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五章 キューピットは期待する

本当の、俺

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 羽七はロジスティクスの事務所を出て航が来るのを待った。
 来週からここで働くのかと思うと、新しいことへの期待と経験のない世界への不安が入り混じり複雑な気持ちになる。しかも、直属の上司が安藤らしく気が抜けない予感がするのだ。

 羽七は深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

―― ふうぅ……

 引き継ぎで追われたこのひと月を振り返るだけで、何かを無性に発散したくてうずうずする。羽七にもストレスというものが溜まっているらしい。

「羽七! お待たせ」

 玄関の前に航が私車をつけた。
 航の車はGT-Rというスポーツタイプの赤い車だ。

(この車、走るんだろうなぁ。アクセル踏み込んでみたいなぁ……なんてね)

 羽七も普通車の運転免許を持っている。しかし、一人暮らしの上、この街の便利な交通公共機関のおかげで車を必要としていない。羽七はしばらくハンドルを握っていないのだ。

(無理だ。ペーパードライバーに近いもの、わたし)

 羽七は助手席に座りながらそんなことを考えていた。

「どうした?」
「ううん。この車、スピード出そうだなって思っただけ」
「まあ、これはそういう造りだからな。もしかして、走りたいのか」
「まさか、ちょっと思っただけだよ」

 羽七がシートベルトを締め終わったころ、航が真顔で羽七にこう言った。

「今夜は攻めるか」

 驚く羽七と何かを企む航の視線がぶつかった。羽七が問い返す間もなく車はエンジンを噴かしながら発車した。
 羽七の体に軽くGがかかってシートに背中が沈む。

(どうしたの⁉︎ いつも静かで、丁寧なハンドル捌きをするのに!)

 とはいえ航は交通違反をしているわけではなさそうだ。街の中ではスピードメーターも特に変わりなく、法定速度内である。しかし、少しだけ動きが野性的に感じる。停止するときも、走り出す時もいつも航が運転する車ではないかのよう。

「羽七、ちょっと郊外に出るぞ」
「はい」

 航の車は街を抜け国道を走り、しばらくすると湖が広がる国定公園にさしかかった。
 あたりにはもう人も車もない。
 航は無言のままヘッドライトをハイビームに切り替えてカーブを攻め始めた。初めは驚いていた羽七も、体にかかるGがすっかり心地よくなる。
 直線に入ると、車体が伸びるように加速した。

(うわー! 滑走路を走っている見たい!)

「航さん! 離陸しそうっ」
「ははっ。楽しそうだな」

 羽七は興奮していた。夜の暗闇をビュンビュン切り裂いて、いつか車体が浮いてしまうのではないかと想像するくらいに。そこに恐怖はない。航のドライブテクニックを完全に信頼しているから。

 これは羽七にとって非日常だ。

 湖畔を一周し終えたところで、公園の駐車場に車は止まった。ライトも落とし、先ほどとは打って変わって静寂が訪れた。

「真っ暗だね」
「怖いくらいに静かだろ? でも、嫌なことや不安はこの闇に吸い込まれてなくなるんだ」
「え、航さんよく来るの?」
「最近は来てないな。羽七と付き合い始めてからは、初めて来た」

 航は何かあるとここに来て、自分を落ち着かせていたのだ。ひとりシートに体を預け、静まり返る暗闇に身を任せる。

「意外だったな」
「そうか?」
「車をあんな風に走らせるのも、一人でこんな静かなところに来るのも」
「ははっ、意外か。まあ、そうだな。星が好きなのも男らしくないしな」
「そんなことないよ! 男らしいよ。普段は落ち込んだ姿を見せないようにしてさ。誰にも気づかれないように、こうやって一人で発散させていたんでしょう? 男らしいと思う」

 羽七がそう言うと、航は照れながら頭をかいた。

「参ったな」

 羽七が見る航の普段の印象は温厚で明るい、みんなから好かれる頼もしい人だ。

「羽七、少し風にあたろう」
「うん」

 車から降りて駐車場の階段を上ると、淡い光を放つ月が現れた。目の前に広がる湖にその月が姿を映す。

「羽七。不安だらけだろうけど大丈夫だ。自分を信じろよ。俺も近くにいるし何かあったら言ってくれ。それから安藤さんだけど、あの人は間違いないから。あの人との仕事は勉強になる」
「うん、分かった。がんばるよ」

