The blue moonlight

瀣田 花音

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Chapter.1

The greedy seeds glow up

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 マルセルを核とするルインツエイラ家は歴史のある資産家であった。それこそ大公にも顔が利く家柄であり、アルデラント公国の政治の権限にも関与出来る程の力を持っていた。
 しかしながら、マルセルは若くして両親を事故で失っており、家長となった歳頃で絶大な権限を持つには若すぎた。決して己の快楽の為に金や権限を使った訳では無く、ただ、単純に人生経験が足りなかった。無能とまでは言われないが、傍から見てみれば奇策とも取れる行動であらゆる人々を混乱に陥らせた事もあり、これには彼も頭を抱えた。今でこそ、いや、今だからこそ彼は安定した行動を取れるようにはなっているが、爪痕は大きく、避難の的にされる事は多々ある。
 また、家庭との折り合いも上手く付かないままであった。それこそルーンがいた頃は、仕事はともかくとして家庭は安定していたが、今はそうでもない。例えば娘の事。

「お父様、なんですかこれは」
 これはマルセルが作家として物語を執筆していた時に、書室からライゼルカがいきなり入ってきた時の事である。前の嫁のルーンと離婚してから六年の時が経過して彼女も彼女なりの意見を持つようになった。
「なんですか、とは何だ?」
「私と訪れた孤児院を無くすと言うことですか?」
 ライゼルカは食事の際に、マルセルの新妻であるレイラがうっかりと漏らした話の件について、少々怒り口調で問い詰めた。
「………それは、仕方の無い事なんだ。勿論、子供達の受け入れ先はちゃんとある」
「そんなことを聞きたい訳ではありません。何故救おうという方向へ持って行く、という姿勢を辞めた事について問いたいのですが」
 マルセルは口の中で唇の裏側を噛みしめて、長考する。言ってもいいのか、言ってはいけないのか。それともオブラートに包んで自分の真意を隠しつつ意見を言うべきなのか。
 引き出しから葉巻を取りそうとしたが、相手は自分の娘。彼女にとっては唯一の父親は自分である事を鑑みて、手を止めた。
「立場が立場である以上、そういう選択を取らざるを得ない場合もあるんだ。別に救おうとしなかった訳では無い。そういう世の中の流れなのだ」
 本当は、ライゼルカと同じように物事を運びたかったが、それ以上は自分の今の家庭や家業に多少なりとも影響を及ぼす可能性があり、辞めざるを得ないという事実を話そうとしたが、ルインツエイラの名を誇って欲しいが故に言葉を飲んだ。
「………いつも思っていたのですが、あまり見栄を張る事は私たち家族に不安を募らせる一方なのを自覚して下さい。失礼しました」
 見栄を張りたい訳では無い。いや、多少なりの下心はあったものの、本当に自分を誇って生きて欲しいという願いからの姿勢であった。ルーンと離婚してから、エルゼイクはともかく、ライゼルカのマルセルに対する風当たりはかなり強くなった。理由も分かる。しかし、自分の生存と正すべき姿勢を保つのに精一杯であった。
 ライゼルカが部屋を出て戸を閉めたのを確認すると、マルセルはようやく葉巻を口に咥え先端をカッターで切り落として火を付けた。
 己の無能を知る人間の、しがない寂しさを拭う為の一服であった。
 窓を開けて空を見ると、ちりばめられた星々がろうそくの火のように揺らめきながら輝いている。その中で一際大きく、ぼんやりと月の光がマルセルの覗き込んでいた。
「私はあれが羨ましいのか、そうでないのか………」
 不変の輝きを放ち続ける月の光に独り言を放ち、微かな嫉妬で口から煙吹きかけるも、月が輝きを失う事は無い。
 永劫なる栄光は世にはない。人が老いるのと同じくして、人の作った文明や文化に終わりがあり、個々の人間関係も栄光があれば衰退も在る。
 今のマルセルには、過去から不変の輝きを放ち続けている月の光が少しだけ眩しく映った。


※ ※ ※


 ライゼルカの趣味は植物学者の真似事であった。本当は取り壊されるはずだった小屋に引きこもり、自分が見たルーンの姿を再現しているだけで、意味合いは今も中途半端にしか理解出来ない。
 全ては母の背中を追うためだけの、自己満足だった。
 今右手で握っているピンクの液が溜まったフラスコを眺めて、図書館で借りた本を片手に、自分が今やっている実験が合っているかどうかを見比べていた。これに何の意味があるのかは分からない。でも、やっているだけで安心感を覚えていた。
 それに、ライゼルカは自分の部屋は愚か、屋敷そのものに居づらさを感じていた。それもそのはず、母のルーンが出て行って新妻のレイラを迎え入れる直前に、父のマルセルの仕事の都合で屋敷を建て替えたのだ。屋敷そのものは広くなり、自分の部屋も前よりずっと広く風通しの良い場所になった。
 それでも空気感が彼女を拒んでいた。ルーンが過去に使っていたこの離れの小屋だけが、あの頃の空気感を今も残している、とライゼルカはそう感じていた。
 何をやっているのか、と自分の中で思う瞬間もあって、今それが不意に訪れた。
「はぁ、何をしているのかしら。私」
 ため息。独り言。これはライゼルカの悩みでもあった。
 周りの子達にはそれなりの悩みを抱えていて、それは将来に準ずる事、即ち今やれば片付くのに、とライゼルカは考えていた。
 今自分がやっている事は自分でも分からない事だが、自分に与えられた物事はちゃんとこなせる才女だったが故である。勉強など特に苦労もしなかった。運動も人並み以上には出来るし、芸術も音楽も同じ。外見の美しさも備わった万能な少女であった。
 そして、容姿や文武が万能であるという自覚もあった。
 故に、いつも気高く、周りからは距離を置かれがちで、『威風』というものを常に放っていた事には違いない。しかしながら、彼女自身はそのような威圧感を持ち合わせて他人と接しようとする気は全くなく、気になることがあればちゃんと人に聞き、疑問の中に意見を確立した時はちゃんと話す。が、いつもその口調はどこかかしこまっていて、敬意はありつつも、上から言われているかのような波長になりがちである。これは目上の人に対してもそう。
 しかしながら、そういった振る舞いを見せない、或いは彼女の圧を感じない存在もいる。
「お姉ちゃん! 勉強分からん! 教えて!」
 妹のエルゼイクがその一人である。
 エルゼイクは姉を気遣い、小屋に触れる事無く、ドア越しでそう叫ぶと、ライゼルカはほっと一息ついて、戸を開けて彼女を招き入れる。
 幸い、この小屋には人を一人、招き入れられる椅子と机があった。元々、ルーンがライゼルカの為に用意した子供用の物ではあるが、エルゼイクは嬉々としてそこに座った。
「お姉ちゃんまたそんな事やってるの?」
 エルゼイクは姉とは違い、ルーンの事は過去の事と割り切って朗らかで明るい性格であり、友人と呼べるものも沢山いた。
 故に、ややフランクで人によっては土足で心の中に入るような話し方をする事も多々ある。
「辞められなくてね。勿論、お父様には内緒よ。それに、わざわざ貴方がここにまで来て私を呼んだと言うことは『勉強』の事とは違う要件で来た。そうね?」
「あれ、バレちゃった」
「いつもそうだからわかるわよ。改めて、何の用かしら?」
「いやー実はね、お姉ちゃんの数少ないお友達のレベッカの結婚式が近いでしょ? その祝いのメッセージみたいなものが全く思いつかないって事」
「他には? あと、数少ないっていうのは余計よ」
「えへへ、実はね―――」これに続いたのは父親に対する愚痴であった。
 エルゼイクもルーンが出て行った事に関して何の不満があった訳でもない。何かしら疑って、その中で割り切って、国内の世の中を動かす力がある事を知っているにも関わらず、知らないふりをして生活していた。
「確かに、それはそうね。自動車が普及し始めた今だけれど、エンジンの音で馬が鳴くからと言う理由で購入は愚か出資も一切しなかったお父様だった。でも、今のうちの馬小屋は自動車のガレージになっていて、飼っていた馬はどこへいったのかも分からない。
 昔のお父様の面影は今はどこにも無いわ」
「そうそう、今になってあの馬車のガタンっていう………」
「あら、エルゼはそのガタンという快感が癖でまた味わいたいから、そういう事を言いに来たわけ?」
「お姉ちゃん、そうやって人の言いたいこととか思っていることひけらかして言い返すのは人を傷つける行為なんだよ」と、エルゼイクが言うと、「失敬」とライゼルカもにっこりと笑って返す。
 二人は互いに互いを信頼し合った仲であった。

 ライゼルカにとっては家庭で唯一とも呼べる存在でもあった。

 ルーンの面影を目で見える範囲で残しているのはエルゼイクしかいない。特にルーンに似ている部分がある、とは言えないが、空気感がそうさせていたのだ。
 ただ、ライゼルカにとって、こうも性格が合わないエルゼイクに寄り添おうという気持ちが沸く理由はここに在ることに変わりはない。
 二人が駄弁りながら暫くして、ノックの音が鳴る。
「し、失礼します」
「あら、レイラお母様。何の用かしら」
 戸を開けると、長い長髪を毛先より少し上で結んだ、幸の薄そうな表情をした女性が立っていた。マルセルの新妻でライゼルカ達の新たな母親であるレイラだった。自信の無さそうな、か細い声で「………食卓の用意ができました」と、一言告げると、足早にその場を去って行く。彼女にとってこの場所は居辛い場所であった。
 大きな原因はライゼルカとの確執。
 生まれ育ちがライゼルカ達と違ってあまり恵まれていないレイラは、学校へも行けず紆余曲折を経て小さな飲食店に務めながら細々と暮らしており、ルーンを失ったマルセルに出会った事がきっかけで、この屋敷へやって来る事が出来た。そして、マルセルとの間に一人息子も出来た。
 今までに考えられない程裕福になった。食事に一切困る事の無い、憧れの上流階級の暮らしを得た。手の届くことが無かったであろう欲しかった衣服も買えるようになった。
 しかし、順風満帆とは行かなかった。
 今まで意識すらしていなかった、普段の礼儀作法、生活に於ける新しい常識の数々、そして生活に対する意識の高さ、その全てが今までの生活とは高い水準にあった。
 マルセルが気を回したのか、屋敷は自分が暮らしやすいように広々とした玄関が設けられ、風通しの良い物へと作り替えられたが、その空間に自分がとても小さく映ってしまう程、憔悴する日々を送る事となったのだ。
 それこそマルセルやエルゼイクは何度も手を差し伸べられるよう、優しい言葉を選んで導いてくれてはいたものの、その言葉ですら疑わしい。
 そして、それらを自覚させたきっかけを作ったのがライゼルカだった。
 礼儀作法は何度も叱責され、言葉遣い、会話の内容もそう。そして、息子のマイケルのあまりにも無邪気な行動への注意に、その教育に対して何度も指摘された。
 ライゼルカを娘と呼ぶにはあまりにも若い歳ではあるが、立場としては母親である以上、何かしらで優越感では無いにしろ、威厳のようなものを保っておきたいという小さいプライドは確かにあって、態度に出そうとしたかったが、正しさが自分に無いのは自覚していた。
「はぁ」
「ため息、吐くなら見えない所でして下さいます?」
「す、すみません」
 今や立場は逆転してしまっている。
 本人の境遇、マルセルの視点からの彼女の人格の推定のあらかたは教えて貰ってはいるが、彼女自信に寄り添おうとする気概も沸いてこないどころか、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた故に、心の中で更に距離が出来てしまった。

