桜の花弁が散る頃に

ユーリ(佐伯瑠璃)

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一章 ー京都・大阪編ー

芽吹きゆく想ひ

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 船が海に出てから暫くして、それぞれに部屋を与えられた。しかし部屋を持てるのは幹部級の人間のみで、いくら名の知れた新選組とはいえ幕府側からみれば小さな集まり。局長の近藤以外は複数人で部屋を使い、平隊士や兵士たちはいつものごとく雑魚寝だった。その中でも松本良順の指示で沖田だけは一人部屋を与えられ、横浜に着くまでは出歩くなと厳しく言われていた。土方は会津やこの船の持ち主である、榎本武揚えのもとたけあきという男と会合で忙しそうだったので、私はひとり船尾の甲板に立ち海をぼんやり眺めていた。

「はぁ、懐かしいな。潮の香りがする。海はどこも同じだ」

 大きく伸びをして、潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。私の国ははるか南で、これからどんどん離れるばかりだ。もう二度と戻ることのない私を育ててくれた国。心の中でさらばと告げた。

「鉄之助」

 声がしたので振り返ると、そこには原田がいた。

「原田先生」
「お前、大丈夫か。土方さんと同じ部屋だって聞いてよ」
「大丈夫ですよ。いつもお供しておりますから」
「いつもそばにいても、寝るときは別だっただろ。あの人忙しいからな、お前が眠れねえんじゃないかって心配なんだよ」

 なるほど。確かに土方は忙しい人だし、そんな土方を差し置いて先に休むわけにはいかない。でも、原田のしもの事情を思えばなんてことはない。

「大丈夫です。私は小姓ですから」
「あ……もしかして、警戒しているんだろ。俺のナニの件。あれは解決したから大丈夫だ。あのあと島原に通ったが、全勝だったぞ」
「そ、それは、なにより」

 だから危険だと言うのに。

「まあ、息が詰まりそうだったら遠慮することはねえ。俺の部屋に来い」

 そう言って原田は私の頬に触れ、そのまま手を首に回したと思ったら、ぐいっと引き寄せられた。どんと、原田のぶ厚い胸に顔が当たる。

「うぐっ」

 原田は無言で私の背中を子をあやすように叩いた。何がしたいのか全くわからない。

「原田先生っ、苦しいです」
「はっ。すまん、すまん」

 なぜか顔を赤くして頭をガシガシ掻いて、私から一歩離れた。どういうことだ。

「船酔いでもしたのですか。顔が赤いですよ、部屋に戻られた方が」
「そ、そうだな。今になって疲れが出てしまったのかもしれない。疲れるとアレだな反応しちまうもんだな」
「は……え、あっ」

 私は思わず両手で顔を覆った。原田とはやはり同じ部屋はだめだ。

「鉄之助」
「は、はいっ」
「おい。なんだ、気分でも悪いのか」
「いえ、その原田先生がっ……あれ、いない」
「原田ならもう部屋に戻ったぞ」

 目の前に居るのは原田ではなく山口二郎だった。この新選組で私が女であることを、知っている男。

「山口先生でしたか」
「原田が何かやらかしたか」
「原田先生はよく気にかけてくださるのですが、この頃お疲れのようで……。衆道かもしれないと、その、あちらの事情に悩んでおられて」
「呆れたな。あいつは修行が足りんのだろう。どう見てもお前は女だ。衆道なわけがなかろう」
「や、や、山口先生っ」

 こんなところでお前は女だなど、誰かが聞いていたらどうするというのか。小姓ではいられなくなるかもしれないのに。

「誰もおらぬ。それよりあんたは副長の側から離れるな。船の上は逃げ場がない。喰われぬよう用心しろ」
「なぜ喰われるのですか、私は男です」

 そう言うと山口はふんっと鼻で笑った。「男、だからだ」と意味不明なことを言う。男所帯なのだから男でいれば喰われる事はないのではないかと、この時までは真剣に思っていた。しかし、違った。

「まだ乳臭い男になりきれていない少年が、旨そうに見える輩がこの船には沢山いるということだ。原田はまだいい方だろう。あれでも理性はしっかりしている。しかし金のない平隊士たちはどうだろうな。一時の快楽を、死にものぐるいで求めるかもしれん」
「そんな……」

 私は血の気が引いた。男であればなにも恐れるものはないと信じていたからだ。男の世界には男の事情があるということを、私は知らなかった。

「そんなに怯えずとも良い。お前には戦える能力があるだろう。総司からその刀を託されるほどの腕がある」

 そうだ。私には普通の男より優れた技や術を持っている。自身の身を護ることなんて、容易たやすいこと。

「しかし、私闘は認められていない。見つかれば切腹だ」
「あっ」

 手詰まりだ。
 そんな私の気持ちを汲み取ったのか、山口は一歩私に近寄って肩口で囁いた。

「いっそのこと、副長に抱かれてはどうだ。さすれば誰も、寄り付かぬだろ」
「副長にっ、だ、だかっ、だかれっ」

 うまく言葉を発することができず、ぱくぱくと口は空回りをし、血が一気に遡った気がした。山口は冗談だと言い、笑いながら去って行ってしまった。

「冗談に聞こえなかったのですがっ……」

 心を落ち着かせるために私は、半刻ほど甲板に立ち潮風に当たっていた。土方がいる部屋に戻る勇気がなかったからだ。








 陽も落ちあたりが暗くなると、寒さは一段と増した。私は割り当てられた部屋の前に立っていた。時間が経ちすぎて、どんなふうにして部屋に入ったら良いのか分からなくなってしまった。いつもなら湯呑みを乗せた盆を片手にしていたので、この手ぶらがなんとも心許ない。

