国家公務員募集Ⅲ種試験

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国家公務員募集Ⅲ種試験

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  テレビドラマ小説 国家公務員募集Ⅲ種試験(税務大学校編)

   はじめに


 「今頃どうしたの?」
 一目惚れして結婚、四五年連れ添う妻から、尋ねられた。
 いつもであれば、食事の後、妻の横に座ってテレビを見ながら、つまらない話をして過ごしていた私が、税理士の仕事の合間に、毎日、パソコンに向かって原稿を書いているのを見て、思ったのであろう。
 なるほど、今になって、五〇年前のことをお話しすることは、私にとっても思ってもいなかったことであるが、なぜか、誰かに無性にお話しをしたくなっていた。

 私の生まれ育った村は、現在、人口が一〇〇〇人をきってしまった過疎化の厳しい、小さな農業を中心とする村で、唯一の公共交通機関は、日本国有鉄道であった。
 その日本国有鉄道も、赤字経営の現状から抜け出すことが出来ず、廃線を求められていたのである。
 当時は、日本国有鉄道の分岐点として、四〇〇〇人を超える村民が住んでいたように記憶している。
 そんなことを思い出すのに、この五〇年間に村へ行ったことの記憶が少なかった。
 何度か仕事で通過することがあったが、いや、やはり行ったことがないと言っていいだろう。

 私の父は、その日本国有鉄道に務める国鉄マンで、線路の保線管理の仕事をしていた。
 お酒の好きな父は、実の両親を知らず、小さい頃、いや、生まれてすぐ、妹といわれている母親から育ての親となっている姉の元で育てられたと聞いているが、その事については、定かではなかった。
 とにかく、飲むと陽気になる人だった。
 そんな父が、私は、とても好きだった。
 
   母は、父の飲む酒代を工面するのに、理容師の資格をフルに活用して、苦労していた。
 国鉄の宿舎に生まれ育ち、学生時代父の傍らで除雪のアルバイトをして、父の背中を見ていたことから、少ない情報の選択肢の中であったが、卒業後は国鉄に就職することを当然のように夢見ていた。
 しかし、高校を卒業する年に、日本国有鉄道の民営化の改革から、就職試験が廃止となり、小さい頃から夢見てきた目標が無くなってしまった。

 高校では、それなりに勉学を重ねてきたつもりではあったが、大学に行く学力も乏しく、また、我が家の経済力もさらに乏しい状況から、友人に誘われ参加した高校の就職説明会において、とりあえず、国家公務員Ⅲ種試験と地方公務員試験を受けることとし、時の流れに身を任せるように、受験願書を提出していた。

 その結果、どういうわけか運良く国家公務員Ⅲ種試験に合格し、翌年、札幌にあった税務大学校に入校し、一年間の研修後、無事、帯広税務署に配属され、その後四〇年間、各地の税務署を転々と渡り歩きながら勤務し、退職にあたり税理士の資格をいただき、現在に至るのであるが、今振り返ると、不思議なものである。

 あのとき、国鉄の就職試験があったら、あのとき、地方公務員試験に合格していたら、「たられば」の話のことであるが、今こうしてお話しをすることは、ないのである。

 時の流れに身を任せるような、そんな就職活動を行っていた翌年、世界の経済は大きく変動し、その後の日本経済に大きな影響を与え、就職戦線に大きな変化が生じ、企業の新規採用者が激減したのであった。
 まさに、「たられば」の世界であった。


   目 次


  第一次試験
  動 機(その一)
  動 機(その二)
  第二次試験
  面接試験 (その一)
  面接試験 (その二)
  合格通知
  入校の日
  税務大学校 (生活編・その一)
  税務大学校 (生活編・その二)
  卒業の日


   第一次試験


 平成五年九月十二日(日)、全国一斉に国家公務員募集Ⅲ種試験が、全国の主要都市の公立高校を試験会場として行われた。
 試験開始は、午前九時となっていた。
 周知のことであるが、国家公務員の募集試験はⅠ種・Ⅱ種・Ⅲ種と分けられており、それぞれ大学・短大・高卒程度と、試験問題の内容で区分されている。
 ここ、旭川東高校を試験会場とする各教室では、人の気配を感じさせないほど静かであった。
 ただ、夏の暑い日差しがサンサンと廊下に降り注いでいる…。

 遠くから、人の声が聞こえてきた。
 「ただいまから、試験問題と答案用紙を配りますので、受験者は、受験番号と自分の名前を記入し、開始時間まで静かに待っていてください」と、試験官の説明が教室内に響いた。
 試験内容の説明が終了すると、三人の係員が試験問題と答案用紙を机の上に配り始めた。
 受験生たちは、試験官の説明に従って、受験番号と名前を答案用紙に確かめるように書いていった。
 教室に、鉛筆の走る音だけが響いていた。

 「受験番号と名前を書きましたか?」と、試験官の声が響いたが、返事をする受験生は誰一人いなかった。
 「試験開始まで、あと五分間ほどあります。静かにお待ちください」と、説明が続いた。

 教室は、静かだった…。
 教室の壁の時計の音が、妙に大きく聞こえる。
 宇宙ロケットの発射の秒読みを待つような緊張感が教室をつつんでいた。
 「長い…」と、誰しもがつぶやきたいほど長く感じられた。
 そして、教室は、暑かった。

 「始めてください」と、試験開始の合図があった。
 試験問題は、全部で四五問、時間は一時間四〇分である。
 国家公務員募集Ⅲ種試験の受験者は、全国で約十三万人にも達するのであった。
 受験倍率は、約十倍である。
 ある意味では、四五問の五者択一の問題によって、その人の人生が決まるのである。

 この試験を受験する者の多くは、来年高校を卒業する高校生達である。
 それぞれの受験の動機は、様々なものがあろう。
 興味本位ではあるが、彼等の受験の動機をかい間見てみることにしてみよう…。


   動 機  (その一)


 北海道旭川市の河川敷に広がる、すそ野の小高い丘の上に、白く光り輝く洋風の建物が見える。
 その白い建物は、バブル経済の成金が建てたと思われるほどのヨーロッパ風の建物であるが、そのようないわく曰く付きの建物ではなく、私立の高等学校の校舎である。
 ここで、普通であれば、可愛らしい女子高生の声が聞こえてくる予定となるはずなのであるが、残念なことにこの高等学校は、いかつい男子校である。
 「おかげさまで」とでも言うべきか、珍しく今日一日、暴力沙汰もなく授業が終了しようとしている。

 三年B組の教室では、社会科担当の今西先生が、六時間目の最後の授業をしていた。
 今日は、いつになく授業に熱が入り、時間いっぱいになっていた。
 生徒達の多くは、早く授業が終わらないかと心待ちにしていた。

 「ジリ、ジリ、ジリン」
 その思いが通じ、救われるかのように、終了のベルが鳴る。
 生徒達は、われさきに帰る支度を始めた。

 今西先生は、そんな生徒達の行動を遮るように言った。
 「エー、今日の授業はここまで、来週は十八ページから始めるので予習をしてくるように…」
 「ああ! それから、来年の就職の希望者は、視聴覚教室に集まるように…」
 「荒川! 忘れるなよ」

 「チェ!」と、呼ばれた荒川は、面白くなさそうにつぶやいた。
 「なんで、オレの名前を呼ぶんだよ。 他にもいるじゃないか」と思ったが、今西先生には怖くて言えなかった。

 「先生! オレ、今日、用事があるんですが…」
 「用事。 いつもの仲間と会うことか?」
 「そうです。約束ですから」
 「あいつらも来ることになるから、大丈夫だ。」
 「いいから、来いよ。わかったか?」
 「はーい。わかりました!」と言いながら、荒川は、鞄を肩にかけて足早に教室を出て行った。

 荒川が視聴覚室に入ってきたとき、教室には、来年就職を希望する生徒達が、すでに集まっていた。
 この学校は一応進学校と称していることから、五十人ほどしか集まっていなかった。
 生徒達は、教室の中で好きなように集まって話をしていた。

