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ハッピーウエディング
姉ちゃんと呼ばれて
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憂鬱だった夕凪も帰る頃にはすっかり元気になっていた。事務所を出るときはもう夕飯の肉じゃがのことで頭はいっぱいだった。沢柳が作る料理は和洋何を食べても美味しかった。夕凪も休みの時は腕をふるって見せる。でも、毎日作り慣れた沢柳には勝てないと思っていた。
「ただいま! うーん、美味しそうっ」
「おかえり。美味しそうってまだ見てもいないだろう」
「ふふ。美味しいに決まってるもん。ほら、いい匂いだよ」
「手を洗ってくるといい。もう出せる」
「はーい」
昼に会ったときの夕凪とはもう別人だった。何かを吹っ切ったようにいつもの夕凪に戻っていると確認した沢柳は安堵した。きっとこれまでもこんなふうに自分の力で何度も乗り越えてきたのだろう。そう思うと、もっと甘やかしてやりたい。そんな気持ちになる。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせてから箸をとる。これは夕凪も沢柳も欠かさない。祖父に厳しくしつけられた夕凪は作法や礼儀はしっかりと身に着けていた。夕凪の祖父は恥じない大人になるように躾けてきたのだろう。いつか一人になる最愛の孫のために。
「あ、そうだ。あのね浩太。婚姻届の証人なんだけど、鬼丈課長にお願いしたの」
「そうか。よかったな」
「うん。なんか意外に喜んでくれて、他のやつにつとまるか! なんて言うの。お父さんみたいだよね」
「ということはあれか。娘さんをくださいと、鬼丈課長に言わねばならないのか」
「えっ……やだ」
箸を止めた夕凪の顔は真っ赤だった。恐らく鬼丈と沢柳のそのやり取りする風景を想像したのだろう。嬉しいような恥ずかしいような、そんな顔をした。
「顔が」
「言わないで! わかってる。真っ赤なんでしょ? ううぅ、なんか恥ずかしいの。気恥ずかしくってダメっ。きゃー、ダメっ」
「ぷっ、ふっ……くはっ」
「笑わないで!」
夕凪も沢柳も以前にまして笑うようになった。沢柳にとって声を出し笑うということは滅多にない。
夕凪は沢柳となら温かくて明るい家庭が築ける。そう、思った。
* * *
週末。二人は婚姻届に必要事項を記入して印を押した。二人で今後名乗る姓は押す直前まで話し合った。なぜなら沢柳が俺は木崎姓になってもいいと言ったからだ。全く頭になかった夕凪は戸惑った。自分が沢柳姓を名乗ることになったら、木崎の姓は自分で途絶えるかもしれない。戸籍をだどってみないと分からないけれど、無くはない可能性に迷いが生じた。
「うちは6人兄弟で全員男だ。俺が継がなくともなんの支障もない。両親もそれは理解してくれている」
「でも」
「木崎夕凪でいた方がなにかと便利だろう。銀行口座名義や保険、運転免許証、社内外でのやりとりもそうだ」
「それは浩太だって、同じよ?」
「なんてことはない。事務手続には慣れている」
「確かにそうかもしれないけど」
「それに」
もし、戸籍を辿り両親や祖父のこと、他に親戚はいないかと知りたくなった場合、夕凪が戸籍上の筆頭者になっていた方がやりやすいのではないかと沢柳は考えていた。
「うん?」
「いや。まぁ、俺はどちらでもかまわない。それだけだ」
「うん」
そして夕凪が選ぶのは。
婚姻届の記入をすべて終わると、二人は沢柳の実家に向かった。挨拶を兼ねて証人となってもらうために。
あれから何度か訪れた沢柳家も今日はいつもより気持ちが違う。笑われるかもしれないけれどと、夕凪はいつもは着ない服を身に着けた。紺色のワンピースだ。
「浩太。私、大丈夫? 変じゃない? シワ、入ってない?」
「大丈夫だ」
高校のとき以来かもしれないスカート。しかもおしとやかな膝が隠れるワンピースで、髪はサイドを後ろで纏めておとなしめに。そしてヒールのあるパンプスを履き、手にはハンドバッグを持った。
