上 下
12 / 45
第一部

12、掴まれたのは胃袋だけじゃなかった

しおりを挟む
 休憩室の片隅に、平謝りするひよりと、腹を抱えて笑う東。そして、どう反応したら良いか困り果てる若い隊員が立っていた。
 ひよりから変質者だと指をさされた隊員は、もちろん変質者ではない。

「本当に申し訳ありませんでした。私、皆さんの事情を知らなくて、勝手にそういう人たちだと思い込んでしまいました」
「いやいや、謝らないでください。一般公開の日に買った自分たちが悪いんです。誤解されても仕方のないことなので」
「ほんとだよな。別に明日でもよかったんだもんな。いつもより多めに残ってたからつい」
「いえ、お二人は何も悪くないです。私の方が、お邪魔している立場なんですから」

 若い隊員がなぜメイク落としシートを買ったのか。それは、戦闘訓練などの時に体に草を巻き付けたり、顔には迷彩柄のドーランを塗って、野山に潜んだりする。そのドーランを落とすために、メイク落としシートが必要だったというわけだ。

「山籠りすると水が使えないんで、メイク落としシートはほんと便利なんですよね。あはは」

 では、ストッキングはどうしてだろう。
 本来は彼らが言っていたように使い捨てで構わない。しかし、男性はストッキングを穿かないので買わざる得ない。実はそのストッキングで、隊員が毎日履いている黒いブーツを磨いていたのだ。

「毎日訓練が終わった後、このブーツを磨くために使ってたんですよ。いろいろ試したんですが、ストッキングの生地が最高なんです。光るまで磨いておかないと、めちゃくちゃ叱られるので」

 隊員たちは「顔が映るくらい磨け!」そう言われ続けていた。磨きが甘いと服装検査でこっ酷く叱られ、怒鳴られる。
 自衛官たるもの身なりは完璧でなければならないのだ。

「じゃあ……東さんも? メイク落としにストッキング、使うんですか」

 腹を抱えて笑っていた東は目尻を押さえながら、ひよりの方を向いた。そして、「うん」と頷いた。

「陸上自衛隊の自衛官なら、ほとんどの人間が使った事があると思うよ。自衛隊専用があればいいんだけどね、そこまでの予算はない。たどり着いた先がこれだった。笑っちゃうよな。けど、やっぱり民間のものは素晴らしい」
「なんだか色々と大変なんですね。そっかぁ、メイク落としとストッキング……私、女装しか思いつきませんでした」

 ひよりのやっちゃったという顔を見て、東は思わず口元を歪めた。

「まあ、実際にそういった趣味のやつもいるしな」
「え、ええ!」
「自衛官だって人間だ。いろんな奴がいる。それに、趣味の世界までは口出しできないからね」
「趣味で女装! お二人はされるんですか!」
「いやいやいやいや……」

 突然話を振られた隊員は、手を横にフリフリしながら否定した。

「ですよね、あはは。失礼しました」

 ひよりの反応を見る限り、「先日の宴会でやりました!」とは絶対に言えない。趣味ではなくノリでやった宴会芸でも、やっぱり彼らは、かっこいい自衛官だと思われたいのだ。

「すまない。時間を取らせたな。午後も頑張ってくれ」
「はい! では、我々はこれで」

 若い隊員二人は機敏な動きで美しい礼をして、ひよりたちのもとから去っていった。


 ◇


 バス乗り場にやって来ると、何台かのバスが発車待ちをしていた。

「東さん。今日はありがとうございました。安達さんにもよろしくお伝えください」
「確かに伝えておく」

 ひよりは東に感謝を述べながら、頭を下げた。
 ひよりは若い隊員たちから刺激を受けたのか、礼儀正しく振る舞った。
 ゆっくりと頭をあげた時にふと思い出す。東の左胸に付いている徽章の事を。

「あ、ほんとだ。安達さんのと同じですね」
「ん? ああ、これのこと?」

 ビリと、マジックテープが離れる音がしたかと思うと、その徽章はひよりの手のひらにあった。

「えっ、と、取れた……」
「戦闘服につける時は縫い付けるか、こんな風にマジックテープで付けるんだ。ピンだと外れたり、刺さったりして危ないからね。制服につけるときは金属製の徽章でピンでつけているよ」
「なるほど。これ、もらうのめちゃくちゃ大変なんですよね。私には想像つきません。本当にお疲れ様でした」
「ひよりさんは、今のままでいて欲しいな。私の大変さよりも、あなたの感性を大事にしてほしい」
「私の感性なんて、ごく一般的ですよ。むしろ、知らなすぎると思います。もっと、お勉強してっ」
「ひよりさん」
「はい」
「ごく一般公的なあなたを守るのが、私の使命です。そうだな、それでも知りたいというのなら、私が教えてあげますよ。自衛隊ってやつをね」
「是非、お願いします」
「当然ながら、その組織にいる私のことも知ってもらうことになるけど、いいの?」
「私、東さんの事もっと知りたいです。自衛隊のお医者さんの事とか、この徽章の事とか。いっぱい知りたいです」

 ひよりは手のひらの徽章を見つめた。
 自分にはこんな風に形に残るような資格がない。怠けていたわけではないけれど、何かの目標に向かって身も心もそれに捧げた事がない。
 安達が言っていたように、東もまた戦うことのできる自衛官なのだ。人の命を救うために、誰よりも強くなければならない。ひよりは、そんなふうに誰かのために、自分を追い込んだことなんてない。
 だから知りたかった。医官である東の全てを。

