桜の花弁が散る頃に

ユーリ(佐伯瑠璃)

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二章 -勝沼・流川・会津編ー

静かなる焔

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 よく晴れた日の午後、沖田が体調がいいから稽古をしたいと言うので、建物の裏手にある塀で囲まれた小さな空き地に行った。そこで向かい合って立つ。

「その刀どうかな。僕の刀に近い物を探したたつもりなんだ」
「はい。あまり違和感はないです。ありがとうございます」
「そう、よかった。では、はじめようか」

 ここ二、三日、目を見張る勢いで沖田は元気になっていった。好き嫌いの多い沖田が、粥では力が出ないからと自ら栄養のあるものを望んだ。医者から出された薬が合っているのだろうか。

「宜しくお願いします」

 私は山口から教わったことを思い出しながら沖田の気配を読み、間合いを考えていた。沖田はどう攻めてくるのか、そればかり考えながら。

 ザリッーー

 草履が土を潰す音がした刹那、私は沖田の姿を見失っていた。そして、気づいたときには沖田が構えた刀の切っ先が、喉を今にも突こうとしている所で止まっていた。

「うっ」
「耳に頼ってはいけないよ」

 音は事の起きたあとから聞こえるということを、私はすっかり忘れていたのだ。沖田が土を踏みしめた音がした時には、もう私の喉は掻っ切られていた事になる。それほどに沖田の動きは速かった。

「沖田先生の突き……お見事です。悔しいっ、全く見えませんでした。どうしてだ」
「見ようとするからさ。君は目も耳もいいよね。それに頼りすぎたのさ。僕の気配を読もうとしていたのに、残念だったね」

 言われた通り気配を感じようとしていたのに、どこからか耳に頼っていた。いや、私は目に頼りすぎたのだ。あのとき沖田は刀を構えたまま動こうとしなかった。

「沖田先生の気配は難しいです。言うならば、山口先生も同様です。お二人はなぜそのような動きができるのですか」

 沖田は首を傾げながら考えていた。私が理解できそうな言葉を探しているのだろうか。

「一くんは居合いあい、抜刀術を極めているからね」
「居合……抜刀」
「鞘から抜いてそのまま相手に一撃を与え、二の太刀でとどめを刺す。僕にもなかなか見えない早技だよ。一くんに刀を抜かせるだけでも大変なのに、抜いたら抜いたで生きては返れない。抜刀術とはそういうものさ」
「では、沖田先生は」
「僕はこう見えても気が短いから、二の太刀まで待てない。ただそれだけだよ」
「それだけって」

 一撃で相手を倒したい。それだけだと沖田は言う。

「子供の頃から体が弱くてね。天然痘で死にかけたんだ。普通なら死んでいくのを待つだけなんだけどね、近藤さんや土方さんのお陰で医者に見てもらえたし、薬も飲ませてもらえたよ。なのに大人になってもこのとおりさ。骨は細いし、長丁場は苦手。だからできるだけ小競り合いは避けて、一撃必殺でやる必要があったのさ」
「なるほど」
「僕が勝つと、近藤さんは大手を上げて喜んでくれたのに、土方さんは舌打ちをするんだよね。あの二人、両極端すぎて面白いよ」

 沖田が昔を懐かしむように空を見上げた。口元は綻び、本当に嬉しそうに見えた。自分がする行動ひとつで、二人の大人が一喜一憂するのが嬉しかったのかもしれない。それは私にも分かる。お爺が褒めてくれると嬉しかったし、兄に指摘されると悔しかった。

「お二人らしいですね」
「鉄之助くんにも分かるかい。素直な近藤さんと、へそ曲がりな土方さんの違いが」
「はいっ。あっ」
「ふはははっ。君は本当に正直だね。土方さんが聞いていたらどんな顔をしたかな」
「い、言わないでくださいよっ。睨まれたら、本当に動けなくなるんですから」

 そう言うと沖田は屈み込んで声をあげて笑った。蛇に睨まれた蛙だねと言いながら。

「蛙じゃ、ありませんっ」

 沖田は咳き込むこともなく、心からおかしそうに笑っている。その姿があまりにも無邪気で、ときどき私と同じくらいに思えてしまう。こういう日々が少しでも多くあってほしい。そんなことを考えずにはいられなかった。

 
 そして夕刻、品川から言伝ことづてを預かった島田魁がやってきた。先に品川に戻った近藤からだ。その文によると慶喜公から全権を委任されている勝海舟から、甲府城に入って新政府軍を向かい討つ役割を与えられたとあった。新選組には支度金が旧幕府軍より与えられたようだ。そこには沖田にもあてられた支度金もあった。島田はそれを沖田に渡すと、近藤からの文を読み上げた。

「新選組副長助勤、沖田総司。貴殿にこの出動を命ずる」
「承知しました」

 そこに凛々しき横顔をした沖田の姿があった。

「市村鉄之助」
「はいっ」
「副長から言伝があります。無傷で隊に合流せよ、とのこです」
「承知しました」

 無傷で、その言葉に沖田が苦笑する。私はまだまだ信用されていないようだ。

「それから合流するときはこちらを着てください。我ら新選組も洋装を取り入れました。では、後日」
「島田先生、ありがとうございました」

 ゆっくりとお茶を飲むこともなく島田は戻って行った。とうとうこの時が来てしまった。戦争は終わるどころかこれからだと言わんばかりに大きくなっていく。先読みの力はなくとも、もう分かる。薩長連合軍は新政府軍と名乗り、堂々と正義を掲げている。肝心の慶喜公は江戸城にはもうおらず、形勢は誰が見ても不利であった。

