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乱波失格
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千草が目覚めた時、すでに日は高く、もうそこに一閃の姿はなかった。身体は酷く疲れており、起き上がることができない。
千草は横になったまま一閃の気配をさぐった。
(……いない)
一里先まで感ずることができる気配を察知できないということは、一閃は遥か遠くまで離れて行ったことになる。
そのとき千草の脳裏に「半年経っても戻らなければ、菜温を頼れ」と言った一閃の言葉が浮かんだ。
一閃はこれまで一度も、万が一の話などしたことがない。
(一閃様、死ぬかもしれないの? まさか……)
千草の胸に鈍痛が奔った。同時に、感じたことのない不安と寂しさがこみ上げる。この世界から一閃がいなくなるかもしれない。二度とあの戸を開けて帰ってくることはないのか。そう考えるだけで、自分の心臓を掴んで潰したくなる衝動に駆られた。
「いや……いやじゃ」
涙が溢れた。
いつの間にか千草の心と身体は一閃の存在を頼りにしていた。一閃が帰ってくるから、自分は生きていられたのだ。
帰ってくると分かっているから、人間らしい営みを続けられた。庭の畑に水をやり、森に生えた野草を摘み、家を整えて、帰ってきた一閃に嫌味を言われぬよう様々な世話をした。それが、無くなるかもしれない。
両腕をもがれるような感覚に陥った。一人になることが、こんなに怖いと思ったことはない。
気まぐれに抱かれようと、話が続かなかろうと、冷たくあしらわれようと、一閃がいるだけで不安はなかった。
(怖い……怖い、怖い)
千草は横になったまま肩を抱いて、日が落ちるまで泣き続けた。
◇
ひと月が経った。一閃の気配は感じられない。
ふた月が経った。庭の野菜が収穫期を迎えた。
三ヶ月が経った。天日で乾いた薬草を擦り潰して粉薬にした。
時間は刻々と過ぎて行く。三ヶ月も後半に差し掛かった頃、千草は身体を壊した。
全身が怠く、微熱が続き床に伏せる時間が増えた。粥を作って口に入れるも、すぐに吐いてしまう。胃腸も弱り始めていた。
「一閃様が戻る前に、あたし……死ぬの? ここで、一人ぼっちで、腐っていくの? いや、まだ、死なぬ」
情けなさに泣きたくなる。しかし、胸のむかつきが酷くなり泣くことも許されない。胃の中には何もないのに、身体は吐けと胃液を持ち上げる。
「うっ……ううっ」
森で摘んだ野草に毒を含んだものがあったのだろうか。あれほど一閃から野草の見分け方を学んだのに、自分はどこかで見誤ってしまったのか。
しまいには水を飲んでも吐くようになった。
千草は虚な目で土壁を睨んだ。そして、ようやく死を覚悟する。
(一閃様に叱られる。ひと様の家で死にやがってって)
「父上、母上、千草もまもなく土に還ります」
ゆっくり目蓋を閉じた。孤独への不安、寂しさ、人恋しさ、それらからようやく解放されるのだ。一閃への想いも闇と消える。
(あたし、あの人のこと……好いて、いた?)
一閃のことを思うと、身体が熱を持つ。腹の奥がじんじんと何かを訴えてくるようだった。
(一閃、さま……)
今度こそ、千草は深い闇に包まれた。
どれくらい眠っていたのだろうか。千草は空腹で胃が持ち上げられるような痛みで目が覚めた。死を覚悟して、死を望んだのに、死はまだ訪れていない。
「生きている。なんで」
人間は願いを望むだけではその願いを叶えられない。他力か自力か実行に移すしか方法はない。しかし、死に関しては脳よりも体が赦してはくれなかった。とくにそれは、忍びの血をひく者の定めといえよう。本能が生きようとするのだ。どんなに心が絶望しても、勝手に体が動き身を守る。
千草も同じであった。気づけば干した梅を口の中に入れている。噛む力もなかったはずが、舌先でそれを転がし酸味を感じると、グググと腹の虫が音をたてた。
「腹が、減った」
千草は鍋に残った粥をたいらげた。すると、不思議なことに、あんなに酷かった嘔吐感も胸の支えも今はない。毒が体内から出てしまったのかと、千草は考えた。
◇
あれから、幾度か外の気配を探るも一閃のものはない。野生の気配をときどき感じるが、それもこちらに入り込んでくることはなかった。
まもなく、一閃が言った半年が過ぎようとしていた。
カァカァカァ!
