人と獣の境界線

蒼衣ユイ/広瀬由衣

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第三章 蛍宮室家

第二十八話 莉雹の恐怖

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 この数日ずっと有翼人について語り合い、今日も有翼人のための話し合いだと思っていた。
 規定服は有翼人にとって不便なものだから専用のを――という始まりだとばかり思っていた。けれど薄珂が紹介者として連れだしたのは莉雹でも彩寧でもなく、慶真だった。

「これはすぐに獣化できるようになっています。これの利点は見ていただく方が早いでしょう。慶真様、お願い致します」
「お待ち下さい! 異性もいる場で獣化など!」
「莉雹様。大丈夫ですよ」
「慶真様!?」

 獣化は脱がなくてはいけない。つまり裸になる必要があるのだ。そしてここには男も女もいる。どちらも獣化などできはしない。
 けれど慶真は問題無いと微笑んで、服の紐や釦に手を掛けた。少しずつ獣化をしていくが、それに合わせて要所要所の留め具を外し紐を外し、肌を晒すことなく獣化を終えた。

「これは……!」
「このように、緊急時でも即座に獣化が行えます」
「待って下さい。その腹に付いている丸いのはなんです?」
「これも見ていただく方が良いでしょう。慶真様。隣室でお願い致します」

 慶真はその丸い物を付けたまま隣の部屋へと向かうと、しばらくすると人の姿になり戻って来た。
 しかし着ているのは親衛隊の規定服ではなく簡素で飾り気のない服だった。

「これが先程の丸い物体です。広げると服になるので、規定服の中にこれを持っていればいつでも人間に戻れます」
「これは良いですね。宮廷や街中に設置しても良いかもしれない」

 立珂はやったあ、と喜び慶真に飛びついた。
 一見無邪気で可愛らしいが、莉雹は護栄から目を放さない薄珂の方が気になった。

(これで慶真様以下親衛隊を味方につけていると知らしめた。これは物理的に強い)

 慶真は他国にも名が知られている獣人だ。そんなことは今更この場にいる人間には何ら影響がないが、世間は違う。
 あの慶真が推奨している規定服となれば、それを着る事自体が誉とも言える。
 だが元々彼らは縁があった。だからここにいるだけとも言える。ただの偶然にすぎない――そう言い聞かせていると、考えがまとまるのを待たずに薄珂が立ち上がった。

「次に立珂の着ているのが有翼人専用規定服です。これならば宮廷は有翼人を歓迎しているのだと一目瞭然!」
「羽の下はどうなっているんです?」
「ちゃんと肌が見えないようになってるよ! 見えても恥ずかしくない肌着を下に着てるの!」
「上衣とは別に着用する肌着です。立珂の汗疹が治ったのはこれのおかげ」
「するするでひんやりだよー!」
「こちらに同じ品がございますのでお確かめください」

 薄珂は二枚同じ肌着を取り出した。
 広げるとそれは薄手で通気性がよく、何より羽を出す穴があるので背が完全に覆えるようになっている。
 立珂はすごく良いでしょう、これだよ、と懸命に羽を持ちあげ背を見せている。

「良いですね。これは国民にも提供したい」
「そうだな。これは一人につき二枚を無償で配布をしよう。いつ頃生産は完了する」
「お優しい殿下ならそうおっしゃって下さると思っておりました。既に蛍宮有翼人の三倍の枚数を用意しておりますので即時配布が可能です」
「「「は?」」」

 声を揃えたのは皇太子と護栄、そして莉雹だった。
 薄珂は相変わらずにっこりと微笑んでいる。

「殿下は以前、有翼人専用に人気だとおっしゃっておられました。ですがこれが流通しているのは蛍宮ではなく南の華理。宮廷専用品の開発に先んじて響玄が入荷致しましたのでよろしければご査収ください」

 その場の全員がぽかんと口を開け固まり、立珂だけがうふふと笑っている。
 はあ、と護栄は息を吐いて椅子にだらりと背を預けた。

「……これはやられましたね」
「響玄め」
「さすがしっかりしてますよ。費用は?」
「お金はいらないよ! あげる!」
「「「は?」」」
「費用は私から響玄に支払います。代わりに、早々に着手したいという立珂の望みを叶えてやってはいただけませんか」
「立珂殿の望みですか……」
「立珂の望みです」