 航は羽七を抱き寄せて「惚れんなよ」と囁く。航は安藤に惚れるなと言っているのだ。

「えっ、まさか安藤主任に?」
「ああ」

 航の羽七の腰に回した腕に力が入る。

「まさかっ、あり得ないよ。私は航さんだけだよ?」
「分かってるけどさ」
「不安、なの?」

 安藤は上司として間違いないと言っておきながら、羽七が惚れてしまうのではないかと心配をしている。
 航は不安なのだ。

「航さんっ! わたし、嬉しいかも」
「ああ?」
「ふふふっ」
「いや、笑い事じゃないし」
「だってわたしが、航さんをそんな気持ちにさせるなんて、青天の霹靂!」

 喜ぶ羽七とは反対に航は呆れ顔で溜息をつく。
 羽七にとって自分は、どこにでもいる平凡な人間だ。それを航は、羽七が安藤に惚れて自分から離れるのではないかと不安がっているのだから驚いた。

「ねえ、航さん。航さんよりわたしの方がずっと不安だよ? だって、航さんはモテるから……」

 不意に羽七の中にも不安が込み上げてきて、俯いてしまう。今の状態はまるで奇跡なのだから。

 すると航は突然、羽七の唇を激しく奪った。

(えっ、な、なに!)







 羽七は自分に男を引きつける魅力あることに全く気付いていない。そこが羽七らしいといえばそうなのだろう。航にとって目下の悩みのタネである。
 自分は普通だといい、普通であることを卑下するところがある。しかし、いつも普通でいることは案外難しい事なのだと航は思っている。

『わたしの方がずっと不安だよ? 航さんはモテるから』

 羽七の顔が曇ってしまったのを見た航は、なぜか我慢できずに羽七の唇に激しく食いついていた。

「んんっ」

 羽七は何度も航とキスをしているのに、息継ぎが下手なままだ。どこかで一度に息を吸おうとするから、溺れたように航の腕の中で喘ぐ。

(俺に溺れてしまえよ……)

「ふはっ、はぁ、はぁ」

 羽七が航の洋服の袖を握り、離されないように掴まっている姿に航はいつも切なくなる。同時に、男としての劣情が込み上げてくる。

(羽七はなんでも一生懸命なんだよ。あぁ、このまま脱がしてしまいたい。俺を羽七の中に今すぐ埋めたい!)

「俺、狂ったな」

 航にとって、こんなにペースを乱されたのは羽七が初めてだった。
 今まではスマートな男を演じてさえいれば喜んでもらえたのだ。洒落たレストラン、ホテル、映画、夕日の中のドライブ。ジャズやR&Bをかけて外国車で走る。そうすれさえすれば、満足してもらえた。

(けど、それは……本当の俺じゃない)

 いつもどこかで、偽物の自分を演じていたことに違和感があった。

(俺はもっと野性的だ。暗闇で目だけギラつかせて、惚れた女を泣かせながら突きまくりたい。でも、そんな事をすれば小柄な羽七は壊れてしまう)

「航さん。どうか、した?」
「何でもない。よし、もう一周するか」
「うん!」

 航はカーステレオのスイッチを入れた。
 エイトビートのリズムが重低音で流れ始める。その曲を聴いた羽七は航の顔を見た。まるで「意外っ」とでも言いそうな目つきだ。
 羽七は溢れそうなほどの満面の笑顔でこう言った。

「これ、好き! この歌、めちゃくちゃ好き!」
「この歌に負けないように見せてやる。しっかり掴まっとけよ」

 航も羽七がこの歌を知っていることに驚きを隠せなかった。それこそ意外だと。しかも隣で口ずさみながら、ときどき航の顔を見る。
 
 その姿に航は胸を熱く焦がした。
 羽七は航に「貴方はこうであるべき。こうするべき。そんなかっこう似合わない」という押し付けを一切しない。だから一緒にいて心地良い。だから離したくないんだと航は確信した。

 航はアクセルを踏み込んで加速した。このままどこかに突っ込んでもいいくらいの勢いで。

(ああ、本当の俺が目を覚ましたがっている。それでも羽七は、笑いながら受け入れてくれるのか?)