 「これだけか?」
 気がつくと、就職担当の山田先生が教壇に立っていたのである。
 「静かに! 各自好きなところに座るように。早くしろよ!」と言って、生徒達が席に座るのを待っていた。

 「今日は、旭川中税務署から税務職員の募集の説明のため、担当者が来ています。」
 「これから、一時間位の間、募集要項などの説明が行われるので、みんな静かに聞くように」
 「一時間もかよう!」と、A組の田中が叫んだ。
 「一時間ぐらい我慢しろ。」
 「じゃ、これから教室に案内するので、それまで少し待つように…」
 そう言って、山田先生は、教室を出て行った。

 「おい。税務署だってよ」と、C組の木下が冷やかし気味に言った。
 「バーカじゃないか。 そんなカタイところ、受けるやつなんか、居るわけない、じゃんか」と、D組の横山がおどけて言った。
 「荒川! おまえ受けるのか?」と、隣に座っていた川辺が聞いた。
 「おれか…?」と言って、お前と同じというような顔をして、返事をにごした。

 荒川の心は、進学と就職の選択に揺れ動いていて、実際のところ、どうしようかと迷っていたのである。
 公務員は安定している職業なので、できれば受けたかったが…税務署のことは何も知らなかった。
 「そんなとこ、受けられるかよな!」
 「試験なんか難しくて、受けても受からないよな?」

 そんな生徒同士の会話が盛り上がっていたとき、山田先生と旭川中税務署の担当者らしい人が教室に入ってきた。
 山田先生の後ろから続いて入ってきたのは、どことなくエリート風に背広を着こなした、眼光の厳しい男だったので、生徒達は急に静かになった。
 しかし、その男の後から教室に入ってきた三人の女性を見て、生徒一同は思わず「おー!」という歓喜の声をあげようとしたのである。

 教室に入ってきたのは、濃紺のミニのワンピースを着た、スマートな三人の女性達であった。
 お堅い税務署には、不釣り合いと言っていいほどの、モデルのような女性達である。
 教室の雰囲気は、一変してしまった。

 「お待たせしました。」
 「ただいまから、旭川中税務署総務課の松田課長補佐から『税務職員になるためには』と題して、説明をいただきますので、みなさん静かに聞いてください」
 「では、よろしくお願いします」と、山田先生の紹介が終わると、松田課長補佐は、ゆっくりと教壇に上がってきた。

 「ただいま、山田先生から紹介いただきました松田です」
 「今日は皆さんの貴重な時間をいただき、ありがとうございます」
 「これから一時間程の間、『税務職員になるためには』として、説明をさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
 挨拶をすませた松田課長補佐の合図により、横に立っていた三人の女性達は、持参したパンフレットを、生徒の一人一人に配りはじめた。

 教室の男子生徒達の目は、その女性達の一挙一動に注がれている。
 「税務署には、こんな女性もいるのか…」
 そんなつぶやきが、聞こえてきたような気がしたのは、荒川の空耳であろうか?
 まさに、男子校ならではの情景であった。

 松田課長補佐の説明は続いていたが、男子生徒達は、横に立っている三人の女性達に目を奪われていた。
 もとより、松田課長補佐のねらいも、実はそこにあったのである。
 そんな生徒達の姿を見て、松田課長補佐は、ここに来る前のことを思い出していた。

 「松田課長補佐、ちょっと」
 小西課長は、小声で呼んだ。
 「はい」
 松田課長補佐は、小西課長の席に近づいていった。
 「課長、お呼びでしょうか?」
 「ああ、じつは、補佐に聞きたいのだが、今年の職員募集についてなんだが…」
 「と、言いますと?」
 「例年応募者が横ばい傾向なので、今年はより多くの募集をと考えているのだが、何かいいアイデアはないものかと思ってね」
 「アイデアですか…?」

 小西課長の話から、松田課長補佐は、いくつかのアイデアを考え、今年は三人の女性職員を選抜して、募集キャンペーンをしてみようという結論に達し、今日の方法を決定したのであった。
 そして、男子校に対しては、女性職員を配し、一方、女子校では、男子職員を配す。
 また、共学校では、混合編成にて対応することとしたのであった。
 すでに、二~三の学校を回った感触から、「してやったり」の効果をえているので、この学校も同様の結果となろうことは言うまでもなかった。

 荒川に対して、特にその効果は抜群のものがあった。
 荒川は、「よーし!」と、思わず力んでいたのである。
 松田課長補佐の説明が終了した後、山田先生の求めにより、教室内で三人の女性職員による質問コーナーが、もうけられることになったのである。
 生徒達は、たいした質問もないのだが、なんとか話をしたいと思うのか、各自質問を無理矢理作って、それぞれ希望の女性職員のところへ集まった。

 誰一人、教室を出て行く生徒はいない。
説明会は、一時間で終了したのであったが、すぐ教室を出て行く生徒はいなかった。
 教室では、三人の女性職員について、生徒達が集めた情報の交換が盛んに行われているのである。
 「よーし! やるぞー!」と言う、斉藤の叫び声に、教室内に爆笑の声が響いた。

 荒川もまた、同じ気持ちであった。
 声には出さなかったが、受験への思いは強烈であった。
 教室から出る荒川のその手には、受験申込書が握られていた。
 放課後の仲間との集合の約束も忘れ、荒川は、滅多に行くことがない、近所の本屋に立ち寄った。

 「おじさん。国家公務員Ⅲ種試験の問題集、どこにありますか?」
 「国家公務員Ⅲ種試験の問題集? お前が受けるのか?」
 「はい。」
 「じゃ、これがいいだろう」
 荒川は、本屋のおじさんが選んでくれた三冊の問題集を買って、足早に家に帰ったのである。

 「お帰り。どうしたの?」と、母が聞いた。
 珍しく帰りの早い息子に、母親の幸子は、体の具合でも悪いのかと心配した。
 「別に…。」と言って、荒川は、自分の部屋に行った。

 机の前に向かって、三冊の問題集を見ながら、本屋のおじさんが言っていた言葉を思い出していた。
 「この三冊の問題集をよく読めば、間違いなく国家公務員試験に受かるよ。」
 「全部暗記するまで読む、んだな」
 今まで、自分で進んで勉強することのなかった荒川であったが、今日からは違った。
 「よーし!」という、熱い思いが身体中にこみ上げてくるのである。
 荒川の動機は、不純なものであったが、一つの目標を見つけ、それに向かって進む姿は、まさに青春の輝きとなって見えるのである。

 「ご飯よ!」と、遠くから母の声が聞こえているような気がする。
 荒川は、三冊の問題集を枕に、いつしか眠ってしまっていた。
 夢は、合格通知を手にしているのである。
 こうして、明日の税務職員をめざす、一人が誕生したのであった。


   動 機 (その二)


 一九七四年一二月二五日(金)、午前四時、小鳥のさえずりが一日の始まりを伝える。
 繁華街の朝は、静かに明けてきた。
 昨夜のクリスマスイブで混雑した人並みが、嘘のように静かであった。

 三六街の一角に、ストリップ劇場「ミナミ」は、建っていた。
 昨夜、劇場を埋めていたのは、家族との団らんを迎えられなかった、単身赴任の中年の男達の一団であった。
 今日一日の寂しさを忘れるかのように、時には静かに、そして、哀愁に惹かれるような目線で、男達はダンサーを追っていた。

 ダンサーの一人、道子は、ダンサーとしてはもう年を取り過ぎていたが、他に仕事の当てもないことから、生きてゆくためには仕方がないとして働いていた。
 そんな思いが、道子に早い朝を迎えさせたのである。

 布団の中で、目を覚ました道子は、朝明けの光とともに、遠くから赤ん坊の泣き声が聞こえるような気がした…。
 道子は、遠くから聞こえる赤ん坊の泣き声に誘われるように、ベランダの窓を開けた。
 まぶしいほどの太陽の光を浴び、生きている喜びを感じさせた。
 小鳥のさえずりの中に、確かに、赤ん坊の声が聞こえるのである。
 遠くから聞こえる赤ん坊の泣き声に、道子はじっとしていられなかった。

