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ダイナミックレンジ編
官舎という名の社会
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パッパパッパ、パッパパ、パッパパッパパパパ~♫
その音がなり始めると同時に起き上がり、ベッドに腰掛けたのは、陸上自衛隊、第320通信中隊習志野派遣隊の二等陸尉である幸田学だ。時計は午前六時。寝床に鳴り響く起床ラッパは止む気配がない。
「こんな目覚まし、どこで手に入れたんだよ……はぁ」
なり始めた音は、どんどん大きくなる仕組み。これはまずいとため息混じりに目覚まし時計を止め、小さく丸まったかわいい愛妻の寝顔を覗き込む。目を瞑るとなんて幼いんだと、学は目尻を下げた。
お財布よりもカメラが大事。見た目の華やかさよりも、醸し出す雰囲気のある被写体探しに余念のない年下の妻。学が前赴任地で邪気のない真っ直ぐなこの女性に一目惚れしたのが始まりだった。カメラと一緒にどこまでもついていくと、受け入れてくれたプロポーズ。彼女の良さが溢れた返事だった。
「彩花、朝だぞ。起床ラッパ鳴ったぞー」
「うん? 小隊長はかっこいいよ……」
「おい、なんだよその可愛い寝ぼけ方は。マジで勘弁な、朝なのに襲いたくなるんだそ。おーい」
むにゃむにゃと言いそうな可愛い彩花を、学は心を鬼にして引き起こした。昨夜は遅くまで写真整理をしていたのを知っている。だからって平日の寝坊を許しちゃいけない。陸自の男は厳しいんだぞ! と、表情を引き締める。
「起床完了! 洗面されたし! 進め!」
「うわぁっ。あー! また、ラッパ聞きそびれたぁ」
「ずいぶん鳴らしてみたんだけどね。あのまま鳴らし続けたら、全棟大騒ぎだ」
「すみません、明日は頑張ります! 小隊長っ」
「うむ、明日に期待する」
彩花はまだ眠いのか、片目を閉じたまま学に敬礼を済まし、寝室を出て行った。
「さて、俺も準備をするか」
二人の愛の巣は、彩花が撮ったお気に入りの写真でいっぱいだった。中でも彩花のお気に入りは、ある日の学の写真だ。それを大きく伸ばして壁に飾ってある。恥ずかしいからやめてくれ、自分の顔を見ながら眠れないと何度も訴えた。なのに彩花は笑って照れちゃだめだと軽くあしらう。
「だからさ、なんでこんなに引き伸ばすかな……あああっ、マジで勘弁だろ」
通信競技会の時の写真だ。学が小隊を率いて通信確保に疾走し、部下に指示を出している横顔のアップ。汗と土に汚れた頬を彩花が気に入っている。
「正面じゃないだけマシか……」
自衛官たる者、潔く諦めることも肝心である。
身支度を済ませてテーブルにつくと、彩花お手製の和食の朝食が並んでいた。炊きたての白ご飯、お豆腐とワカメの味噌汁、甘めの卵焼き、白菜のお漬物、夕飯の残り物少々が毎朝の定番。なぜ和食なのか? これも彩花のこだわりだ。
「日本人は白ご飯を食べないと力が出ないって、おばあちゃんが言ってた。あとお味噌は体にいいのよ。発酵食品は最強なの」
「でも、彩花。納豆は食べないよな。ここ、納豆が有名な土地じゃなかったっけ?」
「え? そうだっけ?」
惚ける彩花は、実は納豆が苦手だ。スーパーに行ったときにひと目で分かった。自分が住んでいた町とは比べられないくらい、種類が多くてコーナーも広く取ってあった。びっくりしたけれど、見なかったことにしたのを学は気づいていた。
「もしかして納豆、嫌いなのか?」
「嫌いじゃないよ! 食べる習慣がないだけ。学さんが食べたいなら買ってくるよ。うん、今日買ってくる」
「俺もめちゃくちゃ好きってわけじゃないけどさ、たまには食べようかなって」
「うん。うん。了解しました」
いつになく早口で答える彩花に、学は口元を歪める。
(彩花の弱点、見つけた……)
結婚前は週末だけ同棲をしていたけれど、こうして夫婦となってみると、互いの新しい部分が見えてくる。それが嬉しくて少し擽ったい。
それは、新婚さんの証だから。
「ごちそうさまでした。今日は何をして過ごすんだ? 仕事したかったらしてもいいんだそ?」
