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三章 -箱館編ー
込められた、たくさんの想い
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土方を置いて風呂から出た私は一人ぽつんと囲炉裏の番をしていた。ここには私と土方しかいない。そう思うとなんとも言えない気持ちになる。二人きりという言葉が頭の中を支配して余計なことを考えてしまうからだ。
(夫婦……っ)
いつか大鳥が言ったその言葉が突然思い浮かんだ。男女がひとつ屋根の下で暮らすということだ。土方のお嫁さん……。
「バカっ」
いけない。ぼうっとしているからそんな事ばかり考えてしまうのだ。ふと顔を上げるとそこには文机があった。土方はここで書き物をしているのだろう。そういえば俳句はやめてしまったのかと何気に立ち上がって見た。机にあったのは紙ではなく、なんとも可愛らしい赤い玉簪。
「可愛らしい飾りね。あ、これは椿柄。もしかして手彫り……」
机の端には短刀の様な細い刃物が置かれてあった。土方が一人になったときに作業をしているのだろう。土方が自ら彫るなんて、よほどの気持ちがあるに違いない。
「もしかして、これ。椿さんに」
赤い玉に刻まれた椿の花はあの日大阪で手を振り別れた軍医の椿さんだ。山崎さんと想いあっていた可愛らしくてしっかり者の女の人。椿さんを嫌う人はいなかった。むしろ、みんなが好いていた。山口も沖田も、そして土方も。そう思った瞬間、心臓がギンと痛んだ。土方は椿さんのことを今でも想っている。
「何をしている」
土方が後ろにいることに気が付かなかった。大きな影が伸びてきて、私の肩を越え、置いてあった玉簪をとった。
「茶を淹れてくれ」
「っ、はい」
私は土方と目を合わせないようにその場を離れ、炊事場に降りた。盆を出し湯呑と急須を乗せ茶筒に手をかけた。蓋を開けた私の手は震え茶葉をうまく掬うことができない。痛んだ心臓が今度は急ぎ足で走り始め、それが頭まで伝わる。胸の奥から苦いものが込み上げてくる。何かを吐き出したくてたまらないけれど、何を吐けばいいのか分からない。しだいに目の前が霞み塩っぱいものが唇に触れた。
「本当に莫迦だ。私は、莫迦だ」
手にした茶筒をそのままに私は膝を折った。土方を慕い、土方となら死さえいとわないと心に決めていた。あの人の盾となりたいと決して一人で逝かせはしないと誓った。でもそれは私の勝手な押し付けた想いだったのだ。私は心のどこかで自分は特別なんだと思っていた。私だけに見せてくれる顔があると勝手に喜んでいた。でも土方の中にはずっと、椿さんがいたのだ。
「うっ……ううっ」
私はいったい、何をしていたのだろう。何を、勘違いしていたのだろう。
*
静かに湯呑を置いた。ほわほわと立ち上がる湯気は土方の頬をかすめている。湯上がりの土方は洋装ではなく着流しを着ていた。久しぶりに見た土方の着物姿は役者のようで、つい見惚れてしまう。
「おまえも飲んだらどうだ。一人で飲んでもうまくはない」
「いただきます」
私は空いた湯呑にお茶を注いだ。喉に流し込むそれはじりじりと私の喉を焦がした。こんなに味のしないお茶は初めてかもしれない。伏せた目を上げる勇気はなく、じっとその湯呑の中を覗いていた。
「何をそんな辛気臭い顔をしているんだ。ああそうだ、ほら」
「これは」
土方は私に包み袋を見せた。結び目を解いて開いたその布の中から着物が出てきた。どう見ても女物だ。
「ずっと男のかっこうをしていただろう。ここに居る間はこれを着たらいい」
「えっ。私が、ですか」
「他に誰が着るんだ」
「これ、土方さんが選んだのですか」
勝手に選んですまないと土方は言いながらそれを広げて立ち上がった。そして私の後ろに来るとそれを私の肩に掛けた。
「あまりいい色がなくてな」
淡い藤色の生地に控えめに梅の柄が入っている小袖だった。こんな美しい着物が私に似合うと到底思えない。椿さんのほうがよっぽど似合う。
「こんな、高価なもの……着れませんよ。それに私は男ですから」
「ずっと男でいるつもりなのか」
「それはっ」
「この戦争もそう長くは続かない。戦争が終わればおまえは自由だろ。好きな着物を着て、好きな男と生きていけるんだぞ。女は男にはなれねえ。女は女として生きていかなければならない」