 そして、今日も家庭に包まれた賑やかで豪華な、そしてレイラだけ寂しさを交えた夕食が始まった。今日も美味しい料理の味はしない。


※ ※ ※


 数日後、ルインツエイラ一行はかつて訪れた教会へと赴いていた。ライゼルカの友人のレベッカの結婚式である。
 山岳部に位置するルインツエイラ邸は海岸に位置するフィーヴァという街から距離があり、道中自動車が通れない場所は馬車で移動するなりして何度も回り道をした。
 故に朝は日が出ていない時間帯から起床し、化粧や着替え等の準備をして向かっていた為、みんな多少の眠気があった。まだ二歳だったマイケルに関しては、人のごった返している式場の喧噪をレイラの腕の中でぐっすり眠っている。
 式場、というが厳密にはその屋外ではあるが、既に沢山の人がいた。レベッカ自体が国有数の政治家の娘であること、相手となる新郎が将来、この国の未来を担う政治家の卵であった所以の政略結婚であった事もあり、関係者の規模も広かった。所謂、偉い人と、その信頼する部下達の集まりであった。
 勿論若い人もいる。皆の憧れになるような模範的人間。式に呼ばれた人達の中でも格式としては最上位に位置するルインツエイラ一行だったが、この喧噪の中では砂粒程度の存在………という訳では無く、マルセルには早速お声がかかり、友達や取引先の人達に揉まれ人混みの中へ消えていった。
 残されたレイラやライゼルカ、エルゼイクはなるべく人の少ない場所へと移動して、互いにはぐれないように、式が始まるまで外から人混みをぼんやりと眺めていた。
「ふぁぁぁあ、私眠い」
「こら、あくびは見えない所でしなさい。今日の主役は私達やそこらにいる人達じゃなくて、レベッカとその新郎よ。私達は彼女達を立てる役回りをしなきゃ」
「お姉ちゃん堅物~ いつ、どこで何をしていても私は私だよ~」
「………本当に眠たそうね」
 呆れ気味でライゼルカが言ってから束の間、一人、黒い髪を七三分けにして、スーツを着た生真面目そうな口ひげの男性がきょろきょろと辺りを見渡して、ライゼルカを見つけるなり、単調な足取りでこちらへ向かってきた。道中人とぶつかりながら。
「ご機嫌よう。本日はお越しいただきありがとうございます。私、レベッカ・エル・マーセナスもとい、マーセナス家げ使いを務めている、ビル・ファーガスと申します。本日からアルコ家の人間にはなりますが。あなた様がライゼルカ・フリージア・ルインツエイラ様でお間違いないでしょうか」
「………ご、ごきげんよう。そうですが、一体何のご用がございまして?」
「レベッカお嬢様がお呼びでございます。ご案内致しますのでどうぞ、お付き合い下さいませ」
「でも、今日の私はただの招待者よ? そんな事して大丈夫ですの?」
「どうしても、との事でして」
「………………分かったわ。ついて行きます。ところで―――」
「これは――― いえ、何でもありません」
 ライゼルカは少しだけ涙声になっていたビルの心情を察し、少しだけ笑みを浮かべつつも彼の足取りを追って、未だ準備中のレベッカの元へと向かった。
 やってきた先はライゼルカが思っている以上に殺風景でしんみりとした空間だった。スタイリストとなる人が一人、着付けの手伝いとなる人が数人、付き人と思われる方が数人、計十本の指に及ばない程度の人が本日の主役を飾り付けていた。
「あら、ライゼルカ。来てくれたのね、お久しぶり」
「こちらこそお久しぶり。少し大きくなったわね」
「おっぱいの事? それとも背丈の事? それとも―――」
 むすっとした顔でライゼルカがレベッカを睨むと、冗談だよ、と言わんばかりで先ほどの発言をかき消そうと苦笑いした。
「………背丈の事よ。貴方の腹が少しぶにっとしてること位どうでもいいし、私はあまり下品な発言は好みません」
「あらら、ごめんね」
「知ってるくせに」
 ここで初めて、この空間でライゼルカが笑みを浮かべた。とても綺麗な姿に高揚を覚えた。
「ライゼルカ、渡したい物―――というか、返したい物があるの。スタイリストの皆さん、ごめんなさい。今は、ここを私と彼女だけの空間にして欲しいな」
 レベッカがそう言うと、ここにいた全ての人々がお辞儀をして、この、文字通りの化粧室から退出した。
 ベージュの壁に同じ色の天井。その縁取りは茶色い木々で彩られた木々の部屋に、少ない数で、一定の間隔で整列された机とそれに満たない椅子。それと外から人々の景色が見える窓。そして、二人だけがこの空間に存在している。
 その中でレベッカは鏡の前の机に置かれた自分のポーチの中を探って在る物を取り出し、「これ、返さなきゃ」と言ってライゼルカの手のひらに差し出した。
 糸のように細いチェーンに繋がれた、テントウムシの飾りが付いたピアスだった。これは元々ライゼルカの私物だった。
「あら、懐かしいわね。テントウムシのこれ。実はね―――」
「知ってる。今、右耳に付けてる」
「察しがいいわね」
 ライゼルカも右耳についていたチェーンの先に蝶をかたどったピアスを外して、レベッカの手元に渡した。
「最近知った事なんだけど、知ってた? 蝶って、不死と復活の象徴だって事」
「ええ、知ってるわよ。逆にあなたはご存じで? テントウムシには幸運のお告げ、女神の使いを現す事っていうのは」
「えー! 女神の使いって言うのは分からなかったー!」
「あら、まだ勉強不足ね」
「16でもまだ学校行ってる人種の方が珍しいの! 理由も分かるけど!」
「そうね、でも、これは時代のせいなのかもしれないわ。
 私がよく思う事を、これから新しい生活を送るあなたに対して放つには冷たい言葉かもしれない。でも言うわ。いつしか、誰でも、私達くらいの歳頃の子達も私と同じように勉学に励む事が出来る時代が来るんじゃないかって」
「まるで私が勉強出来なくて不幸みたいな言い方」
「揚げ足取られると思ったわ。そういう意味じゃなくて―――」
「知ってるよ。あなたが優しい人だっていう事。だから本当はもっと一緒に居たかった」
「………私も同じよ。でも、友情は人を縛る為に生まれた言葉じゃない。結婚しても私と貴方はずっと友達。
 だから―――結婚おめでとう」
「………う、うぅ……うわあああああん!! ありがどおおおお!!!」
 改めて、ライゼルカはレベッカとの友情を心の中で噛みしめる中で、彼女をぎゅっと抱きしめる。式も始まっていない中で号泣する彼女に対して、少しだけ笑った。
 そして、先ほど受け取ったテントウムシの耳飾りを視線の先で確認すると、七つある模様のうちの一つがかすれて消えかかっているのを見て、未だに物持ちが悪いな、この子、と呆れながらも、昔とは違って形として残ってくれていた事に感謝してまた笑みを零す。

 盛大で格式に沿った素晴らしい披露宴………とはかけ離れた、レベッカらしさが存分に味わえるコミカルな時間をライゼルカ達は過ごした。こんなに豪華な顔ぶれであるにも関わらず、先ほどの号泣のせいで目を真っ赤にして現れる新婦の姿が皆の笑いを誘い、ウェディングケーキのカットの位置を誤り形を崩してドレスを汚したり、誓いのキスも動揺で位置が、だれがどうみても新郎の口とは違う位置に口づけしたりと散々なものであった。散々練習やリハーサルを重ねていたにも関わらずこの始末であり、本人の心意気はどこにあるのか探りを入れてみたい、という意見は僅かに上がったが、本番ともあればだれも口を出さない。シュールな光景を見守るに越したことはないというのは誰もが思った。
 これにはレベッカの父親も頭を抱えていた事と、その様子を見ていた人達にも笑いを誘い、思い出に残るものとなった。特に「きゃっ」と「うわっ」と「あれー」。これらの言葉が皆の記憶に刻まれた。特に意味も無い人の悲鳴とも取れるものではあるが、形式張った式典でこれだけ日常の言葉をや叫びを用いたものが久しいと感じた人達は、その家庭の自由さ、暖かさ、そして寛大さを覚えた。反面、今後の行く末を心配する人も少なからずいたが。
 そんな混乱に近い騒ぎのような披露宴の中、最後に始まったのはブーケトス。
 花嫁が背面目がけて花がぎっしり詰まったブーケを投げる。そして、受け取った者がその次に今日の幸福を受け継がれる。と言われている。
 歴史のある行事だが、ライゼルカはこういったスピリチュアルな観点というものをあまり持ち合わせておらず、「お姉ちゃんって今片思いとかしてるの?」とエルゼイクが聞いても、「してない。分からない」真顔でこう言い返す。
 これにはルーンとの別れも起因しているのか、いつしか、神様などいない。そういう思考回路にたどり着いてしまった。故に、やれる範囲の物事は自分での力で片付け、宗教のしきたりやルール(特にお金に関する事)は、こうやってお金を儲けているのね、と勘ぐる事もある。
「もう16なのに?」
「別にいいでしょ、そんなこと」
「でも、幸せの無い人生なんて―――」
 エルゼイクからそう聞かれた瞬間、自分の幸せって何だろうと、ライゼルカは自分に問う。ルーンのごっこ遊びでは無い事は自覚している。未来に向かって努力する事。これも違う。皆から愛される事でもない。

 では、今が幸せ?

「違う。いや、分からない」
「お姉ちゃん? なんか、私変な事言った?」
 ライゼルカは振り返って言っていた。自分の後ろから声が聞こえた気がしたから、とは言うものの、振り返っても、自分に声をかけていたような人物は誰も居ない。全てが喧噪を演じた要求を求める人々の集りだった。
「ん? あ、あら、ごめんなさい」
「………なんかあった?」
「………何も………何も、何も無いわよ。ええ、何も」
 エルゼイクが「あ、投げた」と、言うとブーケはその一輪一輪の花々の花弁を散らしながら青空目がけて天へと舞い上がった。今日は満天の青空。言うまでも無くどこへ落ちるかなんて、誰にでも、どこに居ても分かる。だからこそ、幸せを享受したい人達はそちらへと集団で波を作って、ライゼルカ達を押し出していく。
 この一瞬は永遠だった。桃色のブーケだった。僅かに散りゆく花弁を目で追いかけてライゼルカは青空に手を伸ばす。指の隙間うぃ暖かな風が撫でる。この刹那に、ライゼルカに驚嘆をもたらしたのは時が永遠に感じてしまう瞬間そのものであった。
 レベッカに対して思うところが沢山あった。惚気話に対して興味がないふりをして、自分にはやらなければならないことがあって、それでいて特別で在りたくて。そして、他人に求められる自分で在りたかった。
 その一切を捨てて、青空に差し伸べたこの腕は、柔らかな風に対しても折れてしまいたい程に、ライゼルカの心を蝕んでいた。彼女の淡い憧れのようなものを花束が背負っていた。
 しかし、ここでもう一度、そよ風がブーケを外の方へと押し出すと、この敏感な気持ちはどこかへと消えた。この集団にいる意味は何も無かった。決して皆して地に花束を落とした訳では無く、栗毛のあどけない顔立ちの女性が、皆が握ろうとしたした”幸せ”を一人で抱えていた。
 ブーケを抱えた少女は「やっと手にした」と言うと、誰もがそれを指摘する間もなく、この場そそくさと立ち去ってしまった。
「あらら、今回は残念………」
「こんなチャンスいつ訪れても、いつしか人の、自分の手で掴み取るものよ」
「えー。でも、お姉ちゃんだって手差し伸べてたじゃん」ライゼルカは背でくるりと自分が今まで隠し持っていた白い花をくるりと指で回しながら、「差し伸べてはいたけれど、私にはそれよりも大事な一輪の花があるから、大丈夫よ」と、余裕そうに言って、その場を凌いだ。

