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六章 キューピットは見誤る
君には笑っていてほしい
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羽七の心とは反対にとても清々しい朝だった。
久しぶりの我が家はとくに何も変わったことはなく、窓を開けてソファーに座った。そよぐ風がリビングに流れこんで心地いい。
「こんなに狭かったんだ、私の部屋」
羽七が航と暮らし初めておよそ二ヶ月が過ぎた。たまに郵便物の確認には寄っていたものの、こうして腰を下ろすことはなかった。
バッグの中からスマートフォンを出して確認する。何も知らせは入っていない。だからといって、羽七は自分から連絡をする気はなかった。航を信じて待つと決めたからだ。
それなのに悪い事ばかりしか頭に浮かばない。
「そうだ、美術館。あそこに行けば余計な事は考えなくてもいいよね。書は心っておじいちゃんが言ってたなぁ」
羽七は戸締まりをして再び街に出た。
◇
市が運営をしている美術館のため、特別展が行われていても安価で入場ができる。時間も早いため、人も疎らだった。
羽七はスマートフォンの電源を落とし、意識を書に向けることにした。墨で書かれた文字が、命を吹き込まれ今にも飛び出してきそうだ。
【光】という字は太い線が横に広がり、本当に光を射しているように見える。
「わぁ……すごく力強い」
【夢】という字は普通であれば最後の払いは下に向くのに、この作品は煙が天に登るように草冠を飛び越えて上に向かっていた。
【想】の字は心が相という字を包み込むように書かれてあった。相手を心で包み込む、それが想うという事だといいたいのだろう。
【愛】全ての線が太く、最後の払いは終わりに近づくに連れて更に太さを増して行く。最後の最後まで愛は消えないという事だろうか。
人生、一歩、希望、絆、衝動と、どれもその字がその意味を語りかけてくるような躍動感に溢れた作品だった。
そして、奥へ奥へと羽七は導かれる。突き当たりの壁一面に大きな作品がある。その文字はすぐに羽七の目に飛び込んで、羽七の心を激しく震わした。
たった一文字【進】と書かれた字だ。
辶の部分が中盤ガタガタと乱れ、払った先が徐々に細くなり上に跳ね上げられていた。そして、しんにょうの上に乗っている文字が、前に向かって歩いているように見える。平面の紙に書いているのに遠近が現れ、その先へ向かっているのだと訴えていた。
「この字、前に進んでる!」
羽七はそう口にせずにはいられなかった。どんな困難に当たろうとも、絶対に後退しないという強い意志を感じだ。前のめりな進むという時に羽七は感動したのだ。
「くくくっ。確かに進んでいるな」
「えっ⁉︎」
羽七が振り返ると、そこにはなんと沢柳が立っていた。
いつもキッチリとスーツを着こなしている彼も休日は違った。白いシャツの上に紺色のパーカー、カーキ色のスリムなカーゴパンツを穿き、どこから見ても普通の若者だった。
(メガネ、していない!)