土方から言われた言葉に私は何も言い返せなかった。土方の言うことに間違いはない。どんなに私が男に化けてもそれは外見だけで、決して中身までは男になれない。男になれない悲しみと、好きな男と生きていけるという土方の言葉は私の心を凍らせた。土方が私に言う好きな男には、土方自身が含まれていないような口ぶりだった。それは俺ではない他の男と一緒になれと言われたのと同じだ。
「おい。なぜ、泣く」
「泣いてなんか……あ」
眉間にしわを寄せた土方が目の前にあった。土方は大きな手のひらを返し、人差し指の甲で私の目尻を優しく擦った。瞬きをすると驚くほどにたくさんの涙が粒となってその土方の指を濡らす。
「俺は、おまえをこんな所まで連れてきてしまったことを後悔している。おまえはこの戦争に巻き込んではならない人間だった。国に、返してやるべきだった」
「どうしてっ、今になって、そのような」
おまえは手放しはしないと、何度も言っていたのに。本当はそうではなかった。私が離れないと縋ったから、優しい土方は私を傷つけない為にそんな嘘を言った。
「私が、無理矢理っ……」
「俺がおまえを置いておきたかったんだよ」
「なぜっ」
土方は、優しすぎる。それがどんなに残酷なことか、土方は分かっているのだろうか。
「俺は! おまえを誰にも取られたくなかった。負け戦と、分かっていても側に置きたかったんだよ。市村鉄之助という小姓ではなく、女として……な」
「……ぇ」
驚きすぎて声が出なかった。まさかと思いながらも私は土方の顔を見た。土方は真っ直ぐに私の眼を見て「おまえは女なんだよ」と言った。そしてそのまま私の唇を奪った。それはただ触れるだけの口づけだった。それ以上でもそれ以下でもない。触れたそこには土方の優しい温もりがあった。
「すまないと、思っている。死と隣り合わせの場所に連れてきたことを後悔している」
「私は! 望んで来たのです。後悔は微塵もありません。そんなこと、言わないでくださいっ」
「じゃあ、なぜ泣く」
「それはっ」
土方の心の中に他の女性がいるからと、言えるものなら言ってみたい。けれどそれを言って今が崩れていくのが恐ろしい。私はなんて卑怯な女なのだろう。
「簪か」
びくりと揺れる肩を土方はどう思っただろうか。
「椿には、さんざん世話になった。育ちの悪い新選組をあいつは一人でまとめてくれたよ。まあ、山崎ありきだってことは分かっていたさ。その山崎があんなことになった。椿なら間違いなく救ってくれたと信じている。いや、そう願い続けた」
「願いながら、彫っていたのですか」
「ああ。俺は近藤さんのため、新選組のため、幕府のためにと多くの命を犠牲にしすぎた。その犠牲あっての今の俺だ。みんなの命の上に俺は立っている。罪が、大きすぎた。こんな事をしても、なんの償いにもならねえがな」
「土方さん」
あの玉簪には椿さんだけにではなく、これまで散っていった仲間へのたくさんの想いが込められていたのだ。彼らの犠牲の上に自分がいることを土方は苦しいんでいる。それ故に、やめることのできない戦争がここにある。どうして土方だけがそんな想いをしなければならないのか。今ここにいる者、全てに言えることではないのか。
「もしもおまえが、何かに苦しんでいるのならここを抜けてもいいんだぞ。寒さで人が死ぬような場所にいる必要はないんだ。ましてやおまえは、異国から」
「土方さん!」
私はぶつかる勢いで土方に抱きついた。それでも土方はびくりともせずに私を受け止めてくれた。私は本当は土方に明確な言葉が欲しかった。おまえを好いていると言って欲しかった。けれどもうそんな事はどうでもいい。
「私が一緒にいたいからいるのです」
今の土方の立場で誰かにうつつを抜かすことはできない。なぜ私はそれに気づかなかったのだろう。
「私が勝手についてきたのです! 誰かに連れられて来たのではありませんから。私が土方さんから離れたくないだけです。土方さんは私に取り憑かれているだけなんですっ」
「おまえ……」
叫ぶように言った私の言葉は土方の厚い胸に吸い込まれていった。額をその胸に押し付けながら私は願った。どうか私がここにいる事を重荷に思わないで欲しいと。あなたは何も悪くない、生きるも死ぬも私の責任だとそう伝えたかった。
「例え弾に当たって死んでも、土方さんのせいではありません」
「何を言っているんだ。死なせやしねえよ……おまえは死なせない」
そう言いながら土方は私の体を包み込んでくれた。その手に力を込めながら何度も呪文のように言う。
「おまえは死なせない」
私だって、土方を死なせはしない!