「私ね、この人たちの曲は全部好き! 特にロック調のやつ。もしかして、いろいろ入ってる?」
「マジ? 一応、シングルコレクションが入ってる」
「ああ! これもイイね。航さんっぽい」
「俺っぽい、のか?」
「うん。野性的なところが、ふふふっ」

 羽七はきっと、どんな航でも貴方らしいと受け入れるのだろう。航はもう遠慮なんかしないと、決心した。

「羽七、飯食ったらその辺のホテルに泊まるぞ」
「えっ!」
「ラブホしかないかもしれないけどな」
「航さんとなら、どこでもいいよ」
「じゃあ、決まりだ」

 





 航と羽七は夕飯を適当にファミレスで済ませ、見た感じ新しそうなホテルに車を滑り込ませる。金曜の夜ともなると混んでいるのではないかと構えたが、空室があったのでほっとする。
 チェックインを済ませると雪崩込むように二人は部屋に入った。

 羽七は航の急かすような行動に一瞬ためらう。

「航さんっ、あの、シャワーは浴びさせて? お願い!」
「いいよ。でも、俺も一緒だ」
「えっ、ええっ!」

(もう俺、止められねえんだよ)

 とにかく今の航は自分の感情、昂りを抑えられなくなっていた。手当たり次第に羽七が身につけている物を剥ぎ取り、自分も破りそうな勢いで服を脱ぎ捨てた。
 広い浴室に足を踏み入れると熱いお湯を出す。そして、互いの身体にシャワーを適当に当てると、すぐに羽七の身体を貪り始めた。

「あ、やっ、航さんっ」
「羽七、悪いけど止められないんだ。明日は何でも言うこと聞くから許してくれ!」
「え、えっ?」

 羽七はこんなにせっかちな航を見たのは初めてだった。航自身もこんなに制御不能なのは初めてなのだ。

「あふっ、ああん!」

 航は羽七の手をバスタブのふちに置き、後ろから胸を弄り下腹を撫で回したあと、秘所を指で暴いた。よがる羽七の姿も野生そのものだった。

(もしかしたら羽七も俺と同じかもしれない)

「ごめん、ここで一回出していいか? すげぇ痛いんだ。ガチガチでさ」
「そ、外で出してくれるなら……」
「羽七。俺絶対に大切にするから、絶対に」
「あ、待って! 後ろからはダメ、嫌なの」

 羽七は航に外で出すならそのままの航を受け入れてもいいと言った。しかし、バックは嫌と言う。
 嫌と言う羽七に無理強いだけはしたくない。

「なんで」

 けれど、どうしてもぶっきらぼうに聞いてしまう。それくらい航には余裕が欠けていた。

「痛い、から。後ろからは痛くて、苦しくて、よくないのっ」
「試すのも嫌か」
「今日の航さんではダメ」

(確かに羽七の言う通りだ。今の俺は止められないし、危険だ)

 辛うじて、羽七を想う理性が勝った。

「分かった。また、今度だな」



 大事にしたいのに、めちゃくちゃにしたい。優しくかわいがりたいのに、酷く泣かせたい。航の中に眠る本当の俺が外に出たいと暴れている。

「羽七、羽七」

 羽七の名前を口にしないと狂いそうだった。今日を境に嫌われるかもしれないのに、それでも止められそうにない。好きが大きくなりすぎた航は、自分の感情をコントロールできなくなっていた。

「わたる、さん……」
「羽七っ! ごめん!」

 大きな波に呑まれていく。羽七はそれを受け止めてくれるだろうか。

「航さん、好き、だからっ。好きだよ……あ、ああっ!」

 羽七の声が航の心に沁み込んだ。
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