「沢柳さん?」
「なぜ、疑問形なんだ」
「だってその格好、まるで別人ですよ」
「仕事じゃないからな。佐藤は一人か?」
「はい」
なぜ一人なのかとは聞かれなかったことに、羽七はほっとしていた。沢柳は月に一度のペースで美術館を訪れているそうだ。
「私、祖父の勧めで書道もやっていたんです。今回は好きな書道家さんだったので来ました」
「書も嗜んでいたのか」
「大したことはないですよ。集中力を高めるにはこれが一番鍛えられるんです」
「分かる気がする」
書は遥か昔、中国大陸から日本に伝わったとされる。日本人が石槍で狩りをしていた頃、中国では既に文字が存在していたのだ。戦の知らせや交渉は全て文として、大陸を駆けていた。
「言葉を伝える手段の文字がこの方の手にかかると、表情までも伝わって来る気がして」
「そうだな。生きているみたいだ」
羽七と沢柳はしばらくその【進】という作品を眺めた。
◇
沢柳が時計に目をやったのを見て、羽七ははっとした。作品に夢中になりすぎて、いつの間にか昼近くになっていたのだ。
「この後の予定はなにかあるのか?」
「特には、ありませんけど」
「ランチを付き合ってもらえないか」
「え、でも……」
「どうしても行ってみたい店があったんだが、一人では入り辛くてな。駄目だろうか」
「ランチだけなら」
「助かる」
羽七はスマートフォンの電源を入れてみたものの、航からの連絡は無かった。胸が痛んだ。
(航さん……)
沢柳は車で来ているらしく、二人は駐車場に向かった。意外だったのは沢柳の車だ。見かけによらず黒のスポーツカーだったのだ。
「ええっ、もしかして沢柳さんて走り屋ですか⁉︎」
「そんなガラの悪いものではない」
沢柳は少しムッとする。
「この86は上品に峠を攻める」
羽七は人は見かけによらないものと実体験をした気分だった。航もそうだが、男はみんな内に秘めた熱いものを隠し持っているのかもしれない。
羽七が沢柳と入った店は洋食で、オムライスやスパゲッティなど定番のメニューがたくさんあった。木造建ての可愛らしい造りで、確かに男性が一人で入るには勇気がいりそうだ。
しかも、それを裏付けるようにウェイトレスのエプロンは真っ白のヒラヒラしたメイド服だった。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「いや、俺の方こそ有難う」
羽七は沢柳が最寄り駅まで送ってくれると言うので、その好意に甘える事にした。今日は帰ったら部屋に引き籠ろうと決めていた。
「駅まで送ってもらってありがとうございました」
「なあ、佐藤」
「はい?」
「君はもっと、わがままになっていいと思うんだが」
「えっ?」
「我慢をするのは簡単だ。しかしその我慢に慣れてしまうと、ここぞと言う時に一歩が出せなくなる。前に進めなくなるぞ」
(我慢に慣れたら前に進めない?)
「何か一つを守りたい、譲れないというものがあるのなら、誰かに嫌われてでもそれを手放してはならないと思う」
「あの、それって」
「君はあの書のように、前のめりにがむしゃらであるべきだ」
「沢柳さん」
「事情は分からないが、今の君はあの男に飢えているように見える」
(私が飢えている? 航さんに? たしかにあの温かな笑顔に、大きな手に、逞しい胸に、優しい心に触れたい。会いたい!)
「ありがとうございます! わたし、行きます!」
「ああ。君に笑顔が戻ることを祈る」
羽七は車から降りると沢柳に頭を下げ、駅の改札を走り抜けた。待っているだけではダメだと思い直す。
(航さん、どこにいるの⁉︎ 私が迎えに行きます!)
今日ほど電車が遅いと感じた事はない。もっと速く走って欲しい。いっその事、このままどの駅にも止まらずにいってほしい。
羽七はドアの前に立ち、流れる景色を瞬きするのも忘れ見ていた。羽七が見ていた景色は、航の笑顔だ。
「羽七」
耳の奥で航の声が木霊した。羽七は「航さん!」心の中で何度も叫ぶ。
(速く、もっと速く、あなたのところへ――)
羽七は電車のドアが開くのと同時に飛び出した。改札を抜け、航のマンションに向かって走った。
羽七の姿に見知らぬ人が振り向いたり、小さな子供が指を差す。
羽七にはそんな人たちのことなんてどうでもよかった。ただ、もっと速くと足を動かしたいだけだ。
エントランスにつくとドアを解錠し、エレベーターに乗る。エレベーターから降りると廊下を走り部屋の鍵を開けリビングに駆け込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
航はまだ帰っていなかった。
羽七はすぐにスマートフォンの電話帳から航の名をタップした。
―― ププッ、ププッ……
『ただ今、お繋ぎできません。しばらく経ってからお掛け直しください』
「航さん。どうしたの?」
羽七はどうしたらいいのか分からなくなった。自分を落ち着かせるように目を閉じて深呼吸をする。
羽七はバッグから名刺入れを取り出して、記載されてある携帯番号に電話をした。