突然、烏のけたたましい鳴き声が空からした。畑に出ていた千草が驚いて見上げると、数羽の烏が円を描いて頭上を飛んでいる。そのうちの大きな烏が、千草目がけて降下してきた。
千草は咄嗟に腕で頭を隠すようにして、屈んだ。
カァカァカァ!
「きゃあっ!」
千草のすぐそばを羽をばたつかせて鳴き続ける。その声の高さに耳がやられそうだ。両手で耳を塞ぎ、目を固く瞑る。
しばらくすると、烏は飽きたのか姿を消していた。空を見上げても一羽も飛んでいない。
「なんだったの。あっ、畑は!」
植えたばかりの作物を狙ったのかもしれない。千草は慌てて畑を見たが、荒らされた様子はない。ただ、見たこともない大きな葉が一枚、落ちていただけだ。
「何という葉だろう……ひっ」
なんとなくその葉を拾った千草は驚き、息を飲んだ。母に聞いたことはあったが、実際見たことがなかった忍び文字。其処に刻まれた言葉は『見つけた 逃さぬ』その文字を読んだとたん、葉は枯れて朽ちた。
「だれ!」
とにかく、ここから逃げなければならない。
千草は一閃の言葉を思い出し、家の裏山に向かった。生い茂った草木を掻き分けると、細い道が伸びている。長い間、人も獣も通った形跡のない道とはいい難い道だ。
「ここを進めば」
入り口は狭く、張って進入するしか手立てがなさそうだ。千草は深呼吸をして四つん這いになった。踏ん張りのきかない右脚の付け根を手で前に出し、左の脚で蹴って入るつもりだ。
心を決めたその時、背中に人間の気配を感じた。その気配は千草にとって、決して良いものではない。
「ようやっと、見つけたわい」
聞いたことのない男の声だった。気配に敏感なはずの千草が察知する事ができなかった。気配を消すことができるのは、忍びの術を使う者以外考えられない。
男の手が千草の肩に伸び、強く掴むとそのまま千草を地面に押しつけた。
「ぐ、うっ」
「うまいこと隠れておったのう。さすが伊賀上忍の術は優れておるわ。六年も足取りが掴めぬとは」
「は、離してっ……くっ、甲賀の者か」
「おお、これは……思っていたよりいい女じゃ。察しがよいのは、血筋であろう。さあ、主人のもとへ参ろうぞ」
男が千草の腰に手をかけようとしたその時、大きな影が走りその男を吹っ飛ばした。
あっという間のことである。呻き声ひとつも聞こえぬまま、その男は事切れていた。
それを見た千草は声も出せない、指一本も動かす事ができないほどの恐怖だ。
伊賀の乱が起きたあの日の風景が蘇ったからだ。
するといつの間にか男を殺した男が、千草に背を向けて立っている。その男は恐ろしい殺気に満ち溢れ、屍となった男の頭に苦無を振り下ろした。
「やっ……」
千草は目を瞑り、声を漏らす。
「はよう、逃げぬか!」
振り返ったその男は、千草が帰りをずっと待っていた一閃だったのだ。
「一閃様!」
「寄るな! 逃散じゃ! 逃散いたせ!」
「ならば、一閃様もっ……」
一閃は鬼のような顔で近寄ると、首根を掴んで千草を獣道に放り投げた。そして、道の入口を草木で塞ごうとしている。
千草は振り向いて一閃に問うた。
「なぜ、あたしだけっ」
一閃は忍び装束から顔だけ千草に見せて言う。
「菜温を探せ」
「一緒に!」
「叶わぬ! もう敵の手におちたわ」
一閃の額をどろりとした血が覆っていく。そして、とうとう片目がその血で潰れた。
「手負っておられるのですか! ならばなおさらに逃げねば」
「共倒れは赦されぬ! 行け! 構うな! 行かねばお前を殺すのみ」
