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第二部
24、嗚咽が止まらない
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ビデオテープも残り四十五分となった。
「もうすぐ卒業なんですね」
ひよりは自分に言い聞かせるように呟いた。安達は黙って頷き、それを見届けた久世と増田もテレビ画面に視線を戻した。
◇
訓練学生はいよいよ最後の試練に立ち向かう。
基礎訓練から行動訓練を経て、今からそれらの総括となる作戦行動を行う。作戦終了後、行軍しながら基地へ帰ってくる。無事、自力で帰って来れたものだけがレンジャー徽章を手にするのだ。
四十キロを超えた背嚢を背負い、彼らは基地を出発した。先ずはあらかじめ定められた時間に、定められた場所で輸送ヘリコプターを待つ。それに乗り込んで作戦現場へ突入する。作戦完了後、離脱、基地への帰還となる。
与えられた日数は四日間。この間、食事も睡眠もとる時間はほとんどない。一日一食、しかも非常に簡単なもので、睡眠も一日平均一時間ほどである。
計画に遅れが出てはならないし、万が一ついてこられない隊員が出たら、その場で捨てていくしかない。
極限状況の中で、最終試験は行われる。
列を組んだ隊員二十五名は、基地を出発し演習場へ消えていった。慣れ親しんだ演習場を抜けると、そこからは未知なる挑戦の始まりだ。
ーーザック、ザック、ザック……
ブーツが砂を踏みしめる音だけが響いていた。
半日が過ぎた頃、教官が助教へ合図した。
「おい、ペースを上げさせろ」
「はい」
慎重になり過ぎたのか、体力温存をしているのか、先頭を行く隊員の時間配分が気になった。このままでは、ヘリコプター着陸時間に間に合わない可能性がある。約束の時間に間に合わなければ、作戦は中止だ。
「おい、配分考えろ! 全員失格になりたいのか! 走れーっ!」
「レンジャー!」
単なる平野を歩くだけではない。この先は山も谷も川もある。それらを超えて指定された地点まで行かなければならない。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
背嚢とブーツの音がリズミカルに変わった。しかし、それも長くは続かない。なにしろ、昼食抜きの水分補給なしで前進し続けていたのだから。
暑さと喉の渇きに自然と口が開く。すると更に喉の奥が渇きを覚えた。
――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ
誰も弱音を吐かない。おそよ三ヶ月、地獄のような訓練を受けてきたのだからそうだろう。体力はおろか、精神ははるかに強くなった。
そんな訓練学生の後を、教官、助教、衛生隊員が続くのだ。三日三晩、訓練学生と行動を共にする彼らの背嚢も、当然ながら重い。
演習場を抜けてから数時間が経ち、道なき山林を抜け、藪を掻き分けて峠を越えた。予定時刻は刻一刻と迫る。
湿気の多い日本の山は、彼らの行く足を阻んだ。枯葉は沼のように湿り、踏むたびに沈む。蔦は掻いても跳ね返り、頬を強く打った。それでも声ひとつ出さない、隠密行動は続いた。鉄帽から伝い落ちる汗は、ドーランを絡めたおどろおどろしい色となり、顎に流れ胸元を汚した。
――ドドドド‼︎
転げ落ちるように山肌を駆け下りると、陸上迷彩塗装されたCH-47という大型輸送ヘリが着陸態勢に入っていた。
「間に合った……」
隊を率いる班長は、震える声で囁く。
隊員たちの正面に降りたCH-47は、機体後部を開いた。
先頭の隊員が右腕を高く上げ、後方の隊員に合図を送る。
『速やかに搭乗せよ!』
あっという間に隊員たちを飲み込んだCH-47は、瞬く間に離陸し目的地に向かった。
空は彼らの作戦を憂うかのごとく、灰色の雲が空一面に広がっていた。
◇
機上でのほんの僅かな休息は、隊員たちの体力と精神力の立て直しに役立った。それと同時に、これからが本番なのだと緊張がはしる。
「分かっているな。降りたら休む暇などない、敵地に向けて前進だ」
「分かっているさ」
――着陸地点までまもなく!
