人と獣の境界線

蒼衣ユイ/広瀬由衣

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第五章 多様変遷

第二十七話 胎動(一)

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 薄珂は考えないようにしていた。
 自分が守る最愛の存在は立珂で、それは今も昔もこれからも変わらない。立珂の笑顔が薄珂にとって最大の幸せで、何物にも代えられない特別な存在だ。
 だがそれは今の話だ。前は同じくらい大切な人がもう一人いた。
 薄珂は机に広げられた服にそっと触れた。触り心地がどうだったかはもう覚えていない。けれどこんな血まみれでぼろぼろでないことは確かだ。

「……父さんのだ」

 そろりと撫でる。けれどそれ以上指は動かない。

「人違いの可能性もある。医療面から分析して生前の特徴が特定ができないか試みてるからまた報告する」

 人違いだとして、ではこの服は何なのだろうか。他に見つかった遺体も人の気配もないのならそれはもう、そういうことでしかない。
 考えないようにしていたことが突きつけられ、薄珂は言葉を忘れてしまったようだった。

「薄」

 天藍が名を呼ぼうとしてくれたけれど、呼ばれる前に薄珂は立ち上がった。
 服に触れることはできず、天藍が開いた真っ白な布でもう一度包むとそれをぐっと抱きしめる。

「立珂には言わないで。思い出させたくないから」
「そうだな。ああ、分かった」

 天藍がそっと肩を抱き寄せようとしてくれた。
 けれど薄珂はその手から逃げるように一歩前へ出た。

「ごめん」
「……いや。ゆっくり休め」

 薄珂はとぼとぼと宮廷を出た。途中で浩然が声をかけてくれていた気がしたけれど、それに答える気力は無かった。護栄が姿を見せないのは、何故か妙に安心できた。
 響玄の家へ戻ると、響玄は知っていたのか察してくれたのか、何も言わずに抱きしめてくれた。
 父ではないけれど父のように大切にしてくれる響玄の腕は温かく力強かった。

「立珂はよく寝ている。行ってやりなさい」
「うん……」

 立珂が眠る部屋へ行くと、立珂は美星の指をしゃぶっていた。きっと腸詰と間違えているのだろう。
 美星はにこりと微笑むとその場を薄珂に譲り、音を立てないように出て行った。
 よく寝ている。立珂はとてもよく寝ている。腸詰を求めて手をうろつかせ、そこに指を差し出すと立珂はあむっとしゃぶりついた。

(……ごめんな立珂)

 立珂はとても幸せそうに眠っている。それがたった一つ、薄珂に残された幸せだった。

*

 それから数日は宮廷へ行く気にならず、響玄と美星の家に泊まって二人以外には会わなかった。
 立珂は美星と服で遊び、薄珂はそれをただ眺めていた。立珂の前でだけはいつも通りに振る舞うけれど、ふと息を吐くと誰かが傍に来てくれる。

「大丈夫か」
「うん。ごめんね、心配かけて」

 隣に座ったのは哉珂だ。仕事があるらしく姿の見えない時が多いけれど、この数日はやけに側にいてくれた。
 きっと父――薄立がどうなったのかを聞きたいのだろう。元々透珂の血縁を探していて、麗亜も薄立を探している。
 それをようやく思い出し、薄珂は哉珂を連れて庭へ出た。
 立珂から死角になる物陰に座ると、見られないよう持ち歩いている父の服を哉珂へ見せた。

「これは……」
「父さんの遺品。天藍が持って来てくれた」
「……そうか」

 哉珂は服を手に取り何かを探るように撫でまわしていたが、ふと何かに気付いて服を裏返しにした。
 するとそこには父がいつも付けていた首飾りが引っかかっていた。大きな黒い羽を使った首飾りで、それはきっと透珂のものだろうとようやく薄珂は察した。

「こういう飾りが好きだったんだよね。立珂のお洒落好きはそれもあるのかな」
「これだけか? 小刀は無かったか?」
「小刀なら前に父さんからもらった。何で知ってるの?」
「今持ってるか? 見せてくれ」
「いいけど……」

 哉珂は神妙な面持ちだった。憎い男の弟の死を共に悼んでくれるとは思っていなかったが、何かを不審に探るようなことをするとは想像をしていなかった。

「どうしたの? 何か変?」
「これ誰かに見せたか?」
「孔雀先生に貸した。天藍と慶真おじさんと玲章様と……あとは忘れちゃった」
「思い出せ。護栄殿には見せたか?」
「見てたと思うよ。何で?」
「……お前これと同じ物を他で見たことはないか」
「あるよ。長老様が――……あれ?」
「何だ?」
「長老様も俺の父さんから貰ったって言ってたんだ。透珂と対なんだって言ってた気がする」
「へえ……」

 哉珂は何か不愉快に思ったのか腹を立てたのか、眉間にしわを寄せて押し黙った。
 明らかに何かがある様子に薄珂は思わず父の服を哉珂の手から取り戻す。しかし哉珂はそれに興味が無いようで、代わりに小刀を握りしめている。

「少し借りてもいいか。必ず返す」
「いいけど、どうしたの?」
「少し出て来る。また返しに来るから」
「あ、う、うん。いってらっしゃい」

 哉珂は足早に外へ出た。透珂に連なる哉珂が薄立の持ち物で様子をおかしくするのは、父の死の悲しみに浸る暇はないと言われた気がした。
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