乱波の女房

ユーリ(佐伯瑠璃)

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乱波の誉れ

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 菜温の読みによると、甲賀衆は一閃を殺しはしないという。一閃を殺しては千草に辿り着けないからだ。手負った一閃が何処かに身を隠しているのならそれ良し、万が一に捕まりでもしていたら救出は厄介である。
 上忍である一閃を救出するために、下忍が動くことは容易に想像でき、様々な仕掛けを施し待っているだろう。またそれを利用して、敵は千草をおびき寄せることも考えられる。


 ◇


 千草が菜温に保護されてから、七日が過ぎた日の晩だった。諜報から戻った下忍が菜温のもとを訪れた。
 山伏やまぶしの姿をしたその男は、諜報先で見聞きした内容を菜温に伝えているようだ。しかし、千草には彼らの話の内容が全く理解できなかった。聞こえてくるのは葉が擦れるような音だけだったからだ。
 これも伊賀忍びの術なのであろう。同じ一門の仲間にしか聞き取れない術である。

「ご苦労」

 菜温がそう言うと、山伏は部屋から出て行った。その去り際に男は千草を一瞥した。そこに感情は見えず、千草はあまりにもの部の悪さに目を伏せた。
 まるでお前のせいで一閃が危険な目に遭っていると、言われたようだったからだ。
 男が去ると、菜温が立ち上がった。そしておもむろに後ろの棚を開け、忍び道具を取り出した。

わしは火と毒を扱うのが得意でのう。あの日、千草殿に儂の毒消しを使うた。儂は斬り落とせと一閃殿に言うたのだがの、斬らずに命を救えと聞かなんだ。見たところ腐りはしなかったようだの」
「あなたが毒を消してくれたのですか。ありがとうございます。自由はききませぬが、体を支える仕事はしてくれます」
「儂は毒消しを与えたまでじゃ。腐らぬよう施しをしたのは一閃殿じゃ。まだ子供の細い足を一閃殿はずっと、さすっておった。それこそ三日三晩寝ずにの」
「一閃様が、あたしの脚を……」
「さて、儂はしばらくここを空ける。御身大事にされよ」

 菜温は身支度を整えると、戸口に手を掛けた。

「待ってください。一閃様を助けに行くのですか。あたしも参ります」
「ぐははは。笑わせるでない、おぬしは役に立たぬ。邪魔以外の何者でもなかろう。我が主人、一閃殿を救うのは藤林一門の下忍の役目。出しゃばる真似は赦さぬ」

 千草は口を噤んだ。菜温が言うことに間違いはない。忍びの術を持たず、身重みおもの身体では役に立つわけがない。それでも、じっと待つのは怖かった。

「災いなして、福となす」
「それは、どういう意味ですか」
「我ら伊賀衆にとって、おぬしは災い以外のなんでもない。貰い受けるべきではなかったと思うておる。しかし、我らの上忍が子を宿すほどのおなごじゃ。これ機して福とせねばなんとなる。よいか、ここから出るでない。一閃殿のお子を守り通せ。敵に腹の子を知られたら、どんな手を使うてでも堕胎させるであろうよ」

 千草は無意識に腹を抱えて庇った。日に日に我が子は大きくなっている。一閃の血をひいた子を、殺されてなるかと母性がそうさせているのだ。

「ふんっ、泣かずに待っておれ」
「菜温殿!」

 瞬きをしたわずかな隙に、菜温は千草の目の前から消えていた。年寄りとは思えぬ速さでいっさいの音もたてていない。


 ◇


 待つだけの日々は、千草の心を不安にさせた。
 一閃の安否は分からず、時間だけが過ぎてゆく。腹の子は男児であろうか、千草がどんなに胃を満たしても、一刻もせずに腹の虫を鳴らした。
 心なしか以前よりも腹に膨らみが出た気がする。

「あなたの父上は、強くて賢い伊賀の上忍。必ずや、生きて帰ってきます。絶対に死にませぬ」

 腹の子に言い聞かせる振りをして、千草は自分にそう言って慰めた。本当は一人で腹の子を護れるか不安だったのだ。
 甲賀衆の目的のために、自分は道具になりたくない。この子は何があっても護りたい。護らねばならない存在である。

(一閃様の、お子だから)

 愛おしくて、愛おしくてならない。
 ここに、一閃が与えてくれた希望ゆめがある。


 ガタッ! と、戸口で大きな音がした。何事かと千草がそこに視線を向けると、いつかの晩に菜温を訪ねてきた山伏の男が倒れ込んだ。

「どうなされました!」
「に、げ……ろ」
「えっ」
「に……」

 男はそのまま息絶えた。その男は背中から大量の血を流している。千草は戸の隙間から外を見た。そこには十名ほどの鎧を着た武士もののふが、種子島を構えて立っていた。

(あの時と同じ! 父上と母上と、里から逃げたときも、あやつらが負ってきた。あたしの行く道を塞いだのも、あやつらじゃ!)

