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第一部
7、陸上自衛隊の人
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そのあと、ひよりを含めた七名は楽しく美味しい食事を囲んだ。
あんなに沢山あった料理も、彼らにかかればなんのその。米粒一つも残さない、野菜の切れ端も残らない、汁の一滴まで飲み干して、お見事と声をあげたくなるほどの食べっぷりだった。
「ご馳走さまでした!」
最後は全員が手を合わせて、感謝を表した。
「全部なくなりましたね。こんな光景初めて見ました。絶対に何かが中途半端に残るじゃないですか。すごく爽快ですね!」
「まあ、我々のいいところの一つだな」
ひよりの歓喜に近い言葉に、東も満足していた。
「まだ終わりじゃないぞ。安達曹長からいただいたデザートを食べてお開きだ」
東がそう言うと、安達は静かに立ち上がり「では、私が」と役割が回ってきたとばかりにキッチンに向かった。
それを他の男たちは黙って見送る。
「あの……大丈夫なんですか?」
少し不安になったひよりが、東に問う。すると、東はにこやかな表情で頷いた。
「安達さんはね、ああ見えてもスイーツにこだわりがあってね。今回は奥様のおすすめと言っていたが、納得いかなきゃ持ってこないからね。それにね、彼は一緒に飲む物にもこだわるよ」
「飲み物って、珈琲とか紅茶ですか?」
「ああ。楽しみにしておいで」
ひよりはそんな安達が気になった。カウンター越しに彼の動きを振り返って見ながら待った。
そこには、ガタイのいい男の背中と日によく焼けた太い腕が、右に左に動いていた。
しばらくすると、紅茶のいい香りが漂って来た。安達の太い指が、白くて薄いティーカップを並べる。全くマッチしていないその風景が、少し滑稽に思えた。
(おままごとしてるみたいっ……)
「お待たせしました」
真っ白なティーカップに注がれたオレンジ色の紅茶。そして、隣に並んだのはプリンだった。
「プリンだ!」
ひよりは思わず声に出してしまった。勝手な想像だが、クリームたっぷりのショートケーキが出てくると思っていたからだ。
「カラメルソースはお好みでどうぞ。おすすめは、半分ほど食べてから、かけてみてください。本日の紅茶はダージリンです。甘いものを食べた後の口直しには程よい苦味かと思います」
ひよりは、お茶や紅茶は好きだ。でも、食べるもので葉の種類を変えたことはなかった。
「ダージリンがこのプリンに合うんですね」
「このプリンにダージリンが合うのです」
「なるほどぉ……」
あくまでも主役はプリンなのだ。
ひよりは心底感心した。人は見た目ではないのはもちろんだが、東にしたって、安達にしたって、まさかこんなに繊細な特技を持っていたとは思いもしなかった。
ひよりはここにいるヤクザは、そんじょそこらのヤクザとは違うのだと確信した。むしろ、なぜか誇らしい気分になる。
(ということは、四人のさんとうなんとかさんたちも、きっと……)
「すみません。先に言っておきますけど、自分はこれといった特技はありません」
「自分もないです」
「あ、自分もです」
「自分もありません……」
ひよりの期待にあふれた視線を受け取った四人は焦ってすぐに否定した。それを見た東は堪えきれずに笑い出す。
「あはは。ひよりさん、そのうち彼らも何かみつけますよ。そしたら見てやって」
「えっ、あ、はい!」
安達は相変わらず言葉少なめだ。しかし、彼の淹れた紅茶は、そのダージリンの良さを殺すことなく美味しい。
そして、デザートのプリンは甘すぎず、舌触り滑らかで口の中で溶けてしまいそうだった。言われたように半分ほど食べてから、付属のカラメルソースをかける。
「んんん⁉︎ このカラメルソース、オレンジの香りがします! おいしぃぃー!」
「えっ、マジっすか! これ、オレンジ?」
「分かりましたか。さすが女性は舌が敏感ですね。オレンジのフレーバーが売りのプリンなんです」
「めちゃめちゃ美味しいです。幸せですぅ」
「野郎の舌はだめだな。死んじまってんじゃないのか。おまえたちも見習えよ」
「すみません!」
この時のひよりの反応は、大いに安達を喜ばせた。部下の前では簡単に笑わないのに、この時ばかりは頬を緩め口角がゆっくりと上がる。
これを見てしまった部下たちは、驚いて持っていたスプーンを取り落す。
「大丈夫ですか?」
ひよりが安達の笑顔を見ていなかったのは幸いだ。
その後、全員で手分けして片付けをし、食事会は午後二時にはお開きとなった。
◇
「おい、帰ったらちゃんと身体の手入れしておけよ」
(身体の、手入れ? お風呂入れよ、歯を磨けよってこと?)