一閃の声に千草は思わず身を後ろに引いた。千草は自分の行動に驚く。死は怖くない、ましてや一閃に殺されるな本望だとさえ思った。思ったはずなのに体が勝手に守りの態勢をとったのだ。
それを見た一閃は片方の口を吊り上げて笑った。そして、千草の体に羽織を押しつけると、手早く入口を塞いだ。
「一閃様!」
「その羽織で身を隠せ。そのままでは目立ちすぎる。さらば!」
もうそこに、一閃の気配はない。
「どうして! 一閃様!」
押しつけられたのは、藤林家の家紋が入った翠色の羽織だ。それを千草は無意識に嗅いだ。
(大丈夫、一閃様は死なない。あたしが一緒だと足手まといだから、あたしと離れた方が動きやすい)
千草は入口に背を向け、四つん這いで走った。両手で地面を掻き、左の脚で土を蹴る。動かぬ右脚は引きずりながら、前だけを見て進んだ。
菜温を見つければ、一閃も助かるのだと信じた。
(早く、ここを抜けなければ。あたしの体、もっと早く動け)
体力の落ちた千草の脳は酸素をうまく送れない。それでも手足を止めることはできない。なんとしても、ここを抜け菜温に会わねばならぬ。
「一閃様……」
意識は朦朧とし、視界がだんだん狭くなる。千草は出口を見る事なく気を失った。
◇
薪が爆ぜる音、鼻をくすぐるこうばしい匂い、それらが脳を刺激して千草は目覚めた。
燃える火が千草の頬を熱くした。まだ、生きているのだと知った。しかし、安心はできない。
目の前で動く影は、敵か味方か定まっていないのだ。
「ほう、思ったより早く目を開けたのう。やはり、忍の血は争えぬものじゃ」
枯れた声で男はそう言った。誰に対しての言葉なのか千草は悩んだ。ここに、男と自分以外の気配はない。
(まさか……あたし?)
よくよくその男を見ると、顔は皺だらけで片目は潰れ開かぬように縫いあわせてある。一本に結った気持ちばかりの髪は真白である。背を丸め囲炉裏の世話をしている姿を見るに、かなりの年寄りだと思えた。
「上月千草。伊賀上野で育ち六年前の乱で藤林一閃に救われた、やんごとなき姫君。ようおいでなった。わしは藤林一門の下忍、菜温である」
「あなたが、菜温殿」
「ほほ、殿は不要。菜温と呼ばれよ」
「一閃様を助けてくだされ」
「先ずは御身を大事にされよ。腹に宿る命は誰の子や。まさか一閃殿と申されるか」
「なんと申された! 腹に命とは何事ぞ……ここには何もおらぬ」
「はて、覚えはないと」
「覚えはっ……」
ないわけがない。何度も千草は一閃と身体を通わせた。しかし、一度たりともそのような兆候はなかった。故に、自分には子は宿らぬものとどこかで思い込んでいたのだ。
「嘘じゃ……この腹に子は宿らぬ。一閃様はそのような術は、施しておらぬ」
「ならば腹に手を当ててみぃ。確かにそこに心の臓が動いておるが」
千草は恐る恐る手のひらを腹に当てた。下腹は少し硬くなっているように思えた。目を閉じそこに意識を集中させる。すると……
微かに振動が伝わるのを感じた。
トクトクトクトク
自分の心の臓よりも、早い鼓動に千草はハッとして手を離した。
「どうじゃ。そこに確かにおろう。これまでに体に障りはなかったか」
「言われれば……なくは、なかった」
「なるほど、一閃殿がのう……。確かに体が通じおうても宿さぬ術はいくらでもある。しかし、子種を送ってしもうたとな。これはまた、どうしたもんか。この菜温、頭が痛いわい」