学は食べ終わった食器を持ってキッチンに移動した。彩花が作ったら、片付けるのは学の役目。その逆も然り。なんとなく気づけばそんな流れになっていた。
「今日はね、官舎の清掃日なの。それが終わったら、各棟に分かれてお茶会。午後はお買い物行っておしまい。けっこう忙しいよ」
「なんか、ごめんな。官舎住まいなんかさせて」
「どうして? みんなでやるからすぐ終わるし、楽しいよ?」
「いや、ほら。奥様方との付き合い、大変だろ……。主みたいな人が居るって聞くからさ」
「ヌシ? 誰だろ。どっちにしても私は年下だから、難しい問題には巻き込まれないよ。それに、長くても三年くらいで入れ替わるし。学さんは気にしないのっ」
単身ではない家族で暮らす官舎には、独特のコミュニティがあるものだ。まだ何も知らないに等しい彩花にとっては、大した負担にはなっていないらしい。噂によれば、夫の階級がそのままここでも反映されるという。階級と年齢はある程度比例するが、そうはいかないのが自衛官幹部の宿命。新しく着任した若い幹部が、定年間際のベテラン幹部よりも階級が上だったーーなんてこともザラである。曹からの叩き上げか、大学を出て幹部候補生からストレートに上がってきたのか。スタート地点ですら重要なポイントとなる。夫たちの階級は、そのまま妻たちのカースト制度に移行。なんともややこしい社会なのだ。
「ま、今の俺の階級と職務なら大した問題もないだろう。うまいこと乗り切ろうな」
学は、いまいち分かっていない彩花の頭をぽんぽんと撫で、帽子を被って玄関で靴を履いた。
「行ってらっしゃい!」
「うん。行ってくる」
「んっ……」
学はさり気なく彩花の唇を、かすめた。毎日キスしているのに、その瞬間はしおらしい少女になる彩花。
(くそーっ、このギャップがたまんないんだよなぁ)
学は駐屯地まで自転車で通っている。車を買うという案もあったが、買ってもすぐに異動となると面倒だからと諦めた。習志野駐屯地は町の中にあるので不便はない。雨の日は歩いても通える距離だ。
「幸田二尉! おはようございます」
「佐々木二曹、おはよう」
同じ通信中隊の部下だ。
近くには航空自衛隊習志野分屯基地もあり、様々な職種の自衛官がいる。偏っていない分、目立った派閥もない。それに、ここには天下の第1空挺団と、謎多き特殊作戦群も部隊として所属している。周辺住民の理解もあり、自衛隊としては活動しやすい地域だった。
「今日は、恒例の夏祭りの打ち合わせだったな」
彩花が「絶対に見に行くから! てるてる坊主、作らなきゃ!」と大張り切りだった夏のイベントが近づいていた。
◇
朝食後、彩花は洗濯物をベランダに干して、軽く掃除機をかけた。化粧の下地は日焼け止め。今日は官舎周辺の草むしりをするらしい。首にタオルを巻いて、帽子を被り、リュックにスマートフォンと飲み物を放り込んで玄関を出た。
外は恨みたくなるほど快晴だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
春に越してきてまだあまり月日は経っていないけれど、なんとなく同じ棟の住人は分かるようになった。それでも、今回の清掃活動が初めての交流となる。彩花はとにかく笑顔を心がけた。
(ちゃんとしないと学さんに迷惑がかかる。学さんのお仕事の邪魔は絶対にしない)
大丈夫だよ! とは言ったものの、彩花なりに理解しているつもりだ。官舎は妻たちが仕切る陣営なのだ。外で戦う夫たちを迎え労い、そして送り出す場所。隊を乱せば夫の出世に関わる。大袈裟だけど、笑顔の下にはそんな心構えがあったりもする。
「今日は宜しくお願いします」
家族会の会長が簡単に挨拶をして、清掃活動は始まった。会長のご主人はきっと偉い方に違いない。だけど、誰もどこの部隊のどの方など口にしない。彩花が想像していた、高笑いをするボスのような人もいない。噂話で盛り上がる人もいない。みんな落ち着いた人たちばかりだ。
(なんだか、思ってたのと違うね)
そんな時、会長が彩花に声をかけてくる。
「春からいらした、通信中隊の幸田さんよね? もう、慣れたかしら」
「はい! お蔭様で」
(さすが会長。新人の所属と名前をわかってらっしゃる。それに比べ、私ったら!)