「じゃあ、続きは夜に。これ以上話していたら、職務規定に反してしまう」
「すみません! お仕事の途中なのに」
「このまま、職務放棄したい気分だ。ひよりさんを連れて、ここから飛び出したいね」
「それは!」
「大丈夫。そんなことはしないよ。その代わり、ここを出た後は、他の男を見ないでくれるかな。私のことだけを考えていてほしい。今夜、楽しみにしているからね」
「えっ……あ、はいっ」

 ひよりは目の前のバスに飛び乗った。東はそのバスが発車するまでひよりを見ていた。ひよりはそんな東の顔を、窓の向こうに感じていても顔を上げて見ることができなかった。
 胸が、ドキドキして止まないから。

(どうしよう。私の心臓、壊れてしまうっ)



 ◇


 バスを降りて電車に乗った。それから徒歩で家路につく。その間もひよりは東の事で頭の中がいっぱいだった。
 背が高くて、端正な顔立ちの料理が得意な医官さん。しかも、自衛隊という組織に属した戦う男。彼が着るのは白衣ではなく、迷彩戦闘服だ。医療器具の傍には、敵から身を守るための武器がある。
 なのにとても優しい表情で、いつも自分に接してくれる。いや、自分だけでない。思えば出会った時から、東は誰にでも優しかった。

 気がつくとひよりは、住まいであるマンションに帰ってきていた。頭の中は東で溢れていても、体は習慣を覚えている。ひよりは鍵を開け、部屋に入るとソファーに座った。

「はぁ……」

 口から漏れるのは熱い吐息。朝家を出る時に閉めたままのカーテンを、ぼんやり眺めてはまたため息をつく。

「はぁ……」

 東はひよりより随分と年上だ。確かに年上の男を思わせるように、どんな時も落ち着いていた。ただ、ひよりの勘違いには盛大に笑った。
 お腹を押さえて笑う姿までも、なぜかかっこいいと思えた。東を通して自衛隊という組織に触れると、どう考えても彼らは強くて優しいヒーローにしか見えなかった。
 あんなに怖いと思っていた安達でさえ、ひよりは心を許したのだ。

(なんで、私、ヤクザだなんて思ったんだろう……)

 ただ、これだけは言える。

「東さんに女装癖があっても、別にいいよね。いろんな人がいるんだもん。でも、東さんが女装したら私は困るな。きっと私より美人になってしまう」

 いや、恐らく東に女装癖はない。
 それでもいいと思えるようになったひよりは、胃袋だけでなく心までも東に掴まれてしまったのだ。
 気づけばひよりは、手のひらにある東の徽章をやんわりと握っていた。

「ああっ、徽章っ、持って帰ってきちゃった! それにディナー! どうしよう。何を着ていけばいいかな。ワンピース! 確か、会社のパーティーで着たのがあったはずっ」

 弾かれたようにひよりは立ち上がった。そして、クローゼットを全開にした。
 東に恥をかかせてはいけない。せめて今より、少しでも大人の女性になりたい。周りから見てもお似合いのカップルだと思われたい。

「……え? 私、東さんの彼女になりたいの? それって、それって!」

 ひよりは心臓を鷲掴みにするように両手で胸を押さえた。心臓がドキドキというよりも、ズキズキに近い勢いで鳴り始めた。
 東の隣に自分が立つこと。そして、東にとって特別な存在になること。それを自分以外の誰かに置き換えてみると、掻きむしりたくなるほど苦しくなった。

「ええ……どうしよう」

 ひよりは脱力して、ストンッとフローリングにヘタリ込んだ。

「私、本当に東さんのこと、好きになっちゃった……」

 恋する乙女のできあがり!
しおりを挟む
感想 23

あなたにおすすめの小説

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。 「だって顔に大きな傷があるんだもん!」 体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。 実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。 寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。 スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。 ※フィクションです。 ※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

千里香の護身符〜わたしの夫は土地神様〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
キャラ文芸
ある日、多田羅町から土地神が消えた。 天候不良、自然災害の度重なる発生により作物に影響が出始めた。人口の流出も止まらない。 日照不足は死活問題である。 賢木朱実《さかきあけみ》は神社を営む賢木柊二《さかきしゅうじ》の一人娘だ。幼い頃に母を病死で亡くした。母の遺志を継ぐように、町のためにと巫女として神社で働きながらこの土地の繁栄を願ってきた。 ときどき隣町の神社に舞を奉納するほど、朱実の舞は評判が良かった。 ある日、隣町の神事で舞を奉納したその帰り道。日暮れも迫ったその時刻に、ストーカーに襲われた。 命の危険を感じた朱実は思わず神様に助けを求める。 まさか本当に神様が現れて、その危機から救ってくれるなんて。そしてそのまま神様の住処でおもてなしを受けるなんて思いもしなかった。 長らく不在にしていた土地神が、多田羅町にやってきた。それが朱実を助けた泰然《たいぜん》と名乗る神であり、朱実に求婚をした超本人。 父と母のとの間に起きた事件。 神がいなくなった理由。 「誰か本当のことを教えて!」 神社の存続と五穀豊穣を願う物語。 ☆表紙は、なかむ楽様に依頼して描いていただきました。 ※小説家になろう、カクヨムにも公開しています。

実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは

竹井ゴールド
ライト文芸
 日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。  その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。  青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。  その後がよろしくない。  青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。  妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。  長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。  次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。  三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。  四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。  この5人とも青夜は家族となり、  ・・・何これ? 少し想定外なんだけど。  【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】 【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】 【2023/6/5、お気に入り数2130突破】 【アルファポリスのみの投稿です】 【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】 【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】 【未完】

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...