※身体の手入れとは、休憩や身体を休めることをいう。
「了解です」
「お邪魔しました」
「失礼します」
「お疲れ様でした!」
廊下に響く彼らの声に、ひよりは苦笑いだ。夜でなく昼間でよかったと心の中で思う。
最後に部屋を出たのは安達だった。静かに礼をして、玄関のドアを閉めた。
そして、ひよりと東の二人だけとなる。
「はぁー、静かになったなった。あ、ひよりさん申し訳ない。お酒を飲んでしまって、車、運転できない」
「そんな、気にしないでください。私、ダイエットだと思って歩いて駅まで行きますから」
さすがにひよりも、こんなに豪華なご馳走をいただいて、帰りも送ってほしいなどとは思っていない。まだ外は明るいし、いい散歩になる。
「だめだよ、ひよりさん。外を見てごらん」
「えっ」
まさか雨でも降り出したのかと、急いで窓から外を見た。
(雨は降ってない。むしろ、雲ひとつない快晴!)
「あの、雨は降ってなっ……」
ひよりが振り向いてそう言おうとした時、大きな影がひよりを覆った。背の高い東はひより越しに外を見ていたのだ。
広くて厚い胸板が、ひよりの視界に広がった。少し目線を上げると、男の象徴である喉仏があって、さらにその上には端正な顔が見えた。
思わずひよりは東に背を向け再び外を見た。自分のすぐ後ろにいる東を男として意識してしまったのだ。
途端に胸の端っこが、ぎゅっと縮む思いがした。
(やだ! だめだって。キュンってなってちゃダメなんだって!)
「雨よりやっかいだぞ。初夏の日差しに体はまだ慣れていない。駅まで歩いても二十分はかかる。熱中症の危険性がある」
「熱中症?」
「そう、熱中症。太陽の位置がまだ高いからね。それに、そういう危険性がある中に君を放り出せないな。医官として、見逃せない」
ひよりが振り返ると、そこには東の真剣な顔があった。これが医者としての彼の顔なのかと、ひよりは考えた。
それにしても、東の真剣な顔はこれまたかっこいい。
「えっとぉ」
「私の酒が抜けるまでゆっくりして行ってはどうかな。そんなに飲んでいないし、夜には送っていけると思うよ」
彼の心配や好意を無下に断るのは心が痛んだ。かといって、彼氏でもない男性の部屋に夜まで留まるのもどうかと思う。しかも、ヤクザの医官の部屋だしとひよりは思っている。
「そんなの悪いです。でも、もう少し外が落ち着くまでいさせてください」
とりあえず、夕方になれば日差しもましになるはずだ。ひよりはもう少しだけ、留まることを決めた。すると、東は安心したのかとても優しくひよりに微笑む。
「うん。そうしてくれ」
「ありがとうございます」
その笑顔にひよりは動揺した。
(どうしよう。かっこいいよ東さん。ヤクザの医官さんなのに、好きになっちゃいそう。どうしよう!)