「あたしみたいな身分の者が、伊賀の血を継ぐのは罪なのですね」
「罪の方がなんと楽かの。さて、千草殿。先ずは自身の由来を教えて存じよう。話はそれからじゃ」
菜温は湯で喉を湿らすと、ゆっくりと語り始めた。それは千草にとって思いもよらぬ自身の歴史である。
今から十八年前、世は戦国の時代へと進み始めた。国の統一を夢見て、各地で武将が立ち上がる。同時に、物見を得意とする者たちが買われるようになった。伊賀も身体能力のあるものは金を稼ぐために外へ出た。伊賀衆はその性質から特定の主人を取らず、金さえ貰えれば昨日の味方も今日の敵となした。
反対に甲賀衆は安定を求め、主人に一定の期間を裏切る事なく仕えていた。乱波を求める武士が増え、里は安泰であった。
そんな矢先、伊賀下忍である上月弥兵衛は物見先で赤子を貰い受けた。その相手は織田三郎信秀に仕える甲賀のくノ一である。
こともあろうかそのくノ一は、織田の子を宿し産んでしまった。それを織田の正妻に知られ追われる身となる。母となり情が湧いたくノ一は、赤子を伊賀衆である上月弥兵衛に託した。
もともと伊賀と甲賀は恨み合う敵ではない。ただ、仕える相手が敵であったに過ぎない。
「その赤子は伊賀上野にて、育った。よそ者を嫌う伊賀衆に上月は誓いを立てた。忍びの術は決して授けぬと。そして、自身も忍びの術を捨てた。生涯を物見だけにてっすると言ったのだ。それを許したのが上忍三家の藤林。一閃殿の父親だ」
「その、連れ帰った赤子は……」
「今、わしの目の前で母になろうとしておる」
「嘘……」
「赦されぬ間に生まれた、やんごとなき娘。千草、そなたじゃ」
忘れ去られたはずの娘は、なぜか織田に仕える甲賀の乱波に知られることになる。織田軍が起こした伊賀討伐の混乱で、千草を攫おうとした。しかし、藤林一閃に邪魔をされ失敗。そして今に至る。
「なぜ、今になってあたしを必要とするのですか」
「千草殿は織田を討つための道具になるからであろう。千草殿の存在で織田の家を揺さぶり、隙をついて首を獲る」
「織田を討ってどうすると。乱波がなぜそこまでするのですか。甲賀は織田に仕えて……まさか、主人は他に?」
「さあて、裏で手を引く狸がおるのは確かじゃろう」
千草は自分の生い立ち、そしてそれを利用するために狙われていたことを知った。ずっとあの山中に身を置かれたのは、甲賀衆から隠れるためだったのだ。
しかしなぜ、一閃は千草を匿ったのか。仇である織田を討つためなら千草を甲賀に売ってもいいはずだ。
それなのに一閃は命がけで千草を逃したのだ。
「織田の時代は来ぬ。必ずや徳川がこの世を征する。徳川は乱波の価値をよく分かっておられると、誰かが言っておったのう」
「手を引いているのは、徳川だと?」
「分からぬ」
伊賀衆であろうと、甲賀衆であろうと、より豊かに生きることが目的だ。誰に仕えるかは関係のないこと。時制を読み臨機応変に動くのが乱波の性分なのだ。
「一閃殿もけつが青いわい。ひと回りよりも離れた小娘に情を奪われたとは。家督を継げぬ理由がわかった気がするのう」
「情などもらっておりませぬ……」
「ではなぜ、利用価値のあるおぬしを一閃殿は飼うた。ぬるいわ、乱波としてぬるい。困ったもんじゃ」
菜温が言うように、一閃に千草に対する情があったというのなら合点が行く。いや、そう思いたいという気持ちが強かった。
(一閃様……あたしは、信じてもいい? 望まれてこの腹の子は宿されたのだど、思っても、いい?)
