キリンのKiss

ユーリ(佐伯瑠璃)

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そして、愛

同棲をする前に ―浩太の生い立ち―

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 沢柳は自分は夕凪と真逆だと言った。夕凪から見た沢柳は、間違いなくお行儀の良い家庭で育った人だと思っている。
 小さい頃から踏み外すことなく真っ直ぐに育てられたに違いない。こんな特殊な環境で育った自分を見て沢柳の家族はどう思うだろうか。うちの息子はやらん! そんな言葉が頭に浮かんだ。

「真逆っ! どうしよう。私、浩太と釣り合わないって思われちゃう」
「それはない。俺が言うのもなんだが、うちの親は人に何かを言えるような人間ではない」
「それはないでしょう」

 夕凪の涙は止まったけれど、今度は不安が積もり眉間にシワが深く入る。沢柳は夕凪のその眉間に指をあて「こら」と窘めた。

「そんな顔をしないでくれ、俺の方が不安になる。あんたから嫌われないかと」
「私が浩太を嫌いになるわけないよ」

 夕凪がそう言うと沢柳は少し考えてからふぅと息を吐いた。夕凪はドキドキする心臓を押さえながら言葉を待つ。

「見たほうが、早そうだ」
「はい? 見るって、何を」
「ついて来てくれないか」
「え、あっ、え?」

 沢柳は夕凪の腕を取りスタスタと玄関まで行くと靴を履き始めた。分けがわからないまま夕凪も靴を履いて玄関を出る。

「どこに行くのっ」

 あっという間に夕凪は沢柳の車86GTに乗せられた。
 すぐにエンジンがかけられた。呆気に取られた夕凪に代わって、沢柳が夕凪のシートベルトを締める。

「えっ、ちょっと」

 夕凪の戸惑う声が虚しく響く中、車は駐車場を出た。








 着いたのは夕凪たちが住む市内中心部から約一時間の場所。窓を開けると潮の香りがほんのりする港に近い住宅街だった。
 その一角にある有料駐車場に車を停めると、沢柳は助手席に座る夕凪に着いたことを知らせた。

「ここはどこ?」
「俺の、生まれた街だ」
「えっ、そうなんだ」

 夕凪はあらためて街の景色を見る。沢柳が育ったというこの街はどこか懐かしく落ち着いた雰囲気があり、道行く人もまだ疎らだった。

 降りるという沢柳の声にはっとして慌てて夕凪もドアを開けた。

「あれだ、ちょっと騒がしいかもしれないが我慢して欲しい。夕凪にはなかった環境だ。無理だと思ったら言ってくれ」
「うん」

 もしや彼の家に向かうのではとようやく夕凪は気づく。そして車体に映った自分の服装を見て「しまった!」と焦る。だって、いつもと変わらないカジュアルスタイルだったから。

「浩太っ」

 夕凪は前を行く沢柳を呼び止めた。振り返る沢柳に夕凪は言葉を必死に探す。知らなかったとはいえこんな格好で来てしまった。ご家族に会うかもしれないのに、これでは彼に恥をかかせてしまう。

 立ち止まったまま眉をハの字に下げる夕凪の声が届いたのか、沢柳は夕凪の前まで戻ってくると、そっと手を握る。

「大丈夫だ。その格好でいい。むしろその方が、彼らは安心するだろ」
「彼ら?」

 沢柳は困ったように少し笑う。

「あんたに嫌われないか心配だ。そればかり考えている。ただ、悪気のない者ばかりだと言う事を先に言っておく」

 沢柳が何をそんなに気にしているのか、夕凪は不思議でならなかった。



 暫く歩くと沢柳はある家の前で立ち止まった。二階建ての今どきとは言えないけれど、その港街にあった洋風な建物が異国的な趣を漂わせていた。
 沢柳はポケットから鍵を出し玄関のドアを開けると、落ち着いた声で「帰った」と告げた。そして夕凪にも入るようにと目で合図をした。夕凪は緊張で強張る体を叱咤して、静かに入る。

「ねぇ、いいの? 勝手に。私、ここでいいよ。上がらなくていいから」

ドタドタッ……ドタドタドタドタ

 沢柳が夕凪に何かを言おうとしたタイミングで、誰かが階段を降りてくるけたたましい音がした。あまりにも大きな足音に夕凪は目を見開いて驚く。

「あっ! 兄ちゃん!? 帰ってきたのかよー。マジ、俺知らなかった。母ちゃん知ってんの?」
「メールはしたが」
「見てないんじゃないのかな。あの人、携帯とか全然気にしてないし。てか、その人」