控えめのネックレスとピアスが夕凪をより色づかせた。普段、鳴ることのない足音をさせて夕凪は歩く。高すぎない5cmのヒールはそれでも沢柳と背を並べてしまった。
「きゃっ」
ちょっとしたくぼみに足を取られ、カクンと躓く。これではなかなか辿り着かない。
「大丈夫か? 俺の腕に掴まればいい」
「ごめんね。恥ずかしいね」
「あんたらしくて好ましい」
「もうっ」
沢柳と腕をくんで歩くとデートをしている気分になる。でも、今日は違う。結婚の許しをもらう日だから。息子はやらん! そう言われないように夕凪が頑張る日だから。
沢柳と書かれた表札の前に立つと夕凪の心臓の動きはピークを迎えた。恥ずかしくないように、沢柳が選んだ女性はその程度かと思われないようにとギュッと拳を握った。
「いつも通りの夕凪で、いい」
「はいっ」
呼び鈴を鳴らすと、沢柳の母である恭子が出迎えた。そしてその後ろに穏やかな笑みを作った父の海洋がいた。滅多にない会えない沢柳の父もさすがに今日は初めから居た。夕凪はそれだけで更に緊張が増す。
「お、兄貴おかえり。夕凪さん、こんにちは」
「おー、待ってたぞ」
二男の勇太と三男の健太が顔を出した。この二人は大人組なので沢柳のように落ち着いた雰囲気を持っている。四男の哲太、五男の蒼太も顔を出す。そして、
「兄ちゃんおかえり。わー、今日の姉ちゃんすげぇ可愛いじゃん」
(ね、姉ちゃん!?)
末の了太が違和感なく言った姉ちゃんに、夕凪は驚いてふわぁっと口を開けてしまった。それに誰も突っ込むこともなく応接室に通された。ただ、一人だけ肩を揺らしながら笑いを堪える男がいる。
夕凪は小声で沢柳に「どうしたの?」と問いかけた。すると、今度は声を出して笑い始めた。
「あら、浩太が声を出して笑っているわ。ねえ、あなた今夜、海が荒れたりしないわよね」
「うむ。非常に珍しい事態が起きているな」
この家でも沢柳が声を出して笑うことはあまり無いらしい。
「こ、浩太さんっ」
「すまない。いや、夕凪が……ふっ、くくっ」
原因は自分にあると知り夕凪はあたふたした。
(私が!? いつ、何をしたの? 玄関から入って何か粗相をしたの!?)
「うわぁ! マジか! 兄ちゃん笑ってんじゃん。さすが姉ちゃん」
(またっ、姉ちゃんって!)
全く悪気のない末っ子は屈託のない笑顔でそう言って、他の兄弟たちに事を話している。そのせいで全員が夕凪に視線を向け、ますます夕凪は挙動不審になった。
「あ、え、そのっ。えっと……」
隣ではお腹を抱えてうずくまるようにして笑う長男。それをにこにこ眺める両親。兄ちゃんが声を出して笑ったとざわつく兄弟たち。夕凪はもう完全に孤立状態だ。何か言おうにも、しどろもどろになって言葉は出ないし、みんなの視線を浴びて顔は真っ赤。なぜか追い込まれた気分になる夕凪はソファーを勢い良く立ち上がった。
「夕凪?」
沢柳の焦った声が聞こえる。でも、もう無理! と夕凪は息を大きく吸った。
「今日はお招き頂きまして、ありがとうございます! わたくし、木崎夕凪は沢柳浩太さんと結婚したくお願いに上がりました。浩太さんをっ!」
「夕凪っ、ちょっと待ってくれ」
沢柳は慌てて夕凪の言葉を制し隣に並ぶように立ち上がった。それを見て夕凪ははたと気づく、しまった! と夕凪は青ざめた。
プロポーズのときもそうだったじゃない。また、彼を差し置いて自分の思いで突っ走ってしまった。今度は沢柳の両親がいる前で、彼の面子やプライドを潰してしまうところだった、と。
「はっ、わたしっ。ご、ごめ……失礼しました」
「やだ、浩太。どうして止めたのよ。私、夕凪さんが浩太を嫁にくださいって言うの、とても楽しみにしていたのに」
恭子が残念そうにそう言った。隣で海洋もうんうんと真面目な顔をして頷く。兄弟たちはにやにわ笑いを堪えながら見守っている、といったところだった。