藤本美咲の番号だ。
『ただ今電話に出ることが出来ません』
「もうっ!」
羽七の苛立ちはピークに達した。その勢いのまま、最後の頼みの綱とも言える人物に電話をかける。
『羽七か。なんだ休みの日に』
「すみません。人を探しています!」
『人?……まさか、帰ってないのか』
「はい」
『ちっ。会社の近くの駅まで来い』
もう他に手がなかった。羽七は安藤に電話をかけていた。安藤が知らなければどうにもならない。プライドなんて要らないと思った。ブザマだと思われてもいいと思った。ただ、航を取り戻したかった。
羽七は再びマンションを飛び出した。
◇
羽七の切迫詰まった声を初めて聞いた安藤は大学の後輩に電話をかけた。彼なら簡単に情報を掴めるだろうからだ。
「休みの日に悪いな。調べて欲しい事がある。なんだ知っているのか……なるほどな。分かった。ああ、よろしく頼む」
あのバカは一人で何とかしようとしがって。何かあったら言えって言ったんだがな。羽七の事となると本当にどうしょうもねえやつだな。
いや、バカは原田に限った事ではないか。現に俺だって、バカだろ。今が奪うチャンスなんじゃないのかよ。
「はぁ……俺はこんなんだったか?」
安藤の後輩がいうには、航と藤本美咲は若いころに付き合っていた。10年ぶりの再開がこの前の取材だったのだろう。おそらく藤本から先に何らかのアクションをした。しかし、航はそれを拒絶した。
問題はその後だった。ホテルのバーを出た時に、写真を撮られてしまう。藤本美咲は今や世間では人気のアナウンサーである。フリーになってからはパパラッチもどきに追われていたらしい。
今回の案件はいわゆる、スキャンダルだった。
航は羽七を巻き込みたくなくて、藤本が所属する事務所に単独で乗り込んだというわけだ。
「本当にバカだな、あいつ」
そして、再び安藤に後輩から電話がかかる。
「ああそうか、分かった」
安藤は駅で羽七を拾ってそこに自分達も乗り込むしかないと思っていた。羽七にはいつも笑っていてほしいと思っている。例えそれが自分のためでなくとも。
安藤は車の鍵を握り、マンションの駐車場に向かった。部下であり、可愛い妹のような憎めない愛おしい女のために。
「ひと肌脱ぐか」
久しぶりの我が家はとくに何も変わったことはなく、窓を開けてソファーに座った。そよぐ風がリビングに流れこんで心地いい。
「こんなに狭かったんだ、私の部屋」
羽七が航と暮らし初めておよそ二ヶ月が過ぎた。たまに郵便物の確認には寄っていたものの、こうして腰を下ろすことはなかった。
バッグの中からスマートフォンを出して確認する。何も知らせは入っていない。だからといって、羽七は自分から連絡をする気はなかった。航を信じて待つと決めたからだ。
それなのに悪い事ばかりしか頭に浮かばない。
「そうだ、美術館。あそこに行けば余計な事は考えなくてもいいよね。書は心っておじいちゃんが言ってたなぁ」
羽七は戸締まりをして再び街に出た。
◇
市が運営をしている美術館のため、特別展が行われていても安価で入場ができる。時間も早いため、人も疎らだった。
羽七はスマートフォンの電源を落とし、意識を書に向けることにした。墨で書かれた文字が、命を吹き込まれ今にも飛び出してきそうだ。
【光】という字は太い線が横に広がり、本当に光を射しているように見える。
「わぁ……すごく力強い」
【夢】という字は普通であれば最後の払いは下に向くのに、この作品は煙が天に登るように草冠を飛び越えて上に向かっていた。
【想】の字は心が相という字を包み込むように書かれてあった。相手を心で包み込む、それが想うという事だといいたいのだろう。
【愛】全ての線が太く、最後の払いは終わりに近づくに連れて更に太さを増して行く。最後の最後まで愛は消えないという事だろうか。
人生、一歩、希望、絆、衝動と、どれもその字がその意味を語りかけてくるような躍動感に溢れた作品だった。
そして、奥へ奥へと羽七は導かれる。突き当たりの壁一面に大きな作品がある。その文字はすぐに羽七の目に飛び込んで、羽七の心を激しく震わした。
たった一文字【進】と書かれた字だ。
辶の部分が中盤ガタガタと乱れ、払った先が徐々に細くなり上に跳ね上げられていた。そして、しんにょうの上に乗っている文字が、前に向かって歩いているように見える。平面の紙に書いているのに遠近が現れ、その先へ向かっているのだと訴えていた。
「この字、前に進んでる!」
羽七はそう口にせずにはいられなかった。どんな困難に当たろうとも、絶対に後退しないという強い意志を感じだ。前のめりな進むという時に羽七は感動したのだ。
「くくくっ。確かに進んでいるな」
「えっ⁉︎」
羽七が振り返ると、そこにはなんと沢柳が立っていた。
いつもキッチリとスーツを着こなしている彼も休日は違った。白いシャツの上に紺色のパーカー、カーキ色のスリムなカーゴパンツを穿き、どこから見ても普通の若者だった。
(メガネ、していない!)
