乱波の女房

ユーリ(佐伯瑠璃)

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乱波失格

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 千草が目覚めた時、すでに日は高く、もうそこに一閃の姿はなかった。身体は酷く疲れており、起き上がることができない。
 千草は横になったまま一閃の気配をさぐった。

(……いない)

 一里先まで感ずることができる気配を察知できないということは、一閃は遥か遠くまで離れて行ったことになる。
 そのとき千草の脳裏に「半年経っても戻らなければ、菜温さいおんを頼れ」と言った一閃の言葉が浮かんだ。
 一閃はこれまで一度も、万が一の話などしたことがない。

(一閃様、死ぬかもしれないの? まさか……)

 千草の胸に鈍痛が奔った。同時に、感じたことのない不安と寂しさがこみ上げる。この世界から一閃がいなくなるかもしれない。二度とあの戸を開けて帰ってくることはないのか。そう考えるだけで、自分の心臓を掴んで潰したくなる衝動に駆られた。

「いや……いやじゃ」

 涙が溢れた。
 いつの間にか千草の心と身体は一閃の存在を頼りにしていた。一閃が帰ってくるから、自分は生きていられたのだ。
 帰ってくると分かっているから、人間らしい営みを続けられた。庭の畑に水をやり、森に生えた野草を摘み、家を整えて、帰ってきた一閃に嫌味を言われぬよう様々な世話をした。それが、無くなるかもしれない。
 両腕をもがれるような感覚に陥った。一人になることが、こんなに怖いと思ったことはない。
 気まぐれに抱かれようと、話が続かなかろうと、冷たくあしらわれようと、一閃がいるだけで不安はなかった。

(怖い……怖い、怖い)

 千草は横になったまま肩を抱いて、日が落ちるまで泣き続けた。


 ◇


 ひと月が経った。一閃の気配は感じられない。
 ふた月が経った。庭の野菜が収穫期を迎えた。
 三ヶ月みつきが経った。天日で乾いた薬草を擦り潰して粉薬にした。
 時間は刻々と過ぎて行く。三ヶ月みつきも後半に差し掛かった頃、千草は身体を壊した。
 全身が怠く、微熱が続き床に伏せる時間が増えた。粥を作って口に入れるも、すぐに吐いてしまう。胃腸も弱り始めていた。

「一閃様が戻る前に、あたし……死ぬの? ここで、一人ぼっちで、腐っていくの? いや、まだ、死なぬ」

 情けなさに泣きたくなる。しかし、胸のむかつきが酷くなり泣くことも許されない。胃の中には何もないのに、身体は吐けと胃液を持ち上げる。

「うっ……ううっ」

 森で摘んだ野草に毒を含んだものがあったのだろうか。あれほど一閃から野草の見分け方を学んだのに、自分はどこかで見誤ってしまったのか。
 しまいには水を飲んでも吐くようになった。
 千草は虚な目で土壁を睨んだ。そして、ようやく死を覚悟する。

(一閃様に叱られる。ひと様の家で死にやがってって)

「父上、母上、千草もまもなく土に還ります」

 ゆっくり目蓋を閉じた。孤独への不安、寂しさ、人恋しさ、それらからようやく解放されるのだ。一閃への想いも闇と消える。

(あたし、あの人のこと……好いて、いた?)

 一閃のことを思うと、身体が熱を持つ。腹の奥がじんじんと何かを訴えてくるようだった。

(一閃、さま……)

 今度こそ、千草は深い闇に包まれた。



 どれくらい眠っていたのだろうか。千草は空腹で胃が持ち上げられるような痛みで目が覚めた。死を覚悟して、死を望んだのに、死はまだ訪れていない。

「生きている。なんで」

 人間は願いを望むだけではその願いを叶えられない。他力か自力か実行に移すしか方法はない。しかし、死に関しては脳よりも体が赦してはくれなかった。とくにそれは、忍びの血をひく者の定めといえよう。本能が生きようとするのだ。どんなに心が絶望しても、勝手に体が動き身を守る。
 千草も同じであった。気づけば干した梅を口の中に入れている。噛む力もなかったはずが、舌先でそれを転がし酸味を感じると、グググと腹の虫が音をたてた。

「腹が、減った」

 千草は鍋に残った粥をたいらげた。すると、不思議なことに、あんなに酷かった嘔吐感も胸の支えも今はない。毒が体内から出てしまったのかと、千草は考えた。


 ◇


 あれから、幾度か外の気配を探るも一閃のものはない。野生の気配をときどき感じるが、それもこちらに入り込んでくることはなかった。

 まもなく、一閃が言った半年が過ぎようとしていた。

 カァカァカァ!