(本当は憧れてるくせに)

 闇に満ちた夜、フィーヴァは街並みに灯りを点し、人に光をもたらした。この場にいる時は眩しい光だけれど、傍から見れば、ぼんやりとした暖かな景色の一つ。
 街並みには活気があった。結婚式の後夜祭として、色んな店がいつも以上に盛り上がりを見せている。
 しかしながら、この賑やかな夜の街を誰もが同じ活気を以て過ごせる訳では無かった。
「どうかされたのですか?」
 ルーンはマルセルの顔を見るなり、心配になって声をかけた。
 今、二人は月と海の景色が見えるレストランのテラスで、ワイングラスを片手に今日の式の事について語っていた。
「いや、色々あってね。暫く暇になりそうだ。それより子供達はどうしたんだ?」
「ライゼルカ、さんとエルゼイクはマイケルを連れてレベッカさん達と食事へ行かれましたが……… 先ほども話したと思うのですが、大丈夫ですか?」
「ああ、そうか。いやいや、済まない。いつもの談合に参加している人達と少し揉めてね。脱退する事になったんだ」
「………大丈夫、なのですか?」
「大丈夫………じゃないね。うん、大丈夫じゃない。先見的な意味合いで不安もあるし、何より寂しい。自分の望んでいた相手の理想像の正体と、その本質と向き合い、裏切られた時の気の落ち込みと来たら人が亡くなるより寂しいものがあるんだ」
「―――裏切られたのですか?」
「いや、違う。それより、私に対して敬語は使わなくてもいい。今は二人だけ。マナーとかモラルとかは、気にしなくてもいい」
「………じゃあさ、何があなたを、そうさせるの?」
「不器用そうな言い方だな。喋りたいように喋ればいいのに。
 裏切られてなんかはいない。ただ、物事の方向性に苛立ちを覚えて、反吐が―――いや、失礼」
「貴方も言い方なんて気にしなくてもいいのよ」
「………そうだな。反吐が出そうになったんだ。それでも、人は社会性に己の道徳を求めてしまうし、社会にいなくてはならない、という使命感が湧いてくる。考え方の問題なんだろうな」
「私は貴方の考えに惚れて、不器用ながら今、ここに立って、貴方の目の前にいます。決して無理をなさらず」
「………………ありがとう」
  心の空しさの中にいつも愛情が寄り添う事は、恐らく誰にでも当たり前ではない、と普段から考えているマルセルの目には涙が溜まっていた。
 本当は声を上げて泣き出してしまいたい。そんな気持ちを堪えて、空を見上げると、やはり月は不変の光を放っていて、今度は羨ましいとマルセルは思った。

 振り返れば楽器、楽器、楽器、踊り子、踊り子、それに興じる客の数々。明るい照明に人々の笑顔が映し出された空間に、ライゼルカ、エルゼイクは圧倒されていた。レベッカ主催のパーティである。
 マイケルはエルゼイクに抱かれてじっとしてはいたが、この場にいて乗り気になりつつもあっていた。
「久々ね。こういう場所。でも新鮮かも」
 ライゼルカは窓際で中央で舞う踊り子を眺めながら口を開いた。
「ママとパパが居ないから?」
「うん。決して抑圧されていた訳では無いわよ。人の喜びに対して純粋に感謝出来る、こういう場面だからね」
「―――それはお姉ちゃんがお友達を沢山作らなかっただけでは?」
「うっさいわね、さっきも聞いたわよ。」
 冗談の中で、ライゼルカは思った。中心で踊っているレベッカに対して嫉妬心を燃やしながら、言った。
「あらら、お姉ちゃんがそういう立ち回りしているからよ」
「別に私は―――」
「じゃあ、男の子に対しては?」
「……………」
 沈黙。
 ライゼルカ自身は自分に自信はあったものの、人と会話している時の自分というものをそれなりに俯瞰してしまう事が多々あった。それらに対する滑稽や不安、不満を自分自身に押しつける事で、他者から求められる自分を演出していたその一人。故に、その他者に対する痛みや苦しみは全て理解出来るふりをしていた。それで自分を保っていた。
 だが、それらを崩さない事で出来た周りの社会性を自分の手で崩さないよう、普段から出さないようにしている己の中の不安定な部分と相手に対する自分の理想像を崩したくない、というプライドが強く働くが故の、自分のあらゆる行動に対する拘束を己の戒めに縛っていたに過ぎない一人。
 故に欲望に媚びたくは無かった。それが恥だからである。
「あんまり片意地張っているといざという時に一人になっちゃうよ」
「私は元々一人。唯一が私。二人になんかならないわ」
「なんてものの言いよう………」
 そんな会話を交えながら、高いテーブルの上で立ちながらライムジュースを二人して喉を越す。味も人それぞれ。
「苦い」「甘い上に酸っぱい」姉妹でありながらも全く違う感想が出てくる。
 そんな中で、一人、お尻を突き出してテーブルに突っ伏せながらジュースを飲んでるライゼルカに、一人の男性の腰が当たった。衝撃て一度、口に含んだ水分を噴き出しそうになるも、振り返って、再び飲みこんだ。
「ああ、すまない」
「何ですの……… ああ、すみません」
 とても目の色が青く澄んだめがねをかけた青年だった。顔立ちがはっきりしていて麗しさとたくましさの両方を備え持った知的な印象をライゼルカに与えた。
「顔、赤いけど大丈夫?」
「え、あ、そんな……!?」
 赤面を手で覆い隠し、伏せるようにしゃがみ込むライゼルカに、青年は首をかしげてやや長めの前髪を揺らす。所謂、乙女の恥じらいというものを理解できていなかった。
 エルゼイクはそんなライゼルカの珍しい様子を横目に、口を軽く手で押さえてくすりと笑いを零した。
「熱でもあるのかい? この場にいることに無理はしちゃいけないよ?」
「いえ、無理なんてしてません。少し立ちくらみみたいなものがあっただけです」
「それはそれでいけない。あまり寝てないでしょう?」
「………それは、そうですけども」
「なら、今からこの場を去って寝て元気を取り戻すべきだと思うね。言い方は悪くなるかもしれないけれど、君という存在は君だけのものでありながらも、繋がっている人からしても所有物ともなりえる。即ち、君は君だけの為にいるだけの君だけではない。という事だ。では、僕はやることがあるので、ここで
 出会えて嬉しいよ。美しい姫よ」
「………えっ」
 ライゼルカの心臓は高鳴りを覚えて、気持ちという名意思が一気に青年に対して傾いた。理由の自覚はこの場では存在も発生もしなかったが、己の心臓の音が己で把握出来る位には把握出来る位には胸の高鳴りを感じ、吐き出したくても恥じらいから吐き出せない、というもどかしさの中で沈黙を示さねばならない、という状況に陥った。
 その刹那に―――
「待って下さい。せめて、貴方のお名前だけでも―――!」
「ジェイン、ジェイン・ヴァルバロードだ」
 付き人を連れて去りゆく男性を、ライゼルカは目で追っていた。他人の目など一切気にせずに。
 エルゼイクも一瞬茶化そうと考えたが、彼女の人格やこれまでのライゼルカの生き方、習性、性格など全てを考えた結果、沈黙を選び、今度は少し余裕のある笑みを浮かべて彼女の横顔を眺めた。言葉として表現するには申し分ない程の、とても綺麗なものだった。

 パーティが終わった後、ライゼルカは砂浜でちょこんと座って、天井の月を見上げていた。エルゼイク等他の家族は、ここに存在するルインツエイラの別荘で寝ているのは承知の上で、勝手に家を飛び出していて、今に至る。
 今も相手に対する気持ちというものは止まらなくて、止め方というものが分からない。今日食べたものを全て吐き出したい位に苦しくて、苦しくて、吐いても胃液みたいな酸っぱいものしか出てこない。

 仕方が無い。自分には確実に足りない者がありながらも、憧れを抱いてしまった。
 涙が止まらない。自分に対して悔しさがあって、それでいて憧れを抱いてしまった。
 手を伸ばす。その数だけ自分の憧れの輝きを感じてしまった。
 ため息を漏らす。それだけ自分が今日出会った存在に対して距離感を覚えてしまった。

 自分に言い訳を課しても、この気持ちは変わらない。
 だからこそ、見上げている月がそれ程までにも美しかった。ぼんやりと変わらない光を放ち続けるから。
 いつしか、見上げる事すら俯瞰した自分から見て苦しくなって、海を見るようになった。
「いつまでも、私を睨み続けているのね」
 揺らめく水面が自分を心を現しているようで、更に憂鬱に取り込まれた。

 君はそれでいいの?

