貴方の右肩に労いのキスを

ユーリ(佐伯瑠璃)

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第一章 プレイボール

プレイボール⁉︎

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悶々と過ごすと思っていた私の一日は大逆転を迎えた。
今度はドキドキ、ソワソワと落ち着かないし、時が経つのがとても早い。
妙に浮足立った心で仕事をした。幸いだったのはバラエティー番組の吹込みだった事。これがもしノンフィクションやシリアスなものだったら、きっと撮り直しになっていたかもしれない。

「添田さん、いつもよりテンション高かったね!」
「そうですか?」
「うん。次もこう言うの来たら添田さんにお願いするよ」
「ありがとうございます!」

午後は司会が1件。
深呼吸をして、少しトーンを落とさないと。とても自分とは思えないくらい身体は軽かった。


私はフリーとは言え一応、協会みたいな所に所属をしている。自分の声よりも他の人の声の方が合っている仕事もあるし、もちろんその逆もある。自分から仕事を取りに行くのは基本だけれど、合わないときは無理はできない。依頼先に迷惑をかけてしまうから。

「週末のスケジュールはっと……土曜の午後からは空いているっ」

土曜の午前はだいたいが図書館で読み聞かせをしている。ボランティアになるのだけれど、子どもを対象に絵本を読んでいる。子どもは反応がとても正直なので、ある意味とてもいいトレーニングになっていた。
私は夕方、安藤さんにメッセージを送った。

土曜日の午後からは空いています。

顔がニヤけそうになるのを奥歯を噛みしめてぐっと堪えた。

「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「お疲れ様です」

私は足取り軽く事務所を出た。スマートフォン片手に、いつものポーカーフェイスは既に崩壊していた。理由は、安藤さんとメッセージのやりとりをしているから。

ピンコン♫
土曜日、午後2時のデイゲームが取れました。待ち合わせ場所どうしますか?
球場でもかまいませんよ?

ピンコン♫
最寄りの駅はどこですか。
女子大前です。

ピンコン♫
そこに1時にしましょう。駅前で待っています。
はい、分かりました。


安藤さんと待ち合わができるなんて、夢みたいだ。浮かれままスーパーに立ち寄り帰路に着いた。もうどうやって帰ってきたのかよく覚えていない。ただ、普段は買わない国産和牛のステーキが袋に入っていた。

(わたし、相当浮かれてる! 精力つける気満々じゃない!)

あと4日乗り越えたら、安藤さんと野球観戦ができる。
着ていく服はどうしよう。美容院に行く時間はあるかしら。どんな服があっただろうかとクローゼットの中をくまなくチェックした。
そんな時に、見つけしまう懐かしいもの。クローゼットの一番奥に眠らせているスコアブックだ。安藤さんの現役時代のスコアが全て記録されているもの。私の、大事な大事な宝物だ。

もう何年も手にしていないそれを、私は恐る恐る手に取った。





土曜日、ついにその日がやって来た。

何を着るのか散々迷ったけれど、午前中は図書館なのでひらひらした服は避け、パンツスタイルに決めた。でもその方が野球観戦には向いているかもしれない。
美容院はなんとか仕事終わりにねじ込んで行ってきた。
図書館での読み聞かせが終わると、私はすぐにレストルームに入って身なりをチェックする。

(髪、よし。服、よし。お化粧は……うん、まあまあよし)

鏡の前で深呼吸なんてしてみたり、笑顔を作ってみたり。気分はデートだった。

「よし!」

待ち合わせの時間には十分間に合う。私は徒歩で女子大前の駅まで向かった。
景色がいつもと違って見えるのは、気のせいではないよね。
10分ほど歩くと駅前のローターリーが見えてきた。今日は土曜日なので通勤時間のように人の流れは激しくない。それでもお迎えらしき車が数台停まっている。

私はローターリーに沿うように駅の正面に向かった。その時、電話が鳴った。

(こんな時に、誰だろう。あっ! あ、あ、安藤さん⁉︎)

大慌てで通話をオンにした。

「もしもしっ」
「お疲れ様です。一番前の黒の車なんですが、分かりますか」
「えっ、車?」

車で迎えに来てくれたらしい。てっきり電車で行くと思っていたので挙動不審に当たりを見回す。
すると、黒い車の運転席のドアが開いて、電話をしながら安藤さんが降りてきた。
軽く手を挙げてこっちだと教えてくれる。
ベージュの細身のパンツにスニーカー、上は黒のパーカーを羽織って中から白のシャツが覗く。背の高い彼はとても目立っていた。駅から出てきた若い子が見惚れながら通り過ぎる。

(モデルさんみたいじゃない?)