機内放送を聞いて、全員が小銃を肩にかけ直した。
――健闘を祈る!
機長のその言葉を背に、僅かに浮いたままの機体から全員飛び出した。
背嚢の重みで着地後にゴロゴロと転がる。それでも数秒以内には体を起こし、山林に向かって走って行った。
時刻は午後五時を過ぎている。ここからは闇と闘いながら、敵陣へと前進するのだ。
この時点でまだ、一滴の水も飲んでいない。
夜間装備に素早く移行した。
作戦決行は午前三時、夜が明ける前である。敵に気づかれないよう、静かに前進した。
途中、腰の高さまである沼があった。背嚢と小銃を肩まで上げて、音を立てずに進んだ。
荒れ果てた陸を歩くよりも、水の中を歩くのは大変気を使う。沼底に何が潜んでいるか分からない上、深さが一定ではなく、足を取られ沈みでもしたら一大事である。
小銃や荷物をダメにするということは、作戦への参加が認められない。レンジャーの適正から外されてしまう。
――ここまで来て、離脱なんかしてたまるか!
しかし、本当の地獄を彼らはまだ知らない。
「よし、十五分の休憩だ。水、食料を許可する。後のことを考えて摂取しろよ」
「はい」
最低限の食料しかない。いや、人が想像する最低限をはるかに下回っていた。一口かじって、一口水を口に含むと、それで彼らの食事は終了だ。
長い一日だった。いや、どこまでが一日なのかもはや分からなくなっていた。
目を閉じると、深い闇が襲ってくる。
「おい! 誰が眠っていいと言った! おい、こら! 目を開けろ! もう起き上がれなくなるぞ!」
「はい、レンジャー……」
「目を、開けろー!」
閉じるつもりも、眠るつもりも毛頭ない。なのに、教官は目を開けろと自分を叱責する。なぜだ、俺は眠ってなんかいない……
刺すような痛みで我に返る隊員。
仲間の一人が頬を強く打ったのだ。
「みんなでやり遂げるんだ。生きて帰るんだよ」
隊員たちは再び背嚢を背負い、歩き始めた。
◇
――パンッ! パパパンッ!
「破壊完了!」
「制圧!」
「全隊員、速やかに離脱せよ!」
夜明け前に見事、敵の隙をついて通信部隊を壊滅させた。貯蔵倉庫も撃破し、作戦は完了した。
「ここまで離脱者なし! よくやった! これより基地に帰隊する」
ここまで二日間を費やした。あとは、生きて帰るのみだ。帰りは輸送機などない。自分の足で進むしかないのだ。
ただ、ひたすらに足を前にだす。作戦までの間に使い切った体力は、作戦完了と共に一気に低下した。
成功した、達成したという安堵感が、隊員たちの心と体を蝕んでいくのだ。
「うしろー! 遅れているぞ。歩けーっ、歩かないと死ぬぞ!」
「レンジャー」
「家族が待っているんだぞ!」
「レン、ジャー」
――ドサッ……
いきなり一人の隊員が崩れ落ちた。
助教と衛生隊員が駆け寄り、声をかける。
「大丈夫か? 聞こえるか!」
隊員は体を硬直させたまま、うんうんと頷く。素早く、背負った荷物を下におろす。
「おい、指! 何本だ? 俺の指、何本になってる」
「さんぼん、です」
「三本か?」
「はい。さん、ぼんです」
「そうか、三本かー。分かった」
助教が隊員にかざした指は人差し指の一本だった。助教は教官とこのことについて話す。
オーバーワークであることは明白だ。無理をさせると命に関わる。しかし、ここで脱落させると今までの努力が泡になる。
