その手で、愛して。ー 空飛ぶイルカの恋物語 ー

ユーリ(佐伯瑠璃)

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本編

身元不明の女

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 今日も変わらない、いつもの日常に終わりを告げる頃、俺はハンガーの前に立っていた。変わらない日常って、俺にとってはとても重要で、とてもかけがえのないものだ。
 それを思い知らされたのはあの日、♯725を浜松に残して来てからだ。こんな風に心が削られるなんて初めてだった。これまで沢山の機体を整備して見送ってきたし、同じように接してきたつもりだった。なのにいつからか、何かが変わったんだ。♯725の機体に俺の名前を入れたあの日から、何となく会話が出来ているような不思議な感覚に陥った。
 そう思ったのも、初めてだった。

「ラストフライトが展示飛行だったらよかったんだけどな」

 横の通用口からハンガーに入り、あるはずのない♯725の駐機位置に目を向けた。代わりに新しく来た♯790がある。垂直尾翼に明日、1の数字を入れる作業がある。それをして、俺の現役としての整備士人生は幕を閉じる。
 幸か不幸か整備幹部となり全体を見ることになった。もう愛機を持つ必要はない。

「もう持てねえよ……はぁ」

 自分の女々しさに呆れながら、ハンガーの中をチェックした。工具一つでもしまい忘れがあれば大問題だ。
 そして、問題がない事を確認しそれぞれの機体周りをライトを照らしながら見た。ちょうど、5番機のギア付近に何かが見える。その何かがモゾと動いた。

「っ! 誰だ!!」
「……」

 返事はない。

(動物、か?)

 兎に角、そいつが暴れてブルーインパルスの機体に傷をつけられては堪らない。俺はジワリと音を消して近づいた。ライトが直接そいつに当たらないように。





「うわっ!」
 
 その姿を見て俺は叫んだ。しんと静まり返るコンクリートの上に、何も纏っていない女がいたからだ。横になり膝を抱えるように丸まって、目は閉じていた。長い黒髪が胸を隠すように前に垂れている。
 非常に際どい光景である!!

「んっ……んー」
「はっ」

 女が寝返りを打とうとした為、俺は着ていた作業服のジャンバーを慌てて脱いでその女に被せた。

(てか、隠れねえだろこれだけじゃ!)

 寝返りではなく、その女は伸びをした。思いの外、背が高いらしい。手も脚も長く、その肌も白いと思われる。当然、俺のジャンバーじゃ隠すことはできず、上を隠すか下を隠すか判断に迷いが生じた。

「おいっ、伸びをするなって……わっ」

(やはりここは下が優先か!!)

 見ないように目を逸らし、他に何かなかったかと巡察する。しかし、残念ながら俺はそれなりにいい歳を迎えた健康な成人男性である。見ないと言う事の難しさよ……くうっ。

(豊かな胸の持ち主……っ!)

 そうだハンガー内には災害用の毛布があったはずだ。それなら隠せるだろう。

(てか、なんで裸なんだ! どうやってここに入ったぁ!)

 俺はダッシュで毛布を取りに行った。それにしてもおかしい。関係者以外は基地内どころか、この鍵の掛かったハンガーに立ち入る事はできない。しかも真っ裸な女性がいたら目立つし、警務隊が黙って見逃すはずがない。

(警務隊に連絡だな、その後は警察に引き渡しか……はぁ)

 この後どうするかを考えながら、毛布片手に走って戻った。

「おいっ!」
「……」

 女は完全に目が覚めたのか状態を起こして俺をじっと見ていた。俺が慌てて掛けたジャンバーは腰の周りに巻き付いていた。女は胸をさらけ出したままだというのに隠しもしないで首を傾げて何か考えているふうだった。

「君はなぜ裸なんだ」

 興奮と焦りでおかしくなった俺は、裸に言及をしてしまう。とにかく躰を隠さなければマズイ。毛布を差し出しても希望の反応をしないので、包むようにして女の躰を隠した。その際、そっと俺のジャンバーも引き抜く。

「教えてくれ。君は何処から此処に侵入した」
「……ぁ」

 あ、と小さく口を開けて出した声は細かった。頭でも打ったのかもしれない。怯えた様子はないが、今の状況が分かっていないようだ。

「すまない。えっと……ここに居ては風邪をひく。移動しよう。歩けるか?」
「歩く……?」
「そうだ。ほら手を出せ、手伝ってあげるよ。痛いところはないか」
「手。これ?」

 女は右腕を毛布から引き抜いて上げて見せた。手はこれかと聞いている。

(可哀想に、やはり頭を打ったんだな)

「そうだ。触るぞ、さあっ」

 俺は腕を取り、脇の下を支えるようにして起き上がらせた。毛布越しとは言え生身の躰に触れていると思うと、一定の場所に熱を感じてしまうのは自衛官だからといって抑えられるものではなかった。