 少年、と言ってもおかしくない年齢の男の子が二階から駆け下りてきた。沢柳を兄ちゃんと呼んだので、歳の離れた弟なのだろうとすぐに分かった。

「相変わらず煩いな。あとで紹介する。他は、居るのか」
「ゆう兄以外はいる」

 休日の昼下がりを部屋でのんびりしていたのだろう。夕凪は驚きつつも「おじゃまします」と何とか声を出し、沢柳に手を引かれ家に足を踏み入れた。

「わぁ、マジか。兄ちゃんの彼女か……やべぇじゃん」

 弟はそう呟き、また二階へ駆け上がっていった。

「浩太。私、大丈夫かな。すごくドキドキしてるの。変じゃない?」
「あんたは変じゃない」

ドタドタドタドタッ、ガチャ!

「ひゃっ」

 今度はドアが乱暴に開けられ、夕凪は驚いて声を出してしまう。その方向からは何人かの男性が顔を出し「兄貴!」と叫んだ。

「お前たちは、いつも言っているだろう。あんまり大きな音をたてるなと、何度言ったら。はぁ……」
「いやだって、了太りょうたがさ、兄貴が彼女連れてきたって言うからさ。なぁ」
「おぅ。そんな言われたら確かめるに決まってんじゃん。なぁ」
「だよな。マジで彼女なの?」
「え、違うの?」

 なんと現れたのは4人の男性だった。どことなく全員が全員似ている気がする。呆気に取られた夕凪は両手で口元を覆ったまま固まっていた。そして、とどめを刺すように女性の声が遠くから響く。

「あんたたちっ、何かやらかしたのーっ!」
「げっ、母ちゃんだ……」

 夕凪は予想外の展開に言葉が出てこない。

「ちょっと出てくれないか。今から彼女に説明をする。終わったら、呼ぶ」

 沢柳の一声で、今にもワーワー騒ぎ出しそうだった男たちは静かに去った。

 残された沢柳と夕凪は暫し沈黙する。沢柳は夕凪が少し落ち着いたのを見計らって、ゆっくりと話し始めた。

「もう、だいたい察しがつくと思うが、さっきのは全員俺の弟だ」
「弟。全員っ!?」
「ああ」

 沢柳は母親が24歳の時に生まれた長男。初めての子供でそれは大切に育てられたそうだ。

 その四年後、弟の勇太(25)が生まれた。弟が可愛くて、兄になったことが嬉しくて進んで面倒を見たそうだ。
 そんな二人を見た両親は女の子が欲しくなった。しかし、次も男児、その次も男児、気づけば子供が六人にまで膨れ上がっていたと。いま家にいるのは三男の健太(22)大学4年、四男の哲太(20)大学2年、五男の蒼太(18)高校3年、そして一番末の了太(16)高校1年だ。

「す、すごい……大家族、ね」
「恥ずかしながら、こんな感じだ。あんたの想像とは全く違って、ある意味申し訳ない」
「ご両親はなんのお仕事を?」

 大家族、しかも男ばかりを育てるのはとても大変なことだ。

「父は外資系で船乗りをしていた。母は海上保安庁の職員だ」
「あ、えっ。お父様は船のお仕事? じゃあ家に居なかったんじゃ」
「だから下の子たちは二歳差なんだと言ったら、分かってもらえるか」
「えっ、あぁ。は、はは」

 笑うしかなかった。
 その間隔で父親は帰国して娘が欲しいと励んだのだろう。
 確かに夕凪とは真逆だった。片や祖父に育てられた一人っ子の夕凪、片や大家族で育った沢柳の環境は比べ物にならない。

「テレビに出れるよね」
「丁寧に断った」
「あったんだ! そういう話っ」
「そういうわけで俺はあんたから嫌われないかと、不安なんだ。節操のない両親とむさ苦しい男家系で」
「確かにびっくりしたけど。けど、それが理由で嫌いになんてならないよ?」
「本当か」
「うん」

 そう夕凪が答えると沢柳は安心したのか、ボスッと背をソファーに沈めた。
 沢柳でも不安になることがあるのかと夕凪は少し意外に思った。歳は同じなのに、いつも落ち着いていてお兄さんみたいで……。あっと夕凪は気づく。