正気ではない隊員に判断能力はない。ただ、魘されるように「大丈夫です。歩けます、レンジャー」と、繰り返している。
「どうする。やめさせるか」
「……難しいですが」
その時、同じ班の隊員が叫んだ。
「諦めんなよ! おまえ、レンジャーになるんだろ? ここでお前は死ぬのかよ!」
「おい、やめろ。教官命令だ、こいつは外す」
「しかし!」
「だったらおまえ、こいつを背負って歩けるのか。お前が背負って歩くのなら話は別だ」
「っ……」
口で励ますのは簡単だった。しかし、どの隊員も自分のことで精一杯で、これ以上の重みをかして進む自信はなかった。
「できねぇだろ。だったら引っ込んでいろ」
「くっ……やります! 背負います」
「荷物は俺が持ちます」
「俺も……」
「自分も!」
班員たちは荷物を分担し、担いだ。言い出した隊員は倒れた隊員を背負った。背負うと言うよりも、背中に乗せて引きずると言った方が正解だろう。
それでも彼らは諦めたくなかった。ここで諦めたら何にもならない。これが本当の戦争だったら、自分たちは仲間が敵に殺されるのを黙って見ることになる。
「レン、ジャー!」
背中に仲間を背負って叫んだ。するとほとんど脊髄反射ように、背負われた隊員が反応する。
「レン、ジャー……」
「お前が言ってんじゃねえよ……」
もう、気力だけが頼りになっていた。
担がれた彼だけではない。他の隊員も意識が朦朧とする中、ほとんど無意識に「水をください」「食べ物はありませんか…」と、誰彼構わず乞うのだ。
だらんと、だらしなく力をなくした腕をぶら下げて、水をくれ、食べるものをくれと彷徨う。まるで、成仏できない幽霊のように。
――ドサッ……
また一人、倒れた。動けなくなった隊員の荷物を分担したことで、負荷がかかってしまったからだ。
「おい、大丈夫か」
「急に体が動かなくなって、力が入りません」
「ここは、どうだ」
衛生隊員が隊員の肩を掴んだ。
「うあっ、い、痛いです」
「ザック症ですね……」
重い荷物を長時持ち続けることにより、負荷がかかった部分から血流が止まってしまう。そして、麻痺して力が入らなくなる。しばらくは彼も背嚢を背負うことができない。
その荷物をまだ歩ける隊員たちが分担して、背負うしか方法はない。
それの繰り返しで、まさに地獄のような試練が続いた。
◇
小雨が降る中、レンジャー訓練を終えた隊員を待つため、基地では式典の準備が進んでいた。
今回、何人の隊員にレンジャー徽章を授与することができるのか。
また、この日に合わせて隊員たちの家族も出迎えで集まっていた。息子は、夫は、婚約者は、ちゃんと歩いて戻ってくるのだろうか。
手を合わせて、祈りながら待つしかない。
「間も無く入りまーす!」
広報官が手を上げながら走ってきた。隊員たちはまもなく基地の門をくぐるらしい。
耳を澄ませば遠くから、あの掛け声が聞こえてきた。
「レンジャー!」
「レンジャー!」
声を出しているのは訓練学生ではない。彼らを支えた教官、助教、衛生隊員が、並走しながら声をかけていた。
「もう少しだ、頑張れ」
「みんな待ってるぞー!」
所属部隊の隊員たちも整列して待っていた。そして手にはそれぞれ爆竹を持っている。
彼らが前を通過するとき、爆竹を投げて帰還を祝う。
――パンッ、バババババッ!