 突然、カラスのけたたましい鳴き声が空からした。畑に出ていた千草が驚いて見上げると、数羽の烏が円を描いて頭上を飛んでいる。そのうちの大きな烏が、千草目がけて降下してきた。
 千草は咄嗟に腕で頭を隠すようにして、屈んだ。

 カァカァカァ!

「きゃあっ!」

 千草のすぐそばを羽をばたつかせて鳴き続ける。その声の高さに耳がやられそうだ。両手で耳を塞ぎ、目を固く瞑る。
 しばらくすると、烏は飽きたのか姿を消していた。空を見上げても一羽も飛んでいない。

「なんだったの。あっ、畑は!」

 植えたばかりの作物を狙ったのかもしれない。千草は慌てて畑を見たが、荒らされた様子はない。ただ、見たこともない大きな葉が一枚、落ちていただけだ。

「何という葉だろう……ひっ」

 なんとなくその葉を拾った千草は驚き、息を飲んだ。母に聞いたことはあったが、実際見たことがなかった忍び文字。其処に刻まれた言葉は『見つけた 逃さぬ』その文字を読んだとたん、葉は枯れて朽ちた。

「だれ!」

 とにかく、ここから逃げなければならない。
 千草は一閃の言葉を思い出し、家の裏山に向かった。生い茂った草木を掻き分けると、細い道が伸びている。長い間、人も獣も通った形跡のない道とはいい難い道だ。

「ここを進めば」

 入り口は狭く、張って進入するしか手立てがなさそうだ。千草は深呼吸をして四つん這いになった。踏ん張りのきかない右脚の付け根を手で前に出し、左の脚で蹴って入るつもりだ。
 心を決めたその時、背中に人間の気配を感じた。その気配は千草にとって、決して良いものではない。

「ようやっと、見つけたわい」

 聞いたことのない男の声だった。気配に敏感なはずの千草が察知する事ができなかった。気配を消すことができるのは、忍びの術を使う者以外考えられない。
 男の手が千草の肩に伸び、強く掴むとそのまま千草を地面に押しつけた。

「ぐ、うっ」
「うまいこと隠れておったのう。さすが伊賀上忍の術は優れておるわ。六年も足取りが掴めぬとは」
「は、離してっ……くっ、甲賀の者か」
「おお、これは……思っていたよりいい女じゃ。察しがよいのは、血筋であろう。さあ、主人のもとへ参ろうぞ」

 男が千草の腰に手をかけようとしたその時、大きな影が走りその男を吹っ飛ばした。
 あっという間のことである。呻き声ひとつも聞こえぬまま、その男は事切れていた。
 それを見た千草は声も出せない、指一本も動かす事ができないほどの恐怖だ。
 伊賀の乱が起きたあの日の風景が蘇ったからだ。
 するといつの間にか男を殺した男が、千草に背を向けて立っている。その男は恐ろしい殺気に満ち溢れ、屍となった男の頭に苦無くないを振り下ろした。

「やっ……」

 千草は目を瞑り、声を漏らす。

「はよう、逃げぬか!」

 振り返ったその男は、千草が帰りをずっと待っていた一閃だったのだ。

「一閃様!」
「寄るな! 逃散じゃ! 逃散いたせ!」
「ならば、一閃様もっ……」

 一閃は鬼のような顔で近寄ると、首根を掴んで千草を獣道に放り投げた。そして、道の入口を草木で塞ごうとしている。
 千草は振り向いて一閃に問うた。

「なぜ、あたしだけっ」

 一閃は忍び装束から顔だけ千草に見せて言う。

「菜温を探せ」
「一緒に!」
「叶わぬ! もう敵の手におちたわ」

 一閃の額をどろりとした血が覆っていく。そして、とうとう片目がその血で潰れた。

「手負っておられるのですか! ならばなおさらに逃げねば」
「共倒れは赦されぬ! 行け! 構うな! 行かねばお前を殺すのみ」

 一閃の声に千草は思わず身を後ろに引いた。千草は自分の行動に驚く。死は怖くない、ましてや一閃に殺されるな本望だとさえ思った。思ったはずなのに体が勝手に守りの態勢をとったのだ。

