千里香の護身符〜わたしの夫は土地神様〜

ユーリ(佐伯瑠璃)

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多田羅の神々

15、茶トラの猫と雷様

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 好き、の気持ちを口にしてから朱実は何をするにも頭の中は泰然のことでいっぱいになった。
 初めての恋を味わっているのかもしれない。
 神社の境内を竹箒で掃くときも、手水舎の落ち葉をすくい杓子を洗うときも、社務所で事務所処理をするときも、ときどき手を止めてぼんやりしてしまう。

「はぁ……」
「ふぅ」
「へへっ……。は! 何してるんだろ。しっかりしないと」

 一人で悶えて一人で正気に戻る。
 こんなことを一日中繰り返していた。そんな時、父柊二から挙式のことを話したいと呼び止められた。
 呼ばれて部屋に入ると総代たちが座っていた。

「皆さん、お疲れ様です。え、あ、会議中だったんですね。失礼しました」
「朱実。座りなさい。結婚式のことだからみなさんにも相談が必要だと思って残ってもらったんだよ」
「朱実ちゃんの大事なことに口出しさせてもらって申し訳ないと思うよ。でも、泰然くんは将来ここの宮司になる人だからね」
「はい。それは、重々承知していますので」

 父親の話によると、結婚式は多田羅神社で行いたいということだった。しかし、新婦の父が宮司であり泰然の両親はもういない。父自ら娘のために祝詞をあげても良いと思っていたところに、あるところから信書が届いたという。

「どこから、なにが届いたの?」
「それがだな、驚くなよ」

 朱実をはじめ氏子の代表である総代たちは、宮司である柊二の言葉の続きを待った。

「出雲大社から御神札ごしんさつが届いたのだ。きたる吉日にあちらから職員がきてくださるらしくてね。ここで、大国主命おおくにぬしのみことに代わって祝詞をあげてくださると言うんだ」
「おお! 朱実ちゃん。すごいぞ。光栄だねぇ」
「お父さん、あちら様から来てくださるの?」
「ああ。だから日取りを決めて先方にお伝えしなければならないんだ。いつがよいか、皆さんと話し合いたいと思う。泰然さんに連絡したのだが、引継ぎで忙しいらしく日取りは任せると言うことだよ」
「お父さん、泰然さんと連絡取ってるの⁉︎」
「ああ、電話とかアプリのなんだったか、これでやりとりをしている。多田羅の市街地に家を借りたそうじゃないか。いやぁ、しっかりしていて安心したよ」

(えええー! 泰然さま、スマホ持ってたの⁉︎ 早く言ってよぉぉぉ)

 その後は朱実をそっちのけで挙式の日取りや、職員のもてなし、御礼はどうすのかで盛り上がっていた。

「あとは婚姻届だな。泰然さんは保証人をどうするだろうね。ご親戚はいるのかな? いろいろと忙しくなるぞ」

 朱実は泰然が父とスマートフォンのアプリでやり取りをしていたことに衝撃を受けて、話の内容が頭に入ってこない。

「朱実? 口を開けてどうしたんだ」
「えっ、あ、はい! 分かりました。諸々のこと相談しておきます」
「うん、頼んだよ」

 結婚は決まってからが大変だということを、朱実は少しずつ思い知らされている。それよりも何を隠そう泰然は神であるのだ。普通の結婚を知らないのに、神様と結婚するのだからただごとではない。

(混乱している場合じゃないのよ。泰然さまって、戸籍とかあるのかな? 待って、お父さんには神様だよって言った方がいいの? やだー! たいへーん)

 朱実は後日、泰然のもとを訪ねることにした。

 ◇

 それから数日後、朱実は父に泰然に会いに出かけると伝えた。なぜか泰然は朱実の父とはアプリでやりとりをするくせに、朱実とはそういうことをしたがらない。
 何度か朱実が心の中でそれについて問いかけたが、答えはいつも同じだった。

『朱実には必要ないだろう? こうして不自由なくいつでも話せる』

 そういう問題ではないのだ。ちょっとした時に、ちょっとしたことをさりげなく伝えたいときがあるのに。手を止めてまで聞いてほしいわけではなくて、時間が空いた時に見たり感じたりしてほしいことがある。けれどそれは、泰然には理解できないらしい。

「もういいや! とりあえず、神殿に乗り込んじゃえ」

 朱実は多田羅神社の奥にある鎮守の杜にやってきた。御神木を見上げながら、心の声で泰然に呼びかける。

(泰然さま! いまからお邪魔したいんですけどいいですか?)

「…………」

(泰然さま? いないのですかー!)

