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四章 キューピットのトライアル

旅行ーもうひとつの彼の顔ー

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 羽七にとって待ちに待った週末がやってきた。慌ただしく過ぎた一週間だったせいもあり、どこに旅行に行くのかを聞き忘れている。

(準備しないと!)

 ようやく仕事が終わり、会社を出たところで羽七のスマートフォンが鳴った。

『もしもし』
『羽七、仕事終わった? 飯、行こう』

 絶妙なタイミングでの電話に羽七はにやけてしまう。明日からの旅行の打ち合わせに違いない。

 駅前のロータリーに出ると航の車が停まっている。ハンドルに腕を預けてぼんやり前を見ている彼の姿に羽七はときめいた。
 暑いのだろうか、シャツを腕までまくっている。そして、離れたところからでも航の筋肉の盛り上がりが見えてしまう。なんて男らしい姿だろうか。

「お疲れ様。お待たせしました」
「おう、お疲れ」

(はぁ……この瞬間はいつもほっこりするなぁ。癒やされてるよなぁ、わたし)

 夕飯は【小春】で済まし、羽七は航にマンションまで送ってもらった。出発が少し早いということで、羽七は航の家に泊まることになったのだ。羽七は航が車にガソリンを入れてくる間に荷造りをする。もうウキウキがとまらない。

(航さんと初めての旅行! 楽しみー)






 翌朝。


「羽七、はーなっ」
「んー、うんっ」
「はーなっ。起きろっ」
「ん、ひやっ」

(え! なに今の。首に何かあたった! あ、航さん)

「起きないと、ここに印つけるぞ」
「ああっ、ダメダメっ。起きます! 起きまーす」

 旅行前夜に航の部屋に泊まったのをすっかり忘れてていた羽七。忘れてしまうほど、航に気を許してしまっている。航の隣はあまりにも心地よく、朝まで熟睡してしまったのだ。正直に言うと、もう少し寝ていたかった。
 羽七は急いで起き上がり顔を洗って歯を磨く。そのままの勢いでお化粧も済ませた。20分程度で全てが完了するのだから、羽七はやればできる子なのだ。

「羽七、朝飯できたぞ」

 時計は午前7時。テーブルにお味噌汁とおにぎりが並んでいる。そのおにぎりは羽七が作るサイズの倍はあるだろうか。豪快さがみなぎっていた。

「え! 航さんが作ったの⁉︎ ありがとう。すごいよー」
「すごくはねえよ。さっと食って行くぞ」

 航は照れているのか、朝食を褒められたのにぶっきらぼうに返事をする。大きな口で食いつくその姿を見て羽七は頬を緩めた。

(目を合わさない所が、かわいい!)

 それにしても、カジュアルスタイルの航はかっこよかった。サングラスをかけてハンドルを握る航は、まるで車のコマーシャルに出てきそうなほどいけている。羽七は心の中で歓喜した。

(ああ! 太陽さんありがとう。彼が素敵すぎて鼻血吹きそうです……ありがとう)

「羽七? 顔がニヤけてる。なに?」
「やだっ! 聞かないで、恥ずかしいっじゃん」
「え……?」

 何を言っているのだと、首を傾げるその姿でさえ羽七にとってはご褒美だった。

(もう! もう! もう! なにそれ、萌え死にしそーうっ)

 航はそんな羽七を見ても、「羽七は表現が豊かだな」と笑ってくれる。航の形の良い薄い唇がサングラスの下で弧を描くと、羽七はまたもや悶えるのだ。
 羽七はウィンドウを少し下げ、外の景色を見る振りしをして火照った顔を冷ました。





 高速道路を走り、目的のインターチェンジで降りると、ナビが案内を始めた。

「あれ? バイパスができてんじゃん。なんだ」
「うん?」
「羽七。思ってたより早く着きそうだ」
「そうなんだ。前に来たことあるの?」
「大学の時に合宿で毎年夏に来てたんだ。何にもない田舎だったんだけどさ、大きな道の駅もあるみたいでずいぶん栄えてきたな」
「へえ、大学時代の思い出の場所かぁ。いいね」