火薬の臭いに包まれて、最後の力で行進するレンジャー訓練学生たち。
その姿を認めた家族は、目頭を押さえた。
「健ちゃんいる……帰ってきた」
「お母さん、お兄ちゃんよ! ほら、見て! 顔、すごいぐちゃぐちゃじゃん」
「よかった。おめでとう……おめでとう」
ボロボロになった姿を見ながら、家族は泣いた。もしかしたら棄権していないかもしれない。それでもいいと思いながら、だけどひょっとしたら居るかもしれない。どちらでもいい、生きてさえいれば。
過去には訓練中に亡くなった隊員がいる。それを思うと、無理はして欲しくないというのが家族の本音だ。
だから、泣かずにはいられない。
帰還式で無事に帰ってきた隊員に、銀色のレンジャー徽章が首から下げられた。
意識朦朧となった隊員は、点滴を打ちながら仲間の背中で過ごした。そのあとは自分の足で歩いてきた。
ザック症で倒れた隊員も、なんとか回復し無事に帰還。それでも三名の脱落者が出たのは致し方ない。
「これからも、君たちの職務を全うしてほしい」
「レンジャー!」
レンジャー徽章を手にしたからといって、階級が上がるわけではない。レンジャー資格を得たからといって、手当ては以前と変わらない。
ただ、過酷な訓練に耐え、国のために強い男になったという証がこれからの支えにる。
胸に輝くレンジャー徽章は、彼らの誇りだ。
ー完ー
◇
全ての映像が終わっても、リビングはいように静かだった。誰も動く気配はない。
ひよりはテープが止まっても、テレビ画面から顔を動かすことができなかった。
完全にテープが止まり自動で巻き戻しに入った。
それが終わってやっと、安達がテープ回収に動いた。
「終わりましたよ、ひよりさ……っ‼︎」
振り返った安達は言葉に詰まる。なぜならばひよりは、声を押し殺して涙を流していたからだ。
「あなた、どうかしたの? あらあら、ひよりさん。これ、使って。大丈夫? 怖かった?」
安達の妻は柔らかティッシュを箱ごとひよりに渡した。ひよりは首をブンブン横に振ってから、涙を抑えた。
「怖いとかではっ、なくて……。がんどう(感動)しだだげっ……オエっ」
「我慢しないで泣いちゃって!」
「すみません。レンジャーって、レンジャーって……うわぁぁん!」
涙をこらえると吐きそうになる。それを理解した安達の妻が、我慢せずに泣けと言ってくれた。
子供のようにオエオエ言いながら泣くひよりに、安達はどうもできずに眉間にしわを入れるだけ。
久世は迷いながらも、隣のひよりの背中をさすった。
増田は頃合いを見ながら、ティッシュを抜き取って渡してやる。
「あなた! そんな怖い顔で見ないのっ。女の子が泣くとなんにもできないんだから……」
眉間にしわを寄せているのは、怒っているのではなく、とても心配していたからのようだ。
「あなたは三時のおやつの準備して。すぐに落ち着くわ」
「わ、わかった」
オイオイ泣くひよりに、さすがの陸曹長も役に立たなかった。女の涙には弱いのだ。
「もうすぐ卒業なんですね」
ひよりは自分に言い聞かせるように呟いた。安達は黙って頷き、それを見届けた久世と増田もテレビ画面に視線を戻した。
◇
訓練学生はいよいよ最後の試練に立ち向かう。
基礎訓練から行動訓練を経て、今からそれらの総括となる作戦行動を行う。作戦終了後、行軍しながら基地へ帰ってくる。無事、自力で帰って来れたものだけがレンジャー徽章を手にするのだ。
四十キロを超えた背嚢を背負い、彼らは基地を出発した。先ずはあらかじめ定められた時間に、定められた場所で輸送ヘリコプターを待つ。それに乗り込んで作戦現場へ突入する。作戦完了後、離脱、基地への帰還となる。
与えられた日数は四日間。この間、食事も睡眠もとる時間はほとんどない。一日一食、しかも非常に簡単なもので、睡眠も一日平均一時間ほどである。
計画に遅れが出てはならないし、万が一ついてこられない隊員が出たら、その場で捨てていくしかない。
極限状況の中で、最終試験は行われる。
列を組んだ隊員二十五名は、基地を出発し演習場へ消えていった。慣れ親しんだ演習場を抜けると、そこからは未知なる挑戦の始まりだ。
ーーザック、ザック、ザック……
ブーツが砂を踏みしめる音だけが響いていた。
半日が過ぎた頃、教官が助教へ合図した。
「おい、ペースを上げさせろ」
「はい」
