桜の花弁が散る頃に

ユーリ(佐伯瑠璃)

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三章 -箱館編ー

逝かせない

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 大鳥の部隊と合流した私は五稜郭を目指した。あれから私はどれくらいの時間を無駄にしてしまったのだろう。土方と五稜郭に戻るときはまだ辺りは落ち着いていた。なのにこれはどうだ。事実上の五稜郭への撤退がこれほどまでに厳しい状況だとは思わなかった。

「もたもたするな! 弾をこめよー!」

 ドカンと大砲の音がどこからともなくすると、私達の進むべく道ががらがらと崩れる。それに被弾した者たちが人形のように飛び跳ねた。銃声は鳴りやむことはなく、身を隠す術もない。知らぬ間に明治政府軍が優勢になっていた。五稜郭までどれくらいの隊士が帰還できるのかと窮地に追い込まれている。

(この状況を覆すなんてことは……)

 もはや、できるはずがなかった。榎本艦隊がどれほど残っているのか分からないけれど、海側からも容赦ない砲撃が行われている。それは榎本艦隊ではない、明治政府軍のものだ。

「見たかい、市村くん。この有様だよ。五稜郭までもつか怪しい状況だ」
「はい! しかし、なんとしてでも戻らなければ」
「皆の者! 進めぇ!」

 大鳥はもう激を飛ばすしかなかった。足を止めて戦っていては全滅してしまう。少しでも多くの人間を生きたまま五稜郭へ連れて帰るしかなかったのだ。

(土方さん……、土方さんっ)

 土方たちはどうなったか、弁天台場で戦っているであろう新選組は大丈夫なのかと頭の片隅で思いながら、私は走った。






 五稜郭。
 そこは一歩踏み込めば他とは異なる空気を纏っていた。堀の水は十分にあり、新緑が眩しく日に当てられ輝いていた。本当に私たちは戦争をしているのだろうか。春を思わせる匂いが、命からがら凱旋を果たした者たちを包み込んだ。

「ずいぶんと兵を減らしてしまったな」

 大鳥がそういうのも仕方がない。たったの一日で、率いた隊士たちは半分以下となったのだから。それの殆どが姿の見えぬ敵の砲弾によるものだった。私は一度も刀を抜いていない。

「本当に、刀の戦争ではないのですね。刀など、なんの役にも立たない」
「市村くん。戦争とは人が物に使われ、欲が人を支配するんだよ。昔のように人と人の喧嘩ではない。小さな藩では収まりきれず、日本という国をかけての戦いだ。敵は異国ではない、同族である日本人だ」
「そんな……」
「我々は徳川から引き継いだ幕府を守りたかった。異国の優れた文明を取り入れながら、この国の繁栄を願った。しかし、世の流れは新しいものを求めているらしいね。結果がこのザマだ」

 大鳥は半ば諦めたようにそう言った。確かにもう私達に勝ち目はない。それは誰が見てもそう思うだろう。籠城戦は最後の抵抗にしかならない。そして時を待って、降伏するしかないのだ。

「大鳥殿! ご無事でしたか。このような状態だが、すぐに会議を開きたい。お疲れのところ申しわけないが」
「いや大丈夫です。そのために戻ったのですから。我が軍の武器はまったく役に立ってないようだね」

 大鳥を見つけて駆けつけたのは陸軍隊を率いていた男だ。慌ただしく現れて、攫うように大鳥を連れて行こうとしている。軍事会議であれば陸軍奉行並の土方も参加するはずだ。私は勇気を持って問いかけた。

「あのっ! 新選組の土方さんは」

 すると男は眉をぐにゃりと歪めてこう言った。

「弁天台場に向かったよ……」
「弁天台場ですね! ありがとうございます」
「おい、待て!」

 すぐに後を追おうとした私をその男は呼び止める。そして恐ろしいことを言った。

「弁天台場は孤立している。あそこに行くまでの道は全て明治政府軍が抑えた。止めたんだがね、あの男は聞かなかった。追うのはやめたほうがいい、恐らくもう」
「いつ、いつここを出たのですか! 私なら追いつきます! 私が止めますからっ」
「市村くん!」

 大鳥が私の腕を強く掴んだ。取り乱しかけた私を現実に引き戻そうとしたのだろう。

「大鳥さんっ」
「落ち着くんだ。そんな状態では散り散りのまま命を落としてしまう。君は土方くんと再会するまで死ねないのだろ」
「っ……はい」
「私は止めないよ。でも、君が途中で撃たれ倒れても、もう誰も助けられない。五稜郭ここを再び出るということは、そういう事だ。君が土方くんと再会できたとしても、もう援軍は出せない。もう、明治政府軍の総攻撃は始まっているからね。それでも君は行くのか」

 大鳥はゆっくりと諭すように私に言った。きっとこれが最後の確認だろう。私は静かに頷いた。それでも行くと。すると大鳥は軽く目を瞑って「ふぅ」と息を吐く。そして、掴んでいた私の腕を離した。

「そうかい。僕は最後まで土方くんには勝てなかったね。行くがいい、市村くん! 武運を祈る」
「あ、ありがとうございます」

 私は大鳥に頭を下げ背を向けた。そして腰に差した土方の刀に触れる。この刀は土方のもとに行きたがっている。主のもとで働きたいと訴えている。土方は孤立した新選組なかまを助けるために弁天台場に向かったのだろう。

(土方さん、私が行くまでどうか無事でいてください!)

 私は強く地を蹴った。一刻も早く、あなたに追いつきたい!





 五稜郭を出て海に向かって走った。弁天台場は半島の高台で、大きく右に曲がった先にある。

 ドドーン! ゴォォォォ!