「そうか......あやつらは武士ではない。甲賀の乱波じゃな」

 菜温の話が確かなら、千草には織田家と甲賀くノ一の血が流れている。母が命をかけて護った命は伊賀の乱波に育てられた。伊賀と甲賀、自分の血のせいで仲違なかたがう必要のない者たちが傷ついていく。
 伊賀にとって自分は本当に災いだったのだ。この血のせいで、父となった上月弥兵衛は忍びの術を捨てた。もしも、捨てなければあの混乱で、父も母も死ぬ必要はなかったかもしれない。
 そして、この命を護るために一閃は甲賀に追われ、菜温やその仲間も巻き込まれてしまった。

「あたしが、止めなきゃ!」

 千草は腹の膨らみが知られぬよう、藤林一門の羽織を着た。その羽織の下に二尺にも満たない忍者刀を忍ばせた。誰がなんと言おうと、この場を収めなければならない。千草は戸を開けて、種子島を構える武士たちに向かって歩き始めた。

「ほほう、こうも簡単に出てくるとは。護衛の者はつけておらぬのか」
「一閃様はご無事か!」
「この状況で、他人を案ずるのか。己の命が危ないというのに。さすが立派な血を半分持ったおなごよ」
「ご無事かどうかを聞いている。あたしの命なんてどうでもいい。織田討ちの道具にでもなんでもすればよい!」

 千草は両の拳を強く握り、目の前の男を睨んだ。男は千草を嘲笑いながら、手下に合図を送った。すると、武士の列を掻き分けて一人の男が縄で引かれて現れた。

「だそうだ。伊賀の上忍さんよ」

 縄を幾重にも巻かれ、後ろで縛り上げられたその男は紛れもなく藤林一閃である。

「一閃様!」

 真一文字に引結んだ口は、ぴくりとも動かない。顔のあちらこちらに血の塊がついている。

「情けないのう。非力な女に助けをこわれるとは、伊賀の上忍もここまで落ちたか」
「殺せ……」
「おい、死にたいらしい。どうする。女さえ手に入れば此奴は用無しだしな。他の下忍どもも始末したし、同じ乱波として情けをかけてやってもよかろう。なあ、皆の衆! 首を落としてやろうじゃないか」

 忍ぶ術は持たずとも、千草の身体に流れる血は織田のものでもない、甲賀のものでもない。
 災いの子と承知の上で産んだ甲賀のくノ一と、この命を育ててくれた、伊賀の上月弥兵衛のものだ。

 千草は叫んだ。

「藤林一閃は、あたしが殺す!」
「ほぅ……して、勝算は。我らがここまで手こずったのだぞ。どうやって殺すつもりか」
「縄は解かずに其処へ。この忍び刀で喉を突く」

 千草は羽織の中から、忍者刀を出した。反りのない直刀を逆手に握りしめている。

「面白い。藤林一閃をその方へ。縄は外すなよ」
「はっ!」

 一閃は甲賀の男に背を押され、膝裏を蹴られて地面に膝を突いた。そして、万が一逃げぬよう背中を踏みつけられる。
 縄で縛っていても乱波は乱波。どんな術で反撃してくるか油断ならない。
 千草は刀を片手に前に歩んだ。右脚を前に出し、追いかけるように左脚を出す。右側だけ細い線を引きながら、千草は一閃の前に来て片膝をついた。

「一閃様……」
「俺の読みが当たったの。お前を助けた時から、俺を殺すのはお前だと思っていた。菜温から全部聞いたか」
「はい。あたしは災いの子でした。早々に消えねばならぬ存在だった。なのにまた、災いを生もうとしている。あたしの腹に、また一人」
「今……なんと申した」