慎重になり過ぎたのか、体力温存をしているのか、先頭を行く隊員の時間配分が気になった。このままでは、ヘリコプター着陸時間に間に合わない可能性がある。約束の時間に間に合わなければ、作戦は中止だ。
「おい、配分考えろ! 全員失格になりたいのか! 走れーっ!」
「レンジャー!」
単なる平野を歩くだけではない。この先は山も谷も川もある。それらを超えて指定された地点まで行かなければならない。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
背嚢とブーツの音がリズミカルに変わった。しかし、それも長くは続かない。なにしろ、昼食抜きの水分補給なしで前進し続けていたのだから。
暑さと喉の渇きに自然と口が開く。すると更に喉の奥が渇きを覚えた。
――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ
誰も弱音を吐かない。おそよ三ヶ月、地獄のような訓練を受けてきたのだからそうだろう。体力はおろか、精神ははるかに強くなった。
そんな訓練学生の後を、教官、助教、衛生隊員が続くのだ。三日三晩、訓練学生と行動を共にする彼らの背嚢も、当然ながら重い。
演習場を抜けてから数時間が経ち、道なき山林を抜け、藪を掻き分けて峠を越えた。予定時刻は刻一刻と迫る。
湿気の多い日本の山は、彼らの行く足を阻んだ。枯葉は沼のように湿り、踏むたびに沈む。蔦は掻いても跳ね返り、頬を強く打った。それでも声ひとつ出さない、隠密行動は続いた。鉄帽から伝い落ちる汗は、ドーランを絡めたおどろおどろしい色となり、顎に流れ胸元を汚した。
――ドドドド‼︎
転げ落ちるように山肌を駆け下りると、陸上迷彩塗装されたCH-47という大型輸送ヘリが着陸態勢に入っていた。
「間に合った……」
隊を率いる班長は、震える声で囁く。
隊員たちの正面に降りたCH-47は、機体後部を開いた。
先頭の隊員が右腕を高く上げ、後方の隊員に合図を送る。
『速やかに搭乗せよ!』
あっという間に隊員たちを飲み込んだCH-47は、瞬く間に離陸し目的地に向かった。
空は彼らの作戦を憂うかのごとく、灰色の雲が空一面に広がっていた。
◇
機上でのほんの僅かな休息は、隊員たちの体力と精神力の立て直しに役立った。それと同時に、これからが本番なのだと緊張がはしる。
「分かっているな。降りたら休む暇などない、敵地に向けて前進だ」
「分かっているさ」
――着陸地点までまもなく!
機内放送を聞いて、全員が小銃を肩にかけ直した。
――健闘を祈る!
機長のその言葉を背に、僅かに浮いたままの機体から全員飛び出した。
背嚢の重みで着地後にゴロゴロと転がる。それでも数秒以内には体を起こし、山林に向かって走って行った。
時刻は午後五時を過ぎている。ここからは闇と闘いながら、敵陣へと前進するのだ。
この時点でまだ、一滴の水も飲んでいない。
夜間装備に素早く移行した。
作戦決行は午前三時、夜が明ける前である。敵に気づかれないよう、静かに前進した。
途中、腰の高さまである沼があった。背嚢と小銃を肩まで上げて、音を立てずに進んだ。
荒れ果てた陸を歩くよりも、水の中を歩くのは大変気を使う。沼底に何が潜んでいるか分からない上、深さが一定ではなく、足を取られ沈みでもしたら一大事である。
小銃や荷物をダメにするということは、作戦への参加が認められない。レンジャーの適正から外されてしまう。
――ここまで来て、離脱なんかしてたまるか!
しかし、本当の地獄を彼らはまだ知らない。
「よし、十五分の休憩だ。水、食料を許可する。後のことを考えて摂取しろよ」
「はい」
最低限の食料しかない。いや、人が想像する最低限をはるかに下回っていた。一口かじって、一口水を口に含むと、それで彼らの食事は終了だ。
長い一日だった。いや、どこまでが一日なのかもはや分からなくなっていた。
目を閉じると、深い闇が襲ってくる。
「おい! 誰が眠っていいと言った! おい、こら! 目を開けろ! もう起き上がれなくなるぞ!」
「はい、レンジャー……」
「目を、開けろー!」
閉じるつもりも、眠るつもりも毛頭ない。なのに、教官は目を開けろと自分を叱責する。なぜだ、俺は眠ってなんかいない……
刺すような痛みで我に返る隊員。
仲間の一人が頬を強く打ったのだ。
「みんなでやり遂げるんだ。生きて帰るんだよ」
隊員たちは再び背嚢を背負い、歩き始めた。
◇
――パンッ! パパパンッ!