 ライゼルカは知らない声に振り返るもそこには誰もいない。
 ただただ、先ほどまでいた街並みが目に映されていただけであった。
 

※ ※ ※


 ライゼルカには宝物があった。
 人差し指くらいの長さの茎を携えた一輪の白い花だ。真ん中のめしべは目玉焼きの黄身のような色をしている。明るめで彩度の濃い黄色。
 ルーンが出て行った後、貯金箱に入れていた花弁を取り出そうとした時に出来たものがこれに当たる。
 この花を手にしてからもう六年ほど経つが、これがなんと一度も枯れたことがない。
 一時期、誰かがいたずらで入れた造花なのかを疑った事もあるが、触感や光を通した艶の輝き方、何より見た目そのものが本物である事を疑わせなかった。そして、水に差しても姿形は一切変わらない。
 そしてライゼルカはこれをいつも、どこにでも持ち出している。家でも、勉強をしている時も、皆と遊ぶ時も、ご飯を食べる時もそうだ。ほぼ全ての時間だ。たまに取り出して枕元に置いて寝ることもあった。
 そして一瞬でも無くしたりすると周りが引く程取り乱すし、再び見つけると心の底から安心感を押し出した笑みを零す。
 そんな彼女だったが、学校にも勿論携帯している。
 流石に回りに自慢するような事はしないが、通学中の車の中ではそれを取り出して、意味もなく見つめている。エンジンの音の騒々しさも、これを見れば忘れられる。彼女にとってこの花は特別であった。
 今日も同じようにその白い花を学校へ持ちだして登校して、教室まで赴いていた。
 そのせいで下を向いて歩くことが多く、何度か生徒にぶつかることも多々ある。この歳で学校に通う女性は数少なく、大半が男子生徒。
 いつもぶつかれば、「あら、失敬」と一言。自分より背丈の高い男子生徒に見上げてそう告げれば大概は解決する。虜に出来るからだ。
 自分が美しい事を自覚しているというところと、学内では美人であるという噂が生徒の間に広まり、位の高い人と言うことをこの学内の社会でイメージがすり込まれていた。
 実際の、ライゼルカの容姿に対する自己評価に関して言えば『自信あり寄りの無関心』に過ぎないが。
 しかし、ここまでの美貌を振りまいておいて周りが黙っている訳もなく、周囲の人を伝って恋文を貰う事は多々ある。今日もそれがあった。
「はい、これ」と、普段から中途半端に縁のある女子生徒が、嫉妬心を半分含んだ妬みをにじみ出しながらも、モラルを弁えてライゼルカに真っ白な封筒を渡した。
 図書室で本を読んでいる最中、自分の世界を阻害されたという理由でライゼルカも多少の苛立ちを覚えたものの、自分なりの愛嬌を振りまいて「どうも」と応え、それを受け取った。
 こんな事がいつも続くせいでライゼルカの心は麻痺していた。またか。と。
 所謂、呼び出しであった。
『美しき我が姫君よ。本日の放課後、私の愛の言葉を持って貴方という存在に楔を打ちに参ります。華麗で純なる君であれば、きっと私の言葉を受け入れてくれるに違いない。高貴なる私の君を想う純なる気持ちを。
 では、放課後、空いてる二階の音楽室で』
 とんでもなく上からの目線の文字の羅列に呆れて失笑に近い息を漏らすライゼルカ。
 きっとこいつは苦労なんかせずに金の力だけで学校に行けて、誰かに甘やかされながら自信を身につけて、恥なんか一切感じる事無く育ってきたんだなぁ、とぼんやりと相手の人物像の空想を自分の中で思い浮かべながらも、声も聞かせず去るのはよくないとも想う二律背反の気持ちを己の寛容に傾けて、放課後は時間を作る事にした。
 そして夕暮れ時。自身が思い浮かべた通りの自信家が、棘を削いだ薔薇を咥えながらピアノを弾いて待ち構えていた。
「やぁ、ライゼルカくん。私の事は知っているかね? セリス・フォン・ルーヴィスたる私の事を!」
「知ってます。ミラーズ王国にある資産家のルーヴィス家の分家の末っ子でしょう? うちだとかなりの有名な家系の分家として貴方は有名人よ」
「分家、分家って……… 分家でも由緒正しきルーヴィスの名を冠した名家だぞ! 侮辱するとは―――」
「いえ、侮辱はしてません。ただ自分の家柄を誇らしく思うがあまり自らの糧として私に語る姿が微笑ましいと思いまして」
 本当は自分への自信の欠落を家柄の名前で埋め立てて自己を演出してる悲しい人なんだなぁ、とライゼルカは密かに思った。
「―――本題が逸れた。私には君に告げねばならない事がある! それは―――」
「手紙に書いてあった事? あ、ごめんなさい。話は最後まで聞きます」
「むむむ、やりづらいな」
「すみません」
「それは、私が君を愛しているからだ!」
 ライゼルカはそれを聞いて―――なんとも思わなかった。だろうな。と思った。というより手紙に書いてあった。
 しばしば見てくれを眺めつつ、先ほどまでの言葉、話し方、仕草から人物像を推察するも、ライゼルカの中では現状『ナシ』の部類に入ってしまったセリス。
 しかし、ここから努力を重ねればきっと、誰からも信頼されるリーダーシップを発揮して、人々を安心へと導ける存在にはなれるだろう、と将来に対しても考えて見たり、見なかったり。
「………ごめんなさい。私、別で好きな人いるの。貴方の思いには応えれる無いないわ」
「………そ、そんな!」
「でも、貴方には私よりもいい人が見つかると思うわ。今だけが貴方の人生じゃないから」
「だったら! うっ、いや、何でもない……… 忘れてくれ」
「忘れません。私に向かって面と向かって気持ちを伝えてくれた事は感謝に値します。ありがとうございます」
 肩を落として音楽室を去るセリスの影は夕暮れの陽の光にまっすぐとその黒い影を伸ばしていた。ライゼルカも彼に対して、自分の事に本気だったのだろう、思い彼が去るのを見送った。
 いつも、このように告白を受けては相手を宥めつつも断り、宥めつつも断っていた。好きな人がいる、というのも彼女なりの嘘。(最近は気になる人はいるが)
 それだけ人を傷つけている事に関しては少しだけ申し訳なさを感じてはいた。でも、自分と自分の未来に代えがたかった。
 何よりも、自分を産んだ母の影を追っていたかった。

「少し聞いちゃった」
 ライゼルカは背筋をびくりと振るわせて振り返ると、先ほどセリスが静かに閉じたはずの扉が開いていた。代わりにライゼルカの上まつげくらいの背丈の少女が一人立っていた。
 少女は履いているローファーの音をこつこつと鳴らしながらライゼルカの方へ歩み寄り、ピアノに敷いたマットの上で足を止めて、にっこりと笑う。
「貴方の名前はライゼルカ・フリージア・ルインツエイラ。私の名前はメアリー・チェーン。いや、今はメアリー・ロスと名乗るべきかしら」
 あどけない顔立ちに、やや大人びた笑みを浮かべ、少女はじっくりとライゼルカをまん丸な瞳で捉えた。
 最初は突然名前を呼ばれた事に対して畏怖感を覚えたライゼルカだったが、彼女の、人を吸い込むような瞳と、柔らかな香水の香り、雰囲気に呑まれて圧倒されてメアリーが一瞬にして作り上げた空気感に呑まれてしまった。
「あれ、どうしたの? ライゼルカさん」
「あ、いや、何でも無いですが。その、聞いていたというのは先ほどの………?」
「ええ、殿方の愛の告白とそのご返答。貴方は優しい方なのですね。だから相手からの執着も消えない」
「………何が言いたいの?」
「先ほどの殿方は貴方に対しての愛の告白は初めてでしょうけれど、貴方は今までに何度か同じ人から複数回告白をされている。そうでしょう?」
 ライゼルカは驚嘆した。メアリーの言っていた事が図星であったからだ。だからこそ、今度こそ畏怖感を覚えた。
「何も怖がることは無いわ。ただ、貴方には他者に対する厳しさという名の優しさと強さを持って欲しいだけ。今のままだと本当の意味で孤独になってしまうわ」

 ただ、何か懐かしさのようなものも、同時にメアリーから感じ取った。

「結局何が―――」

「私はルーン・コスモス・ルインツエイラを知っている。貴方の産みの母親」

「―――!?」
 そうだ。この雰囲気。話し方。内容。会話の切り出し方。
 ライゼルカの感じ取った懐かしさというものはそこに集約されていた。
 独特で端的かつ柔らかな物腰、雰囲気。姿形はこれっぽっちも似ていないけれど、生み出された空気感に安心を覚えたのはライゼルカの過去に対する執着の回答に他ならない。
「ど、どこで……… 今あの人は―――」
「私も分からない」
「じゃあ、なんで知っているのよ!」
 ライゼルカはそう叫んで、無意識のうちにメアリーの肩を力強く掴んで揺らして突き飛ばした。
 僅かにメアリーはたじろぐが、ものともせずに姿勢を正す。
 一方のライゼルカは突き飛ばしてしまったという罪悪感で咄嗟に、
「あっ………! そ、その………申し訳ありません………」
「いいのよ。気持ちは凄く分かるわ。
 私、元々教会に住んでいたの。貴方も私に会いに来てくれた事があるのよ。ルーン様とお父様と妹さんと貴方の四人で。
 少し経ってあの方は一人で来てくれたの。そこで少しお話しして、仲良くなったというか憧れたというか。その時に家族の事を聞いたわ」
「………だから、私の名前を………?」
「ええ、同い年のお友達なんて昔からいなかったし、見たことも無かった。だから、ずっと覚えていたのかな……… 覚えていたのかしら、ね」
「貴方はどういう経緯でこの学校に?」
「教会の施設が無くなるかもって聞かされて、とある方に引き取ってもらったの。そして、社会に出るためのマナーや知識、知恵、そしてお友達を作りなさい、と言われて……… というのは少し嘘。本当は私のわがまま。それを赦して貰ってここに。
 でも、貴方達とは違った境遇で生きてきたから、まだまだ分からない事が多いの。良かったら―――」
「勿論よ。ええ、勿論。友達になりましょう」
 それはきっと同情と罪悪感の狭間の感情とルーンに対する憧れが入り交じった下心だったのかもしれない、とライゼルカは心のどこかで思いつつ、メアリーに手を差し伸べた。
 若干の不安にうっすらと手に汗を滲ませながらも、メアリーはそっと彼女の手を握り返した。
「ねえ見て、夕暮れ時に月が浮かんでるわ」
「あら、本当ね」
 メアリーはふと、窓の向こうに浮かぶ赤色に染まった月を見て指を指した。それにつられてライゼルカもそちらへ顔を向ける。
 向こう側の太陽に照らされて、夕暮れの空の色に溶ける月は、段々とその色味を夜空の景色に向かって白く色づく前兆を示していたに違いない。
 でも、その月の姿と来たら、何故か妙に印象深く、二人の握手の時間を刹那ながらに永遠を演出していた。

 それからというものの、ライゼルカはメアリーと学校を共にする時間が多くなった。重なる授業は勿論ほぼ無いに等しいはずだが、空いた時間はいつも同じ場所で会話を楽しむ姿が、学生の間では大きく話題にもなった。
 メアリーの出自が特殊な件についても学生の間では広く知れ渡っており、それも、高貴で冷血感のあるイメージが付いている回っているライゼルカと一緒となると、意外性も充分。
 特にメアリーがライゼルカおよび、ルインツエイラ家に対して何かしらの取引を持ちかけているのでは、という噂を中心に様々な話題が学生達の会話の槍玉の一つとしてあがっていた。
 勿論そんな噂に真実は一つも無い。彼女二人の会話の話題など、当日の朝食の話題、将来の夢、好きな衣服、音楽、紅茶の種類など、極めて普遍的で嫌みな内容はどこにも無かった。
 今日も同じように空いた時間に空いた教室を使って会話をしていた。
「いつも思うの。私みたいな人々が恵まれない方々にとって悪魔の子に映ってしまうのではないかって」
「そんな事はないわよ、ライゼルカさん。子供は大人の汚さを知らないもの。大人だってそう。切り返せる場面というものはどこかにあって、私を引き取ってくださった方も最初は不運な産まれから成り上がった」
「そういうものなのかしら」
「貴方には縁の無い話かもしれないけれど、貴方のような優しい方ならきっとその視線に立って物事を切り開けると思うわ。その為にここにいるのでしょう?」
「それもそうね」
「それに、ここの子達は勉学の有り難みというものを分かってなさ過ぎると思うの。あって当たり前。貴方なら何となく分かるでしょう?」
「私も貴方も本来ならもう誰かに嫁いで社会での生活を送るのが一般的。私は私の夢の為、貴方は得られなかった社会的な知識や知恵を得る為」
「ご明察。だから、ここの男の子って可愛い子が多いのかしら」
 「可愛い」という言葉に首をかしげていると、二人だけだった教室に三人目がノックもせずいきなりドアから飛び出してきた。
「あ! お姉ちゃんここにいた! メアリーさんも一緒! 混ぜて混ぜて!」
 エルゼイクだった。
「入るときくらいノックして頂戴……… と思ったけれど、こちらも無断で使っているわね。敢えて言うわね。どうぞご自由に」
「あら、妹さん?」
「はい! 私はエルゼイク。エルゼイク・アマリリス・ルインツエイラと申します!」
「随分わんぱくな子ね。ライゼルカさんと風貌は似ているけれど、あなたはなんだかこう―――返ってお淑やかに見えるわ」
「………と、いうと?」
「今は分からなくてもいいわ。これから色々分かっていく事になると思うから」
 エルゼイクはメアリーの言葉に首を傾げるも、相手は自分の大好きな姉の友人。失礼な態度を取るわけにも行かず、いつも通りの姿勢を貫こうと思ったが、何かがエルゼイクの中で引っかかった。
 そして、刹那の沈黙を破って導き出した答えをライゼルカに囁いた。