「二人とも期待を裏切らせて申し訳ないが、流石に俺にも言いたいことがある。別に彼女から嫁に来てくれと言われても嫌な気はしない。むしろ、喜んで行く」
「あら。じゃ何? このタイミングは」
「このままの勢いで言わせたら、息切れして倒れてしまうだろ。それに、夕凪一人にさせるものではないと、思っただけだ」
恭子は「あらあら、ご馳走さま」と言ってお茶を一口すすった。沢柳は微かに震える夕凪の手に自分の手を重ね、親指でスリと撫でた。もう一人で背負わなくていい、これからは何でも共に分かち合おう。そういう意味を込めて。
「ありがとう」
夕凪の口からこぼれたのは、ごめんなさいではなくお礼の言葉だった。それが沢柳の心を優しく擽る。そして二人は前を向く。
「結婚を許してください」
それを聞いて先に動いたのは弟たちだ。
「やった! 姉ちゃんできた! 美人で可愛い、男前の姉ちゃんできたー!」
「おい、了。男前は失礼だろっ」
「じゃあ、カッコイイ姉ちゃん。だってさ、バイクに乗るんだぜ! 俺、バイクの免許とるじゃん?」
「知るかよ。迷惑かけんなよ」
「ツーリング行くんだ。俺の夢」
「バーカ」
「バカって言うな。浩太兄ちゃん、いいだろ? ほら、兄ちゃんダメって顔してないじゃん」
「だーかーらー」
両親の了承の言葉は全く聞こえなかった。にこにこ笑うと目尻のシワがいい感じに入り、渋さを増す父の海洋。そして次第に顔色が変わる母の恭子。
沢柳は恭子の顔を見てマズイ、と額に手を添えた。心の中でカウントダウンをする。
ーー サン、ニー、イチ
「おまえたちぃぃ!! さっさとこの家から、出ていけぇーーっ!!」
「「ひっ」」
母の怒鳴り声に声を失った男たち。上の兄たちだけは苦笑い。夕凪も目をまんまる開けてポカンと口を開いたまま。
「浩太、夕凪さん。末永くお幸せにね」
鬼の形相から打って変わった恭子の顔に夕凪はなんとか笑顔で礼を返した。
(姉ちゃんに、なっちゃった……)
歓迎されることは嬉しいこと。でも、少しだけ先が思いやられるなんて思ったのは、秘密だ。
木崎夕凪は沢柳夕凪になることを選んだ。そうなることが自然な気がした。祖父がそうしなさいといった気がした。
夕凪に賑やかな明るい家族をと、願われた気がしたから。
「ただいま! うーん、美味しそうっ」
「おかえり。美味しそうってまだ見てもいないだろう」
「ふふ。美味しいに決まってるもん。ほら、いい匂いだよ」
「手を洗ってくるといい。もう出せる」
「はーい」
昼に会ったときの夕凪とはもう別人だった。何かを吹っ切ったようにいつもの夕凪に戻っていると確認した沢柳は安堵した。きっとこれまでもこんなふうに自分の力で何度も乗り越えてきたのだろう。そう思うと、もっと甘やかしてやりたい。そんな気持ちになる。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせてから箸をとる。これは夕凪も沢柳も欠かさない。祖父に厳しくしつけられた夕凪は作法や礼儀はしっかりと身に着けていた。夕凪の祖父は恥じない大人になるように躾けてきたのだろう。いつか一人になる最愛の孫のために。
「あ、そうだ。あのね浩太。婚姻届の証人なんだけど、鬼丈課長にお願いしたの」
「そうか。よかったな」
「うん。なんか意外に喜んでくれて、他のやつにつとまるか! なんて言うの。お父さんみたいだよね」
「ということはあれか。娘さんをくださいと、鬼丈課長に言わねばならないのか」
「えっ……やだ」
箸を止めた夕凪の顔は真っ赤だった。恐らく鬼丈と沢柳のそのやり取りする風景を想像したのだろう。嬉しいような恥ずかしいような、そんな顔をした。
「顔が」
「言わないで! わかってる。真っ赤なんでしょ? ううぅ、なんか恥ずかしいの。気恥ずかしくってダメっ。きゃー、ダメっ」
「ぷっ、ふっ……くはっ」
「笑わないで!」
夕凪も沢柳も以前にまして笑うようになった。沢柳にとって声を出し笑うということは滅多にない。
夕凪は沢柳となら温かくて明るい家庭が築ける。そう、思った。
