キリンのKiss

ユーリ(佐伯瑠璃)

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恋をしろ

まさかのあの日の男

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 夕凪が沢柳に突きつけた条件、それは。

「私のバイクの後ろに乗ってください」
「俺が後ろに、乗るのか……」
「嫌なら私のことは忘れてください。私には女らしいことを求められてもお応えできませんし、仕事も辞めません。きったない格好で汗臭い状態でデートに行くかも!」
「いつだ」
「は!?」
「いつ乗せてくれるんだ、バイクに」
「っ、こ、今夜! でも絶対に後悔しますよ」
「承知した。連絡先を教えてくれ、仕事が終わったら連絡する。迎えに来てくれるのだろう?」

 夕凪は自分から言ったのに、逆に沢柳から押されているようで焦った。自分のペースに持ち込みたいのに、妙に冷静な沢柳の態度に変な汗が背中を伝う。
 夕凪はポケットからスマホを取り出して連絡先を交換した。

「今夜、迎えに行きます! でも、メットは自分で用意してくださいねっ!」

 バイクに乗らない人間が、すぐにヘルメットを準備できるだろうか。無理に決まっている。無理な条件を押し付けて夕凪は本社ビルから出た。

 このバイクに他人を乗せるかもしれない。しかも男を。自己をしっかり持ったプライドの高い男が女に命を預けられるわけがない。これであの男の本性を見る事ができると夕凪は思った。

 夕凪は警備員にお礼を言うとエンジンをかけて逃げるように本社ビルから走り去った。








 就業時間までがとても長く感じた。沢柳は本当に自分が運転するゼファーに乗るのだろうか。いや、きっと日を改めさせてくれと言うはずだ。

(だって、メット。持ってないでしょ! 友達に借りるにしても今晩だなんて、無理よ)

 もしそう言われたら、そのときは断ろう。今夜しかダメだと言おう。そう心に決めていた。
 その時、夕凪のスマホが震えた。
 沢柳からだ!

「はい」
「いま終わって帰宅している途中だ。着替えてから行きたい。今から一時間後に……」

 急いでいるのか少し早口で、息を弾ませていた。夕凪は沢柳から聞いた駅で会うことを約束して会社を出た。



 夕凪は約束の時間より少し早めにやって来た。駅前のロータリーで愛車のゼファーに跨ったまま停まっている。条件をのめなければすぐに去るつもりでいたから。

 本当は今にも逃げ出したい気持ちだった。男に告白されるなんていつの話だろう。そして、歴代の彼らは夕凪がバイクに乗ることをあまり好まなかった。ましてや、彼女の後に乗るなんて。好きなことを否定される、避難される、敬遠されることほど悲しいことはなかった。

『乗っけてってあげようか?』
『マジで言ってんの。恥ずかしいことさせんなよ。誰が女のケツにくっつく男がいるんだよ』
『ごめん……』

 彼氏より目立ったり秀でた部分は晒してはならないと学んだ。特に男が優位な世界では。でも、息苦しくて仕方がなかった。男のために自分らしさを殺して生きるのは、まるで生き地獄のように思えた。
 塵積もったストレスは次第に石のように固くなりある日突然、体調を崩した。好きなバイクもキリンにも乗れなくなって夕凪は男と別れる。恋をすることそのものが自分には向かないと遠ざけてきた。だから怖かったのかもしれない。

(傷つきたくないだけって、分かってる)

「すまない、待たせた」

 顔を上げるとメットを持った沢柳が立っていた。
 カーキ色のジャケットにジーンズと、靴は濃いブラウンのショートブーツを履いていた。どこから見てもバイカーファッションで、これがまたとても良く似合っていた。

「ぁ……」
「どうした。乗せてくれるんだろう?」
「すみません。どうぞ」

 沢柳は夕凪の後ろに周り素早く眼鏡を外しジャケットの内ポケットにしまった。そして、メットを被る。
 残念ながらその仕草を夕凪は見ていない。沢柳の変わりように動揺してメーターをじっと見ていたからだ。

 ギシと後部シートが沈んだ。

「一応確認させてくれ。後ろの取っ手と他はどこを持ったらいい。カーブを攻められたら、この姿勢では飛ばされそうだが」
「えっと……」
「こうしても構わないよな」
「っ!!」

