桜の花弁が散る頃に

ユーリ(佐伯瑠璃)

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三章 -箱館編ー

握りしめたこぶし

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 松前で英気を養った陸軍隊は江差を目指した。先に回った榎本艦隊を追いかける形となった。城下に火を放った藩士たちが江差方面に向かったのだ。あれからなんの変わりもなく私は土方の側についていた。ときに偵察をし、ときに道筋を確認するために前を走った。でも必ず土方も一緒だった。そんな土方の横顔を見ると胸が切なく疼くのは、抑えきれない隠しきれない己の心が原因だ。

(この戦いが終わったら……どうなるのだろう)

 そんなまだ分かりもしない先の事に心を悩ませる自分が情けなくもある。自分に問いかければ問いかけるほど答えは一つだ。

(土方さんを、好いている)

「テツ、あれを見ろ」
「え……あっ」

 松前から退避した者たちが待ち伏せともいえるような場所にいた。武器も隊の構成も以前の彼らとは違いしっかりとして見えた。

「ちと、時間がかかるかもしれないな」

 土方は辺りを見回してそう言った。そして率いる隊士たちに覚悟をするよう伝達をした。松前城のときのように簡単にはいかない。なぜなら彼らにはもう逃げ場がないからだ。退路を断たれた者たちは以外な力を発揮するものだ。

「テツ俺から離れるなよ。勝手に先に進むんじゃねえ、いいな」
「はいっ」

 やはり土方は大鳥とは違う。自分か先頭を行き、自分が盾になるのだ。大将がこんなことではいけないと分かっている。でも、私はこれでいいと思う。この人が我らが新選組の副長、土方歳三なのだから。

 土方の予想の如く、江差を前にして私たちは苦戦した。激しい銃撃戦に刀を振る暇がない。大砲から放たれた弾が着弾するたびに、人形の様に敵味方関係なく吹き飛んだ。土埃が舞い上がりすぐに北の冷たい風がそれらを蹴散らした。身を隠す場所さえ確保できず、私たちは地面を這いながら進んだ。

「ひゃっ」
「大丈夫か」
「すみません。大丈夫です!」

 どちらの隊の者か分からない死体の上を私は這っていたことに気づく。他人の血で戦闘服を汚し、その者たちを踏み台にして進まなければならないのは気分がいいものではない。

「顔……」
「え、あっ」

 土方が自らの服の裾で私の頬を擦った。眉間に入れたシワはいつもの土方の表情だ。それを見て私は、この戦いも勝てる。そう確信した。

「てめえの血じゃないんだな。これ以上、傷つけるなよ」
「はい」

 分からないのは土方の私に対する気持ちぐらいだった。他の隊士には決してしないその仕草はどう捉えたらよいのか。それを確かめる日は来るのだろうか。

(いや、確かめなくていい。このままで、このままが……)

「よし、進め!」

 厳しい戦いではあったが、私たちはなんとか敵を追い散らし江差入りすることができた。ほっと息をつく暇もなく耳を疑う知らせが飛び込んできた。

「土方さん! 開陽丸が!」
「なんだ、開陽丸がどうした」
「座礁していますっ……ち、沈没して」

 その知らせを聞いた土方の顔色が変わった。榎本の居場所を聞いてすぐに走った。当然、私もあとをついていく。確か、報告によると榎本艦隊が江差についた頃は町の人間は逃げたあとで無血上陸したはずだ。いったい何があったのか。私と土方は榎本が居るという能登屋という宿に駆け込んだ。

「榎本さん!」

 案内された部屋の戸を開けると、そこには無言で海に目を凝らした榎本の姿があった。榎本は微動だせず、じいっと海を見たままだ。

「榎本さん!」

 土方がもう一度その名を呼ぶと、榎本は力なくゆっくりと振り返った。目は落ち窪み、顔には陰が差し開陽丸の事は誤報ではいことを思い知らされた。

「土方くん」
「いったい、何があったんですか!」
ふねが、私の開陽丸が沈むよ。おかしいな、なぜこんな事になった。大した戦争はやっていないぞ。我が最新鋭の主力艦隊が、なんとあっけない」
「榎本さんっ」

 魂を抜かれかけている最中のような、そんな気の抜けた声で榎本は言う。土方は信じられないと尚も榎本に詰め寄る。

「そんな見てもいないのに信じられない。開陽丸はどこですか!」
「土方くん……。分かった、案内するよ」

 私たちは能登屋を出て、本陣にしていた順正寺というところへ向かった。その途中にもぬけの殻となった奉行所がある。坂道を登ると松の木が枝を広げてたっていた。そこまで来て土方は立ち止まる。海がよく見える場所だった。