(夫婦……っ)
いつか大鳥が言ったその言葉が突然思い浮かんだ。男女がひとつ屋根の下で暮らすということだ。土方のお嫁さん……。
「バカっ」
いけない。ぼうっとしているからそんな事ばかり考えてしまうのだ。ふと顔を上げるとそこには文机があった。土方はここで書き物をしているのだろう。そういえば俳句はやめてしまったのかと何気に立ち上がって見た。机にあったのは紙ではなく、なんとも可愛らしい赤い玉簪。
「可愛らしい飾りね。あ、これは椿柄。もしかして手彫り……」
机の端には短刀の様な細い刃物が置かれてあった。土方が一人になったときに作業をしているのだろう。土方が自ら彫るなんて、よほどの気持ちがあるに違いない。
「もしかして、これ。椿さんに」
赤い玉に刻まれた椿の花はあの日大阪で手を振り別れた軍医の椿さんだ。山崎さんと想いあっていた可愛らしくてしっかり者の女の人。椿さんを嫌う人はいなかった。むしろ、みんなが好いていた。山口も沖田も、そして土方も。そう思った瞬間、心臓がギンと痛んだ。土方は椿さんのことを今でも想っている。
「何をしている」
土方が後ろにいることに気が付かなかった。大きな影が伸びてきて、私の肩を越え、置いてあった玉簪をとった。
「茶を淹れてくれ」
「っ、はい」
私は土方と目を合わせないようにその場を離れ、炊事場に降りた。盆を出し湯呑と急須を乗せ茶筒に手をかけた。蓋を開けた私の手は震え茶葉をうまく掬うことができない。痛んだ心臓が今度は急ぎ足で走り始め、それが頭まで伝わる。胸の奥から苦いものが込み上げてくる。何かを吐き出したくてたまらないけれど、何を吐けばいいのか分からない。しだいに目の前が霞み塩っぱいものが唇に触れた。
「本当に莫迦だ。私は、莫迦だ」
手にした茶筒をそのままに私は膝を折った。土方を慕い、土方となら死さえいとわないと心に決めていた。あの人の盾となりたいと決して一人で逝かせはしないと誓った。でもそれは私の勝手な押し付けた想いだったのだ。私は心のどこかで自分は特別なんだと思っていた。私だけに見せてくれる顔があると勝手に喜んでいた。でも土方の中にはずっと、椿さんがいたのだ。
「うっ……ううっ」
私はいったい、何をしていたのだろう。何を、勘違いしていたのだろう。
*
静かに湯呑を置いた。ほわほわと立ち上がる湯気は土方の頬をかすめている。湯上がりの土方は洋装ではなく着流しを着ていた。久しぶりに見た土方の着物姿は役者のようで、つい見惚れてしまう。
「おまえも飲んだらどうだ。一人で飲んでもうまくはない」
「いただきます」
私は空いた湯呑にお茶を注いだ。喉に流し込むそれはじりじりと私の喉を焦がした。こんなに味のしないお茶は初めてかもしれない。伏せた目を上げる勇気はなく、じっとその湯呑の中を覗いていた。
「何をそんな辛気臭い顔をしているんだ。ああそうだ、ほら」
「これは」
土方は私に包み袋を見せた。結び目を解いて開いたその布の中から着物が出てきた。どう見ても女物だ。
「ずっと男のかっこうをしていただろう。ここに居る間はこれを着たらいい」
「えっ。私が、ですか」
「他に誰が着るんだ」
「これ、土方さんが選んだのですか」
勝手に選んですまないと土方は言いながらそれを広げて立ち上がった。そして私の後ろに来るとそれを私の肩に掛けた。
「あまりいい色がなくてな」
淡い藤色の生地に控えめに梅の柄が入っている小袖だった。こんな美しい着物が私に似合うと到底思えない。椿さんのほうがよっぽど似合う。
「こんな、高価なもの……着れませんよ。それに私は男ですから」
「ずっと男でいるつもりなのか」
「それはっ」
「この戦争もそう長くは続かない。戦争が終わればおまえは自由だろ。好きな着物を着て、好きな男と生きていけるんだぞ。女は男にはなれねえ。女は女として生きていかなければならない」
土方から言われた言葉に私は何も言い返せなかった。土方の言うことに間違いはない。どんなに私が男に化けてもそれは外見だけで、決して中身までは男になれない。男になれない悲しみと、好きな男と生きていけるという土方の言葉は私の心を凍らせた。土方が私に言う好きな男には、土方自身が含まれていないような口ぶりだった。それは俺ではない他の男と一緒になれと言われたのと同じだ。
