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第二章 蛍宮宮廷
第二十四話 師【前編】
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立珂の療養以来、薄珂と立珂は芳明の診療所に居候をしている。
怪我はもう治ったのだが、ひとまず獣人の里に戻るつもりだと言ったら芳明が引き留めてくれた。それを決めるのはもう少し蛍宮の生活を知ってからにした方が良いと言い、空いている部屋を貸してくれている。
これは有難い気持ち反面、困ったようにも思っていた。
なにしろ立珂はにおいで体調を壊した。薬品のにおいを嫌うのなら診療所というのは良くない気がしている。
しかも診療所は人の出入りが多い。立珂は不特定多数の大勢と過ごすのも苦手なのだ。
だが里に戻れば身の危険もある。薄珂が獣化すればある程度はどうにかできるが、それでも一度立珂に大怪我を負わせている。安全を考えれば蛍宮にいるのが一番良いのだ。
(でも天藍の所から逃げ出した以上、俺が立珂を守って暮らすための手段が必要だ。最低限、家と仕事は)
これは分かっていたことだが簡単じゃない。家はどこかに天幕さえ張れればそれで良いのだが、問題は仕事だ。
以前にも少し考えたが、立珂の傍を離れずにできる仕事でなくてはいけない。
立珂の羽根を売れば生活はできるようだが、それでは世の中が羽根に価値を見出さなくなったとき薄珂と立珂には何も無くなってしまう。
だから薄珂は立珂の羽根に頼らず、かつ立珂の傍にいられる仕事が必要だった。
しかし薄珂には学も無いし特別な技術も無い。どうしたものかと迷ったが、一つだけやってみたいことがあった。
「いらっしゃいま――あら、まあ。薄珂様に立珂様」
「こんにちは、美星さん。今日は侍女のお仕事お休みなの?」
「ええ。今日はお買い物ですか?」
「ううん。響玄さんに教えて欲しいことがあるんだ」
「父にですか?」
薄珂が相談相手に選んだのは響玄だった。
薄珂は特別な技術を持っていないが、商才があると言ってくれた。お世辞かもしれないけれど、店を構えて商売をすれば立珂の傍を離れず仕事ができるのだ。
美星は少々お待ちを、と言うとすぐに響玄を連れて戻って来た。響玄は驚いたように目を丸くして、数回瞬きをしてからにこりと微笑んでくれる。
「まさか薄珂殿がお声掛け下さるとは。今日はどのようなお話でしょう」
「商売をしてみたいんだ。でもどうしたらいいか分からなくて」
「おお、やはり興味がありますか」
「というか仕事が欲しいんだ。自分たちだけで生きていけるように」
「自立ですか。まだ若いのに立派なことだ。私でよければ何なりとお手伝いしましょう」
「有難う! 実は考えてることがあるんだ」
「ほお、既に。それはどんな?」
「護栄様に立珂の羽根を売れないかなって。あっちは必要だろうし、知ってる人だから損することがあっても悪いことにはならないよね。やり方覚えてから立珂の羽根以外の商品も売りたいんだ」
「……素晴らしい。薄珂殿は実に現実的だ」
ほう、と響玄はため息を吐いて大きく頷いた。
薄珂は単に安心だと思っただけだ。それに今の薄珂と立珂には何も無い。立珂の羽根依存から脱却するにしても、今はそれを活用するしかできることがない。ならば消去法で護栄に羽根を売るしかない――というだけだった。素晴らしいと褒めてもらえるようなことではない。
けれどこの前も『現実的』と褒めてくれた。ならば自分では気づいていない武器が自分にはあるのだと信じることにした。
「しかし私を信用してよいのですか? 立珂殿を利用してやろうという悪人かもしれません」
「でも美星さんのお父さんだもん。全然知らない人よりずっと良い。それに、もしそうなら護栄様が気付いてくれる。取引相手が護栄様なら俺に危険は無いよ」
「これは恐れ入りました。いいでしょう。商売は勉強よりも実践です。護栄様と取引をしながらお教えしましょう」
「うん! 有難う!」
「『はい。有難う御座います』」
「え?」
「立珂殿もですが、あなたは礼儀を知らない。これはとてもいけない」
「礼儀?」
「そうです。商売は信用第一。相手に礼を尽くせなければ信用を得られない。認めてもらうためにも礼儀を覚えなさい。これはあなた自身のためです」
「俺自身の……」