 それを見た一閃は片方の口を吊り上げて笑った。そして、千草の体に羽織を押しつけると、手早く入口を塞いだ。

「一閃様!」
「その羽織で身を隠せ。そのままでは目立ちすぎる。さらば!」

 もうそこに、一閃の気配はない。

「どうして! 一閃様!」

 押しつけられたのは、藤林家の家紋が入った翠色の羽織だ。それを千草は無意識に嗅いだ。

(大丈夫、一閃様は死なない。あたしが一緒だと足手まといだから、あたしと離れた方が動きやすい)

 千草は入口に背を向け、四つん這いで走った。両手で地面を掻き、左の脚で土を蹴る。動かぬ右脚は引きずりながら、前だけを見て進んだ。
 菜温を見つければ、一閃も助かるのだと信じた。

(早く、ここを抜けなければ。あたしの体、もっと早く動け)

 体力の落ちた千草の脳は酸素をうまく送れない。それでも手足を止めることはできない。なんとしても、ここを抜け菜温に会わねばならぬ。

「一閃様……」

 意識は朦朧とし、視界がだんだん狭くなる。千草は出口を見る事なく気を失った。


 ◇


 薪が爆ぜる音、鼻をくすぐるこうばしい匂い、それらが脳を刺激して千草は目覚めた。
 燃える火が千草の頬を熱くした。まだ、生きているのだと知った。しかし、安心はできない。
 目の前で動く影は、敵か味方か定まっていないのだ。

「ほう、思ったより早く目を開けたのう。やはり、忍の血は争えぬものじゃ」

 枯れた声で男はそう言った。誰に対しての言葉なのか千草は悩んだ。ここに、男と自分以外の気配はない。

(まさか……あたし?)

 よくよくその男を見ると、顔は皺だらけで片目は潰れ開かぬように縫いあわせてある。一本に結った気持ちばかりの髪は真白である。背を丸め囲炉裏の世話をしている姿を見るに、かなりの年寄りだと思えた。

「上月千草。伊賀上野で育ち六年前の乱で藤林一閃に救われた、やんごとなき姫君。ようおいでなった。わしは藤林一門の下忍、菜温である」
「あなたが、菜温殿」
「ほほ、殿は不要。菜温と呼ばれよ」
「一閃様を助けてくだされ」
「先ずは御身を大事にされよ。腹に宿る命はたれの子や。まさか一閃殿と申されるか」
「なんと申された! 腹に命とは何事ぞ……ここには何もおらぬ」
「はて、覚えはないと」
「覚えはっ……」

 ないわけがない。何度も千草は一閃と身体を通わせた。しかし、一度たりともそのような兆候はなかった。故に、自分には子は宿らぬものとどこかで思い込んでいたのだ。

「嘘じゃ……この腹に子は宿らぬ。一閃様はそのような術は、施しておらぬ」
「ならば腹に手を当ててみぃ。確かにそこに心の臓が動いておるが」

 千草は恐る恐る手のひらを腹に当てた。下腹は少し硬くなっているように思えた。目を閉じそこに意識を集中させる。すると……

 微かに振動が伝わるのを感じた。
 トクトクトクトク
 自分の心の臓よりも、早い鼓動に千草はハッとして手を離した。

「どうじゃ。そこに確かにおろう。これまでに体に障りはなかったか」
「言われれば……なくは、なかった」
「なるほど、一閃殿がのう……。確かに体が通じおうても宿さぬ術はいくらでもある。しかし、子種を送ってしもうたとな。これはまた、どうしたもんか。この菜温、頭が痛いわい」
「あたしみたいな身分の者が、伊賀の血を継ぐのは罪なのですね」
「罪の方がなんと楽かの。さて、千草殿。先ずは自身の由来を教えて存じよう。話はそれからじゃ」