「藤崎と、言います。うちの人は傘の方なの。宜しくね」
「傘、ですか?」
彩花は藤崎会長の言う傘に、思わず傘をさす仕草で答えてしまう。
「そう。傘、ふふふ。幸田さんたら、面白い方ね」
彩花は藤崎会長が意図したこを、分かっていないのだと気付かされ、思わず顔を赤くした。
「すみません! わたし、なんの予習もせずに越してきまして。その、ここの駐屯地のことよく分かっていないんです。空挺の方とか特殊作戦群の方が所属しているらしいくらいしか……すみませんっ」
今まで見たことも聞いたこともない部隊が存在する。素敵な写真が撮れるかもしれない! そんな浮かれた考えしかなかったから。
「間違ってないわよ。傘はね、空挺のことよ。落下傘で降りてくるでしょう? たから傘って言ったの。ちゃんとお勉強してるじゃない」
「そうなんですか。ああ、それで傘って」
「いつも送り出すときは無事を祈りながらだけど、本人はなんのそのって具合。そのうち幸田さんも見られると思うわ。降下訓練」
そのうち見られると思う。その言葉を聞いて彩花は、ばあっと満面の笑みをこぼす。何かの映像で見たことがある。大きな輸送機のお尻から、オリーブ色やカーキ色、いろんな配色の迷彩柄の空挺傘が吐き出されるように飛び出してくる。
ポイッ、ポイッと等間隔に降りてくるあれを、見られるチャンスがある!
「是非見たいです! 飛び出す瞬間、降下する姿、着地の瞬間、全部カメラに収めたいです!」
彩花の目は、もう空を見上げてその映像を再生している。そんな彩花の反応に、周りの婦人たちはただにこやかに笑うばかり。
「幸田さんは、カメラをなさるの?」
「はい! それがきっかけで、主人と結婚しました。デートは自衛隊のイベントばかりで、色気とかないんですけど、隊員さんたちの姿を追いかけるのが……好きなんです」
「そう。なかなか、アグレッシブね」
しまった! 呆れられた! そう思ったものの、時すでに遅し。次からは目立たないようにしようと、反省をする。
「すみません」
「あら落ち込まないで。もしかして、うちの主人も撮ってもらえるのかしら。望遠レンズっていうの? あれなら撮れるのかしら」
「撮れますよ! 戦闘機に乗るパイロットさんだって、下から撮れますから」
「そうなの!?」
このあとのお茶会で、彩花の自衛隊イベント撮影秘話で盛り上がったことは、学には内緒だ。
本日の記念ショット。
『B棟家族会。通称ファミリー・オブ・ブラボー。藤崎婦人のお宅で全員敬礼!』
スマホで撮ったそれは、夫たちの知らない妻たちの勇ましい集合写真となった。
その音がなり始めると同時に起き上がり、ベッドに腰掛けたのは、陸上自衛隊、第320通信中隊習志野派遣隊の二等陸尉である幸田学だ。時計は午前六時。寝床に鳴り響く起床ラッパは止む気配がない。
「こんな目覚まし、どこで手に入れたんだよ……はぁ」
なり始めた音は、どんどん大きくなる仕組み。これはまずいとため息混じりに目覚まし時計を止め、小さく丸まったかわいい愛妻の寝顔を覗き込む。目を瞑るとなんて幼いんだと、学は目尻を下げた。
お財布よりもカメラが大事。見た目の華やかさよりも、醸し出す雰囲気のある被写体探しに余念のない年下の妻。学が前赴任地で邪気のない真っ直ぐなこの女性に一目惚れしたのが始まりだった。カメラと一緒にどこまでもついていくと、受け入れてくれたプロポーズ。彼女の良さが溢れた返事だった。
「彩花、朝だぞ。起床ラッパ鳴ったぞー」
「うん? 小隊長はかっこいいよ……」
「おい、なんだよその可愛い寝ぼけ方は。マジで勘弁な、朝なのに襲いたくなるんだそ。おーい」
むにゃむにゃと言いそうな可愛い彩花を、学は心を鬼にして引き起こした。昨夜は遅くまで写真整理をしていたのを知っている。だからって平日の寝坊を許しちゃいけない。陸自の男は厳しいんだぞ! と、表情を引き締める。
「起床完了! 洗面されたし! 進め!」
「うわぁっ。あー! また、ラッパ聞きそびれたぁ」
「ずいぶん鳴らしてみたんだけどね。あのまま鳴らし続けたら、全棟大騒ぎだ」
「すみません、明日は頑張ります! 小隊長っ」
「うむ、明日に期待する」
彩花はまだ眠いのか、片目を閉じたまま学に敬礼を済まし、寝室を出て行った。
「さて、俺も準備をするか」
