落ちてくる人

つっちーfrom千葉

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落ちてくる人 第三話

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「仮にですよ。仮に、今現在宙ぶらりん状態の彼がまだ生きていたとしたら……、ねえ、あの無力な男性は、今頃、何を考えていると思われますか?」

 科学者は皆をさらに困惑させるべく、そんな質問を繰り出した。

「俺はこのつまらない世に絶望して、死を覚悟して、意を決して、あんな高所から飛び降りたわけだが、はて、どうしたわけだ。いくら待ってもアスファルトの上で強烈な痛みにのたうち回ることもなく、これこの通り、思考もできるし、頭部から血が吹き出しているわけでもない。はてさて、死に神からの迎えは、いったい、いつ来るのだろう?」

 肉屋は若干ふざけた調子で、落ちてくる男性の気持ちを物真似で言い表してみせた。科学者はその回答に大きく頷いてみせた。

「それは飛び降りた動機が自殺であった場合ですが、まあ、そんなところでしょうな。」

「いやいや、空中に飛びだしてから、これだけの時間が経過してしまうと、今頃になって、後悔しているかもしれんよ。やはり、死ぬのは怖い。自分は火葬されて白骨化したり、無の世界になど帰りたくはない。もう少し、生きてみたい。誰か助けてくれ! ってなところじゃないのか? 飛び降りた瞬間は、地上に落下すれば、ものの一分も経たずに死ねると思っていたものが、実際にはこれほど長い時間通行人の頭上で晒し者になっている。しかも、その間、死に向かう恐怖はずっと継続している。いや、もしかしたら、彼の心中では、その恐怖心は倍増しているかもしれない。まあ、今となっては、誰にも分からんことだがね」

 警部は少し意地悪そうな目つきと口調で、なかなか落ちてこない人間の心境を語ってみせた。

「警部さん、お見事です。貴方はこれまで多くの残酷な事件を担当してきた体験から、そのような見事な推察を披露してくださった。まったく、お見事です。私もその意見に強く賛同します」

 自称科学者は慇懃な態度でそう述べると、ここに集まってきた暇人たちの、それぞれの表情を見回してから、さらに話を続ける。

「皆さん、自殺は人殺しの一種ですが、犯罪とはいえません。自分の死後の後片付けを他人に押し付けることになりますが、それは罪とはいえません。彼はですね、決して思い通りにはいかない、この世知辛い世の中に失望して、悪辣な上司や自己中心的な政治家や企業家を抹殺することよりも、自分が死ぬことを、そして、自分の存在をこの世から消し去ることを選択しました。自分を世の隅にまで追い詰めてきた社会に、自分と関係してきた、多くの知人や同僚に復讐するわけでもなく、自らの死を選びました。皆さんは自殺者の選択や動機や行動について、様々なご意見をお持ちでしょうが、私はあえて彼の行いを賞賛したいと思いますね。自分の絶望と悲嘆とを誰のせいにするでもなく、自分という貴重な存在を、この世からきれいに消し去って償うことを選んだのですから! ええ、もう一度申し上げますが、私は彼の選択を賞賛します!」

「なんて感動的な演説なんだ!」

 群衆の後方からは、そのような感嘆の声が聴こえた。しかし、彼らの議論が一歩進むたびに、実は真実からは遠ざかり、真実を知っている私の見解は、どんどんと発表しにくくなってしまう。それがただもどかしかった。

「あなたが感動するのは別に構いませんが、それは彼が飛び降りた動機が自殺であった場合でしょう? ここにいる多くの人もそう思っているみたいだが、私は釈然としませんね。もしかしたら、彼は清掃夫で、ビルの屋上の掃除をしていて、ふと、下の大通りを覗いたときに足を滑らせたのかもしれない。あとは……、これはあんまり良くない結末ですが、金銭がらみのトラブルで、回収業のマフィアに追われていて、運尽きて捕えられてしまい、身ぐるみ剥がされたあげく、ビルの屋上から放り投げられる羽目になった人なのかもしれない。私たちが自殺という結論に取り憑かれて、その可能性のみに縛られてしまうと、この一件が裏稼業の一味による完全犯罪になることを許す結果になるかもしれません。私は騙されませんけどね……」

 肉屋はまたしてもこの場を余計に混乱させるような発言をした。『誤って足を滑らせて屋上から落下した』という要因をも許してしまうと、様々な事件事故の可能性を含めることになり、この時間の無駄遣いとしか呼べない騒乱が、余計に長引くことになってしまうので、私はひとつ反論を提示することにした。

「ビルの屋上をもう少しよくご覧ください。立派な鉄柵が付いているでしょう? 自殺願望もないのに、わざわざ、あの鉄柵を乗り越える人がいますかね?」

 何人かの聴衆が私の意見に同意してくれた。『自殺だ、あれは自殺だ』という幾つかの声があがった。事実を知る私としては、そういう展開に持っていかれるのも困るわけだが。

 そうこうしているうちに、この事件の当事者の身元を探っていた警官のひとりが調査から戻ってきた。彼は警部の耳元にその顔を近づけると、周囲にまで聴こえるほど、しっかりとした口調で上司への報告を始めた。

