千里香の護身符〜わたしの夫は土地神様〜

ユーリ(佐伯瑠璃)

文字の大きさ
上 下
25 / 39
多田羅の神々

25、こんな自分は大嫌い

しおりを挟む
 ゆっくりと時間をかけて二人は家に帰ってきた。神である泰然ならば、ほんの一瞬で移動できてしまう距離なのに、朱実に合わせて歩いたのだ。
 帰り道、朱実はずっと泰然の背中を見ていた。赤く染まる空に負けない萌葱色の狩衣は、朱実が迷わぬようにと導いてくれている気さえした。泰然が迎えに来なければ、泰然が朱実の前を歩かなければ、朱実はきっとふらふらと鎮守の杜に迷い込み帰れなくなっていたかもしれない。
 いや、そうなったとしても泰然ならすぐに見つけてくれただろう。
 そんな自分の身勝手さと不甲斐なさに怒りが込み上げてくる。

「朱実、そんなに強く握りしめてはいけない。ほら、爪の痕がついてしまっているではないか」

 朱実はずっと手を握りしめていたのだろう。泰然がゆっくりと朱実の握りしめて固まった指を解いた。確かに手のひらに四本の指の爪の痕が残っていた。とはいえ程度は知れている。すぐにその痕は消えてしまうのだ。

「悪かった」

 その爪痕をじっと見つめる朱実に泰然は詫びた。朱実はふと我に返り顔を上げた。いつもと変わらない表情で泰然が続けて言う。

「勝手に朱実に触れてすまなかった。だが、自分を傷つけるような行為はやめてほしい。人はとても傷つきやすいのだろう?」
「……」
「わたしは着替えてくるから、朱実はソファーに座って休んでいなさい。あとでお茶を淹れよう」
「あの、わたし」

 朱実は何か答えなければと口を開きかけるも、泰然はもう朱実に背を向けていた。そして、静かに部屋のドアを閉めた。
 人は傷つきやすい。その言葉に朱実は首を振った。

(違う! わたしは自分勝手でわがままで、独りよがりで、だから)

「傷ついているのは泰然さまで、あなたを傷つけたのはわたしなの」

 蚊が鳴くような声しか出なかった。そんな声では泰然には届かない。
 着替えるために閉じられただけの扉に、神と人との境界線を感じた。手を伸ばせば簡単に開けられるのに、それを許さない何かを感じてしまう。
 朱実は小さく息を吐いてソファーに座った。二人で選んだソファーは程よく沈んで朱実の体を包み込む。
 疲れた心と体に逆らうことができず、朱実は瞼を閉じた。

 朱実は夢を見た。
 泣きながら母に謝り、そしてその隣にいるまだ見ぬ秋の神、蒼然にも頭を下げた。母はそんな朱実にただ笑みを見せるだけで、隣にいる蒼然は静かに立ったままだ。どんな表情なのかは分からないが、きっと悲しんでいると思った。
 すると、泰然がやってきて朱実の手を引く。わたしたちの家に帰ろうと言うのだ。
 朱実はいつもと変わらない泰然の優しさに泣いた。

(ごめんなさい、ごめんなさい。泰然さままで傷つけた。ごめんなさい、わたしなんかに出会わなければ)

「ご、め……なさ」
「朱実」
「ごめっ。泰然、さま」

 目を開けると、泰然が朱実の顔を覗き込んでいた。ふと視線を下げると、泰然は朱実の手を握っている。

「すまない。うなされていたから、目覚めの詞を唱えた」

 泰然はそう言うと、握っていた手を離し朱実から離れていった。朱実はそよそよしく離れていく泰然を見て胸が苦しくなった。その手に救われたのに、その手を払ってしまったことを今はとても後悔している。今すぐにでもその背中に縋りたいのに、そんな都合のいいことはできないと理性で気持ちを抑え込んだ。

「もうこんな時間。夕飯、作りますね。そうだ、先にお湯を沸かしてお茶を」
「わたしは大丈夫だ。朱実は大丈夫なのか。無理をしなくていい。一人になりたければそう言ってほしい。わたしに遠慮はいらない」
「あの、わたし」

 朱実が何か言おうとすると、泰然はそれを制するように手のひらを朱実のひたいに当てた。

「体調は問題なさそうだな。わたしは少し仕事がある。神殿に戻るから、朱実はゆっくりしていなさい」
「泰然さま」
「何かあったら念じなさい。すぐに戻る」

 そう言って泰然は朱実の前から姿を消した。

「あ……」

 泰然がいない新居は初めてではないのに、急に温度が下がったような気がして心細さが込み上げた。

「わたし、何やってるんだろ。ばかだよ」

 自分から距離をとったのに、その距離を守ろうとする泰然に悲しくなった。

「自分のことがイヤになるよ」

 ◇

 何もしないまま時間だけが過ぎた。泰然は朱実に気をつかったのか、その夜は帰ってこなかった。朱実は広いベッドの端っこで丸まって夜をやり過ごした。
 朱実は夜がこんなに長かったのかと、初めて知る。

「わたし、一人で眠れなくなっちゃったのかな」

 隣に泰然の気配がないだけで、こんなふうになるなんて思いもしなかった。轟然や龍然のいう契るとか契らないとかそれ以前に、泰然の存在そのものが朱実にはかけがえのないものになっていたのだ。