 少し早いお昼ご飯を、その道の駅でとった。県外ナンバーの車が多く、航が言っていたように観光産業が発展して賑わっている。
 それでも都会とは違い、あたりは自然が見渡せる。二人は再び車に乗って、さらに山間やまあいに向けて走った。
 ウィンドウを少し開けると街とは違う、澄んだ空気が入ってくる。羽七はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。

「はぁー、いい匂いぃ」
「ここよりもっと上手い空気が吸えるぞ」
「楽しみ」

 到着した場所は、航が大学時代に世話になった人が経営しているコテージだった。コテージと言ってもホテルとシステムは同じだ。チェックインを済ませると、夕食までの時間は自由。

「わぁぁ。いいの! こんな所を二人で占領しちゃって。贅沢じゃない?」
「一戸建てだもんな」

 木造の二階建てのコテージは一階がリビングスペース、二階がベッドルームになっている。

「航さん! 来て、来てっ。三角の出窓があるよ!」
「おっ、いいな。ここから星が見えるんじゃないか?」
「ええっ、想像しただけで泣きそう」
「まだ泣くなよ?」

(わたし、興奮しすぎて倒れるかもしれない)

 彼と二人で初めてのお泊まり旅行。それだけで気持ちは上昇するのに、自然の中にあるきれいなコテージに泊まれるのだ。テンションが上がりすぎるのも仕方がない。

「羽七」
「はいっ、やんっ」

 落ち着きのない羽七に航が後ろから抱きついて、細い首筋にキスをした。

「羽七、声がエロいって」
「やだ、エロいなんて言わないでよ」

 航が鼻先をスンスンと音を立てながら、羽七の首筋をたどる。羽七は先ほどのキスですでに興奮は冷め、今度は違うスイッチが入りそうになっていた。

「や、におっちゃいや、んっ。うはっ、擽ったい」
「興奮した羽七を落ち着かせてんだよ」
「あっ、ちょっと。それ、逆効果だからっ」
「そうか? さてっと、いつまでも羽七といちゃついてたいんだが、行くしかないか」
「え? どこに行くの?」
「コテージ安くしてもらった代わりに、中学生に稽古つけてやる約束したんだ。二時間位だけどいいかな?」

 そういえば、航は一泊とは思えないような荷物を持っていた。その荷物が稽古をつけるためのものだったらしい。

「稽古? 稽古って、柔道!」
「そういうこと」
「わたし、見たかったの! 航さんが柔道するところ!」

(なんて素敵な日なんだろう)







 羽七と航は再び車に乗って、町の道場にやってきた。羽七は武道場に入った事がなかったので、航の後ろを失礼のないよう黙ってついていく。

「こんにちはーっ!」

 航が現れると中学生の声が室内に響いた。
 航は「おう!」と手を上げ返事をすると、道場のかみてにある国旗に向かって深く頭を下げた。武道は礼に始まって礼に終わるという。羽七もグラウンドを出入りするときは頭を下げていた。

「宜しくお願いします」

 羽七も挨拶をして、航にならって頭を下げた。航はそんな羽七を目を細めて見つめた。

「俺、着替えてくるからその辺で待ってて」
「はい」

 羽七は稽古をしている彼らの邪魔にならないよう、畳の外に正座して練習風景を見ていた。神聖な雰囲気に自然と背筋が伸びる。

(スカートで来なくてよかった)

 中学生とは聞いていたけれど、大人と変わらない体型をしている。ここで稽古をしている彼らは選ばれた人材かもしれないと羽七は感じていた。

 そんなことを考えていると、着替えが終わった航が出てきてストレッチを始めた。
 白の道着に黒の帯、左上腕に有名なスポーツメーカーの刺繍が入っていた。帯の端と道着の背中には原田の刺繍が入っている。