「お母さんに似ているね。私達を産んだ方の」

 エルゼイクと同じ事を考えていたライゼルカ。確かに共感はしたものの、エルゼイクの中で自身の母の事は禁忌としていたはずなのに、このような言葉で返ってくるとは思いもせず、口があんぐりと開いた。
「………あなたもそんな表情をするのね」
「え、いや。その………」
「お姉ちゃん、私、多分、ここにいちゃいけない気がするから、出て行くね。でも、お姉ちゃんにお友達が出来て本当に良かった。だから、大切にね」
 そう言ってエルゼイクは出て行ってしまった。ほんの僅かな時間だった。思い人からもらった指輪を躊躇いながら嵌めるくらいの、そんな時間。そんな永遠。そして、そんな刹那。
「随分綺麗な子だったわね。あなたにはほど遠いけれど、共存というより憧れに近い、そんな存在。だから、好きとは遠い存在」
「エルゼイクの事?」
「ええ、そうよ。私はあなたの事が大好きで仕方が無いけれど、あの子は私の、私の、私の、私の、私の、私の、私の、憧れの的。憧れの存在、だから、何も手を出したくないの。ずっとそのままでいて欲しい」
「………憧れの的?」
「そう、憧れ。でも、好きな子とは全く違うの。だから、気にしないで欲しいな。貴方は私にとって特別な人。でも、憧れでも何でもないの。憧れにそんなもの求めないわ。ええ、だからこそ、貴方がいいの」
「………………どういうこと?」

「―――今は内緒」



 ライゼルカとメアリーの仲の良さも何週間か経った後は噂にも掠めなくなった。二人の間柄は変わらずとも、人の社会は変遷を伴って成長していくのと同じくして、学生達の噂の的はまた別のもへと変化していった。
 前までは空きの教室で話していたが、今は他人がいる所で今までの話を延々と話している。そんな間柄。そんな関係。
「随分風通しが良くなったわね」
「私は今のままでも、昔のままでも変わらないけれど」
「だって、わざわざ空きの教室まで行っていたのよ。みんなの視線をそらす為に」
「それは貴方の私に対する優しさとして受け取っておくわ。自分がこの場でどういう立ち位置で、私がこの場でどういう立ち位置かを判断して、考慮した結果でしょう」
「………それはそうだけども」
「なら、話は簡単。私は恥じらいというものを持たずに生きているつもりだから、そんな気を遣わなくて結構。でも、君がそれを気にするのであれば今まで通りここでも、空いた教室でも、例え火山の火口の中でも会話の相手をします」
「本当にお母さんに似ているのね。あなた」
「私の憧れ……… というより私に寄り添ってくれたって思う人の一人ですから」
 傍から見れば奇怪な会話の内容で、周りの学生達も、引いてしまうような言葉も今、この二人ならどこでも何でも言える。
 ライゼルカにとってメアリーに対して思う事が多かったものの、ここまでまごころで会話出来る相手というものも今まで存在せず、レベッカのような親友という言葉で括るには惜しい人間の一人として彼女の中での認識が形となって心に刻まれていた。

 そんな中だった。

「ねえ、ライゼルカさん。放課後はお時間あるかしら?」

「ええ、貴方以外の誘いは断るけれど」

「なら良かった。空きの音楽室で待ってます。二人でしたいことがあるの」



 その日の放課後は雨が降っていた。雨粒一つ一つが地面やアスファルト、レンガや草木に潤いを齎しながら、音を立てて降りしきる。
 何故か空が泣いているように感じながらも、ライゼルカはその足を違うことなく音楽室へと進ませた。
 戸を開けるとメアリーの姿があった。いつもと変わらない、あどけなさと麗しさ、そして自然に自身の風貌を魅せつけてくる雰囲気を醸し出す天性の美徳を備えて。

「あら、いらしてくれたのね」

「あなたが呼んだから」

「とても、とても、嬉しい限りですわ」

「それで、二人でしたいことって何かしら」

「………それは、ね」

 メアリーはゆっくりとライゼルカの方へ向かって歩み出す。ローファーの音を一切立たたせないくらい自然と一体化した足さばき。
 時間が止まっているかと錯覚してしまう程、しなやかで、穏やかで、それでいて華やかな振る舞い。立ち姿。歩き方。
 ライゼルカの目の前までやってくると、まじまじと彼女の顔を眺めるなり、「本当に綺麗な顔をしているのね」と、一言添えた。
「い、いきなりどうしたの」
 ライゼルカは少しだけ頬を赤く染めながら、メアリーに対して恥じらった。理由は本人には分からなかった。
「色んな人を虜にできる透き通って深みのある青い光彩。きめ細かくて化粧なんか一切必要ない真珠みたいな肌。絶妙なバランスで弧を描いて顔全体の美貌を引き締めている輪郭。綺麗な顔。でも、そんなものはどうでもいいの。どうでもいい。顔なんか、どうでもいいの。
 貴方がどれだけ美しくても、逆に、カマキリとか蜘蛛とか虫のような醜悪でも、私はあなたの事が好きなの」
「―――ほ、ほんといきなりどうしたの?」

「―――だからね」

 止まっていた時間が一気に加速した。と、言うより時間そのものが吹っ飛んでいた。
 ライゼルカの唇には暖かくて柔らかな感触があった。自分でも何が起こっているのか分からなかったが、気付くには少々時間がかかった。

 ああ、接吻されている。

 初めての体験。初めてのまごころ。どう受け止めて良いかも分からないまま、過ぎ去る時間。やがて唇から温もりが離れると、ようやくライゼルカは何が起きてしまったのかを把握した。 が。
「………もう一回」
「―――んっ!」
 今度は舌を入れられた。メアリーの舌は歯をかいくぐってライゼルカの舌へと届かせようと必死にもがいて、自身の歯と彼女のをこすり合わせながら唾液を交えて、求める。
 ライゼルカは今の状況ですら把握なんて一切出来なかった。全ての感覚を失っていたに等しい混乱に苛まれた。が、メアリーが自身の腰に右手を回した事をきっかけに、自我と共に真っ白になっていた視界だけは取り戻し、自身の胸元を見た。
 手があった。メアリーの左手が。
 欲望の赴くままに自身の身体をまさぐる為のメアリーの左手が、真っ直ぐでしなやかに自分の胸元を剥ごうとしていて、自身の理解出来ない感情が恐怖となって自身の心の底へとやって来ていた。
 やがて心を蝕む恐怖への抵抗感に限界がやって来て―――

「やめてよ!」

 ばん、と音がなった。見ればメアリーが尻餅をついていた。
 彼女を弾いたのは紛れもないライゼルカ自身の両手だ。
 唾液に塗れた口を袖で拭いながら、メアリーはライゼルカの顔を見て言った。
「私は貴方のことが好きなの。なんで答えてくれないの?」
「わたっ、私は………」
「私は貴方のことが好き。大好きで仕方ないの。その為に貴方の好きを何度も学んだの。生きていく為に何でもして、今ここにいるの。貴方も私の事を知っているでしょう」
 ライゼルカは何も言い返せなかった。彼女の事を何も知らない、会話の中でしか彼女の事を理解出来ていなかったからだ。その為の、自身を取り繕う嘘は吐かなかったけれど、意味合いは全くと言って良いほど認識すらしていなかった。
 だから口元が震えていた。
「知っているとか、そういうのじゃなくて……… その………」
「貴方は私の事が好き? 嫌い? どっち?」
「―――私は……… 私は―――………」
「貴方の好きなお母様に私は憧れて、その人のようになりたくて、そう達振る舞った。貴方もお母様の事が好き。だから―――」

 君だって本当は気持ちいいって思った。僕は知っているよ。少しだけ。

「違うわ! 全然違う! 全然違う! 貴方は誰なの!」

 ライゼルカがそう声を荒げると、メアリーは気の抜けたように顔から血の気を引かせて俯いて、ため息を一つ吐いた。そして、ゆっくりと、立ち上がると、肩を落として音楽室の扉の方へと足を運んだ。
 しかし、先ほどの言葉はメアリーに対して放ったものではなかった。それでも、発してしまった言葉の罪の意識が、自身の視線を彼女の方へと向かわせた。
 その姿は、幼い頃に見たライゼルカに背を向けて家を出て行ったルーンの姿と重なった。雨雲に覆われた空が余計にあの日の夜を思い出させて、部屋からメアリーが出て行った後も、酷く憔悴してしまった。自分の口元に付いたメアリーの唾液なんて拭うのを忘れて。

 その日以降、ライゼルカは離れの小屋に居ることが恐くなった。勿論、屋敷にも居たくない。メアリーの居る学校にも居たくないと思うようになった。
 自分を愛した者を否定したという罪の意識は思っている以上にライゼルカを苦しめていた。食事も上手く喉を通らない日々が続いた。何を食べても味がしなかった。
 誰かに心配されても、その誰かが時折分からなくなる事だってあった。
 それこそ、自分の大切にしている、枯れない花に触れている時も、その虚無感が拭える事はなかった。

 どうしたの?

「何でも無い」
 屋敷の部屋で独り言を咄嗟に呟くライゼルカ。
 エルゼイクは傍から見たライゼルカの事が心配で、家でも、学校でも彼女の影を追う反面、話しかけるのが恐くなった。
 何があったのかを、ライゼルカは誰にも話さなかった。話せなかった。彼女も彼女で恐かったのだ。
 自分を欲望のまま求まれたという恐怖が、自分の憧れに等しい友人を否定してしまった後悔が、そして、彼女に影を合わせた自らの産みの親であるルーンの最後に見た姿に似たものを再び目に焼き付けてしまったという自身の苦い記憶が全てライゼルカを沈黙の渦に閉じ込めていた。

 本当はもう一度―――

「うっさいわね! あっち行ってよ!」
 今度は怒鳴った。自分の部屋の暗い部屋の中で叫んでも、誰の声も返ってくる事はない。小屋に居たくないから自分の部屋に閉じこもっているのに、そこには自分の寝床以外のものなんて、随分ぜんまいを回していないが故に狂って止まった壁掛け時計と、必要最低限の衣服が揃えられたタンスに、楕円状の縦鏡。そして、窓台にあった一つの花瓶にささった、宝物である枯れない花くらいなもので、ただでさえ広い部屋を更に広く演出していた。
 というより、自分が小さく見えてしまっていた。
 本当は寂しくて、悲しくて、恐くて、悔やんでいるのであると、自身に問うたライゼルカはベッドから降りて、六歩歩いて窓台にある花瓶の花に告げた。ルーンの形見を彼女に見立てて。

「ごめんなさい」

 謝っても返事なんて来ないけれど、どこかで通じ合っていると信じ込んで、安心感を覚え、再びベッドに戻って目を閉じた。少し、月の光が目映く感じたが、いつの間にか眠りの底へと落ちていった。

 大丈夫だよ。きっと、君の心は幸せに届くから。


※ ※ ※


 何度か月を跨いで、ライゼルカはようやく元の心理状態に戻った。小屋に籠もる事も無くなったし、母の影を追うような真似も辞めた。形見の花はいつも携帯しているが。
 しかし、メアリーとの縁は戻らなかった。学校にはいるけれど、すれ違っても互いが互いを知らないふりして通り過ぎ去ってゆく。そんな関係になってしまった。
 それでも、いつも通り元気―――というよりも一人で本を読んだり、勉強したり、時に人に尋ねられた事を彼女らしく返答する姿を、エルゼイクは影から見ていて安堵を覚えた。
 でも、たまに呟く独り言は増えていた、という気がしなくてもならない。
 例えば、図書室での話。机の上に大量の本を積み重ね、尋常ではない速さで読みあさっているライゼルカの姿に、周りに居た誰もが言葉を投げかける事は無かったものの何かを思いながら、そして彼女自身もそれを自覚しつつ、行動はやめなかった。

 君はなんで本を読むの?