「沖田先生」
「無傷で合流しろだなんて、土方さんは心配性だなぁ。だったら君を側におけばいいのにね」
「私がいたら軍議の邪魔になるので」
「本当にそう思うの」
「どういう、意味でしょうか」

 沖田はにこと一度笑ってみせると、すっと真顔に戻った。そして私の頬をひと撫でし、指が耳に触れうなじにまで伸びた。こんなふうに沖田が触れてくることなんて、一度もなかった。触れられた箇所からぞわぞわと肌が波打つような感覚になる。私の反応を知ってか、沖田はふっと笑っていきなり私を押し倒した。さすがに不味いと本能が叫ぶ。

「沖田先生っ」

 慌てて抜け出そうと膝を立て踏ん張ったら、その時にできた袴の裾の隙間から沖田の手が入ってきた。

「冗談は、やめてください」
「こんな冗談、しないよ普通は。君の名前はなんて言うのかな。鉄之助って呼ぶには色気がなさすぎる」
「いやです。沖田先生やめてくだっ……っ」

 沖田は腰のあたりから私を見上げている。目を細めて、口元はすこし緩めて、頬をくっと上げた。少し距離のあるその視線から眼が離せなかった。

(沖田が、男に、なった)

 土方とは違う中性的な所作と、物言いは優しいのに痛いところを確実に突いてくる。私の太腿を這い上がる沖田の手は少し冷たかった。土方はもっと、熱かったのに。

「だめです。お願いですからっ、沖田先生」
「ほら……そんな顔になるから、側に置いておけないんだよ。君、思ったよりも愛らしい顔をしているね。土方さんにはもう見せたのかな」
「えっ、あっ、やぁぁ」

 私は両手で顔を隠した。もう遅いのは分かっているけれど、そうせざる得なかった。あれほど約束したのに術が解けてしまうなんて。

「まったく、君は無防備すぎるよ。君が女じゃなくても、こういう事をする輩はたくさんいる。そんな輩から土方さんは護りたかったんじゃないかな。一から屯所を構えて、隊士と資金を集めて、その間に軍議に出る。さすがの土方さんも、君のことまで気にかけていられないだろうからね」
「え……」
「ごめんね、こんな事をして。でも、得したなぁ」
「なんの得ですかっ」
「君の本当の顔を拝めたからさ。これでもうちょっと長生きできそうだよ」 
「もう、沖田先生ってば」


 沖田の命を蝕む病と、それを嘲笑う戦争が今はとても悔しい。悔しいけれどどちらも避けることができない運命さだめだった。止められない刻限の中で、私たちは足掻き続けるのだろう。沖田は近藤と、その新選組のために。私は、土方のために。

「さあ、僕たちもこうしてはいられなないよ。準備をすすめよう」
「はい」
「ねえ、この隊服どうやって着るのさ。島田くん酷いよね。自分だけ着こなしちゃってさ」
「ふふ、そんな不貞腐れないでくださいよ。あっ、なるほど。見ていてくださいね」

 広げた異国から来た着物は紐などなく、穴に丸いものをはめて留めるものだ。お爺から聞いておいてよかった。異国の人間は器用にこれを片手で留めるのだとか。

「君、何でできるの」
「私が住んでいた国も行商の異人がたくさんいました。それで少し知っているのです」
「ふうん。僕のもやってよ。どうせなら全部着替えたほうがいいね」
「はい……え、待ってください! 向こうを見るまでっ、脱がないでくださいよ」

 沖田は私の言うことなど聞かずにバサバサと着物を脱ぎ捨て、褌姿になった。

「こっち見てくれないと、ほら留めてよ」
「だ、だって」
「くっ、くははは。下は履いてるのに、君は助平だなぁ」
「なっ、もうっ、沖田先生っ!」
「教えてよ。市村先生」
「なんですか急に……っ」

 コツンと沖田が私の肩に額をあてた。そして両腕で腰から私を引き寄せた。沖田が静かに紡ぐ。

「……負けないよ。僕はまだ、死なない」

 沖田が震えている。私にできることは何もないのだろうか。この腕を、その背に回して慰めればいいのか。一瞬、宙を泳いだ腕を私は静かに下ろした。そうじゃない、そんなことでは慰めにも癒やしにもならない。私はぎゅっと両手を握りしめた。

 希望が少しでもあるのなら、それを追いかけてみてもいい。死んだように生きるより、己の正義のために尽くして死んでいきたい。例えその正義が世間の言う不義だとしても、その正義が明日、消えようとも。


 
 私はその晩、自室に戻る途中の裏庭で高く結った髪を解いた。もう春はそこまで来ていると言うのに、手はかじかんでいる。ただ、月明かりは美しく手水舎に清かに反射した。腰に差した脇差しを静かに抜いて、解いた髪を一束にまとめ一気に削ぎ落した。顎の位置くらいまでになっただろうか。これからの戦いは鳥羽伏見よりも厳しいものになるだろう。覚悟の上で、私も共に行く。

『いいか。お前は鉄之助という、男だ。忘れるなよ』

 土方の声が耳に蘇る。

「私は、男だ。新選組、土方歳三の小姓だ」

 水鏡に映る自分にそう言い聞かせた。
 今、ここにある命を燃やしながら、灰になっても走り続けたい。沖田との日々がそう、思わせた。
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