落ち着いていた心臓が、思い出したようにうるさくなった。

「すみません。遅くなってしまって」
「いえ、俺が早く着いただけです。ほら」

安藤さんが指さした駅の時計は、12時50分を差していた。

「本当だ。ふふっ、良かった」
「じゃあ行きますか。どうぞ」

助手席を勧められ、安藤さんの車に乗りこんだ。私は全然詳しくないけれど、この車のシートは立派な気がする。きっと、いい車なんじゃないかな。

「座り心地、抜群ですね」
「分かりますか? ちょっと奮発したんです」
「どこまでも乗って行きたいくらい」
「どこまでも?」
「あっ……」

(私、何言ってるんだろう)

「すみません。奥様に悪い、ですよね」
「奥様って誰の?」
「え、安藤さん、の?」

私がそう言うと、安藤さんは肩を揺らして笑いはじめた。ドライブに入れたシフトをパーキングに戻し、ハンドルに手を掛けたまま下を向いて笑っている。

「安藤、さん?」
「すみません。俺に彼女を飛び越えて奥さんがいるって、くくっ」
「いないんですか?」
「いませんよ。因みに彼女もいません、完全フリーです。36にもなっていないってのも変ですよね」
「変じゃないですよ! 私だって33になってもその気配すらありませんから」
「でも添田さんは俺に奥さんがいても、野球を見に行ってくれるんですね」
「非常識、ですよね。もし私が奥さんの立場ならなら嫌ですもん」

私はいったい何をやっているんだろう。浮かれ過ぎだ。夫や彼氏が自分の知らないところで、知らない女を車に乗せて出掛けだら絶対に嫌に決まっている。

(最低だよ……)

「添田さん?」
「あ、はい」

安藤さんが心配そうにわたしの顔を覗き込んできた。あまりにも近くて落ち着きかけた心臓がまた走り出す。

「すみません、野球が好きと分かって誘ったのは俺の方です。誘いに乗ってくれるだろうと思いながら誘ったんです。あなたは悪くない」
「でも……」
「自分がフリーだから誘った。あなたに彼氏や夫がいるのかなんて無視してね。だから落ち込まないでください」
「はい……ぇ?」
「行きましょうか」

安藤さんは今度こそ車を発進させた。ほんの少し頬の筋肉を緩ませている。

(これってどう言う事? 喜んでいい展開なのかな)

彼の運転を見ていると、胸のドキドキが止まらなくなる。
長い腕がハンドルを取り、握るその指は長くてとても綺麗だった。脚も長くて、太腿から足首までバランスの取れた筋肉がついている。
もう野球はしていないと言うのに、現役を思わせる身体だった。
こんな近くに安藤さんがいる。とても息苦しくて、とても幸せという絶妙な空間に私はいた。


しばらく走ると、車は球場の地下駐車場に入った。

「何か軽く食べてから入りますか」
「そうですね」

私たちはカフェで軽く食べてから入場した。球場の中には熱狂的なファンがたくさんいる。好きな選手のユニフォームを着てメガホン持つ人や、小さな子どもにユニフォームを着せた親子が笑顔でスタンドに降りていく。

「家族で野球観戦って楽しそう」
「この頃は多いですね。子供用のユニフォームも売ってるし」
「私、ユニフォームを着たことないんです。だから、憧れます」
「スポーツをやって来なかったんですか」
「実は運動神経ゼロです。こんな体型してて勿体無いってよく言われていました。でも、野球だけは好きで。だからマネージャーになりました。スコアもつけられますよ?」
「そうなんてすか⁉︎ 俺、スコアつけられないんですよ。凄いな」

驚いた顔も素敵だった。
どうしよう。どんどん好きになる、止められないかもしれない。あなたのその背中をずっと見ていたいと思ってしまう。
例えそこに背番号が無くても、私には見えるから。あの日のあなたの背中が。

「ここです」

案内された場所は何とバックネットの裏だった。

「えっ、すごい! ここで見られるんですか? うわー! 嬉しいです、」

ネット越しだけど、ここからなら全てが見える。ピッチャーの球筋や選手の動きも全部。

(スコアブック持ってくればよかった。やっぱりプロのマウンドは高いのね!)

「くくっ、添田さん。まずは座って」
「あ、ごめんなさい。興奮しちゃって」

私は安藤さんの隣に腰を下ろした。たくさんの観客が座れるように椅子はキチキチに並んでいる。
だから、私の右太腿が安藤さんの左太腿に接触してしまう。肩も触れるかもしれない距離にある。振り向く彼の顔もとても近い。

(ダメだ、考えるのはやめよう。集中しないと)

「大丈夫ですか?」
「え?」
「顔が赤い気がする」
「大丈夫ですよ。あの、嬉しくて、安藤さんと野球が観れる事が嬉しすぎたから。だから、大丈夫です!」

そう言うと、安藤さんはふわぁっと頬の筋肉を上にあげて笑った。
もしキューピットがいるのなら、確実に私の心臓は射抜かれたと思う。

場内はマスコットたちが踊り、アナウンスは選手紹介で盛り上がり、始球式が始まろうとしていた。

まもなくプレイボール。
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