人と獣の境界線

蒼衣ユイ/広瀬由衣

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第二章 蛍宮宮廷

第八話 追い詰められた立珂【後編】

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「立珂! どうしたんだ立珂!」
「ん、ん……」
「しかりしろ! すぐ孔雀先生のとこ連れてってやるからな!」
「貧血程度で大袈裟ですよ。今医師を呼ぶのでそこに寝かせて」
「うるさい! 退け!」
「きゃあっ!」

 薄珂は莉雹に体当たりをした。本来なら注意されることだが、侍女は薄珂ではなく莉雹を押さえつけた。
 喚く莉雹の横をすり抜け、薄珂に駆け寄ったのは最も長く立珂の傍にいてくれた彩寧と美星だ。

「薄珂様は立珂様を医務局へお連れになってください。薫衣草を置いてございます」
「でも孔雀先生を呼ばないと!」
「孔雀先生の離宮は研究施設で医療道具が無いのです。私がお呼びするので彩寧様と医務局でお待ちを」
「ご安心なさってください。立珂様がお身体を崩されて以来、私共は孔雀先生に立珂様の手当を習っております」
「……分かった。ありがとう」

 美星はにこりと優しく微笑むとぱたぱたと走って行った。
 もしかしたら自分も罰を受けてしまうかもしれないのに、それでも立珂を選んでくれた愛情が嬉しかった。 

 言われた通り、薄珂は彩寧に連れられ医務局で立珂を寝台に寝かせた。彩寧は迷いなく薫衣草を取り出し立珂の傍に敷き詰めていく。
 慣れた香りに安心したが腕の中の立珂がやけに熱い。顔を覗き込むと顔中に汗をかき、髪の毛もしっとりと濡れ始めていた。

「ひどい熱だ……」
「すぐに孔雀先生がいらっしゃいます。立珂様、大丈夫ですよ」

 彩寧は布でとんとんと汗を拭うと、扇子でゆっくりと仰いでくれた。薄珂は立珂の手を握り、大丈夫だぞ、と声をかけ続けた。
 そして数分もすると孔雀が顔を青くして駆け込んできた。薄珂に声をかけることも忘れ立珂の頬に手を当てる。

「こんな、これは一体どうしたというんです」
「分からない。急に倒れたんだ」
「汗をかいてますね。彩寧殿、着替えを用意して下さい」
「承知しました。立珂様。お気に入りの向日葵色をお持ちしますからね」

 彩寧は立珂の頬を撫でると大急ぎで服を取りに向かってくれた。
 いつも立珂と遊んでくれていた彩寧は立珂の好みを把握している。どんな時でも立珂はみっともない格好をしていたくないというのも知っている。これなら目が覚めた時に気持ちよくいられるだろう。 

「あなたたちは井戸から水を汲んできてください。水道水ではなく井戸水です」

 孔雀が医務局員に指示を出した。だが医務局員は困ったように顔を見合わせ動こうとしない。

「何をしてるんです。早くしてください」
「それが、護栄様から必要以上に薄珂様と立珂様の世話を焼くなと……」
「何ですって? この子は病人ですよ。必要なことでしょう」
「しかし、その、お二人は宮廷の職員ではないから職員同等の世話は不要だとのことで」
「馬鹿なことを! この子たちは殿下の来賓! 護栄様が判断して良いことではありませんよ!」
「ですが……」
「護栄の指示は却下だ。全て孔雀の指示通りにしろ」

 ざわっと医務局の空気がどよめいた。
 医務局員を割って入って来たのは天藍だった。その後ろには美星が呼吸を荒くして控えている。天藍に報告し連れて来てくれたのだろう。

「患者の治療が最優先だ。誰に何を言われても俺の指示だと言え」
「承知致しました!」

 医務局員は安心したように息を吐き、桶を手に持ち走り出した。そのうちの一人と目が合うとにこりと微笑んでくれる。
 決して彼らは立珂を突き放したかったわけではなかったのだ。ただ護栄の指示に逆らえないだけだったのだ。そう思うと護栄と莉雹はどこまでも憎く思われた。
 怒りがふつふつと湧き上がるが、そんなことを考えている余裕は無い。立珂が薄珂を求めてもぞもぞと動いていた。

「薄珂ぁ……」
「立珂! どうした、苦しいか。俺はここにいるぞ」
「……ぎゅーして……」
「ぎゅーだな。こっちおいで」

 弱々しく伸ばされた手をしっかりと握りしめ、立珂の横に寝転がり抱き寄せる。
 立珂はきゅうっと身体を丸めて薄珂の腕の中に納まった。

「大丈夫だ。天藍が来てくれた。もう大丈夫だ」
「……でもみんな僕が嫌いなんだよね……」
「違う。みんな立珂に優しくできないのを悲しそうにしてた。優しくして良いって分かったら嬉しそうに笑ってくれた。みんな立珂が大好きなんだ」

 よしよしと頭を撫でてやると気持ちよさそうに頬を摺り寄せてきた。汗で濡れた肌はまだ熱い。
 孔雀はいつの間にか運び込まれていた水に布を浸し、そっと立珂の額を拭った。

「少し寝た方が良いです。眠れますか?」
「……寝間着に着替えないと……服くしゃくしゃになっちゃう……」
「ご安心を。お着替えの準備はできておりますよ」

 いつの間にかやって来たのは彩寧だった。手には大きな袋を持っていて、見える服は立珂のために作ってくれた服だ。

「もってきてくれたの……?」
「当然です。私共がいる限りいつでも綺麗な立珂様ですからね」
「あら、彩寧様ったら美味しいとこ取り。私も新しく仕立てた服を着ていただきたいのに」

 ひょいと彩寧の後ろから顔を出したのは美星だ。
 ぷうっと頬を膨らませ、ぷんぷんと可愛らしく怒っている。

「服……またつくってくれたの……?」
「ええ。実は父が張り切ってしまって。新しい生地を取り寄せて仕立てたのです。お気に召したか報告しろとうるさいのなんの」
「……えへへ……うれしい……」
「ぜひ父に言ってやってください。早く元気になって遊びに来て下さいませね」
「うん……あそぶ、あそぶよ……」

 ふふふ、とようやく立珂はふにゃふにゃと幸せそうに微笑み、しばらくするとぷうぷうと心地よい寝息を立て始めた。
 薄珂の腕の中で眠る姿に全員が胸を撫でおろしたが、それは天藍も同じだった。
 立珂の顔を覗き込みふうと安堵して息を付いている。

「薄珂。すまなかった。護栄には」
「近付かないで」

 薄珂は振り返らなかった。天藍に背を向けたまましっかりと立珂を抱きしめる。

「……すまない」
「聞きたくない。出て行って」

 天藍のせいなのか、護栄のせいなのか、莉雹のせいなのか。
 薄珂には誰が悪いとも言い切れず、ただただ宮廷の全てが憎かった。
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