 道子は、一度、幸せとは言えないものの、結婚生活をしたことが過去の履歴がある。
 しかし、結婚生活の幸せは続かず、子供を身ごもったものの、不運にも育たず流産をした。
 それが原因となり離婚、現在に至るのであった。
 道子は、ガウンをまとい、泣き声に惹かれるように、急ぎ足で通りに出て行った。

 「赤ん坊の泣き声が聞こえる」
 確かに、道子には聞こえるのである。
 道子は、早足で泣き声のする方向へ歩いて行った。

 通りの横道に入ったところで、若者がよく持っているバックが置かれているのが目に入った。
 道子は、急いでそのバックに近づき、そっとのぞき込んだ。
 バックの中には、いま生まれたばかりというような、可愛らしい赤ん坊が入っていたのである。

 道子は、弱々しい声で泣いている赤ん坊を、優しく抱き上げガウンの中へ入れた。
 ガウンを通して、「冷たい」と叫びたいほど、赤ん坊の身体は冷えていた。
 道子は、さらに、胸の奥へ押ししまうかのように、赤ん坊を抱きしめ、足早に部屋に戻った。

 部屋に戻った道子は、胸の奥に抱えていた赤ん坊の顔をそっと見た。
 赤ん坊の顔は、少しずつ温かみを取り戻し、薄紅色をしていた。
 赤ん坊の小さな手は、何かを探すようにゆっくりと動いていた。
 そう、母親の乳房を探しているようであった。

 道子は、赤ん坊の小さな唇に、乳房をちかづけた。
 赤ん坊は、乳房を強く吸った。
 「何も出なくて、ごめんね」と、道子は、痛いほど乳房を吸っている赤ん坊に言った。
 しばらくすると、赤ん坊は疲れたのか、乳房を口にしたまま安心したように、すやすやと眠りだした。

 「道子さん、駄目だよ。ね!」
 「道子。やっぱり行こうよ。」
 ストリップ劇場の支配人とダンサーの仲間達は、赤ん坊を抱いている道子に、すぐ警察へ届けるように勧めた。
 「いや。この赤ん坊は、サンタクロースが、私にくれたクリスマスプレゼントよ。」と、道子は、駄々をこねて言った。
 「でもね…」と言って、赤ん坊を離さない道子をみて、みんなは困ったような顔をして見ていた。

 道子にとって、その赤ん坊は、昔自分が死なせてしまった子供のように思えてならなかった…。
 道子は、支配人と仲間達の説得にもかかわらず、自分が育てるとして譲らなかった。
 仕方なく、支配人が警察に相談した結果、支配人夫婦の保証のもと、育てることを了承してもらうことができたのである。
 路地裏に捨てられていた赤ん坊は、道子の姓をもらい、山本幸男と命名された。

 あれから六年、赤ん坊はもう小学校へ上がろうとしていた。
 それ以後の道子は、生きる喜びを幸男に感じていた。
 地方巡業の時は、支配人夫婦に世話をお願いし、一生懸命育てた。
 劇場の支配人夫婦も、子供に恵まれなかったので、幸男を快く引き受け、自分たちもまた、幸男を子供のように育てたのであった。

 しかし、そんな道子は、もうこの世にはいない…。
 幸男のミルク代を稼ぐために、巡業先で無理をして働いたことが原因で体を壊し、亡くなったのである。
 幸男の、小学校入学を前にしての出来事であった。

 道子は、自分の死期を悟っていたのであろうか?
 一年前に、幸男を受取人とした生命保険に入っていたのである。
 支配人夫婦は、それを幸男の将来のためにと銀行に預け入れた。
 そして、支配人夫婦は、道子の亡くなったあと、幸男を自分たちの子供として育てることにしたのである。
 町の路地裏で拾われた赤ん坊は、山本幸男としてすくすくと成長し、もうすぐ高校生活を終えようとしていた。

 幸男が高校に入った頃、支配人夫婦は、交通事故で亡くなり、幸男は天涯孤独となってしまったが、支配人の遺言により、劇場の一室を使わしてもらうことができた。
 生活費は、道子の残してくれたお金とストリップ劇場のアルバイトによって賄うことができたのである。

 幸男は、高校卒業を目の前にして、自分の進む道を探しあぐねていた。
 しかし、この生活状況のままでは終わりたくなかった。
 自分をここまで育て上げてくれた人達のことを思うと、そう考えるのである。

 幸男は、自分の部屋で勉強をしていた。
 もうすぐ、ストリップ劇場「ミナミ」のショーが全て終わろうとしていた。
 劇場の観客の熱気が、この部屋にも伝わってくる。
 「さて、劇場の掃除の用意でもしようか」と、幸男は考えていた。
 彼の毎日の仕事であった。

 そのとき、劇場の外が騒がしくなった。
 「ピー!」と、笛の音がした。
 そして、「ぱっ」と、部屋の電気が消え、周囲は真っ暗になった。
 劇場の外では、人の怒鳴り声が入り混じり、騒然としていた。
 幸男は、慌てず、けっして自分の部屋を出なかった。

 昔、幸男が小さい頃、一度同じようなことがあったとき、支配人の奥さんに「静かになるまでけっして部屋を出てはいけない」と、言われたことが記憶の奥の引き出しにあったからである。
 そのとき、「ガタ」と音がして、誰かが部屋に入ってきた気がした。
 「だれ?」と、幸男は暗闇へ声をかけた。
 確かに、人の気配がしたのであるが、返事はなかった。

 あれから、どのぐらいの時間がたったであろうか、「パッ」と、電気がついて、部屋が明るくなった。
と同時に、ドアが開いた。

 「お前一人か?」と言って、男が入ってきた。
 「はい」と、幸男が答えた。
 「ここに、誰か入ってこなかったか?」
 「いいえ」と、答えた。
 男が部屋を捜すような仕草をしたとき、一人の警察官が部屋に入って来て、急いで男に来るよう、話しをした。
 「何か変わったことがあったら、すぐ警察に連絡するように」と言って、男は警察官と一緒に部屋を出て行った。

 さらに、どれほどの時間がたったであろうか。
 幸男は、何事もなかったかのように、けっして部屋を出ようとはしなかった。
 支配人の奥様の言葉を守るとともに、先ほどの人の気配が気になったからである。

 外に静けさが戻ってきた…。
 幸男が部屋の外の様子を見ようと立ち上がったとき、幸男のベッドの布団が動いた。
 誰かがいる。

 「そこにいるのは誰?」と、近づいて声をかけた。
 「大丈夫?」と、布団の中から女性の声がした。
 「大丈夫だよ」と、幸男は返事をした。
 「本当に、大丈夫?」と言って、布団の中から出てきたのは、今朝巡業先から来た若いダンサーの見習いであった。
 シーツを身体にまとい、怯えながら出てきた。

 「ごめんね。迷惑かけちゃって…」
 「いや、いい、んですよ。」
 「でも、良かったですね」
 「ありがとう。」
 「警察の手入れなんて、初めてだったもん、だから…」と、ほっとしたように話し始めた。

 幸男は、シーツを身体にまとっているダンサーを見ていた。
 ダンサーも見られているのを感じて、互いに恥ずかしくなっていった。
 「これで良かったら、着てください」と、幸男はパジャマを差し出した。
 「ありがとう。後ろ、向いてくれる」
 「うん」
 ダンサーがパジャマに着替える服の音だけが、静かな部屋に響いた。

 「もういいわよ」と言って、ダンサーはほっとした感じで笑った。
 「コーヒーでも飲む?」
 「ええ、いただくわ」
 幸男が差し出したコーヒーを美味しそうに飲みながら、ダンサーは自分のことを話し始めた。

 それから、若い二人は、眠ることを忘れ、自分たちのことを話し合った。
 ダンサーの名前は、「森恵美」と言った。
 恵美もまた、自分と同じように天涯孤独の独り身であった。
 恵美は、赤ん坊の時に捨てられ、孤児院に預けられたのだった。
 そこで、中学まで生活していたが、中学卒業と同時に、ある紡績会社に勤務して、夜間の高校に通っていたのである。