礼儀。それは以前に護栄が学べと強いてきたことだ。そのせいで立珂が体調を崩したこともあり、礼儀だの規則だのは忌むべきことのように思っていた。
まさか薄珂と立珂のためのことだなどと思ってもみなかった。
「挨拶を返してもらえないと悲しいでしょう? そんな相手と仲良くできますか?」
「できない……」
「そう。だから人は共通の挨拶を定めています。手をこうして頭を下げる」
響玄がした姿勢は、あの嫌な女がやれと強要してきた姿勢と同じだった。
これは嫌がらせではなく薄珂と立珂のためだったのだ。嫌なことも言われたけれど、護栄は最初から薄珂と立珂のことを考えてくれていたのだ。
薄珂は同じように手を組んだけれど、立珂は嫌そうな顔をし頬を膨らませた。
「立珂はいいよ。これは俺の仕事で、立珂の仕事は元気でいることだからな」
「……うん……」
「美星さん。立珂と遊んでやってくれる? そうだ。背中の涼しい服が欲しいんだよな」
「まあ、ちょうどいい。新しい生地がありますよ。さ、立珂様」
「うんっ!」
立珂はすぐに顔を明るくして、ぴょんと美星に飛びついた。きゃっきゃとはしゃぐ姿はいつも通りなんとも愛おしい。
「立珂様は十六歳とうかがっていますが、年よりも幼く見えますね」
響玄は困ったような顔をした。それはそうだろう。挨拶を返さないのは失礼だと教えたばかりなのにそれすらしない。不愉快に思うのも仕方が無い。
けれどそれも立珂を想ってのことなのだ。ならばこちらも信頼を築く返しをすれば良い。
「立珂は十六年間歩けなかったんだ。その分を取り戻してるんだと思う。だから幼くていいんだ。俺は嬉しい」
「……そうでしたか。大変失礼を申しました」
「ううん。知らないなら知っていけばいいんだ」
護栄も護栄が用意した教育係の嫌な女とも話せば違ったのだろう。
そうすることがきっと『礼儀』だったのだ。
「立珂はこころが辛いと病気になるんだ。だから勉強は俺だけでするね」
「分かりました。では今後弟子として扱う。敬語は使わず薄珂と呼ぶ。私のことは響玄先生と呼びなさい。敬語も使うこと」
「はい、先生」
「取引き中は護栄様にも敬語だ。知り合いでも敬意を示すことを忘れるなよ」
「はい、先生」
「人前でなければ今まで通りでいい。あまり気負うな」
「はい、先生」
響玄はよし、と笑うと頭を撫でてくれた。
思いやってくれる響玄の手はとても優しくて、響玄と同じことを教えてくれた教育係の嫌な女にも会ってみたいと思った。
怪我はもう治ったのだが、ひとまず獣人の里に戻るつもりだと言ったら芳明が引き留めてくれた。それを決めるのはもう少し蛍宮の生活を知ってからにした方が良いと言い、空いている部屋を貸してくれている。
これは有難い気持ち反面、困ったようにも思っていた。
なにしろ立珂はにおいで体調を壊した。薬品のにおいを嫌うのなら診療所というのは良くない気がしている。
しかも診療所は人の出入りが多い。立珂は不特定多数の大勢と過ごすのも苦手なのだ。
だが里に戻れば身の危険もある。薄珂が獣化すればある程度はどうにかできるが、それでも一度立珂に大怪我を負わせている。安全を考えれば蛍宮にいるのが一番良いのだ。
(でも天藍の所から逃げ出した以上、俺が立珂を守って暮らすための手段が必要だ。最低限、家と仕事は)
これは分かっていたことだが簡単じゃない。家はどこかに天幕さえ張れればそれで良いのだが、問題は仕事だ。
以前にも少し考えたが、立珂の傍を離れずにできる仕事でなくてはいけない。
立珂の羽根を売れば生活はできるようだが、それでは世の中が羽根に価値を見出さなくなったとき薄珂と立珂には何も無くなってしまう。
だから薄珂は立珂の羽根に頼らず、かつ立珂の傍にいられる仕事が必要だった。
しかし薄珂には学も無いし特別な技術も無い。どうしたものかと迷ったが、一つだけやってみたいことがあった。
「いらっしゃいま――あら、まあ。薄珂様に立珂様」
「こんにちは、美星さん。今日は侍女のお仕事お休みなの?」
「ええ。今日はお買い物ですか?」
「ううん。響玄さんに教えて欲しいことがあるんだ」
「父にですか?」
薄珂が相談相手に選んだのは響玄だった。
薄珂は特別な技術を持っていないが、商才があると言ってくれた。お世辞かもしれないけれど、店を構えて商売をすれば立珂の傍を離れず仕事ができるのだ。
美星は少々お待ちを、と言うとすぐに響玄を連れて戻って来た。響玄は驚いたように目を丸くして、数回瞬きをしてからにこりと微笑んでくれる。
