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第一章 プレイボール

電話番号をゲットしました

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言うべきかどうか迷っている間の沈黙は、時折風で揺れる彼の前髪と彼の眼差しが、私の気持ちをあの頃に引き戻した。

あの日の歓声が聞こえる。

「私、実は安藤さんの事を知っていました。全日本大学野球選手権大会のうぐいす嬢をしていたのは私なんです」

彼は眉をピクんと揺らして、ひと呼吸おいてから「そうでしたか」と答えた。何となくその瞳が切なげに揺れた気がした。

「太田のおじさんとは子供の頃からの知り合いで、父の友人なんです。野球の審判員をしていたでしょう? その影響を受けて高校の時にマネージャーをしたんですよ。それで更に野球にハマっちゃて」
「へぇ、太田さんのお知り合いでしたか。でも、どうして俺を?」
「あっ、それはその」
「有名な選手はたくさんいたでしょう。俺なんて野球じゃ名のない体育大学ですよ」
「でも、決勝トーナメントに進みましたよね。あなたはピッチャーだった、でも突然キャッチャーに転身。その強肩故に誰も二塁を盗めなかったほどの。それなのにっ、大学最後の大会では監督になっていました」

つい感情的になってしまった。胸の奥が熱くて、これ以上はおかしなやつだと敬遠されてしまう。それでも言わずにはいられなかった。

「あなたのマウンドから見下ろす視線、獲物を捕らえるような鋭さは、放送席からも見ていても伝わりました。鳥肌が立つほどに」
「俺はエースでは無かったし、キャッチャーが自分には合っていると思ったから変わっただけですよ」
「キャッチャーになってからも変わりませんでした。エース級の球筋で二塁を刺していましたよね。皆があなたを信頼していた。どうして、現役を在学中に辞めたんですか」

なぜか涙が込み上げてくる。泣いてはいけないと、私は寸前でその涙を堪えた。私はずっとあなたの背中を見ていたかったのに。

安藤さんは困ったように眉を少し下げ、ふうっと息を吐いて私の方に体を向けた。
その厚い胸板が目の前に来ると、否応なしに男を感じてしまう。ふわりと、フローラルノートの香りが私を包み込んだ。

「監督の方が向いていると、思ったからですよ」

嘘だ、一瞬何かを躊躇ったように見えた。でもそれを突き詰める理由は、私にはない。

「すみません。いきなりこんな事を聞いて。大変失礼だったと反省しています」
「いえ。でも、本当に野球が好きなんですね」
「はい。自分はできないですけど、とても好きです。そして、安藤さんの攻め方が一番好きです。巧みな仕掛けをしたあとは、選手に一任して好きに暴れてこいっていう、あのやり方!」
「ふっ。ありがとうございます」

(あ、笑った!)

目尻のシワが重ねた時間を思わせるけれど、それでも彼はあの頃と同じ熱いものを胸に秘めていると思った。

「戻りますか」
「あ、はい。あのっ。お名刺持っていませんか? もし宜しければ頂戴したいなと思い、まして」
「名刺ですか。今は持ってないですね。休日だったので」
「そう、ですよね。すみません!」

せっかく巡り会えたチャンスだったから、終わりにしたくなかったな。
私は恥ずかしさを隠すために入り口の戸に手をかけた。早くみんなのところに戻って忘れようと思った。

「あの、俺は大した肩書は持ってないですけど、プライベートの携帯番号でいいならお教えしますよ」
「えっ……ええっ!」

私の想像の斜め上、いや、脳天を突き抜けるほど衝撃的な答えが返ってきた。

(け、携帯番号を教えてくれるの⁉︎ 嘘っ!)

「野球の話ならできますよ。あなたがお嫌いでなければ」
「いいんですか! 是非、教えて下さいっ」
「これです」

ガッつき過ぎたかもしれない。安藤さんが引いている。
それでもポケットからスマートフォンを出して番号を表示してくれた。私はドキドキしながら番号を入力する。アドレス帳には安藤壮一さんと登録した。

「間違えてないか、かけてもいいですか?」
「どうぞ」

♬~♫、♫~♬・・・
(鳴った!)