「…………」

 いつも一息あけるくらいの速さで返事が来るのに、今日は珍しく応答がない。泰然の許可なく泰然が住む神殿には入れない。人の住む世界と神の住む世界は隔離されているからか、入り口が開かないのだ。

「忙しいのかな。うーん、困った。このまま家に帰るのもかっこ悪いじゃん」

 朱実は御神木の前で立ち往生してしまったのだ。朱実はずっとこうしているのも退屈なので、鎮守の杜を散歩することにした。ときどき泰然に声をかけていれば、そのうち返事がくるだろうと思ったからだ。
 そのとき、朱実の目の前を小さな塊が森の奥に向かって走っていくのが見えた。この森では鳥は囀るけれど、それ以外の動物はめったに見たことがなかった。だからものすごく興味がそそられる。

「なんだろう、さっきの」

 走った方向にゆっくりと進むと、カサカサッと枯葉を踏み締める音のようなものが聞こえてきた。朱実は脅かしてはいけないと、距離を保ちながら後を追いかけた。すると、雷に打たれた大木の根元に茶色い何かが入り込む。

「あっ! もしかして……、猫ちゃん?」

 ゆっくり、ゆっくりと近づいて膝をついて穴の中を覗き込んだ。すると?

 ―― にゃぁぁん

 茶トラの成猫が朱実の方を見て鳴いた。

「はぁぁ。かわいい、かわいい。ねえ、一人なの? おうちはどこ? ここがあなたの秘密基地?」

 茶トラの猫は逃げる風もなく、面倒臭そうに大きなあくびをした。よく肥えているし、艶もいい。きっと町の誰かの飼い猫で、ときどきここに散歩にきているのだろうと思った。

「あなた、小さい時にここにいなかった? もしかしてあの時の子かなぁ。そうだったらいいな。だって、幸せそうだもの。ふふっ、かわいい」

 茶トラの猫は体を丸めて寝ているが、朱実の声は聞こえているようで、ときどき耳を動かしたり尻尾をパタンと地面に打ちつけたりする。

「ごめんね。お昼寝の邪魔しちゃって。ゆっくりしてね。わたしはここから離れます。元気でね、バイバイ猫ちゃん」

 朱実は猫に向かって小さく手を振ると、手をついてゆっくり立ち上がった。

 ―― にゃぁぁん……、にゃぁぁん

 猫が鳴いたその直後、朱実は軽い眩暈に襲われた。貧血かもしれないと思いながら足で踏ん張り態勢を立て直した。

(急に立ち上がったのがよくなかったのね)

 朱実がそう思った直後、背後で雷鳴が鳴り響く。

―― ゴロゴロ! バリバリ!

「きゃーっ!」

 思ってもいなかった出来事に、驚きで体が硬直した。決して天気は悪くなかったからだ。
 ザク……。
 そして、地面の上に何者かが飛び降りるような音がした。朱実はその音を聞いて背中に恐怖を感じる。初めて泰然に遭遇した時のものと感じが似ていた。そこには得体の知れない威圧感があった。

「ははん。おまえが噂の娘か。神と婚姻を結ぶとは、なんと恐れ知らず」
「だれ」

 朱実が勢いよく振り返ると、そこにいたのは背の高い大きな男だった。金髪をオールバックにした、いかにも反社会的な香りがする男だ。しかし、服装はそうではなかった。
 彼もまた狩衣を着ていたのだ。山吹色の狩衣にはなにかの花の紋様があった。それを見た瞬間、朱実はさとる。

「あなたも、神様ですか」
「ほう」

 朱実がそう問いかけると、山吹色の狩衣を着た男はあっという間に間合いを詰めてきて、朱実を真上から見下ろした。
 190センチはくだらないだろう背の高さ、眉は太く濃く、ギラギラした大きな目は狩衣と同じ色をしていた。
 あまりにもの恐ろしさに朱実は視線を逸らした。
 それが気に入らなかったのか、男は朱実の顎を指で掴むと、無理やり視線を合わせる。そして、尖った鼻先を朱実の首元に寄せてきた。

「な、なんですかあなた」
「確かめているのだ。おまえが本当に泰然の嫁になる娘なのかをな」
「えっ、や、やだ!」

 朱実はドンと強く男の肩を押した。残念なことに男はピクリとも動かないし、むしろ嬉しそうににやにやと笑っている。

(気持ち悪い!)

「神に向かってそんな口をきくのか。泰然は躾がなっとらんな。ふむ。確かにやつの香りがする。しかしおかしいなぁ。純潔のくせになぜ沈丁花のしるしがあるのだ」
「ど、どういう意味ですか」
「まあよい。とりあえず、俺と遊べ」
「何言ってるんですっ――きゃぁ!」

 男は名前も名乗らずに朱実の腰を持つと、そのまま空に舞い上がった。そしてぐんぐんと天高く登って行く。

 ―― にゃぁぁん

 遠くで猫の鳴き声がしたのを最後に、朱実は気を失った。
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