二人の愛の巣は、彩花が撮ったお気に入りの写真でいっぱいだった。中でも彩花のお気に入りは、ある日の学の写真だ。それを大きく伸ばして壁に飾ってある。恥ずかしいからやめてくれ、自分の顔を見ながら眠れないと何度も訴えた。なのに彩花は笑って照れちゃだめだと軽くあしらう。
「だからさ、なんでこんなに引き伸ばすかな……あああっ、マジで勘弁だろ」
通信競技会の時の写真だ。学が小隊を率いて通信確保に疾走し、部下に指示を出している横顔のアップ。汗と土に汚れた頬を彩花が気に入っている。
「正面じゃないだけマシか……」
自衛官たる者、潔く諦めることも肝心である。
身支度を済ませてテーブルにつくと、彩花お手製の和食の朝食が並んでいた。炊きたての白ご飯、お豆腐とワカメの味噌汁、甘めの卵焼き、白菜のお漬物、夕飯の残り物少々が毎朝の定番。なぜ和食なのか? これも彩花のこだわりだ。
「日本人は白ご飯を食べないと力が出ないって、おばあちゃんが言ってた。あとお味噌は体にいいのよ。発酵食品は最強なの」
「でも、彩花。納豆は食べないよな。ここ、納豆が有名な土地じゃなかったっけ?」
「え? そうだっけ?」
惚ける彩花は、実は納豆が苦手だ。スーパーに行ったときにひと目で分かった。自分が住んでいた町とは比べられないくらい、種類が多くてコーナーも広く取ってあった。びっくりしたけれど、見なかったことにしたのを学は気づいていた。
「もしかして納豆、嫌いなのか?」
「嫌いじゃないよ! 食べる習慣がないだけ。学さんが食べたいなら買ってくるよ。うん、今日買ってくる」
「俺もめちゃくちゃ好きってわけじゃないけどさ、たまには食べようかなって」
「うん。うん。了解しました」
いつになく早口で答える彩花に、学は口元を歪める。
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それは、新婚さんの証だから。
「ごちそうさまでした。今日は何をして過ごすんだ? 仕事したかったらしてもいいんだそ?」
学は食べ終わった食器を持ってキッチンに移動した。彩花が作ったら、片付けるのは学の役目。その逆も然り。なんとなく気づけばそんな流れになっていた。
「今日はね、官舎の清掃日なの。それが終わったら、各棟に分かれてお茶会。午後はお買い物行っておしまい。けっこう忙しいよ」
「なんか、ごめんな。官舎住まいなんかさせて」
「どうして? みんなでやるからすぐ終わるし、楽しいよ?」
「いや、ほら。奥様方との付き合い、大変だろ……。主みたいな人が居るって聞くからさ」
「ヌシ? 誰だろ。どっちにしても私は年下だから、難しい問題には巻き込まれないよ。それに、長くても三年くらいで入れ替わるし。学さんは気にしないのっ」
単身ではない家族で暮らす官舎には、独特のコミュニティがあるものだ。まだ何も知らないに等しい彩花にとっては、大した負担にはなっていないらしい。噂によれば、夫の階級がそのままここでも反映されるという。階級と年齢はある程度比例するが、そうはいかないのが自衛官幹部の宿命。新しく着任した若い幹部が、定年間際のベテラン幹部よりも階級が上だったーーなんてこともザラである。曹からの叩き上げか、大学を出て幹部候補生からストレートに上がってきたのか。スタート地点ですら重要なポイントとなる。夫たちの階級は、そのまま妻たちのカースト制度に移行。なんともややこしい社会なのだ。
「ま、今の俺の階級と職務なら大した問題もないだろう。うまいこと乗り切ろうな」
学は、いまいち分かっていない彩花の頭をぽんぽんと撫で、帽子を被って玄関で靴を履いた。
「行ってらっしゃい!」
「うん。行ってくる」
「んっ……」
学はさり気なく彩花の唇を、かすめた。毎日キスしているのに、その瞬間はしおらしい少女になる彩花。
(くそーっ、このギャップがたまんないんだよなぁ)
学は駐屯地まで自転車で通っている。車を買うという案もあったが、買ってもすぐに異動となると面倒だからと諦めた。習志野駐屯地は町の中にあるので不便はない。雨の日は歩いても通える距離だ。
「幸田二尉! おはようございます」
「佐々木二曹、おはよう」
同じ通信中隊の部下だ。
近くには航空自衛隊習志野分屯基地もあり、様々な職種の自衛官がいる。偏っていない分、目立った派閥もない。それに、ここには天下の第1空挺団と、謎多き特殊作戦群も部隊として所属している。周辺住民の理解もあり、自衛隊としては活動しやすい地域だった。