「おい。なぜ、泣く」
「泣いてなんか……あ」
眉間にしわを寄せた土方が目の前にあった。土方は大きな手のひらを返し、人差し指の甲で私の目尻を優しく擦った。瞬きをすると驚くほどにたくさんの涙が粒となってその土方の指を濡らす。
「俺は、おまえをこんな所まで連れてきてしまったことを後悔している。おまえはこの戦争に巻き込んではならない人間だった。国に、返してやるべきだった」
「どうしてっ、今になって、そのような」
おまえは手放しはしないと、何度も言っていたのに。本当はそうではなかった。私が離れないと縋ったから、優しい土方は私を傷つけない為にそんな嘘を言った。
「私が、無理矢理っ……」
「俺がおまえを置いておきたかったんだよ」
「なぜっ」
土方は、優しすぎる。それがどんなに残酷なことか、土方は分かっているのだろうか。
「俺は! おまえを誰にも取られたくなかった。負け戦と、分かっていても側に置きたかったんだよ。市村鉄之助という小姓ではなく、女として……な」
「……ぇ」
驚きすぎて声が出なかった。まさかと思いながらも私は土方の顔を見た。土方は真っ直ぐに私の眼を見て「おまえは女なんだよ」と言った。そしてそのまま私の唇を奪った。それはただ触れるだけの口づけだった。それ以上でもそれ以下でもない。触れたそこには土方の優しい温もりがあった。
「すまないと、思っている。死と隣り合わせの場所に連れてきたことを後悔している」
「私は! 望んで来たのです。後悔は微塵もありません。そんなこと、言わないでくださいっ」
「じゃあ、なぜ泣く」
「それはっ」
土方の心の中に他の女性がいるからと、言えるものなら言ってみたい。けれどそれを言って今が崩れていくのが恐ろしい。私はなんて卑怯な女なのだろう。
「簪か」
びくりと揺れる肩を土方はどう思っただろうか。
「椿には、さんざん世話になった。育ちの悪い新選組をあいつは一人でまとめてくれたよ。まあ、山崎ありきだってことは分かっていたさ。その山崎があんなことになった。椿なら間違いなく救ってくれたと信じている。いや、そう願い続けた」
「願いながら、彫っていたのですか」
「ああ。俺は近藤さんのため、新選組のため、幕府のためにと多くの命を犠牲にしすぎた。その犠牲あっての今の俺だ。みんなの命の上に俺は立っている。罪が、大きすぎた。こんな事をしても、なんの償いにもならねえがな」
「土方さん」
あの玉簪には椿さんだけにではなく、これまで散っていった仲間へのたくさんの想いが込められていたのだ。彼らの犠牲の上に自分がいることを土方は苦しいんでいる。それ故に、やめることのできない戦争がここにある。どうして土方だけがそんな想いをしなければならないのか。今ここにいる者、全てに言えることではないのか。
「もしもおまえが、何かに苦しんでいるのならここを抜けてもいいんだぞ。寒さで人が死ぬような場所にいる必要はないんだ。ましてやおまえは、異国から」
「土方さん!」
私はぶつかる勢いで土方に抱きついた。それでも土方はびくりともせずに私を受け止めてくれた。私は本当は土方に明確な言葉が欲しかった。おまえを好いていると言って欲しかった。けれどもうそんな事はどうでもいい。
「私が一緒にいたいからいるのです」
今の土方の立場で誰かにうつつを抜かすことはできない。なぜ私はそれに気づかなかったのだろう。
「私が勝手についてきたのです! 誰かに連れられて来たのではありませんから。私が土方さんから離れたくないだけです。土方さんは私に取り憑かれているだけなんですっ」
「おまえ……」
叫ぶように言った私の言葉は土方の厚い胸に吸い込まれていった。額をその胸に押し付けながら私は願った。どうか私がここにいる事を重荷に思わないで欲しいと。あなたは何も悪くない、生きるも死ぬも私の責任だとそう伝えたかった。
「例え弾に当たって死んでも、土方さんのせいではありません」
「何を言っているんだ。死なせやしねえよ……おまえは死なせない」
そう言いながら土方は私の体を包み込んでくれた。その手に力を込めながら何度も呪文のように言う。
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