「自分を確かめるため。自分自身への挑戦。そして自分への戒めと自分を好きになる為の努力、そして未来への憧れ、それを叶える為の道を作りたいの」
 傍から見れば不格好で、意味不明な言葉の数々の羅列。でも、全て会話という形になっている。文章という形になっている。
 寝言に等しいものと言えば、そうなるだろうか。
 だから、誰もライゼルカの話は聞かないふりをしていた。中には彼女が知らない人も彼女を心配していた。何故なら彼女は有名人だったから。
 ライゼルカは俯瞰能力に長けていた方ではなかったが、この頃からその部分というものが自分の中で長けていると、自分に嘘を吐いて生活していた。だから、他人に対して、いつもより爽やかな人物であると思わせるような言動をとるようになっていた。心の真髄は変わらないけれども。

 君が君である理由を作る為に何を……… ううん、何でも無い。

「なら喋らないで」
 独り言はどこでも、どんな場所でも、どこに誰がいても言ってた。例え、数少ない友人の前であったとしても。
 今は誘われた喫茶店でのお話。自分の右隣には冷たいガラスの窓があって、それにもたれかかりながら、頭を冷やして沈黙していた。
「どうしたの?」
 友人が言った。
「ごめんなさい。何でも無いの。きっと、何でも無いの。なんでも」
「―――あまり、無理は―――」
「そのつもりは全くないの。本当に。全く無理してないのよ。でも、私は私であることを……… ううん。何でも無いの。本当に。何でも。何でも無いのよ。」
 友人は知った。この人が今、別の所に居て、ここにいるふりをしながら、自身と会話しているのであると。だから敢えて言った。
「そろそろ、私はお時間ですので、この辺で。お代金はここに」
「ええ、分かりました。というか―――」
「これ以上の言葉は不要です」
「なら、こちらも敢えて、ありがとうという感謝の言葉をこの場に伝えて、置いておきますね」
「失礼します。いや、ううん、ちょっと待って……… やっぱり貴方には言うわ。
 私ね、学校をやめるの。結婚する事にしたの。きっと、貴方を式に呼ぶ事は無いと思うけれど、でも、貴方はきっと私の事なんか全部知っていると思うから敢えていうね。
 私、貴方に負けたくなかったの。幸せになりたかったの。そして、なったの。貴方とは違うの」
「―――おめでとう、といっておくべきでしたかしら」
「………言ってて自分で惨めになるわ。でも、その言葉は受け取ります」
 ドアに人の出入りを伝える為の鈴の音と、座っているライゼルカを置いて、出て行く友人に、自身が常に携帯していた枯れない花をテーブルに置いて、敢えて問う。
「あなたが喋っているの?」
 声にして伝えても、自身が今まで受け取ってきたような返事は未だ返ってくる事はない。
 だから、喫茶店の窓越しに見た少年少女が、飛行機の玩具を用いて戯れている姿に憧れた。きっと、自分もあのような存在になれたら、何もかもを忘れて自身の感想や感情を言葉に出来るのだから。
 それでも、他人に対して嫉妬はしなかった。出来なかった。そういう感情を知らなかった。その起伏で起こる他人の状態なんて理解出来なかった。
 どんな事があっても、「おめでとう」と言って、自分も頑張ろう、と思っていた。
 何故なら、ルーンと同じくして、そのような感情は一切備えていなかったから。
 だから、相手は憤慨して出て行った事をライゼルカは疑問に思っていたのに、その理由や、相手の気持ちの一切を理解しなかった。できなかった。
 だから、いつだって、ライゼルカは寂しさを覚えつつ今を過ごしていた。あの時のメアリーとの出来事に対して後悔していたから。
 窓越しに空を見上げたライゼルカは白い雲から欠けた空に浮かぶ細々と存在を現していた月を見つけた。

 そろそろ、ぼくを見つけられそうだね。

「ええ、どう貴方と出会うのかは知らないけれど」

 翌日、この日は休日で、ライゼルカは机に向かって紙とペンを握って勉強に勤しんでいた。
 昨日、友人から敢えて言われた事が少しだけ耳に残って頭の中に纏わり付いてはいたが。
 今日、という日を明日に変える為の努力に妥協はしない。
 自らの手で滑らすペンの音でその雑音は遮って、同じくして自身の努力を糧に過去というものを遮って今というものを演出する姿に酔いしれる事で、ライゼルカは今の心を保っていた。
 しかしながら、彼女も人間。生き物。体力というものに限界がある。プライドよりも保身は生き物の性である。
 そういう時は惜しみなく休む。休む、とは言っても彼女の休むは何もしない訳では無い。あるとすれば、寝ることくらいだろうか。
 この話はさておいて、ライゼルカは目の疲れからペンを置くと、余った紙を折りたたんで、蛇を象った。所謂、折り紙。
 これはアルデラント公国大陸の南部に位置するエンパイア大陸のカムイ国から伝わった、謂わば文化の一つで、ライゼルカが最近本で学んだ知識を元に自身の知恵を織り交ぜて形にしていた。
 これは彼女の習慣で、幼い頃から形にしたものは褒められる程美しく、それでいて独特だったけれど、それを誇りとはしなかった。自信も何も関係無く、形にしたものだったから。
 それでも、これを見て喜んでくれる人というのは確かにいて、それもライゼルカの物理的に身近な人のマイケルだった。
 ライゼルカはマイケルのことがあまり好きでは無い。理由も明白。血も繋がっていない上に好きでも無い母親の子供のくせに一緒にいなければならない、大して相性の良くない人種の一人だからだ。ただ、父親が同じであると理由で、弟として接しなければならない、という理不尽な押しつけと人間的に相容れない幼さにも起因はある。
 ルインツエイラ家という家歴で未来をかたるのであれば大事な人ではあるものの、ライゼルカ個人の未来でものを語るのであれば、必要であるかと言われると疑問が残る。そういう人物であった。幼いながらもそういうレッテル貼りは彼女自身にとっても自身の生活に於いて重要な役回りを持つ。
 そのマイケルが部屋に訪れた。ノックなんか一切鳴らさずに、無邪気に彼女の部屋なんかノックしないでいきなりドアを開けて、その純粋な笑顔を晒しながら、ライゼルカに問うた。
「お姉ちゃん、また折り紙頂戴!」
「いいわよ。今日作ったのはね―――」
 先ほどの蛇、前に作った林檎。そして同じ時に折られた猫の全身。この三つ。
 マイケルは腕を組みながら悩んで、首を傾げて目を閉じる。やがてそれに飽きると目を開けてきょろきょろし出した後、こう言った。
「ぼく、あれがいい!」
 窓台の花瓶に挿された一輪の花に向かって、マイケルは飛び出して、それを花瓶ごと手に取った。
「それは―――!」
 ライゼルカは焦った。それは彼女が最も愛していたもの。宝物。枯れない花。誰にも触れられたくはなかった。
「いえーい。今日からこれはぼくのもの!」
 それは誰のものでもないはずなのに、子供らしい子供は周りのものに対してそういうレッテルを貼って自身の気に入ったものを所持し自己を正当化する。謂わば今のマイケルの如く。
「返しなさい!」
 それでも、この枯れない花は誰の物でもない。自分が見つけた自分だけの、自分だけが信じた自分の愛した人の、自分を愛しているだろうと推定している人からの、自分の推定の中にある自分だけの贈り物。そういう推定。
 それでも、その推定には絶対的な信頼があった。ライゼルカの中で、その理由は分からなかった。でも、いや、だからこそ、身体が咄嗟に動いた。
 それに、反応して戯れの如くマイケルは逃げた。鬼ごっこのように。
 マイケルにとっては、ライゼルカは自分が持っている今の花瓶を、彼女が追いかけてくれる装置の一つに過ぎなかったが、彼女にとってはかけがえのないものの一つであるが為に、追われるもの、追うものの表情ときたら太陽と月の光加減の比に等しい、いや、それ以上の必死さが窺えた。
 追われるものは子供。それでも追うものもそれに対して子供であった。
 母親に自慢しようと、マイケルは一階に降りようと階段の前で立ち止まるも、ライゼルカの必死さと来たら、その比にならないものがあった。彼女らしくない立ち振る舞いの一つであった。

 だから、マイケルの前で、止まる事が、出来なかった。

 ライゼルカの目の前に、突如、宙に浮いた枯れない花が表れていた。ふわりと少女のようなあどけなさと、幼さを魅せながら、彼女に過去の回想を与えるそれを、彼女が彼女自身の手で掴み取った時、彼女の中で異変があった。

 今まであった重力というものが無かった。気付けば天井は床であった。下を向く暇なんて無かった。いや、下を向く暇は確かにあったが、そこにいたのは、何故か床に、階段で転んだマイケルの姿。

 この後の事に関して想像する余地もない。
 傍から見れば衝撃が、主観においては虚無が。
 気付けば視界はおぼろげな赤色に染まっていた。所々鮮明に見える視界に映った枯れない花手のひらの上で花弁をくしゃくしゃにさせて、割れた花瓶をまき散らしながら、たった二輪だけの、不完全な命の形になっていた。
 何故か自身の息が頬から漏れている。ぶくぶくと自身の息に併せて音を鳴らしているのを自覚したから。でも、痛みはない。
 そこで、ようやくライゼルカは気付いた。マイケルに躓いた自分自身が階段から転落してしまったのだと。自分自身がこれで顔に傷を負ってしまったのだと。
 そして、今はそれをどうでもよくなるくらいに眠気を覚えてしまっていた。

 そして、眠ってしまった。意識を閉じねばならぬと身体が訴えていた。だから、彼女はその意識に従って、眠った。眠らざるを得なかった。

 意識を失った。微かに聞こえる家族の声を耳に残して。

「どうして、お父様は―――いいえ、貴方に対してかける言葉はこちらにはございません」
 無言の会話を、顔の傷を包帯で覆ったライゼルカを白い空間、即ち屋敷の医務室の中で取り囲んで行うエルゼイクの姿と言えば、必死とという言葉にふさわしい言動のそれに他にない。だからこそ、居合わせた周りの人々が彼女に対して沈黙を貫き通した。そういう優しさを彼女に、いや―――
 やがてマルセルは口を開く。
「これからのライゼルカの………」
 この後は何も言えなかった。それも、マルセルなりの沈黙であった。
 無言。これは、意味のある無言。そして、人によっては価値の無い沈黙でもあった。
 これを、ライゼルカは嫌うだろうと思ってマルセルも彼なりに言葉を振るおうと努力したが、何も出てこない。自身の無能を感じながらも、エルゼイクは言った。
「黙っている以上に何か出来ないの!? 私は―――私はね………お姉ちゃんが、ライゼルカお姉ちゃんが大好きなの!」
「それでも、起こってしまった事は………」
「ほんっとうに貴方は不器用なんですね」
「何も言い返せなくてすまない」
「私は、私はね、お姉ちゃんがせめて自分自身を愛してくれていればそれでいいの。僅かな愛でいいの。それでも、、、」
「今は無理をしなくていい」
「なら、貴方が無理してよ! 私の、私の、私のただ一人のお姉ちゃんなんだよ! 貴方がたった一人の父親であるように、私のたった一人のお姉ちゃん!」
 大粒の涙を、病院の一室で浮かべるエルゼイクに、マルセルは何も言えなかった。何も言ってはいけなかった。エルゼイクはその涙を拭わない。だって、それが本心の、真言の、現在を過ごす心であるから。
 訪れたのは再びの沈黙。この沈黙は時が止まるほど長く続いた。