「今日は、恒例の夏祭りの打ち合わせだったな」
彩花が「絶対に見に行くから! てるてる坊主、作らなきゃ!」と大張り切りだった夏のイベントが近づいていた。
◇
朝食後、彩花は洗濯物をベランダに干して、軽く掃除機をかけた。化粧の下地は日焼け止め。今日は官舎周辺の草むしりをするらしい。首にタオルを巻いて、帽子を被り、リュックにスマートフォンと飲み物を放り込んで玄関を出た。
外は恨みたくなるほど快晴だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
春に越してきてまだあまり月日は経っていないけれど、なんとなく同じ棟の住人は分かるようになった。それでも、今回の清掃活動が初めての交流となる。彩花はとにかく笑顔を心がけた。
(ちゃんとしないと学さんに迷惑がかかる。学さんのお仕事の邪魔は絶対にしない)
大丈夫だよ! とは言ったものの、彩花なりに理解しているつもりだ。官舎は妻たちが仕切る陣営なのだ。外で戦う夫たちを迎え労い、そして送り出す場所。隊を乱せば夫の出世に関わる。大袈裟だけど、笑顔の下にはそんな心構えがあったりもする。
「今日は宜しくお願いします」
家族会の会長が簡単に挨拶をして、清掃活動は始まった。会長のご主人はきっと偉い方に違いない。だけど、誰もどこの部隊のどの方など口にしない。彩花が想像していた、高笑いをするボスのような人もいない。噂話で盛り上がる人もいない。みんな落ち着いた人たちばかりだ。
(なんだか、思ってたのと違うね)
そんな時、会長が彩花に声をかけてくる。
「春からいらした、通信中隊の幸田さんよね? もう、慣れたかしら」
「はい! お蔭様で」
(さすが会長。新人の所属と名前をわかってらっしゃる。それに比べ、私ったら!)
「藤崎と、言います。うちの人は傘の方なの。宜しくね」
「傘、ですか?」
彩花は藤崎会長の言う傘に、思わず傘をさす仕草で答えてしまう。
「そう。傘、ふふふ。幸田さんたら、面白い方ね」
彩花は藤崎会長が意図したこを、分かっていないのだと気付かされ、思わず顔を赤くした。
「すみません! わたし、なんの予習もせずに越してきまして。その、ここの駐屯地のことよく分かっていないんです。空挺の方とか特殊作戦群の方が所属しているらしいくらいしか……すみませんっ」
今まで見たことも聞いたこともない部隊が存在する。素敵な写真が撮れるかもしれない! そんな浮かれた考えしかなかったから。
「間違ってないわよ。傘はね、空挺のことよ。落下傘で降りてくるでしょう? たから傘って言ったの。ちゃんとお勉強してるじゃない」
「そうなんですか。ああ、それで傘って」
「いつも送り出すときは無事を祈りながらだけど、本人はなんのそのって具合。そのうち幸田さんも見られると思うわ。降下訓練」
そのうち見られると思う。その言葉を聞いて彩花は、ばあっと満面の笑みをこぼす。何かの映像で見たことがある。大きな輸送機のお尻から、オリーブ色やカーキ色、いろんな配色の迷彩柄の空挺傘が吐き出されるように飛び出してくる。
ポイッ、ポイッと等間隔に降りてくるあれを、見られるチャンスがある!
「是非見たいです! 飛び出す瞬間、降下する姿、着地の瞬間、全部カメラに収めたいです!」
彩花の目は、もう空を見上げてその映像を再生している。そんな彩花の反応に、周りの婦人たちはただにこやかに笑うばかり。
「幸田さんは、カメラをなさるの?」
「はい! それがきっかけで、主人と結婚しました。デートは自衛隊のイベントばかりで、色気とかないんですけど、隊員さんたちの姿を追いかけるのが……好きなんです」
「そう。なかなか、アグレッシブね」
しまった! 呆れられた! そう思ったものの、時すでに遅し。次からは目立たないようにしようと、反省をする。
「すみません」
「あら落ち込まないで。もしかして、うちの主人も撮ってもらえるのかしら。望遠レンズっていうの? あれなら撮れるのかしら」
「撮れますよ! 戦闘機に乗るパイロットさんだって、下から撮れますから」
「そうなの!?」
このあとのお茶会で、彩花の自衛隊イベント撮影秘話で盛り上がったことは、学には内緒だ。
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