* * *
週末。二人は婚姻届に必要事項を記入して印を押した。二人で今後名乗る姓は押す直前まで話し合った。なぜなら沢柳が俺は木崎姓になってもいいと言ったからだ。全く頭になかった夕凪は戸惑った。自分が沢柳姓を名乗ることになったら、木崎の姓は自分で途絶えるかもしれない。戸籍をだどってみないと分からないけれど、無くはない可能性に迷いが生じた。
「うちは6人兄弟で全員男だ。俺が継がなくともなんの支障もない。両親もそれは理解してくれている」
「でも」
「木崎夕凪でいた方がなにかと便利だろう。銀行口座名義や保険、運転免許証、社内外でのやりとりもそうだ」
「それは浩太だって、同じよ?」
「なんてことはない。事務手続には慣れている」
「確かにそうかもしれないけど」
「それに」
もし、戸籍を辿り両親や祖父のこと、他に親戚はいないかと知りたくなった場合、夕凪が戸籍上の筆頭者になっていた方がやりやすいのではないかと沢柳は考えていた。
「うん?」
「いや。まぁ、俺はどちらでもかまわない。それだけだ」
「うん」
そして夕凪が選ぶのは。
婚姻届の記入をすべて終わると、二人は沢柳の実家に向かった。挨拶を兼ねて証人となってもらうために。
あれから何度か訪れた沢柳家も今日はいつもより気持ちが違う。笑われるかもしれないけれどと、夕凪はいつもは着ない服を身に着けた。紺色のワンピースだ。
「浩太。私、大丈夫? 変じゃない? シワ、入ってない?」
「大丈夫だ」
高校のとき以来かもしれないスカート。しかもおしとやかな膝が隠れるワンピースで、髪はサイドを後ろで纏めておとなしめに。そしてヒールのあるパンプスを履き、手にはハンドバッグを持った。
控えめのネックレスとピアスが夕凪をより色づかせた。普段、鳴ることのない足音をさせて夕凪は歩く。高すぎない5cmのヒールはそれでも沢柳と背を並べてしまった。
「きゃっ」
ちょっとしたくぼみに足を取られ、カクンと躓く。これではなかなか辿り着かない。
「大丈夫か? 俺の腕に掴まればいい」
「ごめんね。恥ずかしいね」
「あんたらしくて好ましい」
「もうっ」
沢柳と腕をくんで歩くとデートをしている気分になる。でも、今日は違う。結婚の許しをもらう日だから。息子はやらん! そう言われないように夕凪が頑張る日だから。
沢柳と書かれた表札の前に立つと夕凪の心臓の動きはピークを迎えた。恥ずかしくないように、沢柳が選んだ女性はその程度かと思われないようにとギュッと拳を握った。
「いつも通りの夕凪で、いい」
「はいっ」
呼び鈴を鳴らすと、沢柳の母である恭子が出迎えた。そしてその後ろに穏やかな笑みを作った父の海洋がいた。滅多にない会えない沢柳の父もさすがに今日は初めから居た。夕凪はそれだけで更に緊張が増す。
「お、兄貴おかえり。夕凪さん、こんにちは」
「おー、待ってたぞ」
二男の勇太と三男の健太が顔を出した。この二人は大人組なので沢柳のように落ち着いた雰囲気を持っている。四男の哲太、五男の蒼太も顔を出す。そして、
「兄ちゃんおかえり。わー、今日の姉ちゃんすげぇ可愛いじゃん」
(ね、姉ちゃん!?)
末の了太が違和感なく言った姉ちゃんに、夕凪は驚いてふわぁっと口を開けてしまった。それに誰も突っ込むこともなく応接室に通された。ただ、一人だけ肩を揺らしながら笑いを堪える男がいる。
夕凪は小声で沢柳に「どうしたの?」と問いかけた。すると、今度は声を出して笑い始めた。
「あら、浩太が声を出して笑っているわ。ねえ、あなた今夜、海が荒れたりしないわよね」
「うむ。非常に珍しい事態が起きているな」
この家でも沢柳が声を出して笑うことはあまり無いらしい。
「こ、浩太さんっ」
「すまない。いや、夕凪が……ふっ、くくっ」
原因は自分にあると知り夕凪はあたふたした。
(私が!? いつ、何をしたの? 玄関から入って何か粗相をしたの!?)
「うわぁ! マジか! 兄ちゃん笑ってんじゃん。さすが姉ちゃん」
(またっ、姉ちゃんって!)