「まさか薄珂殿がお声掛け下さるとは。今日はどのようなお話でしょう」
「商売をしてみたいんだ。でもどうしたらいいか分からなくて」
「おお、やはり興味がありますか」
「というか仕事が欲しいんだ。自分たちだけで生きていけるように」
「自立ですか。まだ若いのに立派なことだ。私でよければ何なりとお手伝いしましょう」
「有難う! 実は考えてることがあるんだ」
「ほお、既に。それはどんな?」
「護栄様に立珂の羽根を売れないかなって。あっちは必要だろうし、知ってる人だから損することがあっても悪いことにはならないよね。やり方覚えてから立珂の羽根以外の商品も売りたいんだ」
「……素晴らしい。薄珂殿は実に現実的だ」
ほう、と響玄はため息を吐いて大きく頷いた。
薄珂は単に安心だと思っただけだ。それに今の薄珂と立珂には何も無い。立珂の羽根依存から脱却するにしても、今はそれを活用するしかできることがない。ならば消去法で護栄に羽根を売るしかない――というだけだった。素晴らしいと褒めてもらえるようなことではない。
けれどこの前も『現実的』と褒めてくれた。ならば自分では気づいていない武器が自分にはあるのだと信じることにした。
「しかし私を信用してよいのですか? 立珂殿を利用してやろうという悪人かもしれません」
「でも美星さんのお父さんだもん。全然知らない人よりずっと良い。それに、もしそうなら護栄様が気付いてくれる。取引相手が護栄様なら俺に危険は無いよ」
「これは恐れ入りました。いいでしょう。商売は勉強よりも実践です。護栄様と取引をしながらお教えしましょう」
「うん! 有難う!」
「『はい。有難う御座います』」
「え?」
「立珂殿もですが、あなたは礼儀を知らない。これはとてもいけない」
「礼儀?」
「そうです。商売は信用第一。相手に礼を尽くせなければ信用を得られない。認めてもらうためにも礼儀を覚えなさい。これはあなた自身のためです」
「俺自身の……」
礼儀。それは以前に護栄が学べと強いてきたことだ。そのせいで立珂が体調を崩したこともあり、礼儀だの規則だのは忌むべきことのように思っていた。
まさか薄珂と立珂のためのことだなどと思ってもみなかった。
「挨拶を返してもらえないと悲しいでしょう? そんな相手と仲良くできますか?」
「できない……」
「そう。だから人は共通の挨拶を定めています。手をこうして頭を下げる」
響玄がした姿勢は、あの嫌な女がやれと強要してきた姿勢と同じだった。
これは嫌がらせではなく薄珂と立珂のためだったのだ。嫌なことも言われたけれど、護栄は最初から薄珂と立珂のことを考えてくれていたのだ。
薄珂は同じように手を組んだけれど、立珂は嫌そうな顔をし頬を膨らませた。
「立珂はいいよ。これは俺の仕事で、立珂の仕事は元気でいることだからな」
「……うん……」
「美星さん。立珂と遊んでやってくれる? そうだ。背中の涼しい服が欲しいんだよな」
「まあ、ちょうどいい。新しい生地がありますよ。さ、立珂様」
「うんっ!」
立珂はすぐに顔を明るくして、ぴょんと美星に飛びついた。きゃっきゃとはしゃぐ姿はいつも通りなんとも愛おしい。
「立珂様は十六歳とうかがっていますが、年よりも幼く見えますね」
響玄は困ったような顔をした。それはそうだろう。挨拶を返さないのは失礼だと教えたばかりなのにそれすらしない。不愉快に思うのも仕方が無い。
けれどそれも立珂を想ってのことなのだ。ならばこちらも信頼を築く返しをすれば良い。
「立珂は十六年間歩けなかったんだ。その分を取り戻してるんだと思う。だから幼くていいんだ。俺は嬉しい」
「……そうでしたか。大変失礼を申しました」
「ううん。知らないなら知っていけばいいんだ」
護栄も護栄が用意した教育係の嫌な女とも話せば違ったのだろう。
そうすることがきっと『礼儀』だったのだ。
「立珂はこころが辛いと病気になるんだ。だから勉強は俺だけでするね」
「分かりました。では今後弟子として扱う。敬語は使わず薄珂と呼ぶ。私のことは響玄先生と呼びなさい。敬語も使うこと」
「はい、先生」
「取引き中は護栄様にも敬語だ。知り合いでも敬意を示すことを忘れるなよ」
「はい、先生」
「人前でなければ今まで通りでいい。あまり気負うな」
「はい、先生」
響玄はよし、と笑うと頭を撫でてくれた。
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