴り飛ばす。

「ちくしょう! どこに逃げやがった!」
「崖に決まってんだろ! 『羽付き』の逃げ場は空だ!」
「絶対捕まえろ! 鳥獣人は高値が付く!」

 この世界で最も珍重されるのが鳥獣人だ。
 理由は飛行への憧れもあるが、それ以上に軍事利用価値の高さにある。上空からの偵察や奇襲は戦略を広げるとして各国軍師は皆欲しがった。
 人間でも飛行は叶わない。鳥獣人は空の絶対王者だった。

 男達の声が聞こえなくなると、狙われている鳥獣人・公佗児こんどる薄珂はっかは警戒しながら木の洞から顔を出した。

「行ったよ、父さん。立珂」

 薄珂が洞へ小声で告げると木がぐらりと揺れる。狭いうろから苦しそうに出てきたのは薄珂の父、薄立だ。その腕の中には白い羽の塊があり、薄珂はそれを父から受け取ると両腕で抱えた。
 すると羽の塊はわさわさと揺れ、中から少年がぴょこんと顔を出した。薄珂の弟で有翼人の立珂りっかだ。塊になっていたのは立珂の羽だった。
 立珂は二つ下で十六歳だが、成長不順なのか外見は十二、三歳と幼い。身体よりも羽の方が大きくて、薄珂にしがみつこうとしただけで羽が圧し掛かり頭が隠れてしまう。立珂も驚いたのか羽ごと身体が揺れた。

「んにゃっ!」
「あ! 大丈夫か立珂!」
「ん~……へいき……」

 立珂はぷはっと羽から顔を出し、顔に貼り付いた羽をぺぺぺっと払う。こんな時でも愛らしい仕草は張り詰めた心を癒してくれる。
 だがまだ落ち着ける状況ではない。父は静かにするよう唇の前に指を立てると、男達が走り去った方向とは逆へ歩いた。薄珂は立珂を抱いてその後に付いて行く。
 この道は何度も歩いた場所だが、毎回足跡を消して通り道に見えないようにしていた。この先にある場所を知られないためだ。
 親子が気配を消して辿り着いたのは、父が避難用に改装した天然の洞穴だった。

「備蓄は入れてあるよな」
「うん。一昨日入れ替えたばっかり」
「よし。薄珂が先に入れ。立珂は後だ」

 薄珂は父に立珂を預けると、身を小さくして地を這い素早く中へ入る。次いで立珂が羽に埋もれながらやって来て、薄珂は抱きしめるように引き寄せた。

「よくできたな。偉いぞ。父さんも」

 入り口は狭い。薄珂と立珂が丸まってやっとのため父は毎回苦労していた。だがこれならそう簡単に追いつかれることは無い。
 薄珂は父が入りやすいよう少し下がった。しかし父は外からじっと見つめてくるだけで入って来ようとしない。

「父さん? 何してんの。早く」
「薄珂よく聞け。北西の《いんくぉん》へ行くんだ。全種族平等を掲げた羽付き狩り根絶に動いている国だ。助けてくれるだろう」
「じゃあ船だね。立珂だけなら掴んで飛べるけど二人は」
「戦闘は目と足を潰せ。飛ぶのは最後だ」

 父は薄珂の言葉を遮って早口で語りつつ、懐から小刀を取り出し薄珂に握らせた。それは何故か手に馴染み、まるでこの時のために用意していたかのようだった。
 薄珂は違和感を覚えた。父は逃亡の指示をするだけでこちらに来ようとしないのだ。
 父は薄珂と立珂の頬を優しく撫でた。慈しむような眼差しを向けていて、なのに一歩もこちらへ来てくれない。まるで息子二人を送り出すような顔をしているのだ。
 薄珂は嫌な予感がして身を乗り出した。

「父さん急いでよ! 船の準備しよう!」
「泳げる獣人がいたら追いつかれる。今のうちに立珂を連れて飛べ」
「何言ってんの! 父さんはどうするの!」
「足止めをする。お前達が逃げ切ってから後を追う」
「駄目だよ! 危ないって!」
「声を落とせ。気付かれる」

 頬から父の大きな手が離れた。掴まなければと手を伸ばしたが、父は侵入対策の内扉を無理矢理閉めて手を引いてしまった。

「父さん!」
「いつもの空路で休みながら飛べ。立珂。誰に会っても薄珂が公佗児である事は秘密にしろ」

 薄珂は扉を開けようとしたが外に何か置いたのかびくともしない。
 避難用の場所はいくつかあるが、そのどれもが出入り困難になっている。

「《いんくぉん》で合流しよう。後でな」
「父さん!」

 どんっと壊すつもりで扉を叩いたが指一本ほどの隙間もできない。内扉が持ち上がらない。繰り返し叩いたけれど父の声は帰って来なくて、砂利を踏む音も聞こえない。
 父はもうそこにいない。
 その意味と、待ち受ける未来図が脳裏に浮かび手が震えた。内臓が冷えるような感覚が身体に広がり、寒さで視界がぐらつく。
 しかしその時、指先に温もりを感じた。

「薄珂。飛ぶなら崖に出ようよ」

 立珂がきゅっと掴んで温めてくれていた。不安そうに揺れる瞳に気付き、薄珂は守るべきものがあることを思い出す。

(立珂を守るんだ。立珂の羽は飛べないから俺が守らなきゃ)

 有翼人の羽は神経が通ってない。羽ばたくどころか動かす事もできず、立珂は羽が大きすぎて一人で歩くこともできないのだ。

(父さんとは後で合流できる。絶対できる)

 薄珂はそう言い聞かせると、内臓を温めるため息を吸い込んだ。
 籠るために用意していた備蓄食料を袋に詰めて幾つか持つと、立珂を抱いて頬擦りをしながら奥へと向かった。
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