 しかし、会社の人員整理にあい、仕方なく、ダンサー見習いになったのである。
 でも、今日初めてのショーで手入れにあった恐怖から、もう、ダンサーをやめようと思ったと話していた。
 そして、自分のような弱い者をいじめるような人達が世の中に多いので、幸男に、そんな人を懲らしめるようにして欲しいと、話しをしていた。
 そんな恵美の話から、幸男は、これからの自分の進むべき方向を、少しずつ見いだしていたのである。

 その夜二人は、幸男はソファーで、恵美は、ベッドで眠った。
 翌朝、恵美は、自分の育った孤児院へ帰っていった。
 二人は、来年のクリスマスにもう一度会うことを約束していた。
 その後、幸男は、学校の国家公務員試験の説明会で税務職員という職業を知るのである。
 ここにまた一人、明日の税務職員をめざす者が生まれた。

 このような、さまざまな動機から、国家公務員募集Ⅲ種試験を受験するのである。
 第一次試験の合格発表は、十月十五日(金)に予定されている。


   第二次試験


 平成五年十月二十日(水)第一次試験の難関を無事くぐり抜けた受験者たちは、指定された税務署において第二次試験にのぞむのであった。

 第二次試験は、税務署の署長室を試験会場とする、面接試験である。
 国税局の人事担当者に加え、現場の署長が一人一人に対し、様々な質問を行い、合格者を決定してゆくのである。
 試験官は、税務署において調査等を二〇年以上も行ってきたベテランであることから、人物を見抜く力量は定評があり厳しいものである。

 十月二十日(水)の朝、旭川中税務署の玄関前には、立て看板が立てられていた。
 「平成五年度 国家公務員募集Ⅲ種試験面接会場」と、書かれてあった。
 午前九時の集合時間に合わせて、若い赤ら顔の受験生達が、それぞれの学校の制服を着て、緊張の面持ちでやってくるのである。

 税務署の会議室では、緊張している受験生を前にして、試験係員が説明をしている。

 「今日の試験日程を説明します」
 「これから、健康診断のためバスに乗車し病院へ行きます。その後、ここに戻り、面接試験を行います。」
 「面接試験は、一人ずつ呼ばれますので、あまり緊張しますと、試験までに疲れてしまいます。リラックスするように務めてください」

 とは言っても、受験生にとっては、なかなかリラックスできないものである。
 そのため、試験係員は、つとめて試験に関係のない話を受験生とするのであるが、これもまた試験の一部であったりするのであった。
 受験生の皆さん、くれぐれも油断、め、さるなかれ・・・。

 今年の受験生には、美人が多いと思うのは、私の希望的観測に過ぎないのであろうか?
 面接試験の時間は、刻々とちかづくのであった。


   面接試験 (その一)


 早川弘治が、面接試験会場に呼ばれた。
 学校での予行演習どおり、「トントン」と、部屋のドアをノックする。

 「お入りください」と、中から声がした。
 「失礼します」と言って、早川は中央に置かれている椅子の後ろに立った。
 「どうぞ、椅子にお掛けください」と言われ、黙礼をして椅子に座った。
 「あなたの名前は?」
 「早川弘治です」
 彼の前には、三人の試験官が座っていた。

 試験官はゆっくり質問を始めた。
 「あなたが、ここを受験した動機は何ですか?」と、一人の試験官が質問した。
 「私がここを受験したのは、ある出来事に遭遇したことがきっかけとなったのですが、その事については、そのときあった人と秘密にするという、約束をしてしまったので、お話ししていいものかと…。」
 早川は、口をつぐんでしまった。

 「あなたの一生を決定することになるのかもしれませんので、ここを受験した動機となったことであれば話をしても言いように思いますが。」
 「もちろん、その人との秘密については、私たちも守ることをお約束しますが…」

 早川は、しばらく考えてから、「わかりました。お話しいたします。」と言って、一年前に自分の前で起こった出来事について話し始めた。

 市内の高級住宅街といわれる住吉町のとある家では、新聞配達の青年とご主人の挨拶で、朝が明けるのであった。
 家のご主人、鎌田為吉は、貧しい家に生まれ、子供の頃、新聞配達をして苦労して生活をしてきた。
 その事が、鎌田為吉の毎日新聞を受け取るという、朝の日課とさせていたのである。

 ある日のいつもと変わりない早朝、新聞配達をしてから、高校へ通っていた早川弘治は、いつものようにいつもの時間に、鎌田為吉の家に新聞を配達するのである。

 彼を待つため、鎌田為吉は、門のところに立っていた。
 「おはようございます」と、早川弘治の挨拶を待ちわびているかのように…。
 「おはよう。今日も元気そうだね」と、鎌田為吉は声をかけ、新聞を受け取った。

 ちょうどそのとき、そんな日常を打ち破るように、「鎌田為吉さんですね…」と言って、紺色の背広を着た男の人が、ゆっくりと近づいてきた。
 男の後ろには、数人の男達が続いていた。
 鎌田為吉は、「そうですが…」と、何かを察したように平成を装って答えた。
 「札幌国税局査察部の者ですが、所得税法違反の容疑により強制捜査を行います。」と言って、鎌田為吉の持った新聞を受け取った。
 「わかりました」と、鎌田為吉はゆっくり答えた。
 返事をするのと同時に、後ろに立っていた男達が、家の中に入っていった。

 「君の名前は?」と、男は尋ねた。
 「早川弘治です」と、彼は答えた。
 「新聞配達の途中で、脅かして申し訳ない。」
 「今君の見たことは、私の仕事にとって、とても大事なことなので、悪いが私と君の秘密にしておいて欲しい、ん、だけどねえ…」
 「お仕事のことはよくわかりませんが、秘密と言うことであれば、お約束します。」
 「ありがとう。じゃ…」と言って、男は鎌田為吉と一緒に家の中に入っていった。

 周囲は、何事もなかったかのように静かであった。
 木立の上では、小鳥が朝明けを喜ぶように、朝の歌を歌っていた。
 早川弘治は、目の前で起こった出来事で、朝の静けさを打ち消すように高鳴っていた。
 「秘密か…」とつぶやいて、新聞を抱え直し、何事もなかったかのように走り出した。
 郵便受けには、なぜか朝刊が差し入れられていた。

 三人の試験官の前で、受験の動機を話した早川弘治は、なんとなく照れくさくなっていた。
 それは、何となく作り話のように、自分にも思えたからであった。

 すると、一人の試験官が言った。
 「そうか!」
 「どこかで見たことがあると思っていたが、あのときの少年か」
 「えっ!」
 早川弘治は、びっくりして試験官を見た。

 「私ですよ。」
 「あのとき、君と秘密の約束をしたのは」
 「はい…」と言って、早川弘治には、次の言葉が出てこなかった。
 二人の試験官は、その話から納得したようにうなずいていた。

 「すいません。 秘密のことを話してしまいまして…」と、早川弘治は思わず謝ってしまった。
 「いや。いい話を聞かせてもらいましたよ」と、隣の試験官が答えた。
 そんなことがあって、その後の質問についてきちんと答えてはいたが、早川弘治にはよく覚えていなかった。

 早川弘治の面接試験は、無事に終わった。
 旭川中税務署の玄関を出るとき、早川弘治は思った。
 「人との出会いとは、不思議なものだなあ…」と。
 太陽の光は、真上から暖かく早川弘治を照らしていた。


   面接試験 (その二)


 山下信子は、父に国家公務員Ⅲ種試験を受験していることを隠していた。
 山下信子の父は、札幌中税務署に勤務している。
 担当は、資産税事務であり、相続税・贈与税・財産評価、そして譲渡所得を担当する調査官として働いているのである。
 山下信子は、机に向かって仕事をしている、そんな父の背中を見て育つうちに、いつしか自分も税務署に勤務してみたいと、考えるようになっていったのである。