「沢柳さん?」
「なぜ、疑問形なんだ」
「だってその格好、まるで別人ですよ」
「仕事じゃないからな。佐藤は一人か?」
「はい」
なぜ一人なのかとは聞かれなかったことに、羽七はほっとしていた。沢柳は月に一度のペースで美術館を訪れているそうだ。
「私、祖父の勧めで書道もやっていたんです。今回は好きな書道家さんだったので来ました」
「書も嗜んでいたのか」
「大したことはないですよ。集中力を高めるにはこれが一番鍛えられるんです」
「分かる気がする」
書は遥か昔、中国大陸から日本に伝わったとされる。日本人が石槍で狩りをしていた頃、中国では既に文字が存在していたのだ。戦の知らせや交渉は全て文として、大陸を駆けていた。
「言葉を伝える手段の文字がこの方の手にかかると、表情までも伝わって来る気がして」
「そうだな。生きているみたいだ」
羽七と沢柳はしばらくその【進】という作品を眺めた。
◇
沢柳が時計に目をやったのを見て、羽七ははっとした。作品に夢中になりすぎて、いつの間にか昼近くになっていたのだ。
「この後の予定はなにかあるのか?」
「特には、ありませんけど」
「ランチを付き合ってもらえないか」
「え、でも……」
「どうしても行ってみたい店があったんだが、一人では入り辛くてな。駄目だろうか」
「ランチだけなら」
「助かる」
羽七はスマートフォンの電源を入れてみたものの、航からの連絡は無かった。胸が痛んだ。
(航さん……)
沢柳は車で来ているらしく、二人は駐車場に向かった。意外だったのは沢柳の車だ。見かけによらず黒のスポーツカーだったのだ。
「ええっ、もしかして沢柳さんて走り屋ですか⁉︎」
「そんなガラの悪いものではない」
沢柳は少しムッとする。
「この86は上品に峠を攻める」
羽七は人は見かけによらないものと実体験をした気分だった。航もそうだが、男はみんな内に秘めた熱いものを隠し持っているのかもしれない。
羽七が沢柳と入った店は洋食で、オムライスやスパゲッティなど定番のメニューがたくさんあった。木造建ての可愛らしい造りで、確かに男性が一人で入るには勇気がいりそうだ。
しかも、それを裏付けるようにウェイトレスのエプロンは真っ白のヒラヒラしたメイド服だった。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「いや、俺の方こそ有難う」
羽七は沢柳が最寄り駅まで送ってくれると言うので、その好意に甘える事にした。今日は帰ったら部屋に引き籠ろうと決めていた。
「駅まで送ってもらってありがとうございました」
「なあ、佐藤」
「はい?」
「君はもっと、わがままになっていいと思うんだが」
「えっ?」
「我慢をするのは簡単だ。しかしその我慢に慣れてしまうと、ここぞと言う時に一歩が出せなくなる。前に進めなくなるぞ」
(我慢に慣れたら前に進めない?)
「何か一つを守りたい、譲れないというものがあるのなら、誰かに嫌われてでもそれを手放してはならないと思う」
「あの、それって」
「君はあの書のように、前のめりにがむしゃらであるべきだ」
「沢柳さん」
「事情は分からないが、今の君はあの男に飢えているように見える」
(私が飢えている? 航さんに? たしかにあの温かな笑顔に、大きな手に、逞しい胸に、優しい心に触れたい。会いたい!)