「とにもかくも、しばらく養生なされい。それが一閃殿の望みであろう。助けに動くには情報が必要。放った草が戻るのを待つのみ。勝算がなければ動かん」
千草は菜温の言葉を黙って聞くほかなかった。ただ、勝算を見いだせることを祈るしかない。
千草は一閃の羽織を抱きしめて、爆ぜる薪をじっと見つめた。
千草は横になったまま一閃の気配をさぐった。
(……いない)
一里先まで感ずることができる気配を察知できないということは、一閃は遥か遠くまで離れて行ったことになる。
そのとき千草の脳裏に「半年経っても戻らなければ、菜温を頼れ」と言った一閃の言葉が浮かんだ。
一閃はこれまで一度も、万が一の話などしたことがない。
(一閃様、死ぬかもしれないの? まさか……)
千草の胸に鈍痛が奔った。同時に、感じたことのない不安と寂しさがこみ上げる。この世界から一閃がいなくなるかもしれない。二度とあの戸を開けて帰ってくることはないのか。そう考えるだけで、自分の心臓を掴んで潰したくなる衝動に駆られた。
「いや……いやじゃ」
涙が溢れた。
いつの間にか千草の心と身体は一閃の存在を頼りにしていた。一閃が帰ってくるから、自分は生きていられたのだ。
帰ってくると分かっているから、人間らしい営みを続けられた。庭の畑に水をやり、森に生えた野草を摘み、家を整えて、帰ってきた一閃に嫌味を言われぬよう様々な世話をした。それが、無くなるかもしれない。
両腕をもがれるような感覚に陥った。一人になることが、こんなに怖いと思ったことはない。
気まぐれに抱かれようと、話が続かなかろうと、冷たくあしらわれようと、一閃がいるだけで不安はなかった。
(怖い……怖い、怖い)
千草は横になったまま肩を抱いて、日が落ちるまで泣き続けた。
◇
ひと月が経った。一閃の気配は感じられない。
ふた月が経った。庭の野菜が収穫期を迎えた。
三ヶ月が経った。天日で乾いた薬草を擦り潰して粉薬にした。
時間は刻々と過ぎて行く。三ヶ月も後半に差し掛かった頃、千草は身体を壊した。
全身が怠く、微熱が続き床に伏せる時間が増えた。粥を作って口に入れるも、すぐに吐いてしまう。胃腸も弱り始めていた。
「一閃様が戻る前に、あたし……死ぬの? ここで、一人ぼっちで、腐っていくの? いや、まだ、死なぬ」
情けなさに泣きたくなる。しかし、胸のむかつきが酷くなり泣くことも許されない。胃の中には何もないのに、身体は吐けと胃液を持ち上げる。
「うっ……ううっ」
森で摘んだ野草に毒を含んだものがあったのだろうか。あれほど一閃から野草の見分け方を学んだのに、自分はどこかで見誤ってしまったのか。
しまいには水を飲んでも吐くようになった。
千草は虚な目で土壁を睨んだ。そして、ようやく死を覚悟する。
(一閃様に叱られる。ひと様の家で死にやがってって)
「父上、母上、千草もまもなく土に還ります」
ゆっくり目蓋を閉じた。孤独への不安、寂しさ、人恋しさ、それらからようやく解放されるのだ。一閃への想いも闇と消える。
(あたし、あの人のこと……好いて、いた?)
一閃のことを思うと、身体が熱を持つ。腹の奥がじんじんと何かを訴えてくるようだった。
(一閃、さま……)
今度こそ、千草は深い闇に包まれた。
どれくらい眠っていたのだろうか。千草は空腹で胃が持ち上げられるような痛みで目が覚めた。死を覚悟して、死を望んだのに、死はまだ訪れていない。
「生きている。なんで」
人間は願いを望むだけではその願いを叶えられない。他力か自力か実行に移すしか方法はない。しかし、死に関しては脳よりも体が赦してはくれなかった。とくにそれは、忍びの血をひく者の定めといえよう。本能が生きようとするのだ。どんなに心が絶望しても、勝手に体が動き身を守る。
千草も同じであった。気づけば干した梅を口の中に入れている。噛む力もなかったはずが、舌先でそれを転がし酸味を感じると、グググと腹の虫が音をたてた。
「腹が、減った」
千草は鍋に残った粥をたいらげた。すると、不思議なことに、あんなに酷かった嘔吐感も胸の支えも今はない。毒が体内から出てしまったのかと、千草は考えた。
◇
あれから、幾度か外の気配を探るも一閃のものはない。野生の気配をときどき感じるが、それもこちらに入り込んでくることはなかった。
まもなく、一閃が言った半年が過ぎようとしていた。
カァカァカァ!