 心地の良いベッドの感触に、エルゼイクは腰を預けるという形で、心を僅かに許しながら、眠るライゼルカの傍で彼女の、右頬を撫でる。包帯が巻かれていない、綺麗な真珠のようなきめ細かな肌だったが、今はほんのりと赤い。左側の、包帯に巻かれた傷に血を送る為なのだろうか、と想像しながら思った。
 バナナの形をした月が浮かぶ夜だった。太陽がこの世にあるだなんて微塵も思わせないような静寂に暗い空が雲を浮かべていた。
 どうすれば、どうしておけば良かったのだろう、とエルゼイクは悩むが意味なんてどこにもない。それを探して形にする方法なんてまだ知らなかった。それが子供、所謂女の子たる感性たる所以。
 誰にだって出来ない事はある。今はそれで医者を家に呼びこんでいる。今は寝ているけれど、自分の無能に向き合う為に、エルゼイクは、彼女の今置かれている状況を見て、夢を決めた。
 看護師になる、と。
 そう決めた瞬間、お尻に掛け布団が動く感触が蠢いた。ライゼルカの、骨折して包帯で巻かれた腕が動いた。
「………う、ううん………、うぅ………」
 時折うめきながら、ライゼルカが意識を取り戻そうとしている最中、エルゼイクは自身が決めた夢に、夢の為に動く。なりたいものがどんなものかも知らずに、駆け出して、ライゼルカの求む人間になろうと、自分なりに切磋琢磨する。
 咄嗟に用意したものはコームと化粧道具、そして―――自分の行動。
「………ここは、どこなのですの?」
 ライゼルカは目覚めた。満月の出た夜に。
「いいえ、なんでもありませんわ」
 会話にはならない。なぜなら、目覚めたことそのものが嬉しいから。
「なら、エルゼイクは―――」
 今は不格好でもいいです、エルゼイクは言おうとしたが、踏みとどまった。何故なら、そういう優しさを、相手に振りまいているから。
 通常、仕事は泣いてするものではない、というのをエルゼイクはとうの昔に知っていたのに、その気になって、寄り添った自分が浮かべた顔と言えば、泣き顔に他ならない。
「何故、泣いているの?」
「………お気になさらないでください」
「―――気に」
「大丈夫です。私は、貴方がここに―――」
 しかしながら、このエルゼイクの成長、心の進化とも呼べるものの最中で、ライゼルカの心情は間違いなく別の方向へ向かっていた。
 自身の歯の噛み合わせに違和感を覚え、何故自分がベッドの上にいるのか、身体の所々に痛みを覚えているのを不思議がったから。
「―――鏡、あるかしら」
「………………」
 エルゼイクが敢えて用意などしなかったものを、ライゼルカが要求した。
「………やっぱり、いい」
「まだ、包帯を取ってはいけません―――」包帯を取って欲しくない、と続けたかったが、これも沈黙した。

 この事故の一件でルインツエイラ邸にはそれなりの人々がライゼルカを気遣って見舞いにやってきた。中には彼女が初めて出会う人もいたが、これも家系とマルセルの仕事の都合。
 ライゼルカは不安の中で、見舞いに来る人達に普段の立ち振る舞いを心がけたが、不安定な自己と他者の寄り添いに強い軋轢のようなものが心の中に生じて、対面する人も気を遣うような素振りもたまに見せた。
 やがて来たる日を恐れていたのだ。包帯を取る日を。
 人々の会話の中に、自分への、特に容姿に対する言葉が、発している他人がそう思っていなくても、そう思えるような不安がライゼルカを苛んだ。
 そして、人がいなくなればいなくなったで、寂しい思いが心を裂いていく。
 どうしたいのか、どうされたいのか、自分でも分からなかった。
 でも、自分の置かれている状況が普通ではない事は確かで、同じ境遇の人も、そうであった人にも出会ったことのないが故に孤独を感じた。

 いくつかの月が天井に昇った夜の事。
 ライゼルカは叫んだ。心の中で。代わりに溢れるのは涙であった。
 この日の昼には、包帯を取っていい、と言われていたが、ライゼルカは皆の前で包帯を取る事を拒み、敢えてこの暗闇と孤独が蔓延る時を選んだ。
 月の光だけが照らす事の静寂の中、手鏡を片手に、顔の包帯を不器用ながらにとっていく様をもう一つの自分として、ライゼルカは眺めていた。
 醜さがあった。自分の顔の大部分には縫われた傷の跡が残っていた。通りで噛み応えが悪かったのだろうと、刹那、思う事もあったが、今はそれもどうでも良かった。
 彼女が思った事と言えば、自信の喪失。要は自分に自信があったという事の裏返しでもあった。
 それでも、自分自身を諦めずに来てくれていた人への恩返しに怯えて、その思いすらも踏みにじって、自分自身を誇示する為に、わざと、と、正直、が入り交じった状態を、人を通して伝わっていく事に乖離が生じた。
 だから、嫌だった。今、ここに居る事が。ここにいなければならない事が。
 ここにいる必要なんてどこにも無いのに、それでも、皆の期待に応えなければならない、それが、彼女の心を引き裂いた。
「痛みでさえ、通じ合えば」

 これは、独り言。

 そして、願い。

 最後に―――

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 叫び。
 許せない現実への嘆き。抗えない現実への叫び。訪れた運命への怒り。そして、虚構。
 理想への反抗とも呼べるその咆哮に、誰もが敢えて耳を貸すことは無かった。
 なぜなら、誰も理解なんて出来なかったから。所謂、理不尽。
 ライゼルカの想定ではありながらも、自信の理解、および語りえぬものに沈黙をせざるを得ないという自信の哲学に対する反逆は夜が明けても暫く続いた。

 ―――それでも、諦めたくないものがあった。

 それは、自分の夢。自分の未来。

 だから―――

「お姉ちゃん、無理しないでね」
 エルゼイクが心底、ライゼルカを労るように接しても、
「………大丈夫」
 彼女は口をへの字に曲げた、憂鬱を表にしながらも、未だ噛み合わせの悪い歯並びの中、歯を食いしばって、学校へ向かう。

 そして、後悔する。

 皆が自分に起こった事を知っている。皆が自分を見て何か言っている。何を言っているのかは聞かないふりをしたけども、それがたまらなく不安であった。
 自分自身はいつも通りいたいのに、それが相手に対して不格好なのかはさておいて、どうやって人に対して、自分の今の状況を、自分を表現するかに戸惑いを覚えていた。所謂、分からない。
 そして、ライゼルカは、分からない、という事が大嫌いなので、休憩中はいつも図書室や図書館に籠もっていたのだけれど、自分の今の状態、状況、心境を示す書物なんてどこにも無く、再び孤独に身を凍えさせた。
 いつしか、彼女は夢の為とはいえど、学校に行っても、傍から見れば震えて怯えているようにしか見えない態度を周りに振りまくようになり、彼女の事を心配して声をかけてくれる人をも、その人自身を疑って、拒絶して、真の意味での孤独を手にするようになってしまった。

 やがて―――

「お姉ちゃん、今日はどうするの?」
「ごめんなさい、人に合わせる顔を持っていないの。今日はこのまま一人でいさせて」
 ライゼルカは籠もるようになった。それも、あれほど拒んでいた、母親のいた離れの小屋に。
 それに、エルゼイクは口を閉じる事しか出来なかった。何故なら、ライゼルカの今置かれている状況なんて、共感しようにも出来ないから。
 わざわざ小屋までやってきたエルゼイクに申し訳なさを覚えたが、それでも、彼女がこの場から座する事をやめない。これは意地でもなんでも無く、虚無を体現したものにほからなかった。

 大丈夫、いつしか、君が僕を、いや、僕が君を救うから。

「そんなものいらない」
 再び独り言。残響なんかないこの小さな、こだまですら返ってこない、木で出来た小屋で呟いた言葉に返ってくる言葉も、ライゼルカにとって必要なんてなかった。要らなかった。受け取る余裕もなかった。
 そんな日々が続く中で、黙ってはいられない人もこの家庭にはいた。
 それは、義理の母親である、レイラに他ならない。産まれも育ちも正反対で、苦労してきたからこそ今の地位に立っているにも関わらず、その視点からのライゼルカは単なる不労所得者で生きてきた無法者に他ならない愚か者にしか映らなかった。
 そもそも、ライゼルカ本人からの印象の悪さも自覚していた、という嫉妬も踏まえ、それでも、義理でも、彼女の母親であるという自覚から、怒りという感情がだんだんと湧き上がってきていた。
 勿論、一緒に居て楽しい時間はあったが、それも、相手側からの気遣いで、それをも自身の中で、やはり妬みというものは確かに生まれ続けていた。
 吹っ切れる日はそう遠くは無かった。
「なんで学校に行かないの! 貴方はそのありがたみをなにも分かってない!」
「………………」
「何か言ってよ! 学校に行ってよ! 皆……… ううん、貴方は――― 今日はもういい」
 そうやって罵詈雑言を並べて過ぎ去る日々。
 こんなやりとりは毎日続いた。そして、日を跨ぐ度に、レイラがライゼルカに対してかける言葉は醜悪なものになっていった。
「甘ったれんな! お前は女のくせに、男でもないのに学校に行かせてもらっているのにも関わらず、なんで……… もっと世間を知れよ! もっと世の中を知れよ! その上で立っている事を自覚しろよ!」
 そんな事はライゼルカも分かっていた。でも、動けなかった。全ては自信の喪失。それだけが彼女を、彼女の意思を殺していた。
 暗い部屋の中で、今や何もない部屋の中で、冷たい部屋の中で、膝をを折って窓際の下に背を預け、聞きたくも無い罵詈雑言を耳に受けて、それをも何も感じないライゼルカだったが、唯一、心の深層にある希望、所謂永遠の花だけは肌身離さず握っていた。
 形の崩れた不完全な形だけれど、それでも、母親の形見として、自分自身をどこかで信じてくれている存在として、今握っている花を信じ返していた。
 今や空気の中に舞う小さな埃ですら、彼女にとっては痒かった。痛かった。でも、その花だけが彼女にとって、彼女を、彼女たらしめる唯一の存在。自分自身が生きている事だけが何故か自分にとって憎たらしく、鬱陶しく、そのせいか震えが止まらず、頭がぼーっとするような倦怠感まで覚えていた。髪の毛も冷や汗のせいか油でべっとりしていた。ライゼルカの忌み嫌う存在に、自分自身がなってしまっていた。