「破壊完了!」
「制圧!」
「全隊員、速やかに離脱せよ!」
夜明け前に見事、敵の隙をついて通信部隊を壊滅させた。貯蔵倉庫も撃破し、作戦は完了した。
「ここまで離脱者なし! よくやった! これより基地に帰隊する」
ここまで二日間を費やした。あとは、生きて帰るのみだ。帰りは輸送機などない。自分の足で進むしかないのだ。
ただ、ひたすらに足を前にだす。作戦までの間に使い切った体力は、作戦完了と共に一気に低下した。
成功した、達成したという安堵感が、隊員たちの心と体を蝕んでいくのだ。
「うしろー! 遅れているぞ。歩けーっ、歩かないと死ぬぞ!」
「レンジャー」
「家族が待っているんだぞ!」
「レン、ジャー」
――ドサッ……
いきなり一人の隊員が崩れ落ちた。
助教と衛生隊員が駆け寄り、声をかける。
「大丈夫か? 聞こえるか!」
隊員は体を硬直させたまま、うんうんと頷く。素早く、背負った荷物を下におろす。
「おい、指! 何本だ? 俺の指、何本になってる」
「さんぼん、です」
「三本か?」
「はい。さん、ぼんです」
「そうか、三本かー。分かった」
助教が隊員にかざした指は人差し指の一本だった。助教は教官とこのことについて話す。
オーバーワークであることは明白だ。無理をさせると命に関わる。しかし、ここで脱落させると今までの努力が泡になる。
正気ではない隊員に判断能力はない。ただ、魘されるように「大丈夫です。歩けます、レンジャー」と、繰り返している。
「どうする。やめさせるか」
「……難しいですが」
その時、同じ班の隊員が叫んだ。
「諦めんなよ! おまえ、レンジャーになるんだろ? ここでお前は死ぬのかよ!」
「おい、やめろ。教官命令だ、こいつは外す」
「しかし!」
「だったらおまえ、こいつを背負って歩けるのか。お前が背負って歩くのなら話は別だ」
「っ……」
口で励ますのは簡単だった。しかし、どの隊員も自分のことで精一杯で、これ以上の重みをかして進む自信はなかった。
「できねぇだろ。だったら引っ込んでいろ」
「くっ……やります! 背負います」
「荷物は俺が持ちます」
「俺も……」
「自分も!」
班員たちは荷物を分担し、担いだ。言い出した隊員は倒れた隊員を背負った。背負うと言うよりも、背中に乗せて引きずると言った方が正解だろう。
それでも彼らは諦めたくなかった。ここで諦めたら何にもならない。これが本当の戦争だったら、自分たちは仲間が敵に殺されるのを黙って見ることになる。
「レン、ジャー!」
背中に仲間を背負って叫んだ。するとほとんど脊髄反射ように、背負われた隊員が反応する。
「レン、ジャー……」
「お前が言ってんじゃねえよ……」
もう、気力だけが頼りになっていた。
担がれた彼だけではない。他の隊員も意識が朦朧とする中、ほとんど無意識に「水をください」「食べ物はありませんか…」と、誰彼構わず乞うのだ。
だらんと、だらしなく力をなくした腕をぶら下げて、水をくれ、食べるものをくれと彷徨う。まるで、成仏できない幽霊のように。
――ドサッ……
また一人、倒れた。動けなくなった隊員の荷物を分担したことで、負荷がかかってしまったからだ。
「おい、大丈夫か」
「急に体が動かなくなって、力が入りません」
「ここは、どうだ」
衛生隊員が隊員の肩を掴んだ。
「うあっ、い、痛いです」
「ザック症ですね……」
重い荷物を長時持ち続けることにより、負荷がかかった部分から血流が止まってしまう。そして、麻痺して力が入らなくなる。しばらくは彼も背嚢を背負うことができない。
その荷物をまだ歩ける隊員たちが分担して、背負うしか方法はない。
それの繰り返しで、まさに地獄のような試練が続いた。
◇
小雨が降る中、レンジャー訓練を終えた隊員を待つため、基地では式典の準備が進んでいた。
今回、何人の隊員にレンジャー徽章を授与することができるのか。
また、この日に合わせて隊員たちの家族も出迎えで集まっていた。息子は、夫は、婚約者は、ちゃんと歩いて戻ってくるのだろうか。
手を合わせて、祈りながら待つしかない。
「間も無く入りまーす!」
広報官が手を上げながら走ってきた。隊員たちはまもなく基地の門をくぐるらしい。
耳を澄ませば遠くから、あの掛け声が聞こえてきた。
「レンジャー!」
「レンジャー!」
声を出しているのは訓練学生ではない。彼らを支えた教官、助教、衛生隊員が、並走しながら声をかけていた。
「もう少しだ、頑張れ」
「みんな待ってるぞー!」
所属部隊の隊員たちも整列して待っていた。そして手にはそれぞれ爆竹を持っている。
彼らが前を通過するとき、爆竹を投げて帰還を祝う。
――パンッ、バババババッ!