突然、烏のけたたましい鳴き声が空からした。畑に出ていた千草が驚いて見上げると、数羽の烏が円を描いて頭上を飛んでいる。そのうちの大きな烏が、千草目がけて降下してきた。
千草は咄嗟に腕で頭を隠すようにして、屈んだ。
カァカァカァ!
「きゃあっ!」
千草のすぐそばを羽をばたつかせて鳴き続ける。その声の高さに耳がやられそうだ。両手で耳を塞ぎ、目を固く瞑る。
しばらくすると、烏は飽きたのか姿を消していた。空を見上げても一羽も飛んでいない。
「なんだったの。あっ、畑は!」
植えたばかりの作物を狙ったのかもしれない。千草は慌てて畑を見たが、荒らされた様子はない。ただ、見たこともない大きな葉が一枚、落ちていただけだ。
「何という葉だろう……ひっ」
なんとなくその葉を拾った千草は驚き、息を飲んだ。母に聞いたことはあったが、実際見たことがなかった忍び文字。其処に刻まれた言葉は『見つけた 逃さぬ』その文字を読んだとたん、葉は枯れて朽ちた。
「だれ!」
とにかく、ここから逃げなければならない。
千草は一閃の言葉を思い出し、家の裏山に向かった。生い茂った草木を掻き分けると、細い道が伸びている。長い間、人も獣も通った形跡のない道とはいい難い道だ。
「ここを進めば」
入り口は狭く、張って進入するしか手立てがなさそうだ。千草は深呼吸をして四つん這いになった。踏ん張りのきかない右脚の付け根を手で前に出し、左の脚で蹴って入るつもりだ。
心を決めたその時、背中に人間の気配を感じた。その気配は千草にとって、決して良いものではない。
「ようやっと、見つけたわい」
聞いたことのない男の声だった。気配に敏感なはずの千草が察知する事ができなかった。気配を消すことができるのは、忍びの術を使う者以外考えられない。
男の手が千草の肩に伸び、強く掴むとそのまま千草を地面に押しつけた。
「ぐ、うっ」
「うまいこと隠れておったのう。さすが伊賀上忍の術は優れておるわ。六年も足取りが掴めぬとは」
「は、離してっ……くっ、甲賀の者か」
「おお、これは……思っていたよりいい女じゃ。察しがよいのは、血筋であろう。さあ、主人のもとへ参ろうぞ」
男が千草の腰に手をかけようとしたその時、大きな影が走りその男を吹っ飛ばした。
あっという間のことである。呻き声ひとつも聞こえぬまま、その男は事切れていた。
それを見た千草は声も出せない、指一本も動かす事ができないほどの恐怖だ。
伊賀の乱が起きたあの日の風景が蘇ったからだ。
するといつの間にか男を殺した男が、千草に背を向けて立っている。その男は恐ろしい殺気に満ち溢れ、屍となった男の頭に苦無を振り下ろした。
「やっ……」
千草は目を瞑り、声を漏らす。
「はよう、逃げぬか!」
振り返ったその男は、千草が帰りをずっと待っていた一閃だったのだ。
「一閃様!」
「寄るな! 逃散じゃ! 逃散いたせ!」
「ならば、一閃様もっ……」
一閃は鬼のような顔で近寄ると、首根を掴んで千草を獣道に放り投げた。そして、道の入口を草木で塞ごうとしている。
千草は振り向いて一閃に問うた。
「なぜ、あたしだけっ」
一閃は忍び装束から顔だけ千草に見せて言う。
「菜温を探せ」
「一緒に!」
「叶わぬ! もう敵の手におちたわ」
一閃の額をどろりとした血が覆っていく。そして、とうとう片目がその血で潰れた。
「手負っておられるのですか! ならばなおさらに逃げねば」
「共倒れは赦されぬ! 行け! 構うな! 行かねばお前を殺すのみ」
一閃の声に千草は思わず身を後ろに引いた。千草は自分の行動に驚く。死は怖くない、ましてや一閃に殺されるな本望だとさえ思った。思ったはずなのに体が勝手に守りの態勢をとったのだ。