 菜温は湯で喉を湿らすと、ゆっくりと語り始めた。それは千草にとって思いもよらぬ自身の歴史である。

 今から十八年前、世は戦国の時代へと進み始めた。国の統一を夢見て、各地で武将が立ち上がる。同時に、物見を得意とする者たちが買われるようになった。伊賀も身体能力のあるものは金を稼ぐために外へ出た。伊賀衆はその性質から特定の主人を取らず、金さえ貰えれば昨日の味方も今日の敵となした。
 反対に甲賀衆は安定を求め、主人に一定の期間を裏切る事なく仕えていた。乱波を求める武士もののふが増え、里は安泰であった。
 そんな矢先、伊賀下忍である上月弥兵衛かみづきやへえは物見先で赤子を貰い受けた。その相手は織田三郎信秀に仕える甲賀のくノ一である。
 こともあろうかそのくノ一は、織田の子を宿し産んでしまった。それを織田の正妻に知られ追われる身となる。母となり情が湧いたくノ一は、赤子を伊賀衆である上月弥兵衛に託した。
 もともと伊賀と甲賀は恨み合う敵ではない。ただ、仕える相手が敵であったに過ぎない。

「その赤子は伊賀上野にて、育った。よそ者を嫌う伊賀衆に上月は誓いを立てた。忍びの術は決して授けぬと。そして、自身も忍びの術を捨てた。生涯を物見だけにてっすると言ったのだ。それを許したのが上忍三家の藤林。一閃殿の父親だ」
「その、連れ帰った赤子は……」
「今、わしの目の前で母になろうとしておる」
「嘘……」
「赦されぬ間に生まれた、やんごとなき娘。千草、そなたじゃ」

 忘れ去られたはずの娘は、なぜか織田に仕える甲賀の乱波に知られることになる。織田軍が起こした伊賀討伐の混乱で、千草を攫おうとした。しかし、藤林一閃に邪魔をされ失敗。そして今に至る。

「なぜ、今になってあたしを必要とするのですか」
「千草殿は織田を討つための道具になるからであろう。千草殿の存在で織田の家を揺さぶり、隙をついて首を獲る」
「織田を討ってどうすると。乱波がなぜそこまでするのですか。甲賀は織田に仕えて……まさか、主人は他に?」
「さあて、裏で手を引く狸がおるのは確かじゃろう」

 千草は自分の生い立ち、そしてそれを利用するために狙われていたことを知った。ずっとあの山中に身を置かれたのは、甲賀衆から隠れるためだったのだ。
 しかしなぜ、一閃は千草を匿ったのか。仇である織田を討つためなら千草を甲賀に売ってもいいはずだ。
 それなのに一閃は命がけで千草を逃したのだ。

「織田の時代は来ぬ。必ずや徳川がこの世を征する。徳川は乱波の価値をよく分かっておられると、誰かが言っておったのう」
「手を引いているのは、徳川だと?」
「分からぬ」

 伊賀衆であろうと、甲賀衆であろうと、より豊かに生きることが目的だ。誰に仕えるかは関係のないこと。時制を読み臨機応変に動くのが乱波の性分なのだ。

「一閃殿もけつが青いわい。ひと回りよりも離れた小娘に情を奪われたとは。家督を継げぬ理由がわかった気がするのう」
「情などもらっておりませぬ……」
「ではなぜ、利用価値のあるおぬしを一閃殿はうた。ぬるいわ、乱波としてぬるい。困ったもんじゃ」

 菜温が言うように、一閃に千草に対する情があったというのなら合点が行く。いや、そう思いたいという気持ちが強かった。

(一閃様……あたしは、信じてもいい? 望まれてこの腹の子は宿されたのだど、思っても、いい?)

「とにもかくも、しばらく養生なされい。それが一閃殿の望みであろう。助けに動くには情報が必要。放った草が戻るのを待つのみ。勝算がなければ動かん」

 千草は菜温の言葉を黙って聞くほかなかった。ただ、勝算を見いだせることを祈るしかない。
 千草は一閃の羽織を抱きしめて、爆ぜる薪をじっと見つめた。
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