火薬の臭いに包まれて、最後の力で行進するレンジャー訓練学生たち。
その姿を認めた家族は、目頭を押さえた。
「健ちゃんいる……帰ってきた」
「お母さん、お兄ちゃんよ! ほら、見て! 顔、すごいぐちゃぐちゃじゃん」
「よかった。おめでとう……おめでとう」
ボロボロになった姿を見ながら、家族は泣いた。もしかしたら棄権していないかもしれない。それでもいいと思いながら、だけどひょっとしたら居るかもしれない。どちらでもいい、生きてさえいれば。
過去には訓練中に亡くなった隊員がいる。それを思うと、無理はして欲しくないというのが家族の本音だ。
だから、泣かずにはいられない。
帰還式で無事に帰ってきた隊員に、銀色のレンジャー徽章が首から下げられた。
意識朦朧となった隊員は、点滴を打ちながら仲間の背中で過ごした。そのあとは自分の足で歩いてきた。
ザック症で倒れた隊員も、なんとか回復し無事に帰還。それでも三名の脱落者が出たのは致し方ない。
「これからも、君たちの職務を全うしてほしい」
「レンジャー!」
レンジャー徽章を手にしたからといって、階級が上がるわけではない。レンジャー資格を得たからといって、手当ては以前と変わらない。
ただ、過酷な訓練に耐え、国のために強い男になったという証がこれからの支えにる。
胸に輝くレンジャー徽章は、彼らの誇りだ。
ー完ー
◇
全ての映像が終わっても、リビングはいように静かだった。誰も動く気配はない。
ひよりはテープが止まっても、テレビ画面から顔を動かすことができなかった。
完全にテープが止まり自動で巻き戻しに入った。
それが終わってやっと、安達がテープ回収に動いた。
「終わりましたよ、ひよりさ……っ‼︎」
振り返った安達は言葉に詰まる。なぜならばひよりは、声を押し殺して涙を流していたからだ。
「あなた、どうかしたの? あらあら、ひよりさん。これ、使って。大丈夫? 怖かった?」
安達の妻は柔らかティッシュを箱ごとひよりに渡した。ひよりは首をブンブン横に振ってから、涙を抑えた。
「怖いとかではっ、なくて……。がんどう(感動)しだだげっ……オエっ」
「我慢しないで泣いちゃって!」
「すみません。レンジャーって、レンジャーって……うわぁぁん!」
涙をこらえると吐きそうになる。それを理解した安達の妻が、我慢せずに泣けと言ってくれた。
子供のようにオエオエ言いながら泣くひよりに、安達はどうもできずに眉間にしわを入れるだけ。
久世は迷いながらも、隣のひよりの背中をさすった。
増田は頃合いを見ながら、ティッシュを抜き取って渡してやる。
「あなた! そんな怖い顔で見ないのっ。女の子が泣くとなんにもできないんだから……」
眉間にしわを寄せているのは、怒っているのではなく、とても心配していたからのようだ。
「あなたは三時のおやつの準備して。すぐに落ち着くわ」
「わ、わかった」
オイオイ泣くひよりに、さすがの陸曹長も役に立たなかった。女の涙には弱いのだ。
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☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
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