それを見た一閃は片方の口を吊り上げて笑った。そして、千草の体に羽織を押しつけると、手早く入口を塞いだ。
「一閃様!」
「その羽織で身を隠せ。そのままでは目立ちすぎる。さらば!」
もうそこに、一閃の気配はない。
「どうして! 一閃様!」
押しつけられたのは、藤林家の家紋が入った翠色の羽織だ。それを千草は無意識に嗅いだ。
(大丈夫、一閃様は死なない。あたしが一緒だと足手まといだから、あたしと離れた方が動きやすい)
千草は入口に背を向け、四つん這いで走った。両手で地面を掻き、左の脚で土を蹴る。動かぬ右脚は引きずりながら、前だけを見て進んだ。
菜温を見つければ、一閃も助かるのだと信じた。
(早く、ここを抜けなければ。あたしの体、もっと早く動け)
体力の落ちた千草の脳は酸素をうまく送れない。それでも手足を止めることはできない。なんとしても、ここを抜け菜温に会わねばならぬ。
「一閃様……」
意識は朦朧とし、視界がだんだん狭くなる。千草は出口を見る事なく気を失った。
◇
薪が爆ぜる音、鼻をくすぐるこうばしい匂い、それらが脳を刺激して千草は目覚めた。
燃える火が千草の頬を熱くした。まだ、生きているのだと知った。しかし、安心はできない。
目の前で動く影は、敵か味方か定まっていないのだ。
「ほう、思ったより早く目を開けたのう。やはり、忍の血は争えぬものじゃ」
枯れた声で男はそう言った。誰に対しての言葉なのか千草は悩んだ。ここに、男と自分以外の気配はない。
(まさか……あたし?)
よくよくその男を見ると、顔は皺だらけで片目は潰れ開かぬように縫いあわせてある。一本に結った気持ちばかりの髪は真白である。背を丸め囲炉裏の世話をしている姿を見るに、かなりの年寄りだと思えた。
「上月千草。伊賀上野で育ち六年前の乱で藤林一閃に救われた、やんごとなき姫君。ようおいでなった。わしは藤林一門の下忍、菜温である」
「あなたが、菜温殿」
「ほほ、殿は不要。菜温と呼ばれよ」
「一閃様を助けてくだされ」
「先ずは御身を大事にされよ。腹に宿る命は誰の子や。まさか一閃殿と申されるか」
「なんと申された! 腹に命とは何事ぞ……ここには何もおらぬ」
「はて、覚えはないと」
「覚えはっ……」
ないわけがない。何度も千草は一閃と身体を通わせた。しかし、一度たりともそのような兆候はなかった。故に、自分には子は宿らぬものとどこかで思い込んでいたのだ。
「嘘じゃ……この腹に子は宿らぬ。一閃様はそのような術は、施しておらぬ」
「ならば腹に手を当ててみぃ。確かにそこに心の臓が動いておるが」
千草は恐る恐る手のひらを腹に当てた。下腹は少し硬くなっているように思えた。目を閉じそこに意識を集中させる。すると……
微かに振動が伝わるのを感じた。
トクトクトクトク
自分の心の臓よりも、早い鼓動に千草はハッとして手を離した。
「どうじゃ。そこに確かにおろう。これまでに体に障りはなかったか」
「言われれば……なくは、なかった」
「なるほど、一閃殿がのう……。確かに体が通じおうても宿さぬ術はいくらでもある。しかし、子種を送ってしもうたとな。これはまた、どうしたもんか。この菜温、頭が痛いわい」
「あたしみたいな身分の者が、伊賀の血を継ぐのは罪なのですね」
「罪の方がなんと楽かの。さて、千草殿。先ずは自身の由来を教えて存じよう。話はそれからじゃ」
菜温は湯で喉を湿らすと、ゆっくりと語り始めた。それは千草にとって思いもよらぬ自身の歴史である。
