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鯉屋の跡取り編

プロローグ 鯉屋の跡取り就任

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 ゆいが死ぬ間際に思ったのは、友達とお祭りに行く双子の兄・累を笑顔で送り出した事への後悔だった。
 薄れていく意識の中で両親がしきりに名前を呼んでくるのは聴こえていたけれど、金魚をすくって帰って来ると約束してくれた兄の声は聴こえてこない。
 兄が抱きしめてくれるのを待ちながら、結は二十二年という短い生涯を終えた。

 が。

 「……金魚って飛ぶんだ……」

 死んだはずの結の視界に飛び込んできたのは悠然と宙を泳ぐ金魚だった。
 両手でも抱えきれないであろうでっぷりとした重量感ある身体。えら呼吸でどうやって酸素の中を飛んでいるんだろう――そこまで考えて結は飛び起きた。

 「飛ばなーい!!」

 驚きに任せて身体を起こすと、病に侵され重たいはずの身体は健康体の様に軽かった。
 飛び起きた勢いでころんと前方に転がってしまい、人生初のでんぐり返しに何が起きたか分からず呆然とする。
 転がり切る前に止まった状態からうんしょと座り直し周囲を見回した。

 視界に飛び込んできたのは、三百六十度ぐるりと囲む水壁だった。水壁の中には錦鯉が泳いでいて、鱗が陽の光を浴びてきらきらと輝いている。空中には無数の金魚が飛んでいて、光を跳ね返すとルビーの様に輝いた。
 足元を見ると床は朱塗りで柱も朱塗り。まるで厳島神社を水中に沈めたような景色は結の好きなファンタジー小説を思い出させる。
 ここがどこなのかは分からなかったけれど、寝かされているのがふかふかの布団であるあたり病院でない事は確実だった。

 「……累?いるんでしょ?僕起きたよ」

 理解の追い付かない状況に困惑し、兄に助けを求めても返答はなかった。
 その代わりに、周囲の涼やかな水音に溶け込むような軽やかな声が聴こえてくる。

 「お目覚めですか、結様」

 声のした方向を振り返ると、水壁の中にぽつんと黄金の襖が立っていた。そこから錦鯉のような着物姿の女が入ってくる。
 どんな男も魅了するであろう美貌はこの美しい景色を背負うに相応しく、結も目を奪われため息を吐いた。

 「私は魂の輪廻を司る《鯉屋》の当主、紫音。結様がお越し下さるのをお待ちしておりました」
 「……棗結です」

 訳も分からず自己紹介だけすると、女は鯉の鱗柄をした黒い羽織を掛けてくれた。
 女が言うには、ここは現世と魂が生きる世界の狭間にあるらしい。
 生者の魂は死後昇天するのが理だが、未練を持って死んだ魂は金魚になり、恨みに捕らわれた魂は出目金になり他者の魂を食らうのだという。
 金魚は輪廻転生させ新たな人生で昇天のチャンスを与えるが、出目金は転生してもなお魂を食おうとするため現世で犯罪を犯してしまう。なので出目金は鯉屋で完全消去するとの事だ。
 だが出目金を消す事ができるのは現世から招く《鯉屋の跡取り》だけで、跡取りを招待できるのは鯉屋の当主が生涯で一度きり。
 そして現鯉屋当主である紫音が招いたのが結だそうだ。

 (……美人なんだけどなあ……)

 女の馬鹿げた説明に、結はすんっと一瞬にして魅了された心を取り戻した。
 だが頭から否定しようにも金魚が宙を泳いでいるのは事実だ。CGかとも思ったが、花瓶にぶつかれば花を揺らす。物理的に存在しているのだ。
 しかしそれは逆に、何かしらのトリックがある証拠なのではとも思えた。

 「信じては頂けませんか」
 「……ええ、まあ……」
 「ですが信じて頂かねば結様も金魚になってしまいます」

 女は結の足を指差した。その視線の先には当然結の足がある。あるはずだった。

 「……金魚の尾?何ですかこれ!足が金魚になってる!」
 「お亡くなりになった時強い未練を感じました。確か兄上様に会いたいと」
 「累への未練で金魚になるっていうんですか!?」
 「はい。昇天も輪廻もできるのは現世のみ。ここで金魚になれば悠久の時を孤独に生きる事になります」

 生前は病気のせいで普通の人と同じ生活を送る事はできなかった。死んだ後まで同じ事を強いられては、結は永遠に苦しみと孤独の中だ。 
 既に膝から下はすっかり金魚の尾になっていて、身体に向けてじわりじわりと鱗が広がっていく。

 「い、嫌です!助けて下さい!」
 「私は魂の理に従うのみ。ですが跡取りの側仕えになる金魚屋ならば金魚化を防げます」
 「……助かりたければ跡取りをやれという事ですか」

 まるで脅迫だ。だが逃げようにも金魚の尾になった脚はくにゃりと曲がり、ひらひらと宙を揺らめくだけだ。
 人ではなくなる恐怖に震えたけれど、女はにこりと優しく微笑んで結の脚――尾をそっと撫でた。

 「結様。跡取りになれば魂として生きる事になりますが、肉体は死んでいるので病に苦しむ事がありません」
 「……え?健康に暮らせるって事ですか?」
 「ええ。きっと現世で諦めた事が叶えられるはず」
 「え、あの、それって走ったり遊んだり学校に通ったり……と、友達作ったり、できますか……」
 「もちろんです。金魚屋は常にお側におりますし、同じ年頃の者も大勢おります。友はいくらでもできましょう。鯉屋の経営にも携わって頂くので、嫌でも勉学に励んで頂く事になりますよ」

 女がつらつらと並べた跡取り生活は結にとってこれ以上ないほど魅力的だった。
 外出は必ず誰かと一緒だった。兄は友達を連れて賑やかにしてくれたけれど、彼らは自分から会いに来てはくれない。結自身の友達など一人もいなかった。遊び相手はパソコンだけだ。
 もっと遊びたいし学校に通って色んな勉強がしたい。それが全て叶うのだ。

 「跡取りとなり出目金を退治していただけますか」
 「……やります。やります!鯉屋の跡取り!」
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