「神殿のお布団なら、一人でも眠れたのかな……。泰然さまはぐっすり寝た? わたしがいなくてもマイペース貫いてる?」

 泣き過ぎて少し頭が痛い。それよりも、胸の奥がチクチクして辛かった。傷つくよりも傷つける方がこんなにも苦しいなんて、朱実には思いもよらなかったことだった。

「泰然さま」

 そう口にした時、あの懐かしい風景が目に入った。ふかふかの布団、檜のいい香り、明るくて広い神殿の寝室だ。

「神殿の、ふかふかお布団。えっ――!」

 そう、無意識に念じてしまったのだ。景色は一瞬にして一転。紛れもなく朱実が横たわっている場所は、泰然が住む神殿の寝室である。

「うそー! わたしったら、なにやっ」
「朱実さまぁ~」
「おっ、お加代さん」
「お待ちしておりましたわ! あら、やっぱり顔色がよくないです。ご飯、食べてないですね。それに、睡眠不足も。先ずはお腹に何か入れて、それからお風呂です。薬湯ですから目の腫れも、クマもとれますよ。ささ、こちらに。わたしの手を」
「でも」
「でも、だって、やっぱりはなしです。お加代を困らせないでくださいな」
「えっとぉ……。はい、分かりました」

 お加代の勢いに押されて、朱実は手を伸ばした。その朱実の手をお加代は満面の笑みで握りし返した。

 ◇

 別室に行くとマサ吉が盆を持ってやってきた。その盆から優しい出汁の効いた香りがする。朱実は思わずそれを覗き込んだ。

「けんちん汁ですね」
「はい。ごぼう、にんじん、里芋、大根といった根菜類に木綿豆腐が入ってございます。出汁に椎茸を使いました。醤油は控えめにしていますから、何も入ってない胃にも優しいかと思います」
「お腹、空いてきたかも……。ありがとう、マサ吉さん!」

 口にお汁を含むと、すぐに野菜の甘みが感じられた。ごぼうやにんじんの独特の土臭さはないし、里芋のまろやかな歯触りが優しさを引き立てた。大根は噛む前に口の中で溶けてしまうし、木綿豆腐には全ての具材の旨味がしみこんでいる。
 それらを一通り口に入れた頃、朱実の瞳から涙が溢れ出ていた。

「朱実さま、どうされました? マサ吉が作ったけんちん汁が合わなかったですか」
「違うの。とてもおいしくて、食べたらほっとして……。みんなの優しさが伝わって」
「お可哀想に。お加代の胸で泣いてくださいまし」
「お加代の胸はぺしゃんこだがよいのか?」
「マサ吉! あんたのごわついた胸よりはマシよ!」
「なんだと」
「さあ、マサ吉のことは放っておいてお加代とお風呂に行きましょう。きっと、気分も優れます」

 お加代はマサ吉にあっかんべーをして、朱実の手を引いた。マサ吉はやれやれと呆れている。

「マサ吉さん。おいしかったです。ご馳走さまでした」
「いえいえ。ゆっくり風呂につかってください。先ずは元気になってから、ですぞ」
「はい、ありがとうございます」

 朱実はマサ吉に頭を下げると、お加代に手を引かれるがまま廊下の角を曲がって風呂場へと向かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

真夜中の仕出し屋さん~料理上手な狛犬様と暮らすことになりました~

椿蛍
キャラ文芸
「結婚するか、化け物屋敷を管理するか」 仕事を辞めた私に、父は二つの選択肢を迫った。 料亭『吉浪』に働いて六年。 挫折し、料理を作れなくなってしまった―― 結婚を断り、私が選んだのは、化け物屋敷と父が呼ぶ、亡くなった祖父の家へ行くことだった。 祖父が亡くなって、店は閉まっているはずだったけれど、なぜか店は開いていて―― 初出:2024.5.10~ ※他サイト様に投稿したものを大幅改稿しております。

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

少年神官系勇者―異世界から帰還する―

mono-zo
ファンタジー
幼くして異世界に消えた主人公、帰ってきたがそこは日本、家なし・金なし・免許なし・職歴なし・常識なし・そもそも未成年、無い無い尽くしでどう生きる? 別サイトにて無名から投稿開始して100日以内に100万PV達成感謝✨ この作品は「カクヨム」にも掲載しています。(先行) この作品は「小説家になろう」にも掲載しています。 この作品は「ノベルアップ+」にも掲載しています。 この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。 この作品は「pixiv」にも掲載しています。

後宮の裏絵師〜しんねりの美術師〜

あきゅう
キャラ文芸
【女絵師×理系官吏が、後宮に隠された謎を解く!】  姫棋(キキ)は、小さな頃から絵師になることを夢みてきた。彼女は絵さえ描けるなら、たとえ後宮だろうと地獄だろうとどこへだって行くし、友人も恋人もいらないと、ずっとそう思って生きてきた。  だが人生とは、まったくもって何が起こるか分からないものである。  夏后国の後宮へ来たことで、姫棋の運命は百八十度変わってしまったのだった。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

処理中です...