今から十八年前、世は戦国の時代へと進み始めた。国の統一を夢見て、各地で武将が立ち上がる。同時に、物見を得意とする者たちが買われるようになった。伊賀も身体能力のあるものは金を稼ぐために外へ出た。伊賀衆はその性質から特定の主人を取らず、金さえ貰えれば昨日の味方も今日の敵となした。
反対に甲賀衆は安定を求め、主人に一定の期間を裏切る事なく仕えていた。乱波を求める武士が増え、里は安泰であった。
そんな矢先、伊賀下忍である上月弥兵衛は物見先で赤子を貰い受けた。その相手は織田三郎信秀に仕える甲賀のくノ一である。
こともあろうかそのくノ一は、織田の子を宿し産んでしまった。それを織田の正妻に知られ追われる身となる。母となり情が湧いたくノ一は、赤子を伊賀衆である上月弥兵衛に託した。
もともと伊賀と甲賀は恨み合う敵ではない。ただ、仕える相手が敵であったに過ぎない。
「その赤子は伊賀上野にて、育った。よそ者を嫌う伊賀衆に上月は誓いを立てた。忍びの術は決して授けぬと。そして、自身も忍びの術を捨てた。生涯を物見だけにてっすると言ったのだ。それを許したのが上忍三家の藤林。一閃殿の父親だ」
「その、連れ帰った赤子は……」
「今、わしの目の前で母になろうとしておる」
「嘘……」
「赦されぬ間に生まれた、やんごとなき娘。千草、そなたじゃ」
忘れ去られたはずの娘は、なぜか織田に仕える甲賀の乱波に知られることになる。織田軍が起こした伊賀討伐の混乱で、千草を攫おうとした。しかし、藤林一閃に邪魔をされ失敗。そして今に至る。
「なぜ、今になってあたしを必要とするのですか」
「千草殿は織田を討つための道具になるからであろう。千草殿の存在で織田の家を揺さぶり、隙をついて首を獲る」
「織田を討ってどうすると。乱波がなぜそこまでするのですか。甲賀は織田に仕えて……まさか、主人は他に?」
「さあて、裏で手を引く狸がおるのは確かじゃろう」
千草は自分の生い立ち、そしてそれを利用するために狙われていたことを知った。ずっとあの山中に身を置かれたのは、甲賀衆から隠れるためだったのだ。
しかしなぜ、一閃は千草を匿ったのか。仇である織田を討つためなら千草を甲賀に売ってもいいはずだ。
それなのに一閃は命がけで千草を逃したのだ。
「織田の時代は来ぬ。必ずや徳川がこの世を征する。徳川は乱波の価値をよく分かっておられると、誰かが言っておったのう」
「手を引いているのは、徳川だと?」
「分からぬ」
伊賀衆であろうと、甲賀衆であろうと、より豊かに生きることが目的だ。誰に仕えるかは関係のないこと。時制を読み臨機応変に動くのが乱波の性分なのだ。
「一閃殿もけつが青いわい。ひと回りよりも離れた小娘に情を奪われたとは。家督を継げぬ理由がわかった気がするのう」
「情などもらっておりませぬ……」
「ではなぜ、利用価値のあるおぬしを一閃殿は飼うた。ぬるいわ、乱波としてぬるい。困ったもんじゃ」
菜温が言うように、一閃に千草に対する情があったというのなら合点が行く。いや、そう思いたいという気持ちが強かった。
(一閃様……あたしは、信じてもいい? 望まれてこの腹の子は宿されたのだど、思っても、いい?)
「とにもかくも、しばらく養生なされい。それが一閃殿の望みであろう。助けに動くには情報が必要。放った草が戻るのを待つのみ。勝算がなければ動かん」
千草は菜温の言葉を黙って聞くほかなかった。ただ、勝算を見いだせることを祈るしかない。
千草は一閃の羽織を抱きしめて、爆ぜる薪をじっと見つめた。
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