(これは断れない。断ったら響玄殿が代行し宮廷は足蹴にしたと悪評が立つ。だがどちらに転んでもこの子らの評判は上がる)

「まったく、あなたと言う人は……」
「初回納品分は無料。次回以降の追加生産費用は一着あたり銀一。これは毎回の羽根納品分と相殺でも構いません」
「とことんうまく攻めますね」
「恐縮です」
「では契約書を作りま」
「契約書ならこちらに」
「「「は?」」」
「護栄様ならきっと即時ご決断下さると思い事前に用意しておりました」
「……そうですか」
「はははっ! ざまあみろ護栄!」
「どっちの味方なんです殿下は」
「薄珂。これは見事だ!」
「有難うございます」
「じゃあ新しい規定服作っていい!?」
「もちろんだ。ぜひ頼みたい」
「やったあ!」
「やったな、立珂!」
「うん! やっぱり薄珂は凄いね! 僕をいっぱい幸せにしてくれる!」

 立珂はぴょんぴょんと飛び跳ね、薄珂はそれを待っていたとばかりに抱きしめた。
 それは計算高く商談を持ち掛けた商人ではなく、弟を溺愛する兄の顔だった。
 立珂の愛らしい微笑みにその場の全員が毒気を抜かれ、これの詳細は後日響玄を交えて決めることとなった。
 薄珂は弟を抱っこし立珂は兄に頬ずりをし、皇太子と慶真は兄弟を送ってくると言って仲良く去っていった。
 その場に沈黙が訪れ、それを破ったのは彩寧だった。

「文官が薄珂様に期待を寄せる理由がよく分かりました……」
「お二人もすっかり手玉に取られましたね」
「……まさか薄珂様はこれを見越して動いてらしたと?」

 莉雹はくっと唇を噛み、それを見た護栄がくすりと笑った。

「このところ莉雹殿の教えをよく思い出します。政治が偶然うまくいくことは無い。偶然に見えたのであれば、それは必然に導く者の渦に気付けていないだけ」

 莉雹は護栄に様々なことを教えた。
 常識と礼儀作法を教え込めば他に教えられることは無い。ただほんの少し人の世で生き抜く知恵を教えたが、この言葉はその一つだ。
 莉雹は常に己の判断で生きて来た。けれど振り返れば何者かの作った流れに呑まれていて、振り回されているだけのこともあった。それが身を滅ぼすこともあるのだ――そんな話をした。

(立珂様が必要というのは私の意思。間違っていないと断言できる。だが)

 礼儀作法を改めることを護栄に提案すると覚悟を決めたあの時、莉雹の背を押した二つの言葉があった。

『護栄様は簡単にできることじゃなくて、難しくてもやらなきゃいけない事をやる人だと思う』
『できるよ。だって俺と立珂が他の職員から文句言われないよう、守ろうとしてくれたじゃない』

 莉雹を奮い立たせたのは立珂の服でも愛らしさでもない。薄珂の言葉だった。

(あの言葉があったから私は立珂様の手を取りここにいる。あの子の言葉で私は――……)

 ここに立っていることが急に恐ろしくなった。
 莉雹は思わず身震いをし、そして護栄はくすくすと面白そうに笑った。

「偶然とは恐ろしいものです」

 護栄は含みのある笑いをして部屋を出て行った。
 彩寧も仕事へ戻らないと、と部屋を出た。
 けれど莉雹は立ち尽くし、立珂が最初の一着は莉雹様に、と笑って与えてくれた新たな規定服をじっと見つめた。

(一見価値は立珂様にあるように見える。だが……)

 これを考えたのは立珂で商品に仕上げるのは響玄、国民へ広げるのは護栄。
 だがその架け橋となっているのは薄珂だ。

「薄珂、立珂……」

 ぽつりと呟き、莉雹はぐっと拳を握りしめた。
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