 函館湾から砲撃があり、着弾するたびに地鳴りがした。大砲だけではない、影から黒い筒がたくさん出ている。小銃だ! ここに味方はいない、周囲は全て敵だ。まともに道を進んでいてはあたってしまう。こんな銃弾の嵐の中を土方は駆けたのかと思うと、背筋が凍る。

「あれはっ、甲鉄艦!」

 黒い鉄の艦船が不気味に浮かんでいる。ゆっくりと砲口が動き向けられた先は五稜郭をさしていた。まさかとは思ったが、あんなところからでも撃てるのかと体が震えた。あれがもしも手に入っていたら形勢は違ったかもしれない。そんな事を考えているとざざーっと、生ぬるい風が吹き抜けた。

「あっ、土方さんの匂いがする。土方さんは間違いなくここを通った!」

 私は木の上から飛び降りた。切り開かれた細い山道を見るとそこには人の足跡はなく、あったのは蹄のあとだった。土方は急ぎ仲間を助けるために馬で向かったのだろう。

「そんなっ、馬でだなんて! 目立ちすぎる」

 私は再び疾風の術を使った。くうを斬り、地を裂いてすべての力を注ぐ。今、私は風になりたい! 

(お願いだから早く、私をあの人のところに届けてください)




 暫く走ると目の前が少しだけ拓けた。目を凝らすとその先に黒い影が二つ見える。ひとつは馬が前脚を上げて空を仰ぐ姿と、もうひとつは手綱を引きながらそれに跨がる逞しい男の背中。馬が悲鳴を上げるように高い声で鳴いたその刹那、湿り気のない重い音が私の鼓膜を揺らした。

 ターンッ! ターンッ!

 そして、馬は大きく仰け反り跨いだ男は空を掴むように手を天に掲げながら崩れ落ちていく。その姿があまりにも美しく悲しく儚げで、私は一歩も足を動かすことができなかった。

 どさ、と重々しい音がして我に返る。あれは土方なんだと!

「土方さん! 土方さん!」

 そう、その男こそ見間違えるはずもない、私の愛おしき人だったのだ。私はすぐに駆け寄り、ありったけの大声でその名を叫んだ。

「土方さん! 目を、目を開けてください! 聞こえませんか! 常葉です!」

 土方の瞼は閉じられたままだが、私の声にひくひくと反応を示した。「土方さんっ」頭を抱え込み背中を擦った。土方は大きな男だ。私の腕では包み込むことができない。私は大丈夫だ、落馬して気を失っているだけだと言い聞かせた。

「うっ……く」
「土方さん!」

 何度呼んでも、目を開けない。すると土方の体を擦っていた手に妙な温もりを感じた。恐る恐る自分の手を持ち上げてみる。

「嘘っ。イヤ、嫌よ!」

 私のものではない赤黒い血が大量に手のひらに付着していた。はっとその先を見ると、土方の腹部からどくどくと血が流れ出ている。

「あぁ! 血がっ、血……。止めて! お願い血を止めて。止血をっ……うっ、うう。いや、出ないで。止まれ! 止まれーっ」

 私は土方の腹を両手で押さえた。そんな事をしても止まるはずはない。でも、どうしたらいいのか分からなくなっていた。目の前の土方の息がだんだんと浅くなる。焦れば焦るほど景色が霞んで、体の震えが止まらなくなった。

「逝かないで! 土方さんっ、土方さん! 一人で逝かないでください。お願いです。目を開けて、私の名を呼んで下さい! お前も来いって……お願い」

 どんなに叫んでも固く閉じられた瞳は開いてくれない。やっと会えたのに、やっとこの手で触れられたのに。私は片方の手で土方の腹部を押さえたまま、もう片方の手を土方の頬にあてた。

「まだ、こんなに温かいっ……のに。起きて、下さい。土方さんっ、歳三さん」

 私は無意識に土方の美しい顔に頬をすり寄せた。あの日の土方と同じ匂いがする。唇を寄せると、あの晩と同じ柔らかさがある。他のどの男よりも整ったこの顔は傷ひとつない。あなたは本当に、武士なのかと疑わしいくらいに美しい。

「お願いっ、何か言ってください。なんで戻ってきたんだと、叱ってください。土方さん、土方さん……」

 武士はなぜ命をかけるのですか。誠に背いたら、なぜ死を選ぶのですか。あなたの人生はあなたが思い描いた通りになりましたか。これであなたは、満足ですか。

「わたしは、私は赦さない! こんなふうに一人で逝くだなんて! 誓ったから! あなたを独りにしないと、独りで逝かせないと誓ったんです!」

 私は腰に差していた土方の愛刀を引き抜いた。長い刀身はまるで、土方を表しているように思える。これでどれ程の人を斬ったのだろう。今もなお血を欲しているようだ。

「土方さん。私の血も捧げます。私が最後ですよ。私も、お供します」

 その切っ先を私は自身の胸に向けた。私には先読みの力はないけれど、初めからこうなることは決まっていた。だから兄様もお爺もいい顔はしなかった。でも、運命さだめは変えることができない。

「お爺、常世兄様。ごめんなさい!」

 ぐっとその腕に力を込めた。
 こんな私をそらは笑った。ばかな女だとせせら笑うように風が流れていく。何かがはらはらと落ちてきて、それが私の鼻先に触れた。

(雪……。いや、これはサクラだわ)

「土方さん、蝦夷にもサクラがありましたよ。見てください……綺麗、です」

 私は答えることのない土方の体に重なるように、崩れ落ちた。

 もう、二度と離れないから。
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