 沢柳は片腕を夕凪の腰に回した。
 夕凪はこれまで、男を後ろに乗せて走ったことがなかった。だから、この初めての感覚に恥ずかしいくらい心臓が跳ねた。

(落ち着いて! 走り出せば気にならないはず。そうよ、荷物を載せてるのよ。ワタシハニモツヲノセテイル……)

「いつでもいいぞ」
「行きます!」

 ゼファーのエンジンを噴かせて、夕凪はゆっくりとタイヤを転がした。
 街を走っている間は腰に手を回されることはなかった。次第に夕凪もそのことは忘れ走ることを楽しんだ。まさか後ろに人を乗せて楽しいと思える日が来るなんてと、夕凪本人が一番驚いていた。それに、沢柳は乗り方が上手かった。夕凪のハンドルやカーブでの傾きに合わせて体重を移動させる。まるで経験者のように。

 間もなく街を抜け、峠への入り口に入る。夕凪は信号停車でヘルメットのシールドを上げると、後部の沢柳に向かって叫んだ。

「沢柳さん! 私のテリトリーで悪いんですけど、峠に向かいます。やめるなら今のうちですよ!」
「ここまで来て誰が降りるんだ。あんたの走り方で攻めてもらってかまわない」
「わかりました!」

(カーブで落ちたって拾ってあげないからね! こんなオトコオンナに告白したことを後悔させてやるんだからっ!

 夕凪は挑戦的な言葉を心の中で叫んだ。
 信号が青に変わるとスタートと同時にクラッチをどんどん切り替えて、夕凪はゼファーに気合を入れた。

 いつもの見慣れた風景、慣れたカーブは目を瞑っても走れそうだ。ライトをギラつかせてゼファーが駆ける。ひとつ違うことは、二人分の重みを乗せていていることだった。流石に一人乗りと同じような攻め方はできない。

「行きますよー!」

 夕凪は右手を一瞬ハンドルから離して、空を指差した。夕凪流のかっ飛ばすよ、覚悟しな! の合図だ。

 ブルン…ブルンとエンジンを轟かせ、迫り来るカーブをグイグイ攻めた。沢柳はそれでも離されることなく夕凪に全てを委ねた。気づけば沢柳の腕が腰に回されていたが、全く心を乱さられることはなかった。
 それより。

「なあ! あの車を抜いて見せてくれ!」
「は!? 本気なの! 落ちても拾いませんよ! それにこっちは二人乗りだし、無理よ」
「無理かどうか試してみろよ。ほら、あの車、カーブの差し込みが甘い。二度と来るなと脅してやれ」
「いいわ! つかまってて。ここに来たこと、後悔させてあげる!」

 ギュと沢柳は夕凪に体を寄せた。不利な二人乗りをできるだけ有利に運ぶためには、二人が一体化すること。それ以外に、ない。

 まるで本当に同化したようだった。
 きついカーブの連続も余計なブレーキを使うことなく、撫でるようにライトが闇を切り開く。車体は二人分の体重で重くなり、下りはいつもに増して加速した。

(気持いい! なにこれ、ゼファーちゃん絶好調じゃんっ)

 気づけば遠くに見えたテールランプが、ゼファーのバックミラー越しにヘッドライトを映していた。

「休憩しますね!」
「任せる!」

 夕凪は湖畔がよく見えるいつもの場所に、ゼファーを寄せてエンジンを切った。沢柳が後部シートから降りるのを確認して夕凪も降りた。
 夕凪は美味しい空気を吸いたくてすぐにメットを外した。

 その時。

「髪、引っかかる」
「え?」

 沢柳がヘルメットのバックルに絡まりそうになった夕凪の髪を優しく掴んで流した。その仕草に夕凪はハッとする。

(この距離、この香り、この声……!!)