「痛い」
「痛い? 何処が痛む」
「ここ」
「え?」

 女が、指をさしたのは胸の中央だった。まさか全身を強打したのか。むやみに動かしてはいけなかったのか。

「医務室に行こう。俺の背中に乗れるかな。君を背負って行きたいんだ」
「背中に乗る」
「そうだ。じっとしていてくれよ」

 そう言って腰を落とした時だった。女が言った言葉に俺は耳を疑った。

「青井?」
「っ!! (なんで知っている)」
「AOI、私は……725」
「待て! 君は何者だ!」

 新手の詐欺かそれともマニアか。機体番号と思われる数字を、しかもそれはこの間までの俺の愛機だった番号だ。

「分からない。でも、私は725。アナタは青井。青井翼……私の、機付長。ちがう、のか」
「……」

 俺は答えることが出来なかった。良く分からない感情が胸の奥を渦巻いて、吐き出す場所がない。そんな感じだった。

「い、医務室に行く。それからだよお嬢さん」



     ✈



 ここの基地には幸い女性の医師が駐在している。当然のことながら医師も自衛官である。

「……で? 青井三佐。どういう事でしょうか」
「どういう事って、私にも分からないのです。警務隊が先か医務室が先か判断付き兼ねまして。対象者は女性でありましたし、は、裸である事が分かりましたので此処へ」
「そうじゃなくて、ねぇ……三佐」
「っ、は、はい」

 医師が指をさしてどういう事だと言うのは、正体不明の自称725女が俺に纏わりついて離れないという事だ。俺の腕に両手で縋るように絡まっている状態だ。

(何でこうなったぁ)

「まさか、何処かでおイタしたんじゃ」
「まさかっ。一応、節度はわきまえているつもりだ」
「説得力に欠けます、三佐」
「......」

 何とか女を引き剥がし医師がざっと見た限りでは外傷はないと言う事だった。看護師が売店から適当に女性物の着替えを持ってきた。嫌がる女に何とか力技で服を着せてもらい、そしてまた俺にピタリとくっついて怯えるように背中に隠れた。

「信じてください! 俺は断じてっ」
「はいはい。分かりました。本当に知らないのであれば警務隊に引き渡しね。最初に見つけた三佐を親とでも思っているのかしら」
「は?」
「インプリンティング……すり込みってやつですよ」
「鳥かっ……」
「良く分からないけれど、精密検査をしないとね。このまま外に出したら危険よ」

 女は俺たちの話を聞いて怯えているのか、俺の腰に抱きつくようにして益々離れなくなってしまった。この状況、女が美人なだけに嫌ではないのが男として残念なところである。

「さあ、美人なお嬢さん。あなたを保護してもらいますから、怖がらないで。このお兄さんが一緒に行きますから。ね?」
「ちょっと!」
「お願いしますね。青井三佐」
「はい」

 迎えに来た警務隊にギョッとした目で見られ、俺は女と車に乗り込んだ。
 警察に身元を引き渡す際も女は俺から離れない。大きなくりっとした瞳には今にも溢れそうな涙がゆらゆら揺れていた。しかも、「青井、怖いぃ」と言ってはふるふると震えだす。

「やはり、貴方のお知り合いでは?」
「違います!」

 胸には青井の文字が入った作業服。全く説得力に欠けている。

「事情は分かりませんが、自衛隊さんも各地に、ほら。いらっしゃるって」
「(なんだと!?)もう結構です! 警察官からそんな事を言われるとは思いませんでした。帰ります!」
「え、あっ、ちょっと青井三佐!」

 警務隊が慌てて追いかけてきた。勢いで出てきてしまった事に後悔が押し寄せる。
 振り向くと、女はブルブル震えながら両手で俺の手を何度も握り直していた。これは演技ではない。本当に自分の事も周りの事も理解できずに怯えているのだ。たまたま最初に発見したのが俺だったから、だから頼れる人間が俺しかいないのだ。

「君、名前は」
「名前……7っ……うっ、分からなっ」

 我慢していた涙がボロボロと零れ、ボタボタとアスファルトに染みを作った。俺はそれを見てどうしてか、気づけば女を抱き締めていた。名前も分からない可哀想な女。知っているやつが俺しか居ないと勘違いしている女。胸の奥が激しく痛んだ。

「ナナ。今から君の名前はナナだ」
「ナナ」
「うん。帰ろうか」

 一部始終を見ていた警務隊の隊員は女に何かを企んでいる様子はないと判断し、取り敢えず官舎まで送ってもらえることになった。

「病院へ行くことをおすすめします」
「明日にでも行くよ。自衛隊うちの病院でもいいかな。相談してみるよ」
「はい。では官舎の門まで送ります」

 こうして俺は身元不明の女を匿う羽目になった。女は安堵したのか頬を少し上げて笑った。その顔はとても儚く、美しかった。

(何処かで、俺たち会ったのか?)
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