 一閃は千草の言葉を理解できずにいた。隠された言葉を読み解くのが得意な乱波が、理解に苦しんでいる。

「ですから、此処に」

 千草は一閃にだけ見えるように羽織の下に手を忍ばせて、下腹を掠める程度に撫でて見せた。
 膨らみこそまだ分からぬが、そこにもう一つの心の臓が動くのを感じた。一閃は表情こそ変えなかったが、明らかに動揺している。

 あの晩、忍びらしからず我を忘れ、夢中に抱いたのを昨日のことのように思い出す。
 甲賀との一戦、命を捨てる覚悟をしていた。千草を抱けるのは最後になる。そういう心がこの結果を生んだのである。

「乱波、失格だ。早う殺せ……」

 一閃は千草に喉を突き出しだ。

「一閃様。あたしの右脚を、残してくれてありがとう。腐らぬよう施してくれてありがとう。此処に、伊賀の上忍の血を注いでくれて、ありがとう。一閃様の命、千草が頂戴いたします。御免!」

 千草は一閃の肩に左手を添え刀を振り上げた。そして切っ先を一閃の喉に向け、一気に振り下ろした。

 あっという間のことであった。力なく一閃は前に倒れる。
 千草は倒れてくる一閃の頭を両手で抱きとめ、噴き出す血を自分の胸で受け止めた。
 千草の頬を一閃の血が赤く染め、それを清めるように涙で流した。

 周囲からはどよめく声が湧いた。
 千草は正面に並ぶ、甲賀の男たちの顔を端から順に一瞥した。千草の顔には妖しく美しい笑みがあるのみ。

「ひっ……ひいっ」

 男たちの中には腰を抜かすものもいた。それほどに千草が放つ気配は妖しく、恐ろしかったのだ。

「災いの子じゃ! やはり関わってはならんのだ。甲賀は呪われるぞ。殺せ、その女も殺せ!」

 恐れをなした者はすでに武器を投げ棄て、背を向けて走っていた。残されたのは甲賀上忍と数名の下忍のみ。千草と力尽きた一閃を遠巻きにし、刀を構えて警戒している。
 そして、じわりじわりとその輪が小さくなって千草の首を獲ろうと隙をうかがう。

 トクトクトクトク……

 千草の腹で小さな命が時を刻んでいる。
 伊賀の血を引く藤林一閃と、甲賀と織田の血を持ち伊賀で育った血を引く千草との間に脈打つ新たな命だ。

ほまれじゃ! 災いの子ではない。その名を雷名らいめいとする!」

 死んだはずの一閃の声が天に轟き、ドーンという激しい音と共に稲妻が走った。地面が揺れたかと思うと、刀を構えた男たちがばたばたと倒れた。

「千草! 逃散じゃ!」
「はい。一閃様」

 一閃は死んでいなかった。
 千草は刀で確かに喉を突き刺した。一閃の喉の血管から大量の血が噴き出したのを全員が見たはずだ。しかし、一閃はその傷の影響を受けることなく立ち上がった。

 一閃は千草の腹に自分の子がいると知ったとたん、脳より体が先に動いた。乱波が仲間内で使う指文字で、千草に合図を送った。

(刃先を斜めに刺し入れよ)

 刺さる瞬間、一閃は血管を膨らませた。刃先が触れた瞬間、派手に血飛沫が舞った。そして前のめりに倒れると、素早く止血の術を使ったのだ。伊賀の忍びは心より体に技を植えつけていく。たとえ本人が死を望んでも、それを体が許さない。

 倒れた男たちはまだ立ち上がれない。刀を伝って落ちた雷は乱波の体に痺れを与え、動きを一時的に制限していた。

「我らは姑息に生きる。それが我ら伊賀衆の性分よ。それを誇れんとしてなんとする。腹の子の名は雷名じゃ。必ず産んでみせよ」
「一閃様……あたし」
「そんな顔をするな。金平糖なら、またうてきてやる」
「あたしは子供じゃありません!」

 千草は泣きながら一閃の胸を叩いた。子供ではない、もう立派な大人の女だ。こうまでしても、情は与えてもらえぬのかと悲しくなる。

「金平糖は子供にはまだ早い。脚の悪い女房に買うて帰るのよ」

 一閃は早口でそういうと、千草を抱き上げ高く跳躍した。
 誰からも邪魔されない、誰からも後ろ指を差されない、安寧の地を目指して。

「女房⁉︎」

 千草の頬を撫でるのは、希望に満ちた未来の風。二人の間に産まれる男児は、藤林雷名と名付けられた。
 乱波の血をより濃く継いだ、伊賀の忍者である。


【了】
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