「名前は?」
「え、あっ、添田蒼子そえだあおこと言います。あおは青空じゃない方の、草冠に倉の」
「これ?」
「はいっ、それです」

安藤さんの電話帳に私の名前が登録された。もうそれだけでゴールテープを切った気分だった。実際に電話を掛ける勇気はないけれど、私は電話番号を知っている。それだけで繋がった気がした。

(嬉しすぎる!)

こうして私はドキドキが止まないまま、打上げはお開きとなった。





自宅に戻ってもドキドキ継続中で、お酒を飲んでもいないのにフワフワした気分になっていた。
どうしよう、あの安藤選手と番号交換しちゃったよー。

「もしかして、安藤さん。彼女とかいるんじゃ! だって、あんなに素敵なんだもん。それよりっ、結婚してるんじゃ⁉︎」

舞い上がりすぎて肝心な事を聞き忘れた。いくら野球談義が理由とは言え、奥さんがいるのならばこれってダメなことだ。
私は彼の名前を電話帳から開いて眺めた。

「はぁ」

溜め息しか出てこない。これじゃ恋する乙女みたいだよ。
やっぱり迷惑な想いは抱いちゃ駄目だよね。これはあくまで大人の社交辞令なのよね。だから安藤さんに電話を掛けることもないし、彼から掛かってくることも無い。勝手に盛り上がって、勝手に落ち込んで。私はいったいなにをしているのだろう。

「よし! お風呂に入って寝るよっ」

私はスマートフォンをテーブルに置いて、見ないように画面を暗転させた。

湯船に浸かっている間も、シャワーを身体に当てている時も、体を洗っている時も頭の中は安藤さんでいっぱいだった。

(ぜんぜんダメ。どんどん安藤さんでいっぱいになる)

自分の身に起きた燃え上がる想いを消火する事ができないまま、お風呂を終えてしまう。
リビングのテーブルに置いた鳴るはずのないスマートフォンを見てはため息をつく。

「あー、わたし、重症じゃない?」

スマートフォンを手に取ることをやめ、私はそのままベッドにうつ伏せた。





『5番、バッター 安藤』

「打てぇ! 行けぇ!」
「おぉッ」

わっと湧き上がる歓声。高鳴る胸、白球はどこまでも弧を描く。

「入ったぁぁ!」

右腕を高く挙げ、ゆっくりとダイヤモンドを周る彼は太陽を背に受けてホームベースを踏んだ。

「劇的、サヨナラ逆転ホームラァァーン」




また、あの名前を呼べる。彼がグランドに帰って来たと、いう夢を見た。驚いて目を開けると涙が頬を伝っていた。

「なに、これ。私って本当にっ、ばか。ううっ」

久しぶりに見た夢は、はっきりと『5番、バッター 安藤』とアナウンスしていた。
そう、それはあの日の私だ。


―― ブー、ブブッ…ブー、ブブッ

「うん? あっ、電話がなってる?」

マナーモードにしたままのスマートフォンがうなっている。急いでテーブルに置いたままのスマートフォンを確認した。
ショートメッセージにお知らせが届いていた。

(ショートメッセージって……?)

あまり見慣れないその通知に戸惑いながら、お知らせをタップした。

今日はお疲れ様でした。今度はゆっくりと話しましょう。安藤

「う、えっっ! あ、安藤さんですか?」

軽くパニックに陥った私はショートメッセージに大声で問いかけていた。

(これって、これって⁉︎)

今度は先程とは違って緑のお知らせランプが点いた。メッセージアプリが反応していた。
それを開くと新しいお友達が追加されましたとある。しかも、電話番号から登録されたようだった。

(え、誰からだろう)

「ひゃーっ!」

特別なアイコンではなかったけれど、表示名がSOICHI ANDOになっている。

(安藤壮一って事よね!)

彼の番号を電話帳に登録から自動的に登録た。しかも、登録されましたってなってたから、私だと分かって友達に追加してくれたことになる。

「私、死んじゃうかも」

脳はぼんやり、胸はバクバクとのぼせた状態。それでも指は勝手に友達追加ボタンを押していた。
私は画面がスリープに変わるまでの数十秒間、ただじっとその名前を見つめていた。

「本当に死にそう……」
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