 ―――ああ、透明になりたい。

 彼女が薄らと、そう自分自身に問い詰めると、自然に涙が溢れた。
 自分で自分の事を消したい、だなんて思いたくも無いのに、そう思えてしまった事が悲しかった。
 でも、声は出なかった。声を出しても、無意味だから。誰も、自分の事なんて分かってくれないから。
 それでも、分かって欲しかった。同じ人間なんて世界のどこにもいない、そんなことは分かっているはずなのに、それをどこかに求めてしまう。それが彼女の今までを築いてきた性でもあった。
 生きている自覚なんて、誰にでもあるはずなのに、それを他人に求めてしまう姿勢が自分の中では許されなかった。
 だから、最終的に行き着いた答えは、ライゼルカの中で沈黙以外に無かった。
 溢れる涙を止める術は彼女の中にはどこにもない。ただただ、頬を伝って床にこぼれ落ちるだけ。
 そして、俯いて、花を見た。たった二輪の崩れた無限の花だけれど、それでも黄色いめしべはこちらをじっくりと見つめていてくれて、それがとっても心地の良い気分にしてくれるはずなのに、今はこれっぽっちも何も感じない自分に嫌気が差した。
 その瞬間だった―――

『だ、だいじょうぶ、、’、だ、よ、大丈夫、だよ』

「え」

『じぶんがかたちになるのに、には、じ、じかんがかかるね。ひとがものをつくるのとおなじ、ひとがじぶんをしるのとおなじ』

 いきなり、あの時崩れた花がその形を取り戻していくかのように咲き返りつつ、ライゼルカの目の前で、花柄の部分に人間の顔を作り上げながら、その花弁を人の頭髪に見立てて、その姿をライゼルカの前に現した。

 切り取られた茎の部分は蛇の尾の如くしなやかに形となって、、突如生えた葉は人の手のように、自分の顔であると認識している上、穏やかに口元の下、所謂顎の部分を撫でて、そっとライゼルカの顔を見上げた。

 ライゼルカはそのように変貌した花の姿を見て、何も思わなかった。今や、恐怖を感じる余裕すらなかった。驚愕だけした。
 そして、花が喋った、という事を自然に受け取った。

「あなたは、だれ?」
 ライゼルカは花に問うた。
『ぼ、ぼくは、僕は、無限の花〝ムーンライト〟だよ。ずっと、君に大事にされてきた花』
「なんで、突然……… いえ」
『大丈夫、僕は君の味方だから、君の望むもの全てを叶えるから』
「………今の私に、そんな望みなんてありません。もう、私は消えたいの」
『消えるのが、望み……… それは嘘だよ。君の優しさが君を苦しめているだけだよ』
「……………は、くない。やさしくなんてない、から、私は沢山、人から、義理の母親から悪口を言われているの」
『それは子供の視点を失った人だから言える事。だから、これっぽっちも気にしなくていいよ』
「………あなたは、優しいのね」
『君にだけ、優しいんだよ』
「でも、言わないの。言うだけ自分が汚れていくから」
『言わなくても、知っているよ』
 ムーンライトと名乗った花はライゼルカの手のひらから、そろりと離れて、扉の方へ向かい、不器用にも葉を手に見立てて必死によじ登ってドアを開けた。男性の手のひらを広げた位の長さであるものだから、ドアノブから手を離すと、ぺとり、と落下した。
『今から、君の望みを叶えるね。だから、心配しなくてもいいんだよ』
「何をするの?」
『屋敷を見ていれば分かること、とだけ』
 ライゼルカは久々に立ち上がり、窓の越しに、蛇の如く茎をうならせて移動するムーンライトの姿を目で追ってはいたものの、辺りに咲いていた花や雑草に紛れて、その姿を見失った。先ほどの会話も幻想だと思い込んだ。
 先ほどの不思議な存在を疑って、暫く目で探してはみたが、真っ暗闇に一つ、ぼんやりとした光だけが夜空に、地面を全てを照らす余裕なんてどこにもなかった。
 でも、暫くして、その蛇の姿を見つけた。何か、小さな四角いものと大きな四角いものを持っていたから、灯りのある屋敷に対して、影を映していたからだった。
 だから、屋敷に入る瞬間というものも目に映っていた。同じように、必死に手を伸ばしてドアノブを回して、尻尾で縦枠を蹴って扉を開いて、屋敷に侵入する様を。周りにものを、一旦置いてから、後で回収する様をムーンライトがどこかから持ってきたものを再び持ちながら、侵入していく様を、ライゼルカは傍観していた。
 ああ、これからきっと―――


※ ※ ※


 姉と自分自身の心の距離と、今同じ屋根の下にいるレイラとの嫌煙が酷くなった事をエルゼイクは悩んでいた。こういう、悩みのようなものがあった時は、灯りの点ったランプを片手に散歩に行くのが彼女の日課であった。
 自分の夢を見つけられた事、色々調べて、色々勉強しはじめて、その壁の高さというものを身にしみて感じながら、自分と、救いたい人との心の距離というものも結局大事なんだろう、今後を模索しながら、屋敷の周囲を散策していた。
 でも、小屋の方は近寄りがたく、屋敷の正門側の山道の方へ足を進めた。躓かないようにと、ランプで地面を照らして辺りに小石湿り気のある土を踏みしめながら下を向きながら歩いて、時折、前を向く。下ばかり見ていると辺りの道を見失うから。
 草木の香りは夜更けでも確かに漂いを感じさせながら、空気と混じって自然がなんたるものかを魅せるのは昼と同じ。
 手元の灯りと月明かりだけを頼りに、ただぼんやりと、憂さ晴らしも兼ねて無心で歩く。
 ペンダントの時計を見て、そろそろ帰る頃合いだ、と思い、道を引き返そうとした瞬間、遠くから人の叫び声がした。
 獣も人通りも珍しいこの一帯での、叫び声だったものだから、エルゼイクは気になって、声の方へ駆け出した。
 真っ白い靴下を泥で汚されていくのと同じくして、エルゼイクの視界というものが不思議とどんどん明るくなっていった。それも、上からの光ではなく、正面からの光。
 屋敷の門に戻って見れば、橙色の火炎と黒煙を巻き上げながら、燃え盛っていた。
 何が起きているのか、エルゼイクには理解が追いつかなかった。その様を見て、手に持っていたランプを手からするりと滑り落としながら、それを眺める事しか出来なかった。
 月夜に突如として現れた夕暮れから、頬を煤で化粧した二人がエルゼイクの方へ駆けている。この時間帯ならランプがなければ人の顔なんて見えるはずも無いのに、目の前の火災がその姿形を示していた。
 マルセルとレイラだ。
「―――エルゼイク! 大丈夫か!?」
「………………何、これ」
 素肌を刺すような寒気は夜に未だ残しているこの季節なのに、今日の夜と来たらほんのりと熱を感じた。不気味な悪寒も添えて。
 ぶるぶる、と震えた後、ようやく何が起きたか、の理解が追いついたエルゼイクは―――

「………………いや、何で―――……… 嘘、なんで、いや、こんなの嫌、いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 膝が崩れ落ちて燃え盛る屋敷を眺めながら大粒の涙を流すエルゼイクに、マルセルもただ寄り添う事しか出来なかった。本人も頭の混乱のせいで、かけるべき言葉を失っていた。
「――――――マイケルは? マイケルはどこ!?」
 レイラも混乱の中にいたが、不意に我が子の存在を思い出した。
 事の経緯と言えば、これは単なる火災では無く、開放感溢れる玄関付近で、突如起こった爆発に近いものであったが故、火の燃え広がり方というものが、通常の放火等とは比べものにならない速さがあった。
 マルセルは火災の発生場所から離れた場所にいたお陰で、怪我一つなく逃げ切る事が出来たが、レイラはその付近にいたせいで、爆風で風に吹き飛ばされて軽いやけどとガラス破片による腕の切り傷、アスファルトに転がり込んでしまったが故に、身体を覆う服の所々に血が滲んでいた。顔もやつれていて、心労はマルセルの比ではない。
「ここにいないと言うことは………」
 マルセルが言った。
「探してきます」
 そう言ってレイラは急いで駆け出したが、マルセルが咄嗟に止めに、彼女の腕を掴もうとしたが、その袖は血塗れで、掴むわけにもいかない、という思いが揺らいで手が届かなかった。
 足だって血が股から足先まで伝っていたのに、駆け出すレイラの姿を止めるものは誰もいなかった。怪我の痛みのせいもあってとても不器用に足を動かしていたのに、この場にいた二人は、その気になればとめられたはずなのに、動けなかった。
 自分の魂をも焦がしてもいい、という表情が、意思が身体の動きに表れていたから。それを、二人は感じ取ってしまったから。
 レイラの今まで見せたことのない表情がそこにあった。
 それなりに整っていた顔なんか歯を食いしばるという形でレイラは崩して、容姿なんかどうでもいい、と思いながら力強く駆け出す様は、芸術に他ならぬ、二人は唖然としながら、眺める事しか出来なかった。
 気付けば、炎の中に飛び込むレイラ。長い髪を炎に焼かれながら、玄関に飛び込むと、必死に、必死に、マイケルを目で追って、ようやくその姿を見つけた。どこを見ても炎という名の光で覆われていたのに、姿は影を持っていたから。
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「私がここにいるから! 私がここにいるから! お母さんがいるのよ! お母さんは最後まであなたの味方だから! だから……… だから―――」
 レイラはそんな中で、マイケルの背を抱きしめた。
 マイケルは泣きながら自分の身体に広がっていく炎の熱さに身を痛めていたが、やがて泣くことをやめた。炎が自分の涙を蒸発させて、自分の身を焦がしつつも、湧き上がったのは安心感だった。

「助けてください。お片付けはちゃんとするから、助けてください」

「大丈夫。お母さんがついているからね」

 どちらの声も、互いの耳に入っているのかは解らなかった。互いがちゃんと喋られているのかも解らなかった。呼吸のように言葉を吐いていた。
 やがて、息をする事も忘れて、二人の意識は永久の闇へと落ちたか、あるいは光の中に包まれて消えていった。
 後に解った事だけれど、二人の遺体は黒く焦げていて、表情なんて窺えるような代物では無かったが、抱き合いながらもその身を焦がして魂を解放した姿に感銘を覚えた人々も、どこかにいたのかもしれない。

 轟々と燃え盛る屋敷を、ライゼルカは小屋の窓越し眺めていた。刹那、飛びだそうと考えたが、今の彼女にとってはどうでも良かった。
 勿論、最初の爆発のような炎の舞い上がり方には驚いたけれど、それ以外の感情を上手く表現なんて出来なかった。それ位までに彼女の心が底に沈んでいた。
 時折、あの煙は昔飼っていた馬の尻尾の揺れる様に似ているな、だとか、小さい頃、馬小屋だったガレージに対して、馬をまだ飼っていたらもっと大惨事になっていたのだろうな、だとか、そんな事を考えていた。
 決して知らないふりをしている訳では無かった。
 今燃えている屋敷は、ある日から父によって建て替えられて自分の育ったかつてのものとは違っていたから、自分はこの思い出の場所にいた訳で、思い入れなんてどこにもなかった。
 だから、悲しくなんて無かった。
 虚無の眼差しで今の屋敷を暫く見つめていた。すると、足先から指先にかけて小さな蛇が上るような感触があって、手のひらを見つめると、ムーンライトの姿がそこにあった。
『君が望んでいたものの一つが叶ったよ』
「自分がそう思ってしまった事に哀れみを感じるわ」
『大丈夫。君が嫌ったもの全てを僕が全て破壊して、君の望む、君が美しいと思った新しい世界を作るから』
 その声を聞いて、ライゼルカは燃える屋敷を眺めて、不謹慎な柄に口角を緩ませた。
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