 山下信子が、面接試験会場へ入っていった。

 ドアをノックし、中の合図で入室した。
 「どうぞ、お掛けください」
 椅子の後ろに立っていた山下信子に、着席するように試験官は指示した。

 「あなたの、名前は?」
 「山下信子です」
 「お父さんのお仕事は?」
 「国家公務員です」
 「どちらにおつとめですか?」
 「札幌中税務署に勤務しています」
 試験官は、信子の回答にうなずいていた。

 「あなたは、なぜこの試験を受験したのですか?」
 山下信子は、しばらく考えていたが、決心したように話しはじめた。
 「このようなことをお話ししますと、父に怒られると思いますが…」
 それは、父の仕事についての話であった。

 父、山下正雄の一日の仕事は、朝の新聞広告を収集することから始まった。
 若い頃、調査の仕事で新聞記事の広告によって、いい結果を得たことがきっかけとなり、以後、毎日の日課となっているのである。
 その事が、信子の将来に大きな影響を与えることとなってしまうこととは、山下正雄にとって予想できないことであった。
 信子は、三人弟妹の姉であった。
 小学校の五年生になったある日のこと、
 「お母さん、どうして家の新聞は穴だらけなの?」と、食事の用意をしていた母に聞いた。
 「それは、お父さんのせいよ」と、母は言った。
 「お父さんの…」と、きいたものの、その理由はよくわからなかった。
 「お父さんが帰ってきたら聞いてごらん」と、母は笑って言った。

 その夜、午後六時に、山下正雄は家に帰ってきた。

 家族みんなで食事をしているとき、
 「お父さん。どうして家の新聞は穴だらけなの?」と、信子は父に聞いた。
 「新聞を食べる虫がいて、毎朝新聞を美味しそうに食べる、んだよ」と、正雄は笑って答えた。
 「新聞を食べる虫ってどんな虫?」
 そんな虫なんていないのにと思いつつ、信子は聞いた。

 「信子が朝早く起きることができたら、見ることができる、んだよ」と、父は言った。
 「うん、わかった。じゃ、今日は早く寝て、明日の朝早く起きて見てみる」と、信子は言った。
 「そうしたらいいね」と言って、父は笑った。
 「お父さん。意地悪しないで教えてあげればいいのに」と、母は言った。
 「まあ、たまにはいいじゃないか」
 そんな、食事中の会話から、信子は午後九時に寝てしまった。

 翌朝、信子は約束どおり早起きをした。
 隣の部屋で、父が机に向かって何かをしていた。

 「お父さん。おはようございます。」
 「信子。おはよう。」
 「お父さん。何しているの?」
 「お父さんは、新聞を食べる虫に変身している、んだよ。」
 「お父さんが、新聞を食べるの?」
 「いや。新聞を食べるというのは冗談で、お父さんの仕事に必要な記事のところを切り取っている、んだよ。」
 「ふーん。お父さんの仕事って、たいへんね」
 「そうかな?」

 「お父さんの仕事って、なあに?」
 「お父さんは、会社に勤めている、んだよ」
 「会社?」
 「そうだよ」と言って、正雄は、また机に向かって新聞を切り抜き始めた。
 信子は、お父さんの話は、何となく自分の質問の答えになっていないと思ったが、忙しそうだったのでそれ以上聞くことをやめた。

 正雄は、子供達に自分の仕事について、いつも会社に勤めていると話していたのである。
 正雄は、いままで自分が税務署で働いていることを言ったことがなかった。
 正雄は、自分の仕事で、子供達が悲しい思いをすることがあってはいけないと思い、言わなかったのであった。
 なぜならば、世間の人はまだまだ税務署の仕事について、偏見を持っていると感じていたからであった。
 父としての気持ちであった。

 正雄は、信子に聞いた。
 「信子は、お父さんにどうしてそんなことを聞くのかな?」
 「どうしてって。信子ね、いま、小学校で習字の練習をしているのね」
 「このあいだ、お父さんに作ってもらった新聞の練習帳ね、お友達に貸してあげたの」
 「そしたらね」
 「信子の練習帳、どうして穴だらけなのって、お友達に聞かれたの」
 「それでね。どうしてかなって思ったの」

 正雄は、信子の話に驚いてしまった。
 そして、それ以後、習字の練習帳は、穴の開いていない新聞紙で作るように注意したのであった。
 しかし、正雄の毎日の日課は、それ以後も続くのであった。
 そして、どういうわけか、同じような質問が、次女・長男へと引き継がれるのであった。

 信子の話に、試験官達はうなずいていた。
 「あなたのお父さんのことは、仕事仲間からよく聞いています」
 「いいお父さんですね」
 「はい。ありがとうございます」
 そんなやりとりの後、二、三の質問が続き、信子の面接試験は終わった。

 ここ、旭川中税務署では、朝九時から午後三時まで、面接試験が続いている。
 二次試験の発表は、十二月中旬。
 合格通知は、受験生の自宅へ送られる。


   合格通知


 子供の頃、八百屋・魚屋と呼ばれる、小売店が結構町の中にあったが、最近は、大型スーパーの進出が目立ち、既存の中小の小売店は、その面影を残すことができなくなってきている。

 鈴木恵子の父は、戦後の混乱期に祖父が裸一貫で始めた、八百屋の『やお八』を引き継いで今に至っているが、年々売上が減少し、家業を子供達に継いでもらうことは無理と判断し、自分の代で店をたたむつもりで、毎日の仕事に励んでいる。
 ある日のこと、珍しく店に税務署の調査官がやってきた。

 「こんにちは。旭川東税務署の上田です」
 「おっ! 待っていたよ」
 「今手が離せない、んで、上に上がって待って、くださいな」と、父は忙しく立ち回っていた。
 「はい。待たせてもらいます」と、調査官は店の奥へ入っていった。
 「いらっしゃいませ」と、母が出迎えた。
 「お忙しいところ、お邪魔しましてすいません」
 「いいえ。忙しく見えますが、そうじゃない、んですよ」と言いながら、お茶の用意をし始めた。

 商店街の青色申告会の役員をしている父にとって、税務調査は特に問題とするところではなかった。
 むしろ、久しぶりの若い調査官の来訪に、喜びすら感じているのである。
 しばらくして、父が入ってきた。

 「おっ! 待たしてしまって、すいませんねえ」
 「いいえ。こちらこそ忙しい時にお邪魔しまして、申し訳ありません」
 「今日は、どういう用件で来ましたか?」
 「はい・・・」という話で、税務調査は始まった。

 青色申告をして三十年余り、何度か税務調査を受けてきたが、特に問題となることもなく、いつも穏やかに税務調査は終わるのであったが・・・。

 「なにかい、上田さん。俺の申し出が受けられないっていうのかい」
 「いえ。決して、そういうわけではないのですが、決まりですから」
 「決まりだって。そんなものなかったことにすればいいんだよ」
 「そう。そう言われても…」

 「いいですか、上田さん。ここは私の話に付き合ってもらわないと、物事はスムーズにいかないってことも、あるん、じゃ、ないかい」
 「ええ…。たしかに、時にはそのようなこともあるでしょうが…」
 「じゃ。今日は私の考え方、で話をすすめようじゃないかね」
 どうやら、父と調査官の意見が食い違ったようで、家の奥が騒然としてきたらしい。

 「あんた、お客さんがお待ちだよ。」
 「早くしてよ」と、母が調査官に助け船を出した。
 調査官は、ほっとした様子で、急いで立ち上がった。

 「すいませんね。根は悪い人じゃない、んですが。思い込みが激しくて」
 「いいえ。私のほうも規則、規則と言ってばかりいたものですから、ご迷惑をおかけしました」
 「後はなんとかしますから、今日は申し訳ありませんが…」
 「では、後日改めてということで。奥様よろしくお願いします」と言って、調査官は店の裏口から出て行った。