突然、恋に目覚めたひよりに、今度は違う意味のドキドキが加わった。好きになってはいけない人を、好きになってしまったという小さな背徳感だ。
ひよりはソファーの端にちょこんと座って、ついてないテレビのモニターを見ていた。なんだか心が落ち着かない。
「つけていいんだよ、テレビ。それとも映画か何か見る?」
東は珈琲を手にして、ひよりの隣に座った。
「はい。ひよりさんのはカフェオレにしたけど、よかった? 砂糖入れてないから、もし必要なら」
「いえ、砂糖はなくて大丈夫です。ありがとうございます」
東が隣にいる。しかも触れそうなほど近くに。
意識し始めると胸の高鳴りは抑えられなくなってしまう。
(好きになったらダメなのに……)
一度、自衛隊だと聞いたはずなのに、その後現れた安達を見て、すっかりもとのヤクザに戻ってしまったひよりの思考。もはや誰が修正するのだろうか。
「ひよりさん」
「はい」
「さっきの話の続きなんだけど、いいかな」
「話の続き、ですか?」
「ああ。キッチンで言おうとしたんだが、タイミングが悪くて……あいつらに邪魔されたから」
「……ぁ」
そう言えばそんなことがあったと、ひよりは思い出した。と、同時にヤクザにはなれないから誘わないでと心の中で願う。
「もし、ひよりさんが私のことを嫌いでなかったら。どうか私と」
「あの! 私っ、東さんのことは嫌いではありません。こんなに素敵な男性はいないって思います」
「そうか、だったら」
「でも、無理なんです。私は、ヤクザにはなれませんっ」
ひよりは勇気を振り絞って、そう東に言った。曖昧な態度では失礼だ。それに、自分の気持ちはきちんと伝えておかなければ大変なことになる! そう、ひよりは思った。
東はというと、ひよりの言葉を聞いて口をぽかんと開けたまま静止していた。
ひよりは確かに言った「ヤクザにはなれません」と。
どれくらい時間が経ったのか。おそらく、一分も経ってはいないだろう。先に口を開いたのは東だ。
「すまない。少し、理解するのに時間を要した。ひよりさんはもしかして、まだ、私がヤクザの一員だと思っているのかな?」
「ま、まだって……え! 辞めたんですか!」
ひよりがそう言うと、東は右手で頭を押えた。
「待て待て待て、ちょっと待ってくれ。辞めたもなにも、初めから私はヤクザではない。ああそうだ、今日来た連中も初めからヤクザでないことも、付け加えておく」
「えっ、え⁉︎」
「自衛隊だと、説明したはずかんだがね。つい、三時間ほど前に。我々が腹を抱えて笑ったのを覚えているだろ?」
「あっ、そうでした! でも、後から来た安達さんの顔に傷があって、それで」
「まさか、安達曹長の額の傷痕を見てヤクザ説が戻ってきたのか」
「はい……」
「なんてことだ」
とうとう東は両手で頭を抱えてうな垂れてしまったのだ。ひよりはひよりで、もう一度頭の中を整理した。
(確かに東さん、自衛隊だって言ってた……なんで? 私、バカすぎる!)
「すみませんでした! 私、バカですよね。ずっと頭の中がごちゃごちゃしてて。自衛隊って聞いたのに、それ飛んでっちゃって。本当に申し訳ありませんでした。すごく、失礼なことを」
ひよりもうな垂れた。自衛隊のことはよく知らないけれど、国を守ってくれる人たちをヤクザだとずっと思っていたのだ。あまりにも失礼過ぎると自分を責めた。
そんなひよりを見て、東は笑ってしまう。なんて、可愛らしいお嬢さんだと。そして、ますますひよりが欲しくなった。
「ヤクザだと思ってたのに、よく我々に付き合ってくれましたね。ひよりさんはどんな人間でも、軽蔑したりしないいい子なんだね」
「……え」
東はひよりの頭に手を乗せた。よしよしと何度か手を動かして、そして、ひよりの頬を優しく撫でる。
「そうだ。今度、我々の駐屯地で記念行事があるんですよ。それに招待しましょう。ひよりさんの知らない自衛隊の世界をお見せしたい。それを見て貰ってから、もう一度お話をします。その時にお返事ください」
「は、はい」
こうしてひよりの盛大なる誤解は解けた。
そして、今度は自衛隊という組織と対面する。
「ひよりさん。我々は陸上自衛隊です。とりあえず今日は、それだけ覚えて」
「はい。東さんは、陸上自衛隊の人」
「よし」
ひよりの自衛隊を知る道のりは、やっとスタート地点に立ったばかりだ。