「鉄之助です……副長、入ります。違う……えっと、入ってもよろし」
「テツ!」
「ふぁぁっ」

 思いもよらぬ方向から名を呼ばれ、心臓が縮み上がる思いをした。ちらりと目を向けると、とても怖い顔をした土方が私を上から睨みつけていた。

「副長っ」
「副長じゃねえ! お前は今までどこをほっつき歩いていたっ。海に落ちたんじゃねえかって、心配したんだぞ! ばか野郎」
「す、すみません。すみません」

 こんなに強く頭ごなしに叱られた事はなかったから、目も見ることもできずにただ謝ることしかできなかった。近くを歩いていた人間が、さっと部屋に隠れるほど恐ろしかった。

「とにかく部屋に入れ」

 腕を掴まれて、私は部屋に引きずり込まれた。勝手の違う扉がばたんと大きな音をたて、またそれにビクついた。

「おい」
「ひっ」
「冷たくなっているじゃないか。何をやっている、お前は死にたいのか」
「え、あっ」

 土方は私を引き寄せると、懐に隠すように抱え込んで背中を上下に擦った。私は冬であることを忘れて、甲板に立っていたのだ。

「ばか野郎が。死んじまうだろ」
「すみません」

 暫くそうされていたら、なくしていた感覚が戻り始めて、しだいに土方の体温が移り始めていた。硬くて分厚くて温かい土方の体に、思わず手を回したくなる。けれど、ぐっと堪えた。

「まだ冷てえな。こっちに来い」

 四足の付いたベッドという褥に土方が座った。私はその隣にあげられ、肩から布団で包まれた。今になって体が寒さに気づき、がたがたと震え始めた。

「ふっ、副長のっ、ふ、ふとん」
「ここに寝る場所は一つしかねえんだ。俺のとかお前のとか決まってない。二人で使うもんだ。それに原田みたいなのが来てみろ、蹴落とされるぞ」
「い、一緒に、寝るのですかっ。副長と」
「嫌なのか。原田の方が良かったか」
「えっ」

 土方の声色が急に変わった。布団の上から擦ってくれていた手が止まり、じいっと私の眼を見つめた。私は土方の隣で眠ることが嫌なのではなく、恐れ多いという気持ちがあった。私みたいなものは部屋の端に置いてもらうだけでも有り難いのに。なのにそんな眼で見つめられると、余計な言葉が頭をよぎる。

『副長に抱かれてはどうだ』

 山口二郎め、なんて言葉を残したのだ。急に心臓が忙しなく動き出し、視線をどこに向けたらよいか分からず泳ぎだす。土方の眼を見ていると、妙なことを口走りそうだった。視線を下げると、太い首に男である証拠の喉仏がある。それを見てはっとする、私にはない男の象徴! と。

「どうした、テツ」
「あっ、いえ。なんでもっ」
「まだ、震えている」
「ふ、あっ」

 土方の大きな手が私の頬を包んだ。男の指先が私の耳に触れて、私は思わず声を漏らしてしまう。首の根本から体中をぞわぞわしたものが走って散ったからだ。私はぎゅっと目を閉じた。すると、大きな影が灯りを遮り、ゆっくりと近づく気配を、感じた。カサッと、衣擦れの音がやけに耳につく。さっきよりも土方との距離が縮まったように思える。頬を包みこむ手はどんどん熱を帯びて、両手の親指が私の目尻を撫でた。妙な圧迫感に胸が苦しくなり、空気を求めて僅かに唇を開いた。そして、

ー ゴッ

「んっ」

 鈍い音と共に、額に痛みが一瞬走る。

「くそっ。なんなんだ、これは」
「ふくっ」
「なんで俺は原田に嫉妬している。なんで俺はお前を」

 土方は苦しそうに、唸るようにそう言うと、私を解放して立ち上がった。

「先に寝ていろ。風にあたってくる」

 そう言い残して部屋を出ていった。




 それから随分と時間が経って、日を跨いだ頃、土方は部屋に戻ってきた。私はベッドの端に身を寄せて気づかぬふりをして目を閉じていた。ギシと、大きく一度軋む音がして土方が横になった。薄く目を開けると、私に背を向けて寝る姿があった。それを見て、なぜか無性に縋りたくなる。必死で抑えた、なのに抑えれば抑えるほど込み上げてくる。

(なに、この気持ち……土方が、土方の背がとても恋しい)

 だめ。私は市村鉄之助という男だ。女じゃない。それに子供を相手にするような人ではない。だから頼む、女に戻るな。ずっとこのまま側にいたいなら。

「テツ……」

 気づけば私は、土方の着物の端を握りしめていた。それを土方に悟られてしまった。でも、私は寝ているふりを通す。これは寝ぼけてやったことで、何か夢を見てやったことだと思わせるために。だから、目を開けてはいけない。
 ガサと音がした。土方がこちらを向いたのだろう。寝たふりをしていても、心臓の鼓動だけはどうにも抑えられない。お願いだから諦めて寝てほしい。

「っ……」

 土方が布団の下で私の手を握った。そして反対の手が怪しく動き、着物の裾をめくり上げた。足首から膝へ、膝から太腿へと手が這い上がる。その手がとうとう……。

「副長っ」

 とうとう目を開けてしまう。そこには間違いなく、土方歳三の顔が間近にあった。

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