 羽七は航の姿を見て息を呑んだ。なぜかって、あまりにも素敵すぎたのだ。
 航は上半身の解しが終わったのか、今度は脚を広げて股割りを始めた。股関節のストレッチだ。膝に手を置き肩を交互に内側に入れる。それが終わると今度は座って開脚をし、上体を前に倒す。しかも上半身はベッタリと畳についている。

(柔らかいっー。すごいよ、わたしはあそこまでならないよ)

 羽七は航に釘付けだった。目を離したくても離すことができない。航のする全ての動きを見逃したくなかったからだ。

「羽七? どうした。ぽかーんって口開けて」
「あわっ、わわっ、わたるさん」
「うん?」

 ぼんやり見つめる羽七の視線が気になったのか、航は羽七の顔を覗き込んだ。なぜか茹でたタコ並みに羽七は顔を赤くしている。手を扇子のようにパタパタと扇ぎながら、なんでもないよと繰り返す。

(はぁぁー。初恋の人を目の前にした時に似ている。私の方がよっぽど中学生じゃないのー)

「け、怪我のないように、ね」

これが今の精一杯の声かけだ。

「おう。気を付ける」

 航はお日様のような笑顔を羽七に向けて、少年たちの方を向き直った。その横顔はもう羽七の知る航ではない。精悍とした顔つきで、戦う男の顔をしている。

―― ダン、バタン……ダン、バタン

 受け身の練習らしいが、音がとてつもなく響く。ウォーミングアップが終わると、今度はペアになって組み手を始めた。
 航はそんな彼らを遠巻きに見ながら、気になる箇所を指導をしていた。

 基本練習が終わると、今度は航が学生たちから技をかけられ投げられる。それを何度も何度も繰り返す。羽七はその投げられる姿さえも美しいと思っていた。多少の贔屓目はあるかもしれないが、素人の羽七にも分かる。航は本当に強いのだと。航の体には柔道の全てが叩き込まれている。ひとつひとつの仕草が、それを物語っているようだ。

 それにしても少年たちは勇敢だ。臆する事なく、果敢に体の大きな航に組み掛かる。投げられても直ぐに立ち上がり、組み直す。足を前に出し、相手の襟をしっかりと掴み技を仕掛けていく。

「戦う姿が美しいなんて、初めて思ったかもしれないなぁ」

 羽七は自分がやっていたスポーツとは違う、武道の厳しさと美しさを知る。

 約束の稽古もあっという間に終わると、少年たちの額と胸元には汗が光っていた。彼らが少年であることを忘れてしまうくらい、男臭さが滲み出ている。

(かっこよさは、航さんには敵わないけどね)

「お疲れ様! すごくいいものを見せてもらいました」
「そうか?」
「ひたむきに、がむしゃらに立ち向かう姿って美しいですね!」

 羽七が興奮気味にそう言うと、航は今までで一番の破顔した笑顔を見せた。その笑顔を見た瞬間、羽七の胸の奥がぎゅっと縮む。

(苦しい……なんで?)

 帰り際、少年たちがやってきて羽七を囲んだ。

「原田コーチの彼女さんですか?」

 突然の質問に顔を赤くして慌てふためくアラサー女子は、どう返事したら良いか言葉に詰まる。

「こらっ。俺がいない間に、ひとの女にちょっかい出すんじゃねえよクソガキどもが」
「わー! マジかよ。原田コーチ、大人気ねえー」

 カラッとした笑い声が道場に響き渡る。少年たちはひとしきり笑い終わると、また引き締まった表情に戻った。きれいな姿勢で礼をして、道場をあとにしたのだ。
 
「じゃ、俺たちも戻るか」
「うん」
「汗掻いたし、先に風呂だな。羽七、温泉好き?」
「好きっ」
「残念ながら男女別なんだよなぁ」
「何言ってんの? 別でいいです」

 爽やかな風が羽七の頬を撫でていった。
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