あんなに沢山あった料理も、彼らにかかればなんのその。米粒一つも残さない、野菜の切れ端も残らない、汁の一滴まで飲み干して、お見事と声をあげたくなるほどの食べっぷりだった。
「ご馳走さまでした!」
最後は全員が手を合わせて、感謝を表した。
「全部なくなりましたね。こんな光景初めて見ました。絶対に何かが中途半端に残るじゃないですか。すごく爽快ですね!」
「まあ、我々のいいところの一つだな」
ひよりの歓喜に近い言葉に、東も満足していた。
「まだ終わりじゃないぞ。安達曹長からいただいたデザートを食べてお開きだ」
東がそう言うと、安達は静かに立ち上がり「では、私が」と役割が回ってきたとばかりにキッチンに向かった。
それを他の男たちは黙って見送る。
「あの……大丈夫なんですか?」
少し不安になったひよりが、東に問う。すると、東はにこやかな表情で頷いた。
「安達さんはね、ああ見えてもスイーツにこだわりがあってね。今回は奥様のおすすめと言っていたが、納得いかなきゃ持ってこないからね。それにね、彼は一緒に飲む物にもこだわるよ」
「飲み物って、珈琲とか紅茶ですか?」
「ああ。楽しみにしておいで」
ひよりはそんな安達が気になった。カウンター越しに彼の動きを振り返って見ながら待った。
そこには、ガタイのいい男の背中と日によく焼けた太い腕が、右に左に動いていた。
しばらくすると、紅茶のいい香りが漂って来た。安達の太い指が、白くて薄いティーカップを並べる。全くマッチしていないその風景が、少し滑稽に思えた。
(おままごとしてるみたいっ……)
「お待たせしました」
真っ白なティーカップに注がれたオレンジ色の紅茶。そして、隣に並んだのはプリンだった。
「プリンだ!」
ひよりは思わず声に出してしまった。勝手な想像だが、クリームたっぷりのショートケーキが出てくると思っていたからだ。
「カラメルソースはお好みでどうぞ。おすすめは、半分ほど食べてから、かけてみてください。本日の紅茶はダージリンです。甘いものを食べた後の口直しには程よい苦味かと思います」
ひよりは、お茶や紅茶は好きだ。でも、食べるもので葉の種類を変えたことはなかった。
「ダージリンがこのプリンに合うんですね」
「このプリンにダージリンが合うのです」
「なるほどぉ……」
あくまでも主役はプリンなのだ。
ひよりは心底感心した。人は見た目ではないのはもちろんだが、東にしたって、安達にしたって、まさかこんなに繊細な特技を持っていたとは思いもしなかった。
ひよりはここにいるヤクザは、そんじょそこらのヤクザとは違うのだと確信した。むしろ、なぜか誇らしい気分になる。
(ということは、四人のさんとうなんとかさんたちも、きっと……)
「すみません。先に言っておきますけど、自分はこれといった特技はありません」
「自分もないです」
「あ、自分もです」
「自分もありません……」
ひよりの期待にあふれた視線を受け取った四人は焦ってすぐに否定した。それを見た東は堪えきれずに笑い出す。
「あはは。ひよりさん、そのうち彼らも何かみつけますよ。そしたら見てやって」
「えっ、あ、はい!」
安達は相変わらず言葉少なめだ。しかし、彼の淹れた紅茶は、そのダージリンの良さを殺すことなく美味しい。
そして、デザートのプリンは甘すぎず、舌触り滑らかで口の中で溶けてしまいそうだった。言われたように半分ほど食べてから、付属のカラメルソースをかける。
「んんん⁉︎ このカラメルソース、オレンジの香りがします! おいしぃぃー!」
「えっ、マジっすか! これ、オレンジ?」
「分かりましたか。さすが女性は舌が敏感ですね。オレンジのフレーバーが売りのプリンなんです」
「めちゃめちゃ美味しいです。幸せですぅ」
「野郎の舌はだめだな。死んじまってんじゃないのか。おまえたちも見習えよ」
「すみません!」
この時のひよりの反応は、大いに安達を喜ばせた。部下の前では簡単に笑わないのに、この時ばかりは頬を緩め口角がゆっくりと上がる。
これを見てしまった部下たちは、驚いて持っていたスプーンを取り落す。
「大丈夫ですか?」
ひよりが安達の笑顔を見ていなかったのは幸いだ。
その後、全員で手分けして片付けをし、食事会は午後二時にはお開きとなった。
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(身体の、手入れ? お風呂入れよ、歯を磨けよってこと?)