「くそぅ」

 そこから見えたのは海面に甲板と頭を出した開陽丸があったのだ。船体の殆どは海に沈み、今ある姿も時間の問題だと思われた。荒れた北の海は恐ろしいほど波がうねり、今のも呑み込もうと開陽丸を襲い続けていた。

「助けは」
「あれを救うために出した艦も、あっけなく呑まれたよ」
「っ……」

 言葉にならなかった。数々の戦争であの船から放つ大砲が勝利をもたらしてきた。回天丸は難を逃れたとはいえ、旗艦である開陽丸の損失は旧幕府軍にとって大きな痛手だった。

「昨晩のうちに、天候が悪化してね……。気づいたときには沖で錨をおろしていたはずの彼女は、あんなふうに座礁していたよ。救出も試みたんだが……海の餌となってしまった」

 土方は言葉を失ったまま近くの松の幹に体を寄せる。見ている間にも開陽丸は船首を苦しそうに上げて潮に浸かっていく。こんなとき、人間はなんと非力なことか。結局は自然には勝てないのだ。土方はよほど納得いかなかったのか血管が浮き上がるほど、拳を強く握りしめていた。そして、

「くそっ……くそっ、くそったれが!」

 土方はその拳を何度も、何度もその松の幹に打ち付ける。

ゴッ……、ゴッ……、ゴッ……

 鈍い音が鳴る。でもそれを止めることはできなかった。悔しさがその音となり、悲しみがその冷たき大地に染み込んだ。男たちの希望を乗せた艦が消えようとしている。それがどれほどの屈辱かは計り知れないものだった。

「くそぅ……」

 榎本も土方も残酷なその景色を見ながら、そんな言葉を漏らした。私は静かにその場から離れる。なんとなく居てはいけない気がしたからだ。多くの人間を率いる隊のかしら二人が目頭を熱く燃やしているのを私には、受け止めきれなかったのだ。

「土方さん……」

 土方も榎本もあの艦隊にかけていたのだ。死に急いでいたのではない。あの姿を見たら分かる。勝利こそが土方の生きていく証だったのだ。

 それから陸軍隊は十日ほど留まり、新選組を中心とし市中取り締まりと治安改善に努めた。その後、土方は隊を率いて五稜郭へと凱旋をした。いよいよ冬が本格化し、私の年齢も十六となった霜月の終わりだった。

(十六に、なりましたよ……土方さん。もう、私はガキではありません)






「入札! なんだそれは」

 土方の驚いたときに出す少しだけ高い声が響いたのは、それから数日後のこと。いよいよこの蝦夷に新たな国ができるのだ。その名も、蝦夷共和国。入札というのは異国ではあたり前に行われているものらしく、誰かの所存で決めるのではなく公平にかつ他人に知れることなく意見を表せる手段らしい。その入札とやらに土方の名も挙げられ、立派な役目を持たされたのだ。

「まったく、なにがなにやら」
「おめでとうございます土方さん」
「おめでとうございます!」

 これまで土方を慕いこの蝦夷地までついてきた新選組はみんな喜んだ。この新たな土地で明治政府とは独立した政治を行うことになったのだ。異国との交流もさかんに行われる予定だそうで、まさに希望が詰まった組織の始まりだった。
 総裁に榎本武揚、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、そして陸軍奉行並に土方が選出された。陸軍では二番手の偉い方だ。入札ではどの役目にも土方にそれなりの票が入っていたそうだ。

「土方さん凄いです!」

 思わずそう叫んでしまった。周りのみんなも、うんうんと同調してくれた。それを見た土方は照れくさそうに頭を掻きながら、大したことねえよと言う。こうして、私たちの蝦夷共和国は順調に始まった。しかし、明治政府軍が簡単に諦めるはずがない。それは誰しもが思っていたことだ。

「あっ、雪です! 雪が降り始めました」

 一面が真白に染まるのも時間の問題で、蝦夷の長い冬の幕開けとなる。

「まったくガキだなおまえは。雪がそんなに嬉しいのかよ」
「ガキではありませんっ」

(もう、十六になりましたよ……)


 戦争なんて、なければいいのに。雪がすべてを隠してくれたらいいのに。明治政府軍が近寄れないくらい深い雪が欲しい。そんな甘い願いしか浮かばなかった。
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