 父と調査官のもめ事の内容は、後でわかったことであるが、父は調査官に昼食を一緒に食べようと持ちかけたのであった。
 しかし、調査官は規則でいただくわけにはいかないと、昼食を遠慮したことから、口論になったというのである。
 規則ならしょうがないのに、怒るなんて馬鹿馬鹿しいことであった。
 もっとも、女ばかりの家であったので、息子ぐらいの年齢であった調査官と一緒に食事をしたいと思う、父の気持 ちもわからなくはなかったのであるが。

 そんな、父と調査官の出来事があってから、恵子は税務署の仕事に、少し興味を持ったのであった。
 また、高校に入ってから友達となった山下信子の父が税務署に勤めていることも、一つのきっかけであり、信子とともに、一緒に受験することになったのである。

 今日、十二月十日(月)は、第二次試験の合格発表の日となっていた。

 「信子。おはよう!」
 「おはよう! 恵子。昨日よく眠れた?」
 いつものように、学校の校門の前で、恵子は信子と合流し、教室へ向かった。
 生徒玄関は、生徒達でごったがえしていた。

 一時間目の国語の授業がおわり、休み時間に校内放送が入った。
 「三年B組の鈴木恵子、山下信子、田村かおり、以上の三名は、至急職員室へ来るように!」
 担任の岡本先生の声であった。

 「信子。呼ばれたね」
 「恵子。あんた、もよ」
 「かおりもよ」と、二人の後ろから声がした。
 「かおりも?」と、二人は顔を合わせ答えた。
 三人は、急ぎ足で職員室に向かった。

 「岡本先生。お呼びですか」
 「おっ! 三人そろってきたか。なかなかのチームワークだな」
 「先生。何のようですか?」
 「三人を呼んだのは…」
 三人は、先生の次の言葉をじっと待っていた。

 「合格したよ」
 「えっ!」
 「三人とも、国家公務員試験に受かった、んだよ」
 「ヤッター!」と、三人は喜びの声をあげて、跳び上がった。
 同じ高校から、三人もの合格であった。

 そのころ、三人の家には、人事院から合格通知書が書留で届いていた。
 恵子は、父にこのことをどのように説明しようかと考えていた。
 信子もまた、同じであった。
 二時間目の始業のベルが、構内に響いていた。

 さて、国家公務員三種試験に無事合格した受験生達は、来年四月一日に、税務大学校に入校することになります。
 そこでは、税務職員となるべく基礎的な知識を学ぶため、一年間の間、研修生活を送ることになるのですが…。
 そこでの 生活は、はたしてどのようなものでしょう?


   入校の日


 平成六年三月三十一日(木)、ここ税務大学校では、入校式を明日にひかえ、将来の税務職員の卵となるべき研修生の受付が開始されていた。

 受付会場では、三ヶ月の実務研修を行い、六月に職場に配属されることとなる、一年先輩格である研修生達が、研修を担当する教育観とその助手的存在の教育官補の指示にしたがって、研修生の案内等を行っていた。
 ここには、全国各地からさまざまな研修生が集まってくるのです。

 「山下官補。今年の新人研修生は、美人が多いですね」
 「下田君。何を考えているのですか?」
 「君はあと三ヶ月で現場に配属され、ここを出て行く、んだから、そのようなことを言ってはいかんのだ」
 「そうは言いましても、私の後輩達ですから気になります」
 「山下官補は、気になりませんか?」
 「私。私は、気になります」
 山下官補と下田研修生は、そんな会話をしながら、校門のところで新人研修生を案内していた。

 そんなとき、三百メートル先に、リヤカーを引いてやって来る者がいた。
 「下田君、ちょっと見てみろ」
 向こうから来るリヤカーの人、新人研修生じゃ、ないか?」

 「山下官補。いまどきリヤカーを引いてやって来る者などいないですよ」
 「せいぜい、段ボール集めのおじいさんぐらいですよ」
 「でもなあ。学生服を着ているみたいだよ」
 「え!」
 二人は、目を凝らして見た。
 一見すると、段ボールを乗せた廃品回収業の老人のように見えるのであるが、たしかに、学生服を着ているのである。

 「ちょっと、行ってきます」
 「研修生だったら、手伝ってやれよ」
 下田は、指示に従って走りよってその者を見た。
 山下官補の言うとおり、研修生であった。
 それにしても、「今の時代においてリヤカーで来るとは…」と、思った。

 一方、受付のところでは、後藤官補が新人研修生ともめていた。
 「渡辺信一さんですね」
 後藤官補は、入校者名簿をチェックしながら聞いた。
 「はい、そうです」
 新人研修生は、緊張しながら返事をした。

 「今日、入校するにあたって、あらかじめ寝具を送るように文書でお願いしてありますが、渡辺さんの場合まだ到着していないのですが?」
 「送られましたか?」
 「いいえ」
 「たいした荷物でないので、今日持ってきました」
 「ああ、そうですか」

 「では、部屋のほうに運びますので…」
 「どちらにありますか?」
 「はい。このバックに入っています」
 「え!」
 後藤官補は、何を言っているのか理解できなかった。

 「はい。ハンモックですから。バックに入れて持ってきました」
 渡辺研修生は、何の疑問もなく、バックを見せた。
 「ハンモックですか?」
 後藤官補は、聞いた。
 「はい、そうです」
 渡辺研修生は、答えた。

 「あのね、君」
 「私の言う寝具とは、布団のことですよ」
 「でも、水産高校出身の私の場合、寝具とは、ハンモックのことですが」
 「たしかに。船の上ではそうかもしれないが、ここは陸の上だし・・・」
 「それに。そんなものでは、寝ることができないじゃないか」
 後藤官補は、呆れたように言った。

 「私の場合、布団のほうが眠れないのですが?」
 渡辺研修生は、真剣な顔をして言った。
 「まいったなー」
 「それじゃ、後で教育官室へ来てもらうことにしますので…」
 「とりあえず部屋のほうへ言ってください」
 「川辺さん。案内してください」
 「はい」
 「よろしくお願いいたします」

 そんなやりとりをしているうちに、続々と研修生達がやってきた。
 学校内は、次第に騒がしくなってきた。

 そのころ、校門の前では、山下官補が研修生の母親らしい人と話をしていた。
 そこに立っていたのは、マザコンのような冬彦君と称する装いの研修生と、金縁の眼鏡をかけた母親であった。
 母親は、山下官補に対し学校内のことについて、いろいろ尋ねているようであったが、納得いかないようであった。

 山下官補は、説明は後ほどということで、近くにいた研修生に部屋のほうへの案内を頼んだ。
 「山下官補、大変でしたね」
 「ああ。どうしてああいう者が入ってくるのか理解に苦しむよ」
 「成績優秀じゃ、ないですか?」
 「成績ばかり良くてもね…」
 そんな二人の会話の最中に、一台の車が入ってきた。
 真っ赤なポルシェであった。

 「すげー!」と、下田は叫んだ。
 車から出てきたのは、ミニスカートの派手な服を着た、モデルまがいのグラマーな女性であった。
 「駐車場がわからないので、入れといてね」と言うと、車のキーを官補にポンと預け、校内へ入っていった。
 二人は、そんな女性の行動にあっけにとられていた。
 二人の前に、確かに赤いポルシェが残されていた。

 「官補。今の女性は?」
 「俺は、知らんぞ」
 「でも、官補は車のキーを預かりましたよ」
 「ああ、ほんの成り行きでね」
 「後でわかりますか?」
 「あんな派手なの、彼女しかいないよ」
 「まあ。それもそうですが」

 官補は、目の前の車に乗り込み、駐車場へ走って行った。
 赤いポルシェのエンジン音は、心地よいものがあった。
 一方、また受付のほうでもめているようである。

 「吉本さんですね」
 後藤官補が、名簿と照合しながら聞いていた。
 「はい」
 吉本研修生は、返事をしていた。

 「あなたの寝具がまだ届いていませんが、今日持ってきましたか」
 「はい。持ってきました」
 「どこに置いてありますか?」
 「はい。自分が背負ってきました」
 「背負って…?」
 後藤官補は、「またか」と思った。