※身体の手入れとは、休憩や身体を休めることをいう。
「了解です」
「お邪魔しました」
「失礼します」
「お疲れ様でした!」
廊下に響く彼らの声に、ひよりは苦笑いだ。夜でなく昼間でよかったと心の中で思う。
最後に部屋を出たのは安達だった。静かに礼をして、玄関のドアを閉めた。
そして、ひよりと東の二人だけとなる。
「はぁー、静かになったなった。あ、ひよりさん申し訳ない。お酒を飲んでしまって、車、運転できない」
「そんな、気にしないでください。私、ダイエットだと思って歩いて駅まで行きますから」
さすがにひよりも、こんなに豪華なご馳走をいただいて、帰りも送ってほしいなどとは思っていない。まだ外は明るいし、いい散歩になる。
「だめだよ、ひよりさん。外を見てごらん」
「えっ」
まさか雨でも降り出したのかと、急いで窓から外を見た。
(雨は降ってない。むしろ、雲ひとつない快晴!)
「あの、雨は降ってなっ……」
ひよりが振り向いてそう言おうとした時、大きな影がひよりを覆った。背の高い東はひより越しに外を見ていたのだ。
広くて厚い胸板が、ひよりの視界に広がった。少し目線を上げると、男の象徴である喉仏があって、さらにその上には端正な顔が見えた。
思わずひよりは東に背を向け再び外を見た。自分のすぐ後ろにいる東を男として意識してしまったのだ。
途端に胸の端っこが、ぎゅっと縮む思いがした。
(やだ! だめだって。キュンってなってちゃダメなんだって!)
「雨よりやっかいだぞ。初夏の日差しに体はまだ慣れていない。駅まで歩いても二十分はかかる。熱中症の危険性がある」
「熱中症?」
「そう、熱中症。太陽の位置がまだ高いからね。それに、そういう危険性がある中に君を放り出せないな。医官として、見逃せない」
ひよりが振り返ると、そこには東の真剣な顔があった。これが医者としての彼の顔なのかと、ひよりは考えた。
それにしても、東の真剣な顔はこれまたかっこいい。
「えっとぉ」
「私の酒が抜けるまでゆっくりして行ってはどうかな。そんなに飲んでいないし、夜には送っていけると思うよ」
彼の心配や好意を無下に断るのは心が痛んだ。かといって、彼氏でもない男性の部屋に夜まで留まるのもどうかと思う。しかも、ヤクザの医官の部屋だしとひよりは思っている。
「そんなの悪いです。でも、もう少し外が落ち着くまでいさせてください」
とりあえず、夕方になれば日差しもましになるはずだ。ひよりはもう少しだけ、留まることを決めた。すると、東は安心したのかとても優しくひよりに微笑む。
「うん。そうしてくれ」
「ありがとうございます」
その笑顔にひよりは動揺した。
(どうしよう。かっこいいよ東さん。ヤクザの医官さんなのに、好きになっちゃいそう。どうしよう!)