「傷むだろ。メットはもっと丁寧に外したほうがいい」

 そう言いながら沢柳もヘルメットを外した。

「っ……!?」
「いい走りをするな。あんた」
「き、き、君はっ!」

 いつかの夜。夕凪が一人でこの峠を走った時に出会った生意気な年下だろう黒の86GTに乗った男。

「まさか本気で今気づいたなんて言わないだろうな」
「さ、さっ、沢柳さんはあの時の86に乗ったあの男……あの男が沢柳さん。二重人格なんですか!?」
「違う」
「まるっきり別人じゃない。てか! 沢柳さんは年下だったんですね! やだ、なんなのよー!」
「待て。勝手に決めるな。そう言うあんたは何歳なんだ」
「29よ!」
「躊躇いなく言うんだな。俺も29だ。年下ではない、同級生だな」

 沢柳はにやりと笑って視線を湖畔に移した。
 眼鏡をかけてスーツを着た沢柳と、この峠で出会ったあの生意気そうな男は同一人物だった。夕凪は言葉が出ない。そんな夕凪に沢柳は一歩近寄る。

「さて、答えを聞かせてもらおうか。あんたの条件は満たしたはずだ。それともアレか、簡単に女の後ろに乗る男はヤワな奴だと却下するのか。だったら今度は俺があんたを乗せてもいい」
「バイクに、乗れるの!!」
「どうする。試すか」

 夕凪は驚きと興奮でまともに立っていられなかった。落下防止の柵に腰を預けて両手で顔を覆った。

(なにこの男! 全然分からないんだけど。同じ人なのよね……!?)

「大丈夫か。具合が悪くなったのか」

 沢柳が夕凪の手を取り俯いた顔を覗き込む。間近で視線が合った。さっきまで眼鏡越しのクールな瞳だったのに、今は情熱的なねっとりとした視線を向けている。

「待って、私。混乱してる」
「悪かった。別に騙すつもりも隠すつもりもなかったんだ。どちらも俺であることは間違いないし、どちらの俺でもあんたに惚れているのは変わらない」
「惚れっ、惚れてって!?」
「だから」

 呆れたように深いため息をついた沢柳は、気を取り直して夕凪に言う。

「付き合うかどうかの答えが知りたいんだが」

 これが本来の目的だ。

「そうだった……忘れてた」
「あんた、何をしにここまで来たんだ」
「すみません。走っていたら、忘れていました」
「……ふっ、くくくっ」

 沢柳は我慢できずに手を口に当て、背を向けて笑いだしてしまった。その揺れる背中を見ながら夕凪は思った。

(条件、満たしちゃったよ。しかも、バイク、乗れるって)

「こんな女でいいわけ? 女の後ろに乗って恥ずかしくないの? 男のプライドがっ」
「くだらないな」
「えっ」
「男が女の後ろに乗ってはイケナイ法律でもあるのか。男のプライドはそんなことで傷つくようなものではない。それともあんたのプライドが傷ついたのか? 俺が後ろに乗ったせいで」
「そんなことはない! 嬉しかったのよ! 楽しかったんだから!……あっ」

 夕凪は自分で言って驚く。

 誰かを乗せて走ることの楽しさ、共に風に乗った時の一体感。沢柳が自分に全てを預けてくれた喜びが、抑えていた蓋こど一気に吹き上げる。

「俺も、楽しかった。で、どうする。付き合ってみないか、まぁ、無理強いはしない」

 条件を満たしたのだから、付き合えともっと強めに来るのかと思った。しかし沢柳は無理強いはしないと言う。

 きっと沢柳が条件は満たしただろうと迫れば、夕凪は首を縦に振るだろう。しかし、沢柳にあなたの気持ち次第だと、突き放されたようでなんだか寂しく思った。思わぬ方向から心を揺さぶられた夕凪は、考えるより先に口が動いた。

「お願いします」
「ん?」
「お試しで私と、付き合って下さい!」

 一瞬、大きく目を見開いた沢柳はすぐに目尻を下げ両頬を柔らかく上げた。その表情はとても嬉しそうで、思わず夕凪もつられて微笑んでしまう。

「あんた、そんなふうに笑うんだな」
「へ?」
「礼がしたい、じっとしていろ」
「礼って? ……!!」

 さわっと風が耳を掠めた。
 それはほんの一瞬のできごとで、だけど夕凪にだって分かる。
 

 沢柳は夕凪の髪にキスをした。
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