 「これなんですが」と言って、彼は背中の荷物を下ろし、シュラフを一つ取り出して言った。
 「この、この、この、」と、後藤官補は思った。
 「あの、ですねー。私の言う寝具とは布団のこと、なんですがねー」
 後藤官補は、呆れましたと言わんばかりであった。

 「私。山岳部にいましたので、シュラフでないと寝られないのですが…」
 吉本研修生は、これまた、真剣な顔をして言った。
 「それじゃ。後で教育官室へ来てもらいますから」
 「とりあえず、部屋のほうへ行ってください」と名簿を見ると、偶然にも同室者は、先ほどのハンモックの渡辺研修生であった。
 二人はどんな研修生活を過ごすのやらと、官補はこれからの研修生活を考えると、そう思わずにはいられなかった。

 午後からは、明日の入校式についての説明会が、講堂で行われる予定となっていた。


   税務大学校(生活編・その一)



  宣誓書


 私は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに、法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ更正に職務の遂行に当たることを堅く誓います。
 平成六年四月一日                          川 上  毅

 国家公務員になった者は、国家公務員法第九七条及び附則第一三条の規定により制定された「職員の服務の宣誓に関する制令」に従い、宣誓書を提出しなければならない。
 宣誓書を提出して、税務大学校における入学は無事終了し、普通科研修生として一年間の研修生活が始まるのであった。



 (参考)
 税務大学校では、国家公務員として給与を受けながら、法科系大学と同程度の基礎科目と、税務職員に必要な専門科目を学ぶとともに、社会人としての教養を身につけるために、一般教養科目についても学習をします。
 一方、研修生活は、全寮制による学寮生活によって、全国各地から集まった研修生との触れ合いを通じ、強い連帯感を養う充実した一年間となるのであるが…。
 この税務大学校についての詳しい内容を知りたい方は、各国税局で発行している「税務職員募集ガイド」を読んでください。
 ちなみに、札幌国税局では、「みなぎる思い社会のために。TAX OFFICE STAFF GUIDE」を発行しています。


 税務大学校の一日は、朝のラジオ体操から始まる…。

 「ジリ、ジリ、ジリン」と、けたたましく廊下のベルが鳴った。
 「火事だ!」と、研修生の一人が、枕を持って叫びながら廊下を駆け出していった。
 その叫び声に扇動され、数十人の研修生達が、パジャマ姿で少しでも早く外に出ようと廊下を駆け出していった。

 そのときであった。
 「総員戦闘配置につけ、なお、これは訓練ではない…」
 「おはようございます。ただいまのベルは、目覚まし時計の音です。」
 「研修生達は、朝のラジオ体操を行いますので、六時三十分までに校庭に集合してください」と、学寮内に放送が流れた。

 「そんなの、聞いていないよう!」
 枕を持っていた研修生が、我に返ったように言った。
 「自衛隊に入隊したわけでもないのに…。なんでや?」
 研修生達は、眠りを邪魔され口々に不満を言っていた。
 しかし、このような朝の目覚ましに最初の頃は驚いたものの、一ヶ月もたたないうちになれてしまうのである。

 朝六時の起床、六時三十分のラジオ体操、そして、七時三十分からのセルフサービスの朝食を終える。
 その後、研修生達は学生服に着替えて、八時三十分から午後三時三十分まで専門科目の研修を受ける。
 研修の内容は、大学の講義と同じであり、実に内容の濃いものである。
 仕事とはいえ、なんら、大学生活と変わらないものであった。

 その後、午後三時三十分から五時まで、体躯・文化活動のクラブ活動が、体力保持等のため行われる。
 クラブ活動は、研修生達が今までの学生生活の経験を生かして、好き好きに仲間を集めて活動するのである。
 入校の日に受付でもめていた山岳部出身の吉本登は、入校後、山岳部を作り五名の仲間とともに、学寮を絶壁に見立てロープを使った登山訓練をしていた。

 「上前、音をたてずに静かに登れ!」
 「吉本、なぜ音をたてずに上る、んだ」
 「そのうちわかる。いいから音をたてるなよ」
 「わかったよ」

 五名の研修生は、ロープを使って音をたてずに、学寮の壁を上って窓から入っていく。
 なんとなく、山岳部らしからぬ登山訓練のように思うのだが、ほかの四人は登山の経験がないことから、吉本の指示に従うしかなかった。

 一方、体育館では、武闘家と自称する榎本学が、空手・柔道・剣道等をおりまぜた練習を行っていた。
 彼は、どういうわけか、女性恐怖症であった。
 というのも、小学校の時、厚化粧の女性教師が担任になり、香水の香りにめまいをしたことが原因らしいのであった。

 彼の多彩な武芸に、他の研修生はついていけず、誰も仲間になる者がいなくて、一人のクラブ活動となった。
 そのクラブのことを、研修生の間では、八四五クラブと呼ばれていた。

 そして、同じ体育館の反対側では、容姿端麗な「栗原リカ」が、剣道の素振りをしていた。
 彼女の場合は、男兄弟の中で育ったため、いつもいじめられたことから、男嫌いになってしまったのである。
 この相反する二人が、秋の体育祭で戦うことをみんなが期待しているのである。

 そんなふうに、各自各様にクラブを設立し、体育・文化活動をしているのである。
 午後五時から八時まで食事等の自由時間であり、午後八時から九時までは自習時間が組み込まれている。
 一日の終了は、午後十時であった。

 「リーン、リーン!」
 午後九時三十分、学寮の娯楽室の電話がなった。

 「はい。税務大学校の学寮です」
 「おれ。吉本。だれ?」
 「渡辺」
 「渡辺。悪いけど班長に遅くなると伝えておいてくれないか」
 「いいけど。おまえ、今どこに居るんだ?」
 「キングムーン」
 「デイスコか?」
 「ああ、俺の他に山岳部の四人も一緒に居る、んだ」
 「全部で五人か?」
 「そういうこと。じゃ、後のことをよろしく頼む」
 「ああ…」

 吉本の電話を切った渡辺は、畑中班長の部屋へいった。
 「畑中班長居ますか?」
 ドアをノックして部屋に入った渡辺は、畑中班長に吉本の伝言をつたえた。
 畑中班長は、「五人分あるかな?」とつぶやき、各階の班長のところへ行った。
 「榎本。マネキンとカツラを五人分借りたいのだが?」
 「五人分? まにあうかな…」
 十時まで、二十分しかない。

 「通販のマネキンも入るかもしれないけど、いいか?」
 「この際、何でもいいから貸してくれ」
 「わかった。手配して持って行くから、準備していてくれ」
 渡辺は、山岳部の五人の各部屋に布団をひいてマネキンの来るのを待っていた。
 「借りてきたぞ!」
 渡辺は、「助かった」と言って、班長の持ってきたマネキンを同室者に渡した。

 税務大学校では、午後十時に廊下において点呼を行う。
 研修生の在寮の確認を行い、消灯をすることになっているのであった。
 しかし、研修生の中には、時に時間に戻れない者もおり、相互に連絡を取り合い、様々な方法にて、在寮の確認を作り上げるのである。

 「研修生二十名。全員以上ありません」
 「なお、吉本・上前は、頭痛のため。また、吉田・成田は風邪。津山は、腹痛で寝ております」
 「病院へ行かなくてもいいのか?」
 「はい。先ほど正露丸飲ませましたので、大丈夫だと思います」
 「正露丸。よし、何かあったら知らせるように」
 「わかりました」
 山下官補は、正露丸の匂いが嫌いであったため、点呼もそこ、そこに、終了した。

 畑中班長以下、研修生達の努力の甲斐あって、無事点呼をやり過ごすことができたのであった。
 しかし、官補によっては、このようなトリックが効かず、ばれてしまうこともある。
 学寮規則を守らなかった場合、その罰として一週間のトイレ掃除が課せられるのである。
 もっとも、官補においては、その事は十分承知の上であったが、官補も人の子、時には騙されたふりをするのであった。