全く悪気のない末っ子は屈託のない笑顔でそう言って、他の兄弟たちに事を話している。そのせいで全員が夕凪に視線を向け、ますます夕凪は挙動不審になった。
「あ、え、そのっ。えっと……」
隣ではお腹を抱えてうずくまるようにして笑う長男。それをにこにこ眺める両親。兄ちゃんが声を出して笑ったとざわつく兄弟たち。夕凪はもう完全に孤立状態だ。何か言おうにも、しどろもどろになって言葉は出ないし、みんなの視線を浴びて顔は真っ赤。なぜか追い込まれた気分になる夕凪はソファーを勢い良く立ち上がった。
「夕凪?」
沢柳の焦った声が聞こえる。でも、もう無理! と夕凪は息を大きく吸った。
「今日はお招き頂きまして、ありがとうございます! わたくし、木崎夕凪は沢柳浩太さんと結婚したくお願いに上がりました。浩太さんをっ!」
「夕凪っ、ちょっと待ってくれ」
沢柳は慌てて夕凪の言葉を制し隣に並ぶように立ち上がった。それを見て夕凪ははたと気づく、しまった! と夕凪は青ざめた。
プロポーズのときもそうだったじゃない。また、彼を差し置いて自分の思いで突っ走ってしまった。今度は沢柳の両親がいる前で、彼の面子やプライドを潰してしまうところだった、と。
「はっ、わたしっ。ご、ごめ……失礼しました」
「やだ、浩太。どうして止めたのよ。私、夕凪さんが浩太を嫁にくださいって言うの、とても楽しみにしていたのに」
恭子が残念そうにそう言った。隣で海洋もうんうんと真面目な顔をして頷く。兄弟たちはにやにわ笑いを堪えながら見守っている、といったところだった。
「二人とも期待を裏切らせて申し訳ないが、流石に俺にも言いたいことがある。別に彼女から嫁に来てくれと言われても嫌な気はしない。むしろ、喜んで行く」
「あら。じゃ何? このタイミングは」
「このままの勢いで言わせたら、息切れして倒れてしまうだろ。それに、夕凪一人にさせるものではないと、思っただけだ」
恭子は「あらあら、ご馳走さま」と言ってお茶を一口すすった。沢柳は微かに震える夕凪の手に自分の手を重ね、親指でスリと撫でた。もう一人で背負わなくていい、これからは何でも共に分かち合おう。そういう意味を込めて。
「ありがとう」
夕凪の口からこぼれたのは、ごめんなさいではなくお礼の言葉だった。それが沢柳の心を優しく擽る。そして二人は前を向く。
「結婚を許してください」
それを聞いて先に動いたのは弟たちだ。
「やった! 姉ちゃんできた! 美人で可愛い、男前の姉ちゃんできたー!」
「おい、了。男前は失礼だろっ」
「じゃあ、カッコイイ姉ちゃん。だってさ、バイクに乗るんだぜ! 俺、バイクの免許とるじゃん?」
「知るかよ。迷惑かけんなよ」
「ツーリング行くんだ。俺の夢」
「バーカ」
「バカって言うな。浩太兄ちゃん、いいだろ? ほら、兄ちゃんダメって顔してないじゃん」
「だーかーらー」
両親の了承の言葉は全く聞こえなかった。にこにこ笑うと目尻のシワがいい感じに入り、渋さを増す父の海洋。そして次第に顔色が変わる母の恭子。
沢柳は恭子の顔を見てマズイ、と額に手を添えた。心の中でカウントダウンをする。
ーー サン、ニー、イチ
「おまえたちぃぃ!! さっさとこの家から、出ていけぇーーっ!!」
「「ひっ」」
母の怒鳴り声に声を失った男たち。上の兄たちだけは苦笑い。夕凪も目をまんまる開けてポカンと口を開いたまま。
「浩太、夕凪さん。末永くお幸せにね」
鬼の形相から打って変わった恭子の顔に夕凪はなんとか笑顔で礼を返した。
(姉ちゃんに、なっちゃった……)
歓迎されることは嬉しいこと。でも、少しだけ先が思いやられるなんて思ったのは、秘密だ。
木崎夕凪は沢柳夕凪になることを選んだ。そうなることが自然な気がした。祖父がそうしなさいといった気がした。
夕凪に賑やかな明るい家族をと、願われた気がしたから。
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