「ありがとうございます! わたし、行きます!」
「ああ。君に笑顔が戻ることを祈る」
羽七は車から降りると沢柳に頭を下げ、駅の改札を走り抜けた。待っているだけではダメだと思い直す。
(航さん、どこにいるの⁉︎ 私が迎えに行きます!)
今日ほど電車が遅いと感じた事はない。もっと速く走って欲しい。いっその事、このままどの駅にも止まらずにいってほしい。
羽七はドアの前に立ち、流れる景色を瞬きするのも忘れ見ていた。羽七が見ていた景色は、航の笑顔だ。
「羽七」
耳の奥で航の声が木霊した。羽七は「航さん!」心の中で何度も叫ぶ。
(速く、もっと速く、あなたのところへ――)
羽七は電車のドアが開くのと同時に飛び出した。改札を抜け、航のマンションに向かって走った。
羽七の姿に見知らぬ人が振り向いたり、小さな子供が指を差す。
羽七にはそんな人たちのことなんてどうでもよかった。ただ、もっと速くと足を動かしたいだけだ。
エントランスにつくとドアを解錠し、エレベーターに乗る。エレベーターから降りると廊下を走り部屋の鍵を開けリビングに駆け込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
航はまだ帰っていなかった。
羽七はすぐにスマートフォンの電話帳から航の名をタップした。
―― ププッ、ププッ……
『ただ今、お繋ぎできません。しばらく経ってからお掛け直しください』
「航さん。どうしたの?」
羽七はどうしたらいいのか分からなくなった。自分を落ち着かせるように目を閉じて深呼吸をする。
羽七はバッグから名刺入れを取り出して、記載されてある携帯番号に電話をした。
藤本美咲の番号だ。
『ただ今電話に出ることが出来ません』
「もうっ!」
羽七の苛立ちはピークに達した。その勢いのまま、最後の頼みの綱とも言える人物に電話をかける。
『羽七か。なんだ休みの日に』
「すみません。人を探しています!」
『人?……まさか、帰ってないのか』
「はい」
『ちっ。会社の近くの駅まで来い』
もう他に手がなかった。羽七は安藤に電話をかけていた。安藤が知らなければどうにもならない。プライドなんて要らないと思った。ブザマだと思われてもいいと思った。ただ、航を取り戻したかった。
羽七は再びマンションを飛び出した。
◇
羽七の切迫詰まった声を初めて聞いた安藤は大学の後輩に電話をかけた。彼なら簡単に情報を掴めるだろうからだ。
「休みの日に悪いな。調べて欲しい事がある。なんだ知っているのか……なるほどな。分かった。ああ、よろしく頼む」
あのバカは一人で何とかしようとしがって。何かあったら言えって言ったんだがな。羽七の事となると本当にどうしょうもねえやつだな。
いや、バカは原田に限った事ではないか。現に俺だって、バカだろ。今が奪うチャンスなんじゃないのかよ。
「はぁ……俺はこんなんだったか?」
安藤の後輩がいうには、航と藤本美咲は若いころに付き合っていた。10年ぶりの再開がこの前の取材だったのだろう。おそらく藤本から先に何らかのアクションをした。しかし、航はそれを拒絶した。
問題はその後だった。ホテルのバーを出た時に、写真を撮られてしまう。藤本美咲は今や世間では人気のアナウンサーである。フリーになってからはパパラッチもどきに追われていたらしい。
今回の案件はいわゆる、スキャンダルだった。
航は羽七を巻き込みたくなくて、藤本が所属する事務所に単独で乗り込んだというわけだ。
「本当にバカだな、あいつ」
そして、再び安藤に後輩から電話がかかる。
「ああそうか、分かった」
安藤は駅で羽七を拾ってそこに自分達も乗り込むしかないと思っていた。羽七にはいつも笑っていてほしいと思っている。例えそれが自分のためでなくとも。
安藤は車の鍵を握り、マンションの駐車場に向かった。部下であり、可愛い妹のような憎めない愛おしい女のために。
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