「ただ今、付近の住民から情報を集めてきたところですと、当事者の男性はこの付近のビルの住民ではないようです。周辺のビルの管理者に、あの男の写真を見せてきたのですが、全員が全員、あの男を見たことはないと答えました。どうやら、この地区の住民ではないようです。当然、このビルの所有者の関係者でもありませんので、屋上まで入り込んでいるということは、あの男は不法侵入を犯していることが分かりました。ただ、正面階段はセキュリティが厳重ですので、どこから建物の内部へと侵入したのかまでは、今のところ分かりません。」

「それは簡単ですよ。非常口の小さな柵を乗り越えて、その裏側についている非常階段を駆け上がったんです」

 私は事態がこれ以上複雑にならないよう、アドバイスをしたつもりだったが、その報告には警察関係者は比較的冷淡だった。どうやら、自分たちの推理だけで、この事件を解決したかったらしい。私の進言は彼らのプライドを傷つけてしまったのかもしれない。

「そうか……、となると、あの男性の落下が事故や殺人未遂である可能性は低くなったな。もう一つは、清掃夫やボイラーの点検業者が、わざわざ裏口の柵を乗り越えて侵入するはずはないということ。彼らは正面から堂々と入れるわけだからね。あの男が飛び降りであるにせよ、何者かに追われていたにせよ、この建物に侵入したことには、もっと強い動機が必要だな。例えば、もし、これが自殺であったなら、鉄柵をわざわざ二回も乗り越えて落下してきたことになる。近くの駅のホームから、特急電車にでも飛び込んだ方が早いわけだ。わざわざ、セキュリティが厳重なマンションに入り込むなんて……、自殺志願者がそんな面倒な方法を選ぶかな? 事故の線もすでに消えかけている。となると、やはり……」

 警部がそこまで推理を働かせると、案の定、肉屋がチャチャを入れてきた。

「警察の皆さまはこれが殺人事件だとおっしゃる? へえ……、わしはそんな風には考えませんね。第一に、あの今にも落ちてきそうな男の姿は、大勢の通行人に見られているのに、あの男を屋上から突き落としたと思われる犯人については誰も見ていないんですよ。これまでの話を統合すると、殺害者も屋上まで一緒に上がったはずですよね? いや、言いたいことは分かります。これから警察の手で見つけると言いたいんでしょう? ただね、これが他殺だとすると、事件解決までに、余計に多くの手間がかかりますよ。あんな巨体を投げ下ろした一味を、決して狭くはないこの地域から、探し出さねばならないわけですからね。例えば、これがプロの犯行なら、もうとっくに遠くまで逃げちまってますよ。いや、この国から退去しているかもしれない。今さら、何百人体制の捜査とか、やってみるおつもりですか? 解決の目処も立たないのに、労力の使いすぎですわな。あっしなら、自殺の線で手を打ちますよ。多少、腑に落ちない部分があってもいいじゃないですか。そっちの方が後々有意義ですよ。マスコミに余計な憶測をさせることもない。おそらく、あの男は一生あのままの態勢で固まっているでしょう。真実を語れるものは誰もいないんですよ……。さあ、自殺で片付けましょうよ」

 肉屋のその傲慢で嫌味な態度に、私はすっかり口をつぐんでしまった。ここで反論しても、もっと理屈っぽい反論が戻ってくるだけなのだから。

「自殺で片付けるのは結構ですが、あの空間の歪みのことはきちんと報道機関に伝えねばなりません。あれだけ重量のありそうな男が、空中で何物にも支えられず、静止しているのですよ。これは尋常な事態ではありません。自殺や他殺の動機や要因を探るのはもちろん大事なんですが、目の前で起きている事実をありのままに伝えることはもっと大事です。報道機関が事実をねじ曲げないように、今、起こっていることをそのまま視聴者に伝えて、疑問を共有する必要があります。これは、そんじょそこらの飛び降り事件とは訳が違うのです」科学オタクは威厳を保ちつつ、そのように述べた。

「ですから、その要因と動機のふたつが分からんから、マスコミへの発表ができんのです。確かに、貴方の仰るように、これは空間の歪みがもたらした事件なのかもしれない。ただ、それ以外の原因が存在する可能性もゼロではありません。あなたは中学生よりは勉強ができるようだが、決して物理学に詳しいわけではない。専門家を呼べば、もっと多くの可能性を提示して貰えるかもしれない。宙に浮かんでいるあの男は、どうやら被害者のようですが、それ以外のすべての事態が誰にも理解できんのです。せめて、自殺か他殺か事故か、この原因の部分だけでも判明してから、マスコミに向けて発表しないと、警察発表は簡単には訂正できないので、後で大変なことになりますよ」
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