 午前二時。
 「カッ…。カッ…。カッ…。カッ…」と、窓ガラスが何かでたたかれる音がした。
 渡辺は、静かに窓を開けた。

 「だれだ?」
 「吉本」と、返事があり、石を包んだメモが投げ入れられた。
 「部屋のロープをいつも練習している窓から降ろしてくれ」と、書かれてあった。
 山岳部の五人は、ほろ酔い気分であったが、日頃の練習の成果どおり、ロープを使い、音を立てずに無事学寮内に入ることができた。

 その時。「全員無事か?」と、声がした。
 「はい。大丈夫です」
 「よーし。全員に今朝から一週間のトイレ掃除を命ずる」
 声のする方を向くと、山下官補が笑いながら立っていた。
 「全員、早く寝るように。以上」
 楽しい。楽しい。研修生活が続くのであった・・・。


   税務大学校(生活編・その二)


 税務大学校において研修を行う者は、国家公務員Ⅲ種試験により採用され入校した者だけではない。
 国税専門官採用試験(大学卒業程度)により採用された者が、三ヶ月の短い間であるが、基礎研修のために入校してくる。

 「研修生に連絡します」
 「本日の天気予報によりますと、今夜は星空になるということです」
 「研修生の皆さんは、七時以降の天体観測の邪魔にならないよう協力をお願いいたします」
 国税専門官採用試験の合格者が入校してくるこの時期、税務大学校の女性研修生の学寮では、必ずこのような放送がかかる日があるのです。

 「天体観測の日よ」
 「また!」
 「今月は、これで三回目よ」
 「ねえ。なんとかしましょうよ」
 「なんとかって。いったいどうするのよ?」
 そんな話がその都度、女性研修生の学寮では起こるのであるが、これといった解決策は何一つ思い浮かばなかった。

 そんな時期、ここ税務大学校に国税局の査察官出身の女性官補、斉藤真由美が配属になり、やってきた。

 税務大学校の教育官補は、教育官の助手としての仕事をするほか、研修生達の研修生活の悩みを聞いてあげることも、仕事の一つであった。
 研修生達の「天体観測の悩み」を聞いた彼女は、国税局の査察において内偵班に所属していた経験から、研修生達に次のようなアドバイスをしてあげた。

 「今度の秋の税務大学校の文化祭に、みんなで写真コンクールを企画しない?」
 「写真コンクール?」
 「そう。そして、その写真コンクールに、私たちも一枚出品するのよ」
 「写真って。どんな写真を出品するの?」
 「そうね。題名は『ある夜の天体観測の記録』というのはどう?」
 「え?」
 研修生達は、斉藤官補の写真コンクールの企画とそれに出す出品作品についてのアイデアを聞いて、全員大賛成となるのであった。

 この税務大学校では、男性の学寮と女性の学寮が、三〇〇メートル離れていて、並行に並んで建っていた。

 「研修生に連絡します。」
 「本日の天気予報によると、今夜は、雲一つない天体観測日和になるということです。」
 「そこで、今夜はかねてから計画していた、フォト計画を実行することになりましたので、研修生の皆さんは各自分担のとおり、行動することをお願いいたします」

 「天体観測日よ!」
 「いよいよね」
 「しっかりやりましょうね!」
 女性の学寮では、研修生達がお互いを励ますように、フォト計画の実行のため、それぞれ指示されていた持ち場に散らばっていった。

 女性の学寮は、五階建てであった。
 その中央の一室では、父の洋服店の手伝いをしていた谷口真理の指示のもと、五人の研修生達がマネキンに洋服を着せていた。
 その部屋の上の階の部屋では、斉藤官補が国税局の査察部から借用してきた夜間撮影用の特殊望遠カメラを、高校時代に写真部に所属していた田村かおりが、男性の学寮に向けて設置していた。

 「マネキンの準備はいいですか?」
 鈴木恵子が、指揮を取っていた。
 「準備オーケーよ」
 真理の返事があった。

 「カメラの用意はいかがですか?」
 「こちらも、オーケーよ」
 かおりが、答えた。

 「では、いくわよ」
 鈴木恵子は、一階から五階までの各部屋の電気を、一分間隔でバラバラにつけていくことを栗原里香に指示した。
 そのとき、男性の学寮の中央の部屋に人の動く影が見えた。

 「のってきたわよ」
 「じゃ、はじめるはよ」
 中央の部屋では、山下信子がマネキンに着せた洋服を着替えしているように、少しずつ止めてあったピンを糸で引っ張って脱がせていった。

 「もう少しゆっくり。まだ四~五人しか集まっていないわよ」
 恵子は、夜間専用の望遠鏡をのぞきながら言った。

 「わかったわ」
 「そろそろよ」
 「一〇人近く集まっているわよ」
 「カメラ、いくわよ」
 マネキンが洋服を全部脱ぎ終わった時、男性の学寮の人影の動きが一段と慌ただしく見えた。

 「カシャ。カシャ。カシャ」
 そのとき、カメラのシャッターはきられた。
 「オーケー。うまくいったわよ」
 恵子は、無線でみんなに伝えた。
 「ヤッター!」と、研修生達は抱き合って喜んだ。

 秋の、税務大学校の文化祭の写真コンクールの写真は、実にリアルに撮られており、当時の事実を全て物語たっていた。
 『ある夜の天体観測の記録』と題した写真は、文化祭の優秀賞を受賞したことは言うまでもなかった。
 それ以後、天体観測をする者は、現れていない。

 しかし、国税専門官採用試験により採用された研修生が入ってくる時期になると、決まって天気予報が放送される慣わしが、しばらく続くこととなったのである。
 そして、文化祭の優秀賞を受賞したその写真は、いまもなお大きく引き延ばされて、ロビーの一角に飾られており、過去の栄光を更正に伝えているのである。

 もっとも、その後、女性の国税専門官が入校するようになってからは、天気予報の放送もなくなり、その写真の意味する理由は、研修生のあいだでは語られることはなくなってしまった。

 その後、その写真の研修生の一人が、この税務大学校の教育官として、先ごろ配属されたことを、今年の研修生達が知ることはなかった。


   卒業の日


 平成六年三月一九日(土)、この日、税務大学校の一年間の研修生活を終えた研修生達が、普通科研修を終了し卒業を迎える。

 「ただいまより、税務大学校普通科第五三期の卒業式を行います」
 卒業を迎えた研修生達は、真新しいスーツ姿で式場に入場してきた。
 この日の研修生達は、昨日とは打って変わって、社会人たる面持ちを有しているのである。

 卒業式は、君が代の斉唱にはじまり、まず、総代となった吉本登君に、八木研修所長より「卒業証書」が授与された。
 続いて、学業成績等で優秀な成績を収めた鈴木恵子さんに「優秀賞」が、また、学友会活動で顕著な功績があった榎本学君に「功労賞」が伝達された。

 引き続き、八木研修所長が「これから税務職員として仕事を遂行してゆくうえで自己研鑽に務め、良識を持って行動し、同期との友情を大切にしていただきたい…」と、式辞がのべられた。

 次に、国税局長が、「税務職員としての道を歩んでいくうえで、相手の信頼を得られるように、納税者とは常に誠実に接し、職場の上司や同僚との関係にあっては、常に謙虚な姿勢で接するよう心がけ…」と、訓示があった。

 その後、来賓として出席された方々の祝辞が続いた。

 最後に、卒業生を代表し、山下信子さんが「私たち五三期生は、卒業後三ヶ月の研修の後、各地の税務署に配属されることになりますが、同じ税務の道を歩む者として、お互いに励まし合い、いつまでも初心を忘れることなく…」と、答辞を述べた。

 卒業式は、税務大学校校歌を斉唱して終了した。

 卒業生達は、一年間寝食を共にして過ごしてきた思いで多い研修生活を振り返りながら、別れを惜しむ顔、いよいよ第一線へ配属になる日が近いことから、期待と不安でいっぱいの顔など、様々な表情を見せていた。

 昭和一六年に始まった、税務大学校における普通科研修は、平成六年三月において、実に五三期・延六〇〇〇〇人の研修生を税務署の第一線に送り出しているのであった。

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