突然、恋に目覚めたひよりに、今度は違う意味のドキドキが加わった。好きになってはいけない人を、好きになってしまったという小さな背徳感だ。
ひよりはソファーの端にちょこんと座って、ついてないテレビのモニターを見ていた。なんだか心が落ち着かない。
「つけていいんだよ、テレビ。それとも映画か何か見る?」
東は珈琲を手にして、ひよりの隣に座った。
「はい。ひよりさんのはカフェオレにしたけど、よかった? 砂糖入れてないから、もし必要なら」
「いえ、砂糖はなくて大丈夫です。ありがとうございます」
東が隣にいる。しかも触れそうなほど近くに。
意識し始めると胸の高鳴りは抑えられなくなってしまう。
(好きになったらダメなのに……)
一度、自衛隊だと聞いたはずなのに、その後現れた安達を見て、すっかりもとのヤクザに戻ってしまったひよりの思考。もはや誰が修正するのだろうか。
「ひよりさん」
「はい」
「さっきの話の続きなんだけど、いいかな」
「話の続き、ですか?」
「ああ。キッチンで言おうとしたんだが、タイミングが悪くて……あいつらに邪魔されたから」
「……ぁ」
そう言えばそんなことがあったと、ひよりは思い出した。と、同時にヤクザにはなれないから誘わないでと心の中で願う。
「もし、ひよりさんが私のことを嫌いでなかったら。どうか私と」
「あの! 私っ、東さんのことは嫌いではありません。こんなに素敵な男性はいないって思います」
「そうか、だったら」
「でも、無理なんです。私は、ヤクザにはなれませんっ」
ひよりは勇気を振り絞って、そう東に言った。曖昧な態度では失礼だ。それに、自分の気持ちはきちんと伝えておかなければ大変なことになる! そう、ひよりは思った。
東はというと、ひよりの言葉を聞いて口をぽかんと開けたまま静止していた。
ひよりは確かに言った「ヤクザにはなれません」と。
どれくらい時間が経ったのか。おそらく、一分も経ってはいないだろう。先に口を開いたのは東だ。
「すまない。少し、理解するのに時間を要した。ひよりさんはもしかして、まだ、私がヤクザの一員だと思っているのかな?」
「ま、まだって……え! 辞めたんですか!」
ひよりがそう言うと、東は右手で頭を押えた。
「待て待て待て、ちょっと待ってくれ。辞めたもなにも、初めから私はヤクザではない。ああそうだ、今日来た連中も初めからヤクザでないことも、付け加えておく」
「えっ、え⁉︎」
「自衛隊だと、説明したはずかんだがね。つい、三時間ほど前に。我々が腹を抱えて笑ったのを覚えているだろ?」
「あっ、そうでした! でも、後から来た安達さんの顔に傷があって、それで」
「まさか、安達曹長の額の傷痕を見てヤクザ説が戻ってきたのか」
「はい……」
「なんてことだ」
とうとう東は両手で頭を抱えてうな垂れてしまったのだ。ひよりはひよりで、もう一度頭の中を整理した。
(確かに東さん、自衛隊だって言ってた……なんで? 私、バカすぎる!)
「すみませんでした! 私、バカですよね。ずっと頭の中がごちゃごちゃしてて。自衛隊って聞いたのに、それ飛んでっちゃって。本当に申し訳ありませんでした。すごく、失礼なことを」
ひよりもうな垂れた。自衛隊のことはよく知らないけれど、国を守ってくれる人たちをヤクザだとずっと思っていたのだ。あまりにも失礼過ぎると自分を責めた。
そんなひよりを見て、東は笑ってしまう。なんて、可愛らしいお嬢さんだと。そして、ますますひよりが欲しくなった。
「ヤクザだと思ってたのに、よく我々に付き合ってくれましたね。ひよりさんはどんな人間でも、軽蔑したりしないいい子なんだね」
「……え」
東はひよりの頭に手を乗せた。よしよしと何度か手を動かして、そして、ひよりの頬を優しく撫でる。
「そうだ。今度、我々の駐屯地で記念行事があるんですよ。それに招待しましょう。ひよりさんの知らない自衛隊の世界をお見せしたい。それを見て貰ってから、もう一度お話をします。その時にお返事ください」
「は、はい」
こうしてひよりの盛大なる誤解は解けた。
そして、今度は自衛隊という組織と対面する。
「ひよりさん。我々は陸上自衛隊です。とりあえず今日は、それだけ覚えて」
「はい。東さんは、陸上自衛隊の人」
「よし」
ひよりの自衛隊を知る道のりは、やっとスタート地点に立ったばかりだ。
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