(浩太はお兄さんだから、そうならざるえなかったんだ。もしかしてお料理もお母様のお手伝いをしていたから? お父様が船乗りで、普段は家に居ないから)

 沢柳は父親の役割をしてきたのかもしれない。弟たちが伸び伸びと育つように、長男として母親を支えて来たのだど夕凪は思った。

「浩太……」

 夕凪はうまく言葉にできない。大勢の家族の中で暮らすことの大変さを夕凪は知らないから。だから、ソファーに放り出された沢柳の手をそっと握ることしかできなかった。

「夕凪」
「浩太」

 見つめ合えば互いの心が読める気がした。何も言わなくても握った手から愛が紡がれる気がした。次第に二人の距離は縮まって、もうすぐゼロになる。そうなったら完璧だと思った。

「浩太? 帰ってきたって?」
「!?」

 そうだった。ここは何を隠そう男だらけの大家族、沢柳家だっのだ! 

 ガチャとドアが開く。

「あらぁ! 本当だ。浩太のお嫁さんがいるぅぅ♡」
「およっ、お嫁さんっ」
「母さん!」
「はーい」

 陽気な母親の登場だった。





 元気で陽気な母親、沢柳恭子(53)は現在も海上保安庁保安部に勤めている。夫である海洋かいよう(63)は既に定年退職済だそうだ。

「オヤジは」
「今頃は沖で浮いてるんじゃないかなぁ。嘱託で灯台の保守やってるのよ。私の口利きだけどね。すぐ海に入りたがるのよ」
「元気でなによりだな」

 沢柳は半ば呆れたように言葉を返すと、夕凪の方を見て微笑んだ。大丈夫だから、心配しなくていいからと言うように。
 だから夕凪は勇気を振り絞って一歩前に出た。

「初めまして。木崎夕凪と申します。浩太さんと同じ会社の港湾部で荷役の仕事をしています」
「初めまして。美人さんね。いろいろとアレな我が家だけど宜しくお願いします」
「こちらこそ! 宜しくお願いします!」

 夕凪はつい力が入って、現場にいるときのように大きな声で返事をしてしまった。部屋に響いた自分の声にハッとして手で口を覆ったけれど、もう遅い。そんな夕凪の姿を見て沢柳の母、恭子は嬉しそうに笑った。

「ふふっ。よかった。元気なお嬢さんで。この家はね、男しか居ないの。大きな声が出なかったら主張が通らないから。でも、浩太なら心配ないわ。この子は他の子と違って常識ある人間だから」
「はい」

 緊張で強張る夕凪に恭子は初々しさを感じていた。また、薄化粧で飾らない清潔感のある格好をとても好ましくも思っていた。
 息子が初めて、この男だらけの家に連れてくる彼女だから、きっと特別に違いない。決して軽い気持ちで連れてきたわけではないと理解した。

 だって、この家を見せるのはある意味勇気がいることだから。

「さ、二人でデートの続きをしてきて。お会い出来て嬉しかったわ。その時がきたら、あらためてご挨拶しましょう。それまでこの男でいいか見極めてやってください。夕凪さん」

 恭子としては息子の何が気に入ったのか、息子は優しくできているかなど、聞きたいことは山ほどあった。ここまでついて来た奇特な彼女にとても興味があったから。でも、初回はここまでと恭子は自分に言い聞かせる。

「また、帰ってくる」
「はいはーい。気をつけてね」
「あのっ。手ぶらで申し訳ございませんでした。お邪魔しました」
「気にしないでね。また」

 夕凪は恭子に深く頭を下げて沢柳と部屋を出た。玄関を出るときもまた頭を下げる。そんな夕凪を見て、恭子は愛愛しさを感じながら、手を降った。

 二人がうまく行くようにと心の中で願いながら。



 夕凪と沢柳が玄関を出ると兄弟たちの嘆き声が聞こえてきた。

『兄貴の飯食えねえの!? うそだろー! 腹減ったわぁ』

 それを聞いた沢柳の反応が見たくて、夕凪はチラリと視線をやる。そこには苦笑いする彼の横顔があった。

(もしかして、父親役じゃなくて母親の方だったりして?)

 沢柳は父親不在の中、忙しく働